駅(ひまわりver.)
侘助ヒマリ
二人の時計
以前、何かの記事で、東京都の昼間の人口は1500万人を越えると目にしたことがある。
日本の人口の10分の1以上が東京都内に集中していることになる。
だから、名古屋の本社から新しくできた東京第二支社に異動となったときも期待なんかしていなかった。
さらに言えば、別れてからもう10年近く経っている。
懐かしく思い出すことはあっても、その笑顔はもうとっくにリアリティを失っていて。
あの日、二人で泣きながら止めた心の中の時計は、もう二度と動き出すことなんかないと思っていたのだ。
それなのに──
彼女を、見つけた。
*****
お台場で行われたセミナーが予定時間20分前に終了し、秋葉原の会社まで戻るために、新橋駅で山手線に乗り換えた。
鶯色のラインカラーを纏った11両の電車がホームに入ってくる。
通り過ぎる窓の中を見ると、立っている乗客はほとんどいない。
平日の昼過ぎ、およそ3分間隔でループ再生のように車両が滑り込んでくるのだから当然と言えば当然だ。
ラッシュアワーの息苦しい混雑はどこかに置いてきたように素知らぬ顔で、車両のドアがプシューッと開く。
5両目の車両に乗り込んだ僕は、ポツポツと空いた座席のどこに腰を落ち着けようかと見回した。
そして、視線が止まるのと同時に心臓が止まるくらい驚いた。
彼女が、いた。
立ち尽くす僕には気にも留めず、乗り込んだ乗客達はパズルの
居眠りをしていたのだろうか、彼女の左隣に座っていた乗客が突然周囲を見渡したかと思うと慌てて席を立ち降りていった。
彼女の隣がぽっかりと空いた。
後続の乗客は皆自分の席を見つけたようで、そこを埋めることができるパズルピースは僕だけのようだった。
仕事中の移動なのだろう。
オフホワイトのシンプルなブラウスに濃いベージュのパンツという出で立ちの彼女は、ジャケットを腕にかけたまま手元の資料に視線を落とし、自分の左隣の空席には気も留めていない様子だ。
化粧のせいか、年相応に落ち着いた大人の女性に変貌しているが、左耳にかけた髪はゆるく癖のついたセミロングで、ほんの少しつんと上を向いた小さな鼻、そして泣いているようにも笑っているようにも見える垂れ気味の目尻は恋人だった頃と少しも変わらない。
これは偶然というにはあまりに周到に用意された悪戯だ。
自分の運命を試してみろと言わんばかりの引力を放つ彼女の隣の空間に、僕は意を決して自分の体を当てはめた。
声をかけるべきなのか。
彼女が気づくのを待つべきなのか。
僕は後者を選択した。
彼女がどの駅で降りるのかはわからない。
けれども、僕か彼女のどちらかが降りるまでに僕に気づかなければ、あるいは気づいたとしても声をかけてこなければ、やはり僕たちの時計はあの日に止めたままでいるべきなのだ。
だが、もし彼女が僕に気づいて話しかけてきたら──?
何もしないと音が聞こえてきそうなほどに高鳴る心臓の鼓動で彼女に気づかれてしまいそうだ。
それはなんだかこの賭けに不正を働いてしまうような気がして、僕は平静を保とうと、通勤時間に読んでいる文庫本を鞄から取り出して開いた。
視線は字面を追うけれど、記号の羅列を眺めているだけのように頭には何も入ってこない。
いつの間にか東京駅に到着した。
ターミナル駅だけあって、降りる乗客も乗り込む乗客も多い。
僕の左隣に座っていた中年女性が降りていく。
欠けたピースの代わりに、新しいピースが次々と乗り込み、空間を埋めていく。
僕の隣の空間に歩み寄ってきたのは、一組の夫婦と思わしき老年の男女だった。
夫であろう男性は、ぶっきらぼうな口調で、けれども声のトーンは穏やかに、一人分の座席に座るように妻を促した。
どうやらこの賭けはタイムアップのようだ。
諦めにも似た安堵と、未練がましい落胆が
「どうもすみません」と頭を下げる彼に笑顔を向けると、僕はそのままドアの横に移動した。
約5分の持ち時間で、彼女とは視線も言葉も交わすことはなかった。
やはりこれはただの神様の悪戯だったのだろうか。
それでも僕は期待を捨てることができなかった。
もしかしたら、至近距離から顔を認めるよりも、このくらいの距離にいた方が僕に気づくかもしれない。
相変わらず文庫本の内容は頭に入ってこないまま、読んでいるポーズだけを続けていた。
電車が走り出して間もなく、隣の神田駅に着く寸前に彼女は立ち上がった。
セカンドチャンスの持ち時間はさらに短かいものだった。
降り際に彼女がこちらへ顔を向けたような気がしたが、僕はそちらを向くことができなかった。
降りる寸前の彼女と視線を交わす勇気がなかった。
仕事中であろう彼女を引き留めるのも申し訳ないし、もし視線を逸らされたときに抉られるであろう自分の心を防御しようとした。
プシューッとドアが開き、彼女は他の乗客とともにホームにこぼれ出ていった。
ドアが閉まる音と同時に、僕は深くため息をつく。
神様の悪戯は、他意のない子供のそれのようにあっけなく終わった。
相変わらず記号にしか見えない文庫本の文字に視線を戻したときだった。
「あっ、これは…」
さきほどの老人男性が戸惑う声に、僕は再び視線を上げた。
彼の手にはローズゴールドの色をしたスマートフォンが握られている。
「どうしましょうねぇ。駅員さんに届けた方がいいかしら」
隣の夫人も眉を寄せて困惑している。
悪戯はまだ続いているのだろうか?
「それは、先ほど隣に座っていた女性のものですか?」
歩み寄って僕が声をかけると、老夫婦はそろって頷く。
「実は彼女は知り合いなので…。僕が預かっておきましょうか」
思わず自分の口から出た言葉に驚いた。
普通ならばこんな申し出は持ち逃げや盗難を疑われてもおかしくない。
が、先ほど席を譲った僕を偽りなき善人であると認定したのか、老夫婦は「ではお願いします」と彼女のスマートフォンを素直に僕に託した。
失くしたことに気がついたならば、電話がかかってくるに違いない。
ひと駅先の秋葉原で降り、会社に戻る途中、僕のスーツの内ポケットで案の定バイブがブブブ…と振動する。
画面を見ると、発信元は携帯電話の番号が表示されている。
同僚にでも電話を借りてかけてきたのだろうか。
「もしもし」
早鐘のように打つ鼓動を落ち着かせるように、ゆっくりと言葉を発した。
「…もしもし?」
聞こえてきたのは、男の声。
「あれ?…間違い電話…?おかしいな…」
メモリから掛けているのだろう。明らかに戸惑っている。
「あ、すみません。電車に落ちていた携帯電話を拾った者です。
これから駅に届けようと思っていたところで…」
咄嗟に嘘をついた。
「あー、そうですか。お手数をおかけしてすみません。
それ、僕の恋人の携帯電話なんですよ。僕が取りに行きますんで、駅を教えてもらえませんか?」
「秋葉原駅です」
「わかりました。ありがとうございます。後で取りに行きますんで、駅に預けておいていただけますか」
僕と同じ年代か、それより少し年上であろう落ち着いた声の持ち主だった。
神様の悪戯も、ここまでくると悪意を感じるな。
せっかく思い出としてしまい込んでいたものを、わざわざ引っ張り出されて目の前で捨てられた気分になった。
電話を切ると、僕は踵を返して秋葉原駅までの道を戻った。
階段を上がろうとしたとき、再び携帯電話が振動した。
今度は03で始まる電話番号。一般電話からだ。
出るべきか、無視すべきか逡巡する。
バイブは止む気配がない。
僕はもう一度画面をタップして電話に出た。
「…もしもし?」
今度は彼女の声だった。
10年前より、少しだけ声のトーンが低く感じられる。
「もしもし」
この一言で、彼女も僕だとわかったようだった。
「あなたが、持っていてくれたの…」
10年ぶりの僕の声に、さして驚く様子のない彼女。
やはり電車で僕に気づいていたのか。
恋人の存在が、僕に声をかけるのを躊躇わせていたのだろうか。
「久しぶり。電車で携帯を落としたみたいだね。
俺は秋葉原で降りたから、これから駅の窓口に届けるところだよ」
無意識のうちに、彼女が隣にいた頃の一人称に戻ってしまう。
「そう。…お手数をおかけしてすみませんでした」
彼女が返したのは他人行儀なお詫びの言葉。
宙ぶらりんになった“俺”という呼び方が僕の心に小さな爪痕をつける。
「君の彼氏っていう人から先に電話が来て取ったんだ。
彼も携帯を受け取りに行くと言っていたから、入れ違いにならないように連絡を入れた方がいいと思う」
僕の言葉に、彼女が動揺したように「えっ…」と声をあげた。
これ以上会話を続ける意味があるだろうか。
「それじゃ」と短く言って切ろうとすると、「待って」と声がした。
躊躇いつつ、もう一度スマホを耳に当てる。
「お願いがあるの…。その携帯、駅に預けないで。
今から秋葉原まで行くから、直接受け取れないかしら」
会社のホワイトボードに書いた帰社予定時間まではまだ時間がある。
「わかった。山手線のホームで待つようにするよ」
僕が答えると、「できれば駅の外で会いたいの」と彼女が言う。
僕は駅を出てすぐの場所にある、喫茶店という呼び方がふさわしいクラシカルな雰囲気のカフェを指定した。
注文したアイスコーヒーが出てくる頃に彼女は店に入ってきた。
「お手数をおかけして…本当にごめんなさい」
久しぶり、と懐かしむ挨拶よりも先に謝る彼女に改めて現在の二人の距離を感じる。
向かいの席につく彼女に、携帯電話を差し出しながら僕が言う。
「いや、携帯を預かるだなんて差し出がましいことをして…」
おかげで彼女に恋人がいるという、知らなくていいことまで知ってしまった。
「ううん。その方がありがたいわ。
あの人が受け取りに行って、鉢合わせしたり、携帯を
「奪られる…?」
彼女は携帯をバッグにしまいながら僕と同じアイスコーヒーを注文すると、きまり悪そうに俯いた。
「電話に出た人ね…。先週別れたばかりなの」
恋人ではなく、元恋人か。
神様はまだ僕を弄ぼうとしているらしい。
「彼は、自分が恋人だって名乗ったけれど?」
「納得していないのね。私が一方的に別れを告げたから。
…でも、これ以上続けていても、どうしようもなかったから」
彼女は困ったような笑顔をして言葉を続ける。
「不倫だったの。彼とは。
3年付き合ったけど、彼は子供もいるし奥さんに離婚を切り出せないみたいで。
ずるずるとこのまま続けていっても、私には傷しか残らないって思ったの」
彼女の前にアイスコーヒーが置かれ、彼女はそれにミルクを垂らす。
「もっと早く、それに気づけたらよかったのにね」
カラカラとストローで氷をかき回しながら、彼女は自嘲ぎみに笑みを浮かべた。
10年ぶりに再会した元彼として、僕はどんな言葉をかけたらよいのだろう。
ただ一つ言えるのは、二人の時計が止まっていたこの10年に、彼女は自分だけの時計の針をちゃんと進めていたということだった。
僕だって、止まったままの時計をずっと見つめ続けていたわけじゃない。
恋人がいた時期もあったし、漠然と結婚を考えた相手もいた。
けれども、彼女と止めた時計は心に掛かった懐中時計のように、ふと思い立てばいつでもその重さを感じることができるものだった。
沈黙の重苦しさをどかすように、ストローから離れた彼女の口が言葉を出す。
「腕の傷…やっぱり消えていないのね」
そういえばと、山手線に乗った時は移動中の暑さからジャケットを脱いでシャツを腕まくりしていたことを思い出す。
僕が左隣に座っていたときに、やはり彼女は僕だと気づいていたのか。
恋人と別れた後ならば、なぜ彼女は僕に声をかけなかったのだろう。
「あの時私を庇ったせいで、貴方にはずっと残る傷がついてしまったのね」
半分申し訳なさそうな、半分他人事のような彼女の言い方は正しい。
彼女に落ち度はなかったからだ。
11年前、夏の花火大会に二人で行ったときのことだった。
社会人になって初めて行った花火大会。
僕は気合いを入れて一席数千円の観覧席をペアで買ったのだった。
間近で見る音と光の迫力に、浴衣姿の彼女は僕に寄り添いながら歓喜の声を上げていた。
クライマックスで、大きな4尺玉の花火が打ち上がった後に、ナイアガラの滝と呼ばれる黄金色に燃え落ちる壁が現れ、その背後を矢のように放たれた花火が無数に交錯していた。
ところがそこで誰も予測していなかった事故が起こった。
軌道の予測を間違えた花火が数発、観覧席に向かって低い弧を描いて飛んできたのだった。
悲鳴を上げて逃げ惑う観客たち。
僕は彼女を守るために彼女を腕で囲うようにして避難しようとした。
そのときに、僕の腕を貫いたかのように一瞬の衝撃が襲ったのだった。
衝撃の直後にきたのは、文字どおり焼け付くような激痛。
あまりの痛みに呻く僕を、今度は彼女が泣きながら抱きかかえ、駆けつけたスタッフによって僕は救急車に誘導された。
その時の火傷の痕だった。
次の年、僕たちはもう夏を一緒に過ごす仲ではなくなっていた。
これも、心の懐中時計と同じく、普段は意識しないもの。
けれども意図を持ってそれを見つめれば、いつでも彼女との思い出を呼び起こすものだった。
「僕は男だから、このくらいの傷が残ってもどうってことない。
君に傷がつかなくて本当によかった」
「あのとき庇ってくれたことは本当に感謝してる。
…でも、貴方が傷つけまいと守ってくれたのに、結局私は自分で別の傷をつけてしまったわ。
…一生消せない傷を」
彼女は口元をわずかに歪ませた。
「電車の中で貴方に気づいたのに声をかけなかったこと、ごめんなさい。
自分の傷を見せたくなかった。
貴方の記憶の中だけでも、傷のない綺麗な自分でいたかったの。
それなのに馬鹿よね。
携帯を落としたことで、結局貴方に見せてしまった」
彼女はなぜ自分に傷をつくるような苦い恋をしたのだろう。
僕が今日の再会によって彼女の傷に触れてしまったことに、何か意味はあるのだろうか。
「君は一生その傷を抱えたまま一人で生きていくつもりなの?」
「一人のままかどうかはわからないけれど…。
この先もし好きな人ができたとしても、この傷は見せずに自分一人で抱えていくしかないんでしょうね」
一生消えない僕の腕の傷。
一生消えない彼女の心の傷。
傷を抱えた者同士、寄り添って生きていくことはできないのだろうか。
ふとそんなことを考えたとき、彼女はアイスコーヒーを半分残したまま、伝票を手に立ち上がった。
「お互い仕事中なのに話し込んでしまったわね。
とにかく携帯はありがとう。
…また、いつか、どこかで…」
10年前、二人の時計を止めた時と同じ表情で彼女が言う。
泣いているようにも、笑っているようにも見える目尻をして。
このままでいいのか?
時計を止めたままでいいのか?
お互い一生消せない傷を、別々に抱えたまま生きていくのか?
「待って」
振り向いた彼女に問いかける。
「君は今日のこと、単なる偶然だと思ってる?」
彼女は唐突な質問に少し目を丸くした後に、寂しげに微笑んだ。
「運命の再会だなんて驕るわけにいかないわ。
勘違いして近づいて、貴方に幻滅されたくないの」
「君が俺の傷を醜いと思わないのなら、俺も君の傷を醜いとは思わない。
それに、お互い前より大人になっている。
たとえ今の君が昔の君とは別人になっているとしても、幻滅するほど君に幻想を抱くつもりはないよ」
俯いた彼女の瞳が揺れている。
右の眉だけがわずかに歪む表情は昔から変わらない。
心に何かをしまい込んでいるとき、彼女はいつもそんな表情をしていた。
10年前の僕は、彼女のこの表情に気づいていながら見て見ぬ振りを続けた。
─お互い慣れない生活で大変なんだし、社会人になったんだから自分でなんとか解決できるだろう?─
自分のことだけで精一杯だった。
社会人になったからって、いきなり大人になれるわけでもなかったのに。
ちゃんと大人になった今、僕は彼女のこの表情を見て見ぬ振りなんてできない。
「俺は1500万分の1の確率で今日君に逢えたことを偶然だとは思えない。
君が携帯を落として、俺がそれを預かったことも、君の元恋人から電話がかかってきて、君の傷を知ったことも」
「1500万分の1って…?」
「東京都内の昼間人口」
僕の答えに彼女が思わず笑みをこぼす。
「そういうデータを唐突に持ち出すとこ、昔から変わってないのね」
彼女の瞳が滲んでいる。
「それに、優しくて真っ直ぐなところも」
彼女は涙をこぼすまいとカフェの天井を仰いで、深く息をついた。
そのまま数回瞬きをして、垂れた目尻をそっと指で拭うと、座ったままの僕に再び視線を向けた。
「1500万分の1の確率を偶然じゃないと信じきれるほど、
再び口元を歪めて苦笑いする彼女。
「でも、今日こうして貴方に会えたことは素直に嬉しかったと思える。
できることなら、いつかまた貴方に会いたい。
もし、もう一度貴方に会えたら…。
そのときは、これが運命だったって思うことを許される気がするの」
滲んだままの目尻を下げて微笑んで、彼女は今度こそ振り返らずに店を出ていった。
この大都会で、僕が彼女に二度出会う確率は1500万×1500万分の1だろうか。
僕にはそうは思えない。
だって、僕たちの再会は無作為の偶然なんかじゃないはずだから。
*****
果たして、僕たちは3ヶ月後に、彼女の使う神田駅で再び出会うことになる。
今度こそ、二人の時計が動き出す。
(おわり)
駅(ひまわりver.) 侘助ヒマリ @ohisamatohimawari
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます