猫の花嫁

矢口 水晶

猫の花嫁

 

 来月、僕は猫と結婚する。海の見える丘に建つ、角砂糖のように真っ白で美しい教会で式を挙げる。

 僕の猫は、新雪のように真っ白な毛並みを持っている。

 彼女の首筋から背中にかけて撫で上げると、ビロードのような手触りがする。

 彼女は小さくて真っ赤な舌を持っている。ざらざらとした彼女の舌は、僕の指先や首筋を愛撫する。

 彼女は三日月のように細い爪を持っている。彼女は甘えると、その爪で僕のあらゆる皮膚を引っかいた。

 そして何より、彼女は世界で一番美しい左目を持っている。金色の右目。コバルトブルーの左目。

 食事をする時、ワープロで書類をタイプする時、レコードで音楽を聴く時、ベッドで眠る時、彼女は海のように深い輝きを持つ左の瞳で僕を見つめる。彼女に見つめられている時、僕はこれ以上ない幸せを感じるのだった。

「三匹の兄弟の中で、左右の目の色が違うのはあたしだけだったの。あたしを生んだ母猫も、あたしたちの父親だったオス猫も、両方とも金の目だったのよ。あたしだけが、青い目を持って生まれたの」

 僕の膝の上に乗った彼女は、月明かりの中でじっくりと左の目を見せてくれた。薄闇で満たされたアパートの部屋の中を、とろとろと柔らかなレコードの音色が流れていた。

 青々とした海のしずくを押し固めたような、サファイアの瞳。こんなにも美しい物が、指先で直に触れられるところにある。そのことが、僕には素晴らしい奇跡のように思えた。

 このまま時間が止まって、ずっと彼女と見つめ合えたらどんなにいいだろう。彼女の頭をゆっくりと撫でながら、僕は思った。

「こっちの目はね、過去を映しているのよ」

「過去?」

「そう。あたしの、死の瞬間を見ているの」

 彼女いわく、猫という生き物はいくつも命を持っているらしい。だから、彼女は何度も何度も違う人生を送って来たのだと語った。

「病気をして死んだこともあったし、車に轢かれたことや水死したこともあったわ。毒入りの餌を食べて死んだりとか、高校生の男の子に殺されたりしたこともあったっけ」

 無残な死の出来事ですら、彼女はまるで楽しい思い出のように語った。

 彼女から死んだ時の話を聞く度、僕は彼女の死体を思い描いた。

 真っ赤な薔薇の花弁の中で、体温を失った彼女の白い身体が横たわっている。ただ眠っているようにしか見えないのに、彼女の身体は石のように冷たい。

 僕の思い浮かべる彼女の死は、決まっておとぎ話のように美しかった。

 ほう、と僕は思わず溜息を吐いた。顔に息がかかり、彼女はくすくすと笑い出した。

「くすぐったい」

「君が、あまりに綺麗だから」

「嘘」

「本当さ」

「お世辞ばっかり言う人は、こうよ」

 彼女の小さな口が僕の人差し指を噛んだ。彼女の白い牙は優しく皮膚を傷付ける。

 僕は幸福でいっぱいだった。



 僕と彼女が出会ったのは、とある未亡人の屋敷だった。

 外国の有名な小説家の家を真似て作られたというその屋敷は、古いが上品な佇まいをしていた。庭ではいつも赤やピンクの薔薇が咲き誇り、生垣の隅までよく手入れが行き届いていた。

 僕は宝石のセールスマンをしていて、訪問販売に訪れたのをきっかけに未亡人と知り合った。未亡人は六十代ぐらいの老女で、がりがりに痩せた蝋人形のような人だ。彼女に気に入られたことから、僕は度々その屋敷に出入りしていた。

 その日は未亡人が注文したサファイアの指輪を届けに屋敷を訪れていた。僕が枯れ枝のような指に指輪を嵌めると、彼女は無邪気に宝石を日の光にかざした。磨き上げられたサファイアは確かに美しいが、筋張った彼女の指の上ではまるで悪性腫瘍のようだった。僕は宝石に対して申し訳ない気持ちになったが、「とてもよくお似合いですよ、奥様」とお決まりのセリフを吐いた。

 その後も未亡人の思い出話に付き合い、屋敷を出た時には二時間が経っていた。僕は大きく息を吐き、ネクタイの結び目を緩めた。

 その時、生垣の蔭から何かが飛び出し、僕は驚いて足を止めた。目の前に立ちふさがるように現われたのは、白い猫だった。猫はとても綺麗な毛並みをしていたので、一瞬、この屋敷の飼い猫かと思った。

「にゃあお」

 猫は、一声澄んだ鳴き声を上げた。

 僕はその場にしゃがみ込み、ちっちっと舌を鳴らして猫をおびき寄せようとした。すると、猫は呆れたように目を細め、

「なあに、それで呼んでるつもり?」

 と、冷たく言い放った。

 喋る猫を目にするのは初めてのことだったので、僕は一瞬呆気にとられた。そしてすぐに「失礼いたしました」と頭を下げると、猫はころころと喉を鳴らして笑った。

「あなた、宝石を売りに来た人?」

 少しだけ首を傾げて、猫は僕の顔を見上げた。ひくひくと鼻を動かし、匂いで僕がどんな人間か探ろうとしているかのようだった。

 その時、僕は猫の左目が深い青色をしていることに気付いた。

 夏の海を閉じ込めたようなコバルトブルー。

 それは老女の指に輝いていたサファイアなんかより、ずっと美しい輝きを放っていた。

「……君も、宝石に興味があるのかい?」

「ううん。猫は宝石なんか買わない。だって指輪を嵌める指がないでしょう?」

 そう言って、猫はぺろぺろと前足を舐めながら顔を洗った。よく動く舌は、庭の薔薇よりも真っ赤な色をしていた。

「指はなくても首があるじゃないか。ダイヤのネックレスなど、いかがですか?」

「あなた、面白いことを言う人ね」

 そう言って、猫は可愛らしい声を上げて笑った。少女のようによく笑う猫だと思った。

「君は、この家の猫なのかい?」

「あたしは飼われるのは趣味じゃないの。ここへはご飯を頂きに来ているだけよ。友達がメイドをしてて、ご飯をくすねてきてくれるの」

「悪いお友達だね」

「あたしはその子の、そう言うところが好きなのよ」

「ふうん」

「あなた、また明日も来るの?」

 ああ、と僕は頷いた。未亡人が今度はイヤリングが欲しいと言っており、明日にでも新しいカタログを持ってくると返事をしていた。

「そう、それじゃあ明日も来るから。ここで待っててね」

 じゃあね、と言い残し、猫は柵の上に飛び乗った。そして細い柵を器用に渡りながら、猫はどこか遠くへと去って行った。

 猫の白い後ろ姿と、左目の不思議な色の深さが、しばらく目に焼き付いて離れなかった。




 それ以来、僕は猫と度々会うようになった。

 屋敷からの帰り道、日曜日の公園、午後のカフェテラス、夕日の滴る日暮れの川辺。彼女は僕が予期していない時に、予期していない場所で姿を現した。

「君は、休みの日はいつも何をしているんだい?」

 土曜日の午後、僕と彼女は植物園のカフェテラスでお茶を飲んでいた。僕はアールグレイ、彼女は底の浅い皿に注がれたミルクを。彼女はその辺の猫のように、ぺちゃぺちゃと音を立てて滴を飛ばすようなことはしない。静かにミルクを舐める彼女の表情は、貴婦人のような気品で溢れていた。

「あなたはおかしなことを聞くのね。猫にとっては毎日が休日よ」

「猫は働かないの?」

「もちろんよ。強いて言えば、ぐうたらしていることと、子供を作ることが猫の労働よ」

「うらやましいなあ。僕も猫に転職したいよ」

 薄いガラスの天井から降り注ぐ陽光は、ぽかぽかとして温かい。薔薇、コスモス、サルビア、金木犀……その他名前の分からない秋の植物が、温室いっぱいに花を咲かせて甘い香りを漂わせていた。

 僕たちの他に見学者の姿はない。植物の呼吸が聞こえてきそうなほど、静かな午後だった。

「だったら、そうすればいいじゃない」

「そうもいかないよ。人間の大人のオスは、あくせく働くのが決まりなんだ」

「人間って面倒臭いのね」

 くあっと彼女は気だるそうにあくびをもらした。真っ赤な舌。真珠色の牙。僕はほほえましい気持ちになって彼女の喉元をくすぐった。

 温室の中には植物園の飼っている白い蝶が何匹も舞っていた。蝶たちは僕たちの方にはわき目もふらず、薔薇やコスモスの間を忙しく動き回っている。時々、群れをはぐれて寄って来る蝶に、彼女は気まぐれに足を伸ばした。

「ねえ」

 退屈そうに自分の尻尾を弄っていた彼女は「ん?」と顔を上げた。

 僕はジャケットのポケットから小箱を取り出す。

「これを、もらってくれないだろうか」

 僕はビロード張りの小箱を開いた。

 その中にひっそりと納められた、ダイヤの指輪。

 小ぶりなダイヤを一つあしらっただけのシンプルなデザインだが、伝統ある工房の職人が手掛けた作品だった。

 彼女は陽光を浴びてキラキラと輝くダイヤと僕の顔を見比べながら、きょとんとして目を丸めた。未知の生き物と突然対峙したように、宝石に鼻先を寄せている。

「なあに、これ?」

「婚約指輪だよ。僕と、結婚してほしい」

「まあ」

 彼女はころころと鈴を転がすように笑った。

「おかしいわ。あたしには指輪を嵌める指なんてないのに」

「でも、人間の世界では結婚を申し込む時、指輪を贈るものなんだよ。そういう、儀式なんだ」

「だからって、猫に指輪をプレゼントする男なんて、聞いたことがないわ」

「……受け取っては、くれないのかい?」

 僕は不安になる。

 僕のことなど、行きずりで交わるオス猫と同程度にしか考えていなかったら、どうしよう。気まぐれな彼女にとって、僕など都合のいい遊び相手でしかないのかもしれない。

 彼女は、しばらくダイヤの匂いを嗅いだり舌で形をなぞったりして、何かを思案しているようだった。そしておもむろに立ち上がると、僕のそばに近付いてきた。

 柔らかな彼女の口が、僕の唇に触れた。僕はそっと舌を伸ばし、彼女に応えた。




 その晩、僕は彼女と抱き合って眠った。夢の中で、僕は一匹の黒猫だった。

 月光の降り注ぐ夜の街を、僕は彼女に導かれて走った。彼女の青い瞳は、闇夜の中でひとつの星として輝いていた。

 未亡人の屋敷の庭、勤めている宝石店への道のり、薔薇たちの眠る植物園……

 見慣れたはずの街の景色が、猫の目には驚くほど幻想的に映った。

「にゃあお」

「にゃあお」

 言葉なんかなくても、僕は彼女に自分の気持ちを伝えられたし、彼女の気持ちが自分の心のように分かる。

 まるで生まれた時から猫だったかのようだ。僕たちは夜の中で互いを追いかけ、語り合い、愛し合った。

 美しい彼女に抱かれて死ぬことが出来たなら、きっと、僕は世界で一番幸せだ。




 結婚式は海が見える美しい教会で挙げることにした。何の神様を崇めているのかは知らないが、一目見た時から彼女と式を挙げるならここしかないと直感的に思った。

 式の日は気持ちのいい冬晴れだった。空が磨き上げられた水晶のように青く澄んでいる。

 ほう、と白い吐息を空に向かって吐き出した。とても満ち足りた気分だった。

 いつも散歩で使っている公園で彼女と待ち合わせる約束をした。僕は熱いコーヒーを飲みながらベンチに腰掛け、彼女が姿を現すのを待った。枯れ葉の折り重なる道を、自転車に乗った老人や犬を散歩させる主婦、ジョギング中の若者が何度も通り過ぎていった。

 約束の時間になっても、彼女は現われなかった。

 マフラーに痛いほど冷えた鼻先を埋め、視線で彼女の姿を探した。猫は時間にルーズな生き物だ。僕はそのことを彼女との交際でよく知っていたので、一時間程度の遅れはまったく気にならなかった。

 しかし、二時間、三時間、と時間を重ねても彼女は来なかった。

 日が少しずつ傾いていく。待ちぼうけの不安に耐えられず、僕は公園の中をゆっくり三周した。

 彼女に何かあったのだろうか。

 獰猛な野良犬に襲われたとか、保健所の職員に連れていかれたとか、子供に手慰みで虐められたとか……それとも、僕との結婚が面倒になったのだろうか。

 そんな想像を一つ二つと数える度に、不安が重さを増してのしかかってきた。

 僕は公園を出て彼女を探した。

 未亡人の屋敷や植物園、僕のアパート、商店街。

 思い付く限りの場所を探したが、いるのは見たこともない野良猫ばかりだった。

 日が沈んで空が暗くなった頃、僕は山際の坂道を力なく登っていた。

 倉庫と廃屋ばかりが並ぶ寂しい場所だった。冷え切った身体は神経も麻痺してしまったのか、寒さも痛みも感じなかった。

 ふと、道の先に白い物が落ちていることに気が付いた。

 最初はビニールか何かが落ちているのかと思ったが、それは薄闇の中でもぼんやりと白く発光しているように映った。廃屋の合間から吹く風が、ひゅう、とナイフを振り降ろすような音を立てた。

 横たわっていたのは、白い猫の死骸だった。

 車にでも轢かれたのか、後ろ足は奇妙な方向に折れ曲がり、破れた腹から黒ずんだ内臓がはみ出している。黒く変色した血液が、白い毛並みを醜く汚していた。

 猫の首には、青いレースのリボンが巻かれている。その喉元で、小さなダイヤの指輪が鈍く光っていた。

「君、君……」

 僕はよろよろと彼女に近付いた。

 その時、初めて彼女を何と呼べばいいのか分からず、戸惑った。

 抱き上げた彼女の身体は、氷のように冷たい。腐敗臭なのか、彼女からは今まで嗅いだことのない、赤錆のような臭いがした。あんなに滑らかだった毛が血で固まって、使い古した絨毯のようにごわついている。

 これほどに醜い物が、彼女の死体であっていいものか。

 僕は何度も首を振る。

 きっと大丈夫。猫は命をいくつも持っているんだ。何度も何度も違う人生を歩むんだ。彼女はそう言っていたじゃないか――僕は、自分にそう言い聞かせた。

 彼女はすぐに目を開けるに決まっている。彼女が起きたら、すぐに海の見える教会へ行こう。そして結婚式を挙げるんだ――

 ぽとり。彼女の左の眼窩から、眼球がこぼれ落ちた。

 青く濁った瞳孔が、僕を見上げていた。

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