第11話 遣らずの雨

「その時、彼には身重の妻がおり、彼女はひとりでその子を産みました。その子の血が今の私に続いています。

 さて、その魚。今、アルコさまもご覧になった通り、恐ろしい姿をしております。人間であった時、彼と親しくしていた者たちも怖がって近づかなくなり、その家族のことも疎むようになりました」

「それはひどい……」

「魚に姿を変えられてすぐの頃は、彼にも人の心が残っておりましたが、時間が経つにつれて、心もすっかり、恐ろしい魚のものとなっていきました。人々が恐れ、冷淡な態度を取るようになったのも仕方のないことなのです。

 しかし、それで終わりませんでした。魚となった祖先は、人を襲い始めたのです。

 お堀に近づく者を水に引きずり込み、あの鋭い牙で肉を裂いて喰らうのです。すぐに退治しようと言う話しになりました。

 彼の妻と子は命乞いをしました。城の王に涙ながらに訴えたのです。もう二度と人は襲わせない。私たち家族がずっと彼を監視し続ける、と。その想いは王に届きました。

 王は妻と子にこのお堀を見渡せるバルコニーの部屋を与えました。

 妻と子はそれから長い時間をバルコニーで過ごし、荒ぶる魚と化した夫をみつめることで慰め続けたのです。しかし、数年後にはそれも限界が来ました」


「限界?」

 不安そうにアルコが尋ねると、リュはまっすぐにアルコをみつめ返した。

「魚は……人を襲い始めました。どうしても自分を止められなかったのですね」

「それで、どうしたのですか?」

「あなたはどうしたと思いますか?」


 アルコはゆっくりと例のステンドグラスを肩越しに振り返った。魚の大きく開いたその口には……。

「そうです。妻は自分の身を魚に捧げたのです。魚は満足し、それからはおとなしくなりました」

「……子供はどうしたのですか」

「一人きりになりました。その頃、その子はまだ十歳にもなっていなかったということです。けれどここは城の中。王はその子が一人前になるまでは身の回りの世話をする者を付けてくれました。しかし、その子はただの一歩たりともこの部屋から外に出ることは許されませんでした。常にバルコニーにいて魚をみつめなければ、魚が寂しがって暴れるからです。

 親である魚を殺させないために、そして自分が生きていくために、母の死を無駄にしないために、子はこの部屋の中だけを自分の世界として生きていくことを決めたのです。

 そして大人になると、自分の容姿に惹かれる娘をこの部屋に招き入れ、妻として一緒に暮らし、家族を作りました」

「それが、今に続く魚のぞきの婚礼、ですね」

「はい」

 リュは寂しげに笑うと頷いた。

「強引と思われるでしょうが、そうするより他にありません。そうして子をなし、血を繫ぎ、いつか来る『限界』に備えるのです」

「限界……。それは、つまり、いつか、あなたもあの魚にその身を捧げる、と」

 アルコは声が震えるのを止められなかった。感情の無い透明な瞳のまま、リュは穏やかに頷く。


「そういうことです。いつか限界がくれば、私も魚に身を捧げます。一族の者がすべて、そうしてきたように。けれど、心配には及びません。その時には私にも妻や子がおりましょう。子が跡を継いでくれます。何の憂いもありません」

「そんな……それはあまりに」

「私の花嫁になる人は、自分の運命を知っても、あなたのようにそんな悲しそうな顔はしないでしょう。私や私の一族のために黙って魚に自らの身を捧げてくれる従順な娘がよいのです。

 この部屋の空気は独特です。あなたはご自分をお持ちだから大きくは影響されないようですが、大抵の者はここの空気に呑まれます。ここに入った娘は自分の悲劇的な運命に陶酔し、それは死ぬまで覚めることはありません」


「やはり、バルコニーだけではなく、この部屋にも何らかの術が掛けられているのですね?」

「ここに術を掛けた術師はとうに亡くなっております。どのような術を掛けたのかも私には判りません。勿論、解くこともできません」

「もし、それを解くことができたら……」


「私がここを出られないのはその術だけのせいではありませんよ。お話しをしている通り、すべてはこの『血』のなせること」


 リュは優しく言葉を継ぐ。

「……あなたは今朝、バルコニーにいる私を外から見ておられましたね。気が付いていましたよ。ああ、あれが噂の剣士かと。

 こんなところにいる私にも、風の噂は届きます。あなたの噂を聞くたびに心が騒いでいたのです。あなたの何に惹かれていたのか……あなたの姿を実際に見て、判りました。あなたのその強さ。その真直ぐな心。そしてなによりもその自由。

 私はあなたと接触することで何かを変えられるのではないかと、どこかで期待していたように思います。そのせいでずっとおとなしかった魚があんなに暴れて」

 ふっと口元だけでリュは笑った。

「私にはまだ覚悟が足りないようです」

「そんな覚悟など……!」


「さあ、お行きください」

 突然、リュが言った。

「あなたはここにいると魚がまた暴れます。それは困るのです。……さあ」

「……あなたはそれで本当にいいのですか」


「判りません」

 あっさりとリュは答える。

「何が正しく、何が間違っているのか、誰にも判りません。

 しかし、魚と化した夫を守ろうとした妻や子の想いは判ります。その想いを道しるべとして生きていくのも悪くはないでしょう。あなたがその太刀に賭けて生きていこうとするのと同じことだと思います」

 アルコはその言葉に目を伏せた。がしかし、次の瞬間には顔を上げると毅然として言った。

「判りました。私はこれで失礼いたします」


 一礼をするとアルコはリュに背を向け、歩き出した。バルコニーから出ようとした彼女を、後ろからリュの声が追いかけてきた。

「あなたのみつけたいものがみつかりますように、私はここからいつも祈っております」


 ★

 石の扉を押し開けて部屋の外に出ると、既にそこには『案内人』の姿があった。

「御用はお済みでしょうか」

 相変わらずの低い声で闇色の者は聞いた。アルコが頷くと彼はゆらりと立ち上がり、先に立って歩き始めた。

「外までお送りいたします」


 城の外に出るとアルコはふと、空を仰いだ。

 ついさっきまで青く晴れていた空は黒く滲み、細かな雨が降り出していた。


「遣らずの雨でございますな」

 不意に『案内人』が呟いた。初めて聞いた感情のある声にアルコはびくりとして彼の顔を見た。

「……何と申されましたか?」

「遣らずの雨。誰かが誰かを帰したくない時に、足止めするように降る雨のことをそう言うのでございます」

 アルコは無言で歩き始めた。


 門番に用事が済んだことを告げると、すぐに別の者が彼女の馬を連れて来た。アルコは礼を言うと馬に乗り、大門を駆け抜ける。途中、あのバルコニーを振り返りたい衝動にかられたが、彼女は真直ぐに馬を進めた。


 確かに、とアルコは思う。

 何が正しく、何が間違っているかなど、誰にも判りはしないのだ。

 ならば、自分を信じ、目の前の道を進んで行くしかない。


 その日、雨は夜遅くまで降り続いた。



(おわり)

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魚のぞきの窓 夏村響 @nh3987y6

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