吾輩はゴリラである。

雪星/イル

名前はまだない。

 吾輩はゴリラである。

 名前はまだない。

 どこで生れたかとんと見当がつかぬ。何でも海を越えた異国の高い塔の上で吠え猛っていたことだけは記憶している。吾輩はここで始めて人間というものを目にした。しかしその当時は何も知らず、ただ美しい人間の雌を片手に塔を登り、目に映る全てに憤怒し、また恐怖し、破壊の限りを尽くしたことだけを覚えている。

 吾輩はコングであった。

 コングの中のコングであった。


 それより先の事は、どこをどう旅したかとんと覚えておらぬ。

 ただ気づけば、吾輩はまた全く見覚えのない土地にいて、人間の里にのみみられる、あの奇妙に黒々とした地面を見下ろしていた。

 人間がびるぢんぐと呼ぶ石柱の上にのしかかり、右腕をだらんと地面に向けて伸ばし、どういうわけかそこから一切体が動かぬ。飢えや乾きが肉体を疲弊させたかと思えば、空腹感も感じられぬ。吾輩の身体は全くの未知の状態にあって、吾輩は憤懣やるかたなく、ただただ困惑するばかりであった。

 目前を人が通り過ぎていくが、奇異の目こそあれ、かつてのように吾輩を怖れる様子もない。彼らは吾輩を痛めつけた人間ではないが、初めて見る人種であることだけは確かだった。

 それが日本人だと教えたのは、いつの間にか吾輩の右の掌に乗っていた、一人の子供であった。


「ここは、日本よ。日本という国の、東京という県で、三軒茶屋っていうの」


 周囲の人と同様に、黒い髪、黒い瞳を持つその子供は、吾輩に向けてそういった。


「おまえ、なぜ吾輩の掌に乗っているのだ」

「あなたが助けてくれたんでしょう」

「なぜさっさとどかぬのだ」

「落ちた時に、腰を打ってしまったの」


 一切身に覚えがないが、どうやら吾輩が石柱にのしかかるようにしているのは、落下する少女を一掬せんと、大きく身を乗りだし前かがみになったためらしい。吾輩はどうやら、彼女を救ったようである。

 しかし弱った。彼女はどうやら動けぬし、吾輩もここから動くことができぬ。これではここで、石柱の一部として屹立し続ける以外に道がない。

 耐えようのない理不尽が吾輩の身に起きている。

 再び燃え上がった暴怒の衝動は、しかし、掌にある小さき者を目にした途端に、やはりたちどころに消えてしまった。

 下手に身体を動かして、そのような場所から落とすことも忍びない。

 吾輩は、動けないのではない。少女を落とさぬためにこうしておるのだ。

 そう考えれば、この思うようにならぬ身体への怒りも、いささか和らぐようであった。




 そのまま、瞬く間に月日が流れていった。

 しばらくして分かった事であるが、少女は随分とお喋りな性格であった。

 彼女は四六時中喋りつづけた。この道の名が茶沢通りであり、下北沢と三軒茶屋という地名に由来する事、ここから見える遊歩道は烏山川緑道といい、かつて暴れ川であった事、茶沢通りと遊歩道の交点に立つあーもんどという店の甘味が絶品である事。

 他にも様々な事を喋り通すもので、吾輩はといえばつくづく呆れかえって言葉もない。このようなゴリラに益体もないよもやま話をして、一体何が楽しいのか。


「おまえは、いつになったらそこから降りるのだ」

「あなたの手がもう少し下へ伸びたなら考えるわ」

「このびるぢんぐの2階に飛び移ればいいではないか」

「あいにくと腰が痛くて動けないの」

「老いぼれか」

「んまっ、失礼しちゃう。あなたの掌がぷにぷにだったらよかったのよ」


 軽妙な口ぶりに、自然と笑顔がまろび出た。少女のお喋りは耳障りではあったが、おかげで身体が動かぬ苛立ちも和らいだ。吾輩の右掌に彼女が鎮座してから随分と月日が過ぎ、十数回に及ぶ季節の巡りが瞬く間に過ぎ去っていった。




 ある日、少女は未だ吾輩の手に腰かけたままで、こういった。


「そろそろ、キャロットタワーが建つわね」

「きゃろっと?」

「人参のことよ。あのビル、まるで人参みたいに赤いでしょう。この辺りじゃ一番の高さなんだから。あんなビル、渋谷まで行かないとそうそうみれないわ」


 その渋谷という場所が、人間の足でも徒歩一時間程度の近場にあることは、吾輩も彼女のお喋りから理解していた。

 丘に聳え立つ赤い石柱は、かつて遠い異国で登ったあの塔に似ていた。巨木の如く聳えたつ石柱に腕を突きたて、烏合の如き人間の群れを薙ぎ払い、火を噴く鈍色の巨鳥に憤怒を燃やし、咆哮した過去を覚えている。だが、かつて身を焦がした激憤は霧散し、飢えることも乾くこともない安穏ばかりの今が続くだけである。故郷とは似ても似つかぬ石柱の密林に、故郷と同じ安息を覚える吾輩がいた。

 きゃろっと、人参。あの赤い棒状の根菜のことを、人間の言葉でそう呼ぶらしい。

 名は他にも沢山あるのだと彼女はいう。あらゆるものに名があるのだと。思えば、彼女はいつも沢山の名を語っていた。あれは何という名だ、あれは何という名だと、一つ一つ、つぶさに丁寧に読み上げた。

 あらゆるものに、名はあるのだ。


「そういえば、おまえの名は何と言うのだ」

「ひみつ」


 二つに結わえた髪が、さも愉快そうに揺れる。


「あらゆるものに名前はある。あなたにだって、きっと名前はあるはずよ。でも、今まで30年間、名前が必要になることは一度もなかった。そうでしょう?」


 少女の言う事はもっともであった。街を行く人は吾輩達の名前を呼ぶことはない。しかし吾輩を目にした者達は、時に笑い、時に手を振り、時に押忍、と、軽快な挨拶を送ってきた。名前など知らずとも、それは簡単な事なのだ。

 あらゆるものに名はある。

 しかし、名を知らずとも、共にあることはできる。


「わたしとあなた。吾輩とおまえ。それで十分よ」


 そう。それで十分なのだ。




 吾輩はゴリラである。

 名前はまだない。

 王の中の王であったことも今は昔。

 これからどこへ向かうのかとんと分からぬ。

 だがしかし、この身がこの先何処へ向かうとも。

 先ずは、掌に腰かけたこの少女を、無事に降ろしてからのこととなろう。

 吾輩と少女は今日も、このごりらびるにゐる。

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吾輩はゴリラである。 雪星/イル @Yrrsys

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