夏のみぎりに

綿尾芙和

夏のみぎりに

 そこに、昔の私がいた。

 一瞬の錯覚。今は八月初めの夕暮れどき、彼女は法被をまとい、鉢巻きを巻いて、歩きながら横笛を吹いている。小学五年か、六年生くらいだろう。まわりにいる同年代の女の子たち数人と、時々たがいに目くばせしたり、ほほえみあったりしながら、それでも一生懸命に笛を吹いている。

 十数年ぶりに、竿燈かんとう祭りに来ていた。生まれてから私が十八まで暮らしていた秋田市の祭りだ。当時住んでいたのは祭りがおこなわれる大通りのすぐそばだったから、小さい頃は親に連れられて、大きくなったら友人たちと一緒に、毎年欠かすことなく見に行っていた。そして、ちょうど彼女のような歳のころは小学校の竿燈クラブに所属して、お囃子として祭りに参加していたのだった。

 今は「流し」と呼ばれる、移動の時間だ。町内会、企業、学校など多くの団体が会場の竿燈大通りに入ってくる。男の子たちが、竿燈を横倒しにして、運んでいく。女の子たちが、太鼓と笛でゆったりとした囃子を奏でながら歩いていく。私は何となく彼女が気になって、後をついていくことにした。

 友達と仲良さげに歩いている女の子を見ていたら、当時一緒に竿燈クラブに参加していた、ひとりの友達のことを思い出した。一緒に学校へ行って、帰って、遊んで、交換日記をして、恋の話をして、横笛の練習をした。彼女は小学校卒業とともに、県外に引っ越してしまった。また絶対に会おうねと約束したけれど、引っ越してからは、結局一度も会えなかった。しばらく手紙のやり取りをしたけれど、いつしかそれもなくなった。よくある話だ。

 彼女はいま、どうしているだろう。彼女も、別れてからのこの長い間のどこか一瞬で、こういうふうに私の事を思い出したりしているだろうか。

 大通りの真ん中あたりで、彼らは止まった。通りの両側は見物客であふれんばかりだ。通り中央の分離帯に設置された桟敷席にも、人、人、人。慣れない人ごみで、なんだかんだとたくさん歩くから、子どものころは本当に疲れたものだけれど、それも含めて楽しかったのだと今になって思う。前に立つ人の間から、顔を出す。小さい頃は、後ろで見ているとまわりの大人がゆずってくれて、前で見させてもらったな、とか、ずいぶんと奥にしまいこんでしまったままの、記憶の断片が心をめぐる。

 演技が始まった。本囃子が始まり、一斉に挙げられた竿燈が大通りを埋め尽くす。数十個もの提灯がついた長い竿を手や肩、腰で支え、高く揚げる。昔の人はそれを稲穂になぞらえて、秋の豊作を願ったのだ。技量のある人は竿を継ぎ足してより高く、やわらかな曲線を描いてぴたりと静止しているような演技を見せる。大地にしっかりと根を張り、実の重さでやわらかくしなう稲穂のような、その姿は本当に美しい。

 竿燈はまぎれもなく動の祭りではなく静の祭りだ。一方で、竿燈がバランスを失って急にどうと倒れたり、電線に引っかかったりすると観ているものは思わず声を上げてしまう。演技としては良くないけれど、夜竿燈ではそれも一種のスパイスというか、面白みというか、大事な一場面なのだ。静の中にある、わずかな動の要素。おとなしい祭りでつまらない、と言う人もいる。そうかもしれない。でも、私は何よりこの祭りには美しさがあると思う。

 私が気になった女の子は、今は目の前の竿燈を目で追いながら、真剣な顔で本囃子を吹いていた。鋭い音の尾を引かせ、断続的に飛び跳ねるような横笛の調子に、力強く後押ししながら盛り立てていく太鼓のリズム。本囃子は流しのそれと違って、攻撃的だ。揚げろ揚げろ、と演技するものを鼓舞し、煽り、かき立てる。音色にのせて「どっこいしょお、どっこいしょ」と、掛け声がかかる。

 竿燈を揚げるのは、男性の役割だ。私が見ているのは小学校の団体ということもあり、竿燈のサイズも小さく、大人の団体と比べるとぐらぐらと揺れることが多い。時おり気を揉むような場面もあるが、まだあどけなくも引き締まった顔付きをして竿燈を掲げる彼らは、どこか頼もしく感じられる。それは、お囃子の女の子たちもそうだ。楽しそうにしていて、気づいていないかもしれないけれど、自分がいま大事な役割を担っているのだということ、そしてそれを大勢の人たちに見てもらっているということ、そんな小さな自負を抱いて太鼓を叩き、笛を吹いている。そんな彼ら彼女らを眺めながら、ふと少しうらやましくなる。

 一回目の演技が終わった。囃子が止み、代わりに拍手とともに、人々の喧噪がその場を満たす。私は彼女に、次の演技もがんばってと心の中で声をかけ、その場を離れた。

 ぼんやりと屋台などを眺めながら歩いていたら、不意に呼び止められた。戸惑いながら声の主を探すと、ついさっき思い出したばかりの、引っ越していった友達がそこにいた。すぐに分かった。記憶の中の彼女より背も髪も伸びていて、変わってはいたけれど、私には何も変わっていないように思えた。

 久しぶりだね、びっくりした。どうして、ここにいるの。旅行で、来てた。私も、昨日ちょうど帰省してたんだ。ほんと、すごい偶然。ね、ほんと、びっくり。すごいね、なんか。元気? 元気にしてるよ。変わってないね。そっちも、全然。

 他愛のない言葉と近況報告。私は、さっきちょうど思い出していたんだよ、と言いかけて、やめた。会えた、彼女が私をこの人波の中から見つけてくれた、ふたりがこの道を、いまこの時に歩いていた。それだけで、もうよかった。

 そうして少しの間、立ち話をしたのち、私は彼女と別れた。なぜだか、連絡先は交換しなかった。それでも、またね、と言い合った。

 心がそれまでにない、しっとりとしたあたたかさを湛えていた。なかなか静まろうとしない心臓の音に呼応するように、アナウンスが流れ、本囃子が再び鳴りわたる。北国の短夜みじかよに、こがね色の光を帯びた無数の稲穂が神様に向かってひしめき合う。次の演技が始まった。

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