ヴェルトナハトの歌 - Melted heart Weltnacht -
糾縄カフク
Melted heart Weltnacht.
世界の夜は、此処に。
溶けた心は、其処に。
消えた君は、何処に。
――その一心に祈る横顔が、余りにも美しかったから、悪魔はある日、恋に落ちた。
街外れの、
少女はぼろぼろになった聖書をめくり、折れそうな細腕で十字を切り、擦り切れた衣を引きずって祈りを捧げる。だが先刻から鳴り続ける腹の音とは裏腹に、少女が食べるパンはもう無い。――なぜなら少女は、既に眠った子供たちに、自分の分すらも分け与えてしまっていたからだ。
――だのに何故だってこの子は祈るのだろう。
少女が毎夜祈りを捧げる事実を、悪魔はとうに知っていた。だけれど少女の祈る神とやらが、少女にパンを与えてくれた事は一度だってない。
悪魔が生まれておよそ十年。
だから悪魔にとっては、神というのは戦争と虐殺を生み出す、悪魔以上に
そんな空想上の化物に祈りを捧げたって、君の元にはパンの
だがそこまで悪魔が思案した所で、遠くからガサガサと、何者かが近づいてくる足音が聞こえる。恐らく少女は気づいていないだろう。そもそも飢えと寒さで、ろくに頭も回らないに違いない。
悪魔は仕方が無いなと
教会に歩を進める、あからさまに不審な男。右手にはククリナイフを、空いた左手には麻袋を。その目的が強盗である事は、獲物を狙う
――今日はこいつを狩らねばならんか。
悪魔はそう内心で独りごちると、音もなく男の背後に忍び寄り、無慈悲な
「ぎょえっ!?」
――チャリン。
祈りを捧げる少女の背中に物音がして、そうして少女は振り返る。そこには先刻まで
「神さま!」
崩れそうなくらい切ない笑顔で駆け寄ってくる少女の姿を、悪魔は闇に紛れてひっそりと見守っていた。
――それ見た事か。お前の言う神様は、結局何一つしてはくれないのだぞ。
これまで少女に降りかかる災厄の、その一切を切って捨てて来た悪魔は、腕を組んでそう思った。恐らくこの悪魔無しには、既に少女の命は守られていなかったろう。
だが神に祈り平和を愛し、戦争を嫌う少女にとって、悪魔の所業は非道に映るに違いない。だから悪魔は、可能な限り人目につかぬ様、彼女を狙う悪意の全てを、
確かに悪魔は神を嫌っていた。いや寧ろ憎んでさえいた。
だけれども、それを愛する少女の笑顔だけは、どうしても奪いたくなかったのだ。
* *
それから幾年の時が過ぎた頃、少女の居た聖堂は在りし日の威容を取り戻していた。周囲には人だかりが出来、壇上に立つ
「神を信じ武器を捨てれば、平穏が訪れます。――かくあれかし、神の
その胸を張り高らかに声を上げるのは、あの日、骨と皮ばかりだった
「――ああ、聖女様!」
そうして手を合わせる周囲の
悪漢に暴漢、そして聖堂を壊そうとする地主や貴族が相次いで命を落とす中、祈りを捧げ
「剣を掲げる者に、剣を以て抗ってはなりません。不正義には必ずや神の裁きが下されます。耐え忍び、自らの信仰に全てを捧げるのです」
そう満面の笑みを浮かべるかつての少女を、木陰に立つ悪魔は疲れきった表情で見つめていた。
ぜえぜえと肩で息をする悪魔。彼の身体は幾分か大きく、
――あとどれだけの敵を、俺は
悪魔は聖女の心地よい声に耳を傾け、天を仰ぎ目を閉じる。
非武装、中立、不服従。
聖女の掲げる理想はどれも美しい。誰しもが「かくあれかし」と望み、そうして実現出来なかった全てが、ここにはある。だがその代償に、悪魔の身体は人知れず傷つきつつあった。
最初は野盗の群れ。次に騎士崩れ。領土拡大を
だがそんな障害の
そうして今日も、悪魔は誰に知られる事も無く虚空に羽根を羽ばたかせる。――背後では止むことの無い祈りの声と神への讃歌が、絶えること無く響いていた。
* *
またそれから幾年が過ぎた頃、かつての少女は王宮に立っていた。聖女の奇跡に心打たれた或る国の王子が、熱烈な求愛の末、彼女のハートを射止めたからだ。
しかし聖女は、嫁ぐにあたって一つの条件を相手方に突きつけた。それは自身の理念に基づく、国家としての完全なる武装放棄。かくて頷いた王子によって、この国は軍を解体し武器を捨て、名実共の非武装国家となったのだった。
やがて国は聖女の説く慈愛に導かれ、各国から文人や詩人が群れ集った。
悪魔はあれからさらに大きく、醜く、
だが悪魔はふと思った。果たして自分が守りたかった笑顔とは、今の彼女の笑顔なのだろうか、と。かつては弱々しく所在なげで、
しかしそれでもなお。聖女の微笑みは美しく、彼にとっては
明日にも襲い来るであろう、諸外国の連合艦隊を前に悪魔はすぅと深く息を吸い込む。――ああそうだ守ってやろう。あの日自分が恋い焦がれた、たった一つの笑顔の為に、と。
* *
翌々日、たった一匹の悪魔と、それを取り囲む連合艦隊の戦闘は
悪魔とは本来、人に仇為し、世に混乱を
敵方が正体さえ知らなければ、幾らでも天変地異で片がつく。だが
最初の頃は押している様に見えた悪魔だったが、事態は次第に劣勢に傾く。片や悪魔一匹を狩れば良いだけの魔の者と、片や全軍を相手にしながら、聖女の国そのものを守らねばならない悪魔。勝敗は始めから明らかだった。
* *
――それは真の意味で奇跡、と呼ぶべき事態だったかも知れない。人間の砲弾に魔の者を当てた悪魔は、辛うじて戦線を硬直させると、息も絶え絶えで王宮へ舞い戻ったのだ。
聖堂と化した王の間では、聖女が一心に祈りを捧げ、その周囲もまた追随し
――ガシャン。
割れるステンドグラスに、祈りは消え悲鳴が響く。それもその筈、自らの姿を消しておけなくなった悪魔の
――逃げ、ろ。
悪魔はそう口を動かしたかった。だけれども喉元からはヒューヒューと息がするだけで、上手く言葉が出ない。そんな悪魔を、聖女は汚らわしいものでも見るかの様に
「悪魔よ! 貴様らが如何なる
せめて、せめてまた笑ってはくれないのか。あの清らかな顔を見せてはくれないのか。悪魔は心の中で何度もそう問いながら、無慈悲に振り下ろされる聖女の
――ざくり。ざくり。
開いた傷口のあちこちに、何かが打ち付けられる音がして、どんどんと体温が下がっていくのを悪魔は感じた。
薄れ行く意識の中で、祈りの代わりに
――ああ。
そうして悪魔は初めて笑った。ぷつりと、最後の景色が色を落として、世界は音を失った。
* *
それから数ヶ月が過ぎた頃、聖女の国は地図から姿を消していた。
防備も兵士も無い
だが不思議な事に。今や魔女と罵られし
聖女が今、どこで何をしているのか。
悪魔が今、どこで何をしているのか。
それは誰も、知らない。
この歌を記した者の名も――、また。
ヴェルトナハトの歌 - Melted heart Weltnacht - 糾縄カフク @238undieu
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
同じコレクションの次の小説
関連小説
ネクスト掲載小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます