「無償」の果ては?

ここまで、できるだけライトに、つらつらと、文章を進めてきました。

意図的にそのように書いてみようと思ったのです。それを見抜いて下さる読み手の方は、本当に流石で、「まとめて書いた方が」と、レビューを戴きました。字面の”読み易さ”がすなわち、文章の焦点をぼやかすのに一役買っているのなら、まさにそのレトリック自体が、ことなのです。


参考文献として挙げている著書では、あくまでデジタル社会のニュース「記事」の在り方が中心の話題であり、同社会における「創作」の存続を考えるものではありません。しかし、だからこそ見えてくるようなものがあると思い、同書を手に取った次第です。

「真似して」というのは語弊がありますが、文体はとても読みやすく、様々な専門語が飛び交いますが、知らないものでも、読み進めるのが容易です。気軽で、ソフトな語り口にも好感が持てます。しかし、よく注意をして読むと、すらすらと読んでしまってはいけない、立ち止まって考えるべき問題が、星のように散見できるのです。


 誰もが、「記事」を書く権利と自由、手段を手にした社会で、同じ対象を扱った記事が無制限に膨れ上がり、それがネット上に溢れかえる状況を、ジャービス氏はどうやら、変えたいと望んでいるようです。では、どうすればいいのか。その方法もきちんと述べられています。それは、その対象を常日頃、専門的に扱っている、ごく限られた数の記者が、読者、すなわちその「記事」の顧客でありサービスの受益者たる多くの人々の「協力」と「校閲」を得て、より価値ある「記事」を提供する、というものです。


つまり、これまで10人の記者が銘々に書いていた記事が、2千人に読まれていたとするならば、それを(たとえば)2人の記者に限定し、読者、「善意の」情報提供者を巻き込んで「より良い記事」を書き、さらにたくさんの読者を獲得できるようにすることが正しい、という見方です。そこで切り捨てられた8人の記者は、二人に「無償で」協力するか、もしくは受益者側にまわる、でなければ自身の専門領域を見つけ、そこでの選抜に残ることが望まれる。その方が合理的で「エコ」なのだ、という表現もあります。


 たしかにネット上で得られるニュース記事が、より豊富な内容と正確性、著作権に照らして問題のない内容を持つことは、望ましいことでしょう。読む側の視点からすれば、確かにその通りなのかもしれません。ただ、もし自分が「書く側」にあることを望んだ場合のことを考えると、なにか、不明瞭な感覚が残るのです。


 そもそも、「記事」とは何でしょうか。ニュース、報道、と呼ばれる種類の情報は、振ったさいころの目を読むのと同じくらい、”正しい”とされる基準が、一つなのでしょうか。もし、これまで10人が書いていたならば、10人なりの違いがあるように思います。そして、気づかなければならないのは、情報発信者が無限に拡大されるデジタル社会において、氏は「取り扱うテーマ毎の」記者の数という視点で、非常に明確な「限定」を設けようとしている、ということなのです。


限られた「書き手」に、協力する無数の「読者」という構造。これはともすると、情報の集約方向に向かって聳え立つ、横倒しの「ピラミッド社会」の形成なのではないか。つまりは、首を傾げて見ると、何かしらの権力構造が発生しかねない、そんな危うさがあるのです。


 

ごく個人的な視点で、同氏の意見を解釈してきましたが、デジタル社会においての「記事」の在り方を問う時、どうしてもそれが「人の書くもの」であるかぎり、同様の働きかけが、「創作」に対しても為されようとしている、そんな危惧が残ります。


だからこそ、作品の多様性が保管されることが大事なのだと、声を大にして言いたい。新聞記事のように、「良い」とされる基準が、比較的限定されるものではない、むしろそうした様々な「基準」を、塗り替える可能性のある領域として、「創作」は、デジタル社会の強烈な「合理化」の前に、膝を折るべきではないと、強く思います。


 デジタル社会は、人々に無償の「協力」と「協同」を求めるものであると同時に、いつのまにか「無償で」私たちの情報、ひいては、ミニマムな個人の頭の中身を理解し、支配することのできる「大きな」社会なのだろうと感じます。「無償」だからこそ、その端緒を掴むことは限りなく困難であり、何度も立ち止まり、俯瞰図で、その「仕組み」を理解することでしか、知ることができない巧みさです。



「創作」に残されるべき「」。


デジタル社会の「無償性」の真骨頂は、それに抗う人間から、勝利の褒章を奪うことに在るのかもと思います。「黙っていれば与えられる」のなら、抗う理由は最初から存在しない、というように。「無償」の二文字の響きに満足せず、「有償」の意義を問い直すことこそ、本当は大事なことなのかもしれません。


それこそ本当に、損得勘定抜きで、むしろ損をするぐらいの非合理さが無ければできないことですが、「書くこと」の望む人間には、そんな非合理性を期待してしまいます。むしろ、それが無くなってしまってはいけないのではないか…混沌とした自身の問題をさしおいても、そんなことを考えてしまうのです。


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PRICELESS COLLOCATION ミーシャ @rus

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