ギムレットをもう一杯
維嶋津
本編
ときどき、かっこつけてバーに行く。ロクに飲めもしないくせに。
頼むのは、いつも同じものだ。ドライ・ジンに、少し甘めのライム・ジュース。それ以外は、なにもいれない。シェイカーで混ぜ、ショート・グラスへ静かに注ぐ。ギムレット。限りなくシンプルなカクテルのひとつ。
味が好きなわけじゃない。甘いもの好きな舌に、ジンの刺すような辛みはけっこうきつく、おまけに度数もそこそこ高い。ビールひと缶で酔える僕にとって、それは分不相応に背伸びした酒だった。
それでも、かたくなに僕はこれを飲み続ける。
思い出と共に。
※
十年まえ、僕は二十歳だった。ひさびさの帰省……といいつつ、上京してさほど時間も経っていない地元は、出てきた当時そのまんまだ。成人式の顔ぶれだって、昔とちっとも変わりゃしない。
振袖姿を品評し、市長のスピーチに乱入する新成人をながめ、同級生の居酒屋で騒ぎ、来年の盆の予定を確認しあって、集まりはお開きとなった。昔の恋もべつに燃え上がりはしなかった。というか初恋の人は来なかった。噂によると新興宗教にハマったらしい。まあ、そんなもんだ。
お祭り騒ぎのあと、残ったのは冴え冴えとした月と、身を包む寒波だけ。
針山のような風に首をすくめて、僕は家路を急ぐ。
携帯電話が鳴ったのはその時だ。
知らない番号。
いぶかしみながら、通話ボタンを押す。
「久しぶりじゃのう」
スピーカーから聞こえるしわがれ声に、ますます首をひねった。こんな年かさの友人に覚えはない。だけどなぜだろう? その声には聞き覚えがあった。
「親御さんから番号聞いたんよ。こないだ町内会の集まりであったけん。弟と妹は元気にしとるんか?」
「……ああ、もしかして」
ようやく思い出す。
「T先生ですか」
「なんでえ、いまさらか」
「いや、そりゃいきなり電話かけてこられたらわかりませんって」
「そりゃそうか、うっはっはっはあ」
愉快そうな笑い声に、なつかしさがこみ上げる。T先生。小学生のころの担任教師。実家の近くに住んでいて、卒業してからも、ちょくちょく話をしていた。家庭の事情でやさぐれていたとき、親身になってくれたのもこの人だった。
高校生に入って以降は疎遠になっていたが、しかしなぜ今になって連絡を?
「どうしたんスか、いきなり」
「お前、もう酒飲めるんじゃろ?」
「は?」
「ワシが飲みに連れてっちゃる。成人記念じゃ」
「いや、ちょっとそれは」
「いいから
※
塾帰り、しょっちゅう横を通り過ぎていた雑居ビル。その四階にあるバーが先生の行きつけなのだという。青春時代には背景にすぎなかった場所に、僕の知らない世界が広がっている。なんだか妙な気分だった。
「なに飲む」
そう聞かれて、言葉に詰まる。大学で酒は覚えたけど、こんな店は知らない。酒といわれて思い浮かぶのは、ビール、大五郎、ウーロンハイにカシスオレンジ。どれもこれも、この場にはそぐわない気がする。
「先生は、何にするんスか」
問い返すと、先生は少し考え、それからふっと笑って、バーテンに注文した。
「ギムレットふたつ」
「はい」
出てきた酒は、大人の味がした。酸っぱくて苦くて、そしてほのかに甘い。好みの味ではなかったけれど、だからこそ、この瞬間にふさわしいように思えた。タバコを初めて覚えたときみたいに。どぎまぎしながら、その液体を少しずつ味わう。
「……ワシが大学生の頃にずっと飲んどったのが、これでな」
まわしたグラスの中身を見つめながら、先生は言った。
「当時、好きだった子にいいとこ見せとうてのう。同じバーに毎日通って、ずーっとこれを、一杯だけ頼んどったんよ」
「……? なんでっスか?」
「そりゃお前。女の子と店に来たとき『マスター、いつもの』ってやるためよ」
僕は笑った。
そのカッコつけは、あまりにベタだ。
「笑うなよ」
「……それ、うまく行ったんスか?」
「さあ、どうだったかなあ。はっはっはあ」
照れ隠しのように、先生は笑った。
ふと、その髪にだいぶ白いものが混じっているのに気づく。
それを見て、なんだかよくわからない感情が、胸の奥をちくりと刺した。
僕は酒を飲める年になった。
先生は、髪が白くなる年になった。
時間は流れるのだな。
そんな当たり前のことを、唐突に思った。
「そろそろ帰るか」
先生が言う。
酔いで重たくなった頭で、僕はうなずいた。
※
あれから十年がたった。
僕はときどきバーに行く。ロクに飲めもしないくせに。きょうみたいにひとりで行くこともあれば、女の子と一緒に行くこともある。「いつもの」というあの言葉は、さすがに使う機会がなかったけれど。
「長いお別れ」という小説を読んだ。私立探偵フィリップ・マーロウが、様々な苦難を乗り越えて真実をあばく、ハードボイルド小説の傑作。この小説の小道具として登場するのが、ほかならぬギムレットだった。
もしかして、先生はフィリップ・マーロウに憧れて、ギムレットを飲むようになったのだろうか。寡黙な皮肉屋。どんな困難にも自分を曲げないタフな男。
そういや、子どもの頃の夢、警察官だったって言ってたっけ。
グラスを傾けながら、僕はちょっと笑う。
やっぱり、ベタだなあ。
小説のクライマックスに、こんなセリフがあった。
「ギムレットにはまだ早すぎるね」
十年たっても、この酒には慣れない。
舌を刺す辛さにも、ライムの酸味にも。
飲みすぎれば頭もいたくなるし、ときどき気持ち悪くもなる。
年ばかり重ねたけれど、かっこいい大人になれたとは、とても言えない。
いつか、この味がなじむ日が来るのだろうか。
グラスを傾ける姿が、サマになる日が来るのだろうか。
あの日の先生みたいに。
その時、隣にいるのは誰だろう。
思い出話を交わす相手は誰だろう。
そんなことを考えながら、飲み干したグラスを置く。
ドライ・ジンに、少し甘めのライム・ジュース。あと、思い出を少しだけ。
それは僕が知っている、唯一のカクテル。
マスター。
ギムレットをもう一杯 維嶋津 @Shin_Ishima
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