第4話 『住吉川』


急流に加えて生活排水も流入しないため、市街地にも拘らず蛍が棲息するほどの清流とされています。1960年代、渦森山を切り開いて渦森台団地を造成する際、川の両岸の河川敷の部分を、土砂を運ぶ専用道路として、この道路には「ダンプ道」の異名が付けられていました。私には阪急や阪神電車で通る度に見た、このダンプ道のイメージが強く、造成が完成した後は「清流の道」という遊歩道になっているのですが、清流の川というイメージがもう一つピンと来ないのです。この川も中流部で天井川となり、東海道本線が河底の下をトンネルで抜けています。


神戸の市街地は、六甲山系から流れ出る川で出来た扇状地の繋がりの上に出来ていると書きましたが、住吉川や隣の石屋川を跨ぐ鉄道や道路の建設には、それゆえの苦労が多くあったのです。跨ぐより墜道にしたのは、敷設当時の鉄道車両の動力性能上、勾配がほぼない水平な路盤形成が必要だったからです。

JRが全般的にほぼ直線の線形で敷設されたなかで、摂津本山駅から六甲道駅西側にかけてはゆるやかにカーブが連続するのは、それぞれの扇状地を、ほぼ同一の標高で通過できるルートが必要だったからです。


住吉川流域は、古くは菟原住吉(うはらすみよし)とも呼ばれ、江戸時代には多くの水車小屋が建ち並び、菜種油の油絞、酒造の精米、素麺の製粉などが盛んでした。戦前は、住吉川沿いの山の手は高級住宅地として有名で、谷崎潤一郎の倚松庵や、関西財閥の野村邸、住友邸、久原邸、安宅邸といった豪華な住宅が立ち並んでいました。谷崎の『細雪』はこの倚松庵で書かれました。


1950(昭和25)年、御影・住吉・魚崎、本庄、本山5ヶ村が神戸市に合併し、東灘区になります。神戸市合併を巡っては芦屋市との綱引きがあったり、5ヶ村だけで一つの市を作ろうという動きもあったり、悶着がありました。

 住吉川、浜沿いには白壁、木造の酒蔵が立ち並び、風情ある町並みを見せていましたが、戦災、平成の震災と続く災害でそれらの建物は消えました。

また、かつてのお屋敷跡には高層マンションが建ち、平成5年には神戸市第二の人口島・六甲アイランドが完成し、モダンな建物が並ぶニュータウンが出来、川沿いにはモノレールが走り、住吉川沿いはすっかりその面影を変えてしまいました。


震災後、酒蔵は新しく建て替えられ、試飲も出来る酒蔵巡りコースが出来ています。たまに、スケッチに行きますが、昔の面影を偲んで寂しくなります。


注釈:阪神大水害

阪神大水害について簡単に触れておきます。1938年(昭和13年)7月3日から5日にかけて、神戸市及び阪神地区で発生した水害。阪神・淡路大震災(平成7年)があるまでは最大の災害とされてきた。神戸の川の形状に触れてきたので、なぜ起こったかは推測できると思います。豪雨によって六甲山の各所で山腹が崩壊したため、各河川は土石流を伴う大氾濫を起こしたのです。

 神戸市は当時の全人口の72%、全家屋の72%が被災しマシた。616人が死亡、家屋の流失・倒壊・埋没5,054戸、家屋の半壊、6,776戸でありました。

六甲山の砂防ダム、川の付け替えと、治山治水に懸命の努力をして今の神戸があるのです。

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『神戸川物語』 北風 嵐 @masaru2355

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