第10話 揺れる水面
アルコは言葉を呑みこんだ。
水面はとうとうふたつに引き裂かれ、その裂け目から現れたのは、あのステンドグラスに描かれていた巨大で醜い魚の姿だった。
それは赤く禍々しい口をかっと開き、白濁した目でじっとアルコを睨み、威嚇した。
「およしください。何を荒ぶれておいでです!」
今までの優しい声からは想像もつかない凛と張りつめた声で、リュは巨大な魚に向かって言った。
「私はここにおります。どこにも行きはしません。この方は」
と、アルコをみつめる。
「もうじきここを去ります。ご心配にはおよびません」
「……私は」
「アルコさま、あなたは嫌われてしまいました。残念ですが、ここはあなたの来る場所ではなかったようです」
「嫌われた? 魚にですか? 魚に感情が?」
「ただの魚ではありません。先ほども申し上げた通り、私の祖先。そして親の魂の宿るもの」
リュはそう言うと、ゆっくりと前に進み、水面ぎりぎりに体を傾けた。
彼の差し伸べた手に、するりと魚は寄って行く。
「さあ、心配しないで。私はどこにも行ません。……どうぞ、お戻りください」
その言葉に安心したのか、魚は威嚇していた口を閉じると、目はアルコに向けたまま、静かに水底に戻って行った。あれほど騒いでいた水面は嘘のように静まり返った。
「……お騒がせいたしました」
リュはやや間を置いてから言った。
「私があなたと共にどこかへ行ってしまうのではないかと不安になったのでしょう。私がここにいてみつめて差し上げることが、あの魚の唯一の慰め。孤独は誰でも恐ろしいものです」
「どうして・・・あの魚はそう思ったのでしょう。あなたが私とここを出て行くと」
「私がそう思ってしまったのです。そうなればいいと。その心の揺れを魚は察したのでしょう。あの魚には私と同じ血が流れていますから伝わってしまったのです」
「あなたがそう思った……」
アルコの瞳を静かにみつめ返して微かにリュは頷いた。
「あなたのような人は初めてです。強く、美しく、常に心がまっすぐで、そしてなによりも自由でいらっしゃる。私はあなたに惹かれています。できることなら傍にいて欲しい。
けれど、それは叶わない望み。
あなたはここにおとなしくいてくれはしないでしょう。たとえいてくれたとしても、ここにいればあなたはいつか、あの魚をその太刀で斬り伏せてしまう。それは……困ります。だからといって、私があなたとここを出て行くわけにもいきません」
「……何故、できないのですか?」
胸が熱くなるのを感じながらも、アルコは努めて冷静に言った。
「あなたはあなたの望む生き方をすればいい」
「私の血がそれを許さないのです。それはあなたがおとなしく私の花嫁になってくれないのと同じ理由です」
「花嫁……」
「失礼しました。例えばの話しですよ」
ほのかに微笑んでリュは言葉を続ける。
「……魚の話しをいたしましょう」
リュは水面に目を落とした。
時折、吹く風に揺れる水面は、そこに映るリュの端正な顔を醜くゆがめる。
「元々、あの魚は人間でした」
「それは……呪い、ですか?」
「ええ、そうです。私の祖先はこの城の門番をしておりました。それが、ある時、ある者に呪いをかけられてしまったのです。それで、あの姿に」
「何故、呪いを?」
「さて、どうでしょうか。それについては何も記述が残されていませんし、口頭でも伝わっていませんので判らないのです。……不条理ですよね」
リュはどこか諦めたように笑った。
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