茜色の灯台

紅璃 夕[こうり ゆう]

茜色の灯台

 海に昼下がりの日がきらめく高松港。


 瀬戸内海に向けて細長く伸びた防波堤の先、赤い灯台がぽつんとあるだけの場所で、女性が一人、海を眺めている。


 波にぷかぷか浮かんでいたウミネコが、ふいに飛び立った。

 それを見て、女性は深いため息をついた。


「どうしたの?」


 驚いてびくっと身じろぎし、丸い目で振り返る。


 灯台の元に立った少年はにこっと笑い、もう一度尋ねた。


「どうしたの? お姉さん」


 女性は困った様子で目線をさまよわせ、それからぎこちない笑みを浮かべた。




「食べる?」


 女性が差し出したのは、カラフルな丸いお菓子。

 見た目にはひなあられのようなそれを一粒つまみ上げ、しげしげと眺める。


「『おいり』って言うの。東では珍しいかな」


 少年が口に放り込む。

 サクッとしてすぐに溶けてなくなる不思議な食感が気に入ったらしく、二つ三つと続けて口に運んだ。


「西讃岐では、昔からお嫁入りのときに一緒に持っていくの。花嫁さんを見に来た子どもたちに配ったりね。こんぴらさんではおいりをまぶしたソフトクリームなんてものも売ってるのよ」

「お姉さん、香川の西側の人?」

「うん、そう。知ってる? こんぴら参り」


 首を振る少年に、女性は微笑んで話し始めた。


「海の神様といわれる大物主神おおものぬしのかみ崇徳すとく天皇が祀られてる金刀比羅宮をこんぴらさんって呼ぶの。御本宮は象頭山の上にあってね。石段を785段も上っていくのよ」

「785段? まるで山登りだね」


 目を丸くして驚くので、くすっと笑って肩をすくめる。


「石段の両側にはたくさんのお土産物屋やうどん屋が並んでて、鳥居が見えたら着いたって一安心しちゃうんだけど、実はここからなのよね」


 ふと言葉を切り、遠く遠く海の向こうを見つめて唇を噛む。


「……まだスタート地点。ここからがーーー辛い上りの始まり」


 語尾を震わせるので、少年が心配そうに見つめる。


 女性は思念を振り払い、明るく取り繕った。


「でもねっ、上ると景色がとっても綺麗なの。讃岐平野が一望できて、天気が良ければ瀬戸大橋も見えるのよ」


 平地に広がる町、遠くの山々の稜線、遥か向こうに瀬戸大橋の見える風景を思い描き、少年がいいなぁと羨ましがる。


「ここからそんなに遠くないわよ? 車だったら一時間くらい」


 すると今度は少年の目に憂いが浮かぶ。


「そうだね。でも僕が見れるのは、ここからの景色だけだから」


 女性が目を見開き、微笑む少年を見る。


 そして黙って瀬戸内の海に視線を移した。




 潮風が吹き抜け髪を揺らす。

 穏やかな内海は静かにきらめいている。

 遠くで大きな魚が高く飛び跳ねた。


「綺麗ね。島がたくさん見える。ね、あそこにある島はなんて島?」


 正面に見える島を指差し尋ねるので、少年が顔を輝かせた。


「あれは女木島。桃太郎伝説の鬼が住む島って言われてて、だから鬼ヶ島とも呼ばれてる。その隣の男木島は、猫がいっぱいいる猫島なんだよ」


 女性がうなずき笑ってくれるのが嬉しくて、身振り手振りを交えて懸命に説明した。


「三年に一度、瀬戸内国際芸術祭が開かれて、それでいろんな島にたくさんのアート作品があるんだ」

「直島や豊島は有名ね。そういえば前に、宛先のない手紙を預かる粟島の『漂流郵便局』に行ったわ。そこで手紙を書いてーーー」


 唐突にうつむくので、少年が身をかがめて様子を見る。

 唇が震えている。


 女性は顔を上げると、苦笑して


「彼と手紙を書いたの。彼は私に、私は彼宛に。いつか互いに歳をとって、そうしたらまた一緒にここへ来て探そうって言って」

「未来のお互いに宛てた手紙なんだ。素敵だね。読むのが楽しみだね」


 少年が、まるで我がごとのように無邪気に喜ぶ。

 それを女性は眩しそうな、少し泣きそうな目で見つめた。


「ーーーそうね」




 甘く優しい嘘にだまされたふりをして。

 私は真っ白な手紙を投函した。


 宛先のない想いは静かに海を漂う。

 望まぬ場所へ流れ着くくらいなら、いっそのことーーー。


 そんなことを思い、海を眺め続ける。




「オリーブで有名な小豆島にも、高松港ここから行けるのね」

「うん、高速船やフェリーでね。岡山や神戸にも行けるよ」


 女性は口の端を上げ、目を細めた。

 声色を低く変えて、


「もし、そのどこかへ私が行くとしてーーーあなたは『行ってらっしゃい』って見送ってくれる?」


 少年の目を覗き込むように見つめる。

 何かを期待するような、あるいは諦めたような目で。


 少年が真顔でじっと見返す。


 そしてふっと柔らかい笑みを浮かべた。


「うん。それで帰ってきたときは、『おかえりなさい』って出迎えるよ」


 女性が目を見開き、言葉を詰まらせる。

 逡巡の後、肩の力を抜いて不器用に笑ってみせた。


「そう」




 気づけば日は傾き、茜色は西の空に残るだけになった。

 黄金色に輝いていた海も、夜の闇に溶け始めている。


 女性はうーんと伸びをし、一気に脱力して息を吐いた。


「うん、ちょっと吹っ切れた」


 肩をすくめ、少年に笑いかける。


「ありがとう。私、ここで頑張ってみる」


 どこへ流れ、行き着いても、帰ってくる場所がここならば。

 帰りたいと思える場所になるように。


 うん、と少年が満面の笑みでうなずく。


「美味しかったよ、おいり。また来て。道に迷ったら」


 女性が虚を突かれる。

 それから顔をくしゃっとさせ、声を立てて笑った。




 やがて少年の姿が透け始める。

 そして夕闇の風に溶けるように消えていった。


 後には明かりの灯った灯台がある。


 高松港の防波堤の先に立つ、世界初のガラスの灯台。

 通称『せとしるべ』。


 女性が目を輝かせて仰ぎ見る。

 口元には、笑みを浮かべて。


 ガラスブロックを通して、灯台全体が赤くぼんやりと輝いている。

 その優しい明かりは、女性の心にもあたたかい光を灯した。

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茜色の灯台 紅璃 夕[こうり ゆう] @kouri_yu

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