終章 Ⅳ


「あっはっはっはっは。確かに、ヒューロはあの手の料理は苦手だからな。なんでも、鰻は煮るでも固めるでもなく、単品で焼いて欲しいらしい。それも、背開きにして骨を取るとか。日本人は、面倒臭い料理が好みらしいぞ。よければ、作ってやってくれないか?」


 私室で本を読んでいたローグが呑気に顔を上げた。アリスは額に手を当て、大きな嘆息を噛み砕く。


「本当に大変だったんですよ。それと、ローグ様。そろそろ、正装してください。いくらラフなパーティーといえども、主催者である貴方が普段着では示しがつきません」


「お、おう。……あー、そういえば、アリス。君にはまだ、今回の事件を解決した報酬を払ってはいなかったな。今更だが本当に〝あんな〟条件で良かったのか? 君の友人はちゃんと、欲しい物を事前に伝えたぞ。君だけだ『あなた御自身で御考えください』なんて言ったのは」


 ローラやアンネと違い、アリスだけは彼に貰うまで分からないプレゼントを強請った。そんな形となってしまったのだ。


「いいんです。私、ヘレンちゃんを守れただけでも十分ですし。それに、ローグさんが私をどう思っているのか、気になりましたから」


「そういう言い方は、卑怯だろう。……だが、俺も英国の男だ。女にお願いされて引き下がるようでは我慢ならん」


 ローグは立ち上がり、おもむろに棚の方へと移動する。東洋の絵皿や、ボーンチャイナ等が並ぶ棚の上から三段目、そこに場違いな木製の箱があった。それを両手で大事そうに掴むと、再びアリスの方へと戻って来る。そして、


「一応、俺が選んだ。ここで開けてくれ。不満なら、別の物に変えよう」


「え? 随分と、急、ですね。じゃあ、開けますね。わあ、なんでしょう」


 箱のサイズはアリスの手の平からやや、はみ出す程度。まさか、指輪だろうか。いや、それは流石に有り得ないだろうと微苦笑を浮かべて木箱を開ける。中身へと視線を落とし、少女は小さく息を飲んだ。やがて、耳へと小さな、されど確かな音が届く。それは時を刻むクロノスの足音だった。ローグが気恥ずかしそうに後頭部をガリガリと掻く。


「使用人として仕事をするんだ。懐中時計が合った方が何かと都合が良いと思ってね」


 質の良い銀に少量の銅を混ぜた合金製の円環は、正しく時間の番人だった。文字盤には通常の一から十二を巡る長針と短針以外にも、秒針、曜日、日付まで完備されていた。表蓋には薔薇にも似た花の刻印が施され、高級品としての価値が高いことを示している。


「ライゼンベルグの最新式だ。大事にしろよ。そして、良い仕事を期待する」


「ひえっ!? あ、あの、これってすっごい高そうなんですけど」


 胸の内で、何か熱い感情が爆発する。顔がドンドン熱を増加させる。意識が朦朧とし、視界がグルグル回ってしまうのだ。


「ですけど。じゃねえよ。こいつは本当に高い。弁償するなら、お前は丸二年タダ働きだ」


 それって約五十ポンド? いくら大事件だったとはいえ、使用人に与える報酬の範囲を完全に超えている。自転車やタイプライターよりも格段に高い。これまでに、ここまで高い贈り物を貰った経験など一度もない。アリスはとうとう貧血を覚え、そのまま後ろへと倒れ――、ない。ローグが、その逞しい胸板で少女の背中を後ろから抱きつくように支えたからだ。

「あっぶねえな。おいおい、急にどうした。貧血か?」


「こ、これは、貧乏人特有の、拒絶反応でして、申し訳、ありません」


「仕方ねえな、こっちのソファーで暫く横になってろ」


 軽々と抱えられ、アリスは簡単にソファーへと寝かされる。


「この反応は、さすがに予想外だった」


「えへへへ。すっごく、嬉しいですよ」


「ああ、そいつは良かった」


 頬を掻きつつ、ローグが、ソファーの背凭れに部分に腰をかけた。ちょうど、アリスを見下ろすように。


「なあ、アリス。今回の事件。誰が一番悪かったのかな」


 あまりにも唐突過ぎる言葉にアリスが目を瞬かせると、ローグが沈鬱そうな表情で唇の端を歪め、窓の外へと視線を移した。細められた目に映るのは、今の光景か。それとも、もっと別の〝何か〟なのか。


「シャルロット・ストーナーはきっと、もっと別の道があった。けれど、様々な要因が重なりあって、そうはならなかった。彼女が子供の頃に、大人がきちんと論理や道徳を教えていれば。ライアーク・ストーナーがもっと厳しければ。このロンドンがもっと豊かだったら。俺は彼女だけを〝悪人〟だとは言えない。もしかすれば、俺はシャルロットに、あの魔女に何かとんでもないことをしてしまったのかもしれない。そう、思うんだ」


 目眩に耐えつつ、アリスは彼の顔を見る。憐憫に揺れるローグの心が手に取って分かるかのようだった。


「大丈夫ですよ、ローグ様」


 根拠はなかった。

 それでも、彼を安心させたかった。


「貴方は平気です。きっと、間違えません」


「おいおい。アリスは一体、何を根拠にそんなことを言っているんだ?」


「そんなの、決まっているじゃないですか。女の勘です。私の勘、当たるんですよ?」


 精一杯笑ってみせる。ローグは、不安そうに口ごもりながら、何とか言葉を紡ぐ。


「……アリスは、俺の傍に居てくれるか?」


「なにを言っているんですか今更。ここでの生活覚えたら、もうどこに行ってもつまらないでしょうね。そういうものですよ」


 ローグが、何か光明を見出したようにアリスへと身を乗り出し、そのままズルッとバランスを崩す。


「のはっ!?」


「きゃっ!?」


 それは、一瞬の出来事だった。ローグの身体がアリスへと覆いかぶさり、それはまるで、押し倒しているかのよう。不幸にも、男の顔は女の慎ましい胸に当たる。二人がほぼ同時に顔を朱に染め、そして、


「二人ともぉおおおお! ヘレンちゃんが到着しまぁああああああ?」


 勢い良くドアを開けたのは、セシル。その後ろにはヒューロと、幼き淑女。


「……あ、アリス。一体、何をしているのですか? な、何か、とても破廉恥なような」


「ような、ではなく本当に破廉恥だと私は見ないフリをしようとするもチラチラと見てしまいます。と、私はヘレンと同じく頬を朱に染めて観察してみたりして!? して!?」


 そして、さらに後方から二人分の人影が追加される。唖然とするローラとアンネだった。


「まさか、ゲヘヘヘヘ、パーティーの前菜としてまずお前からだゲヘヘヘヘみたいな展開なの!? 止めなさいローグさん。そんな処女臭い女食ったら、食中毒起こしますよ!」


「やい手前! アリスは馬鹿だが安い女じゃねえんだぞ! 事と次第によっちゃぶん殴る」


 皆が好き勝手言う中で、ローグが弾かれたようにアリスから離れ、必死になって弁解する。


「ち、違うんだ。俺が渡したプレゼントでアリスが貧血を起こしてだな」


「貧血起こすプレゼントってなんだよ。まさか、処女を奪って純潔で純血奪ったとかそういう理屈じゃ」


 アンネ、さらに場を引き摺り回す。ヒューロとローラが一早くヘレンを連れて一階へと戻った。セシルは『お腹減ったからキッチンへ戻ります』と自主的に戻った。


「違うの、違うのアンネ。プレゼントは私が欲しいって言ったのよ」


「なっ。本人合意の上だったのか。……だったら、私は何も言わねえ。邪魔者は一階へ帰るとするぜ」


 そうして、アンネがそそくさと一階へ帰る。今頃、キッチンや応接間で話の肴にされていること、間違いナシだ。ローグとアリスはお互いに見つめ合い、力なく笑う。


「どうにも、間が悪かったな」


「ええ、本当に。こういう時、怪盗さんは、何か素晴らしい手を持っていないんですか?」


 ローグがアリスの手を引き、彼女をソファーから起こす。彼は困ったように肩を竦めた。


「こればっかりは、小細工なしで弁解するしかないな」


「そうですね。それぐらいは、自分の力でなんとかしないと」


 世の中には、弱い者がいて、どうしても手助けを必要としている者がいる。しかし、人間、やる気になればちょっとだけ頑張れる、今を変えられるのだ。金ばかり愚痴っていたアリスが、大切な〝何か〟を見付けかけているように。

 ローグとアリスは並んで部屋を出た。御主人から受け取った懐中時計は女中が纏うワンピースのポケットにしっかり入っている。

叶うのなら。彼ら彼女達の未来が明るく輝きますように。

ただ、今のロンドンに、電球のような明るすぎる光はまだ、相応しくない。

必要な光はきっと、オイルランプのような柔らかく、優しい光だ。

多少暗くとも、臆さず、怯まず、一握りの勇気を以って前に進める。そういう者達が集まる時代なのだから。



 ここは、大英帝国。ロンドン〝ヴィクトリア朝〟。過去に囚われず、未来を信じ、今を生きる者達が命を賭ける時代。

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ストレンジ×ロンドン=ヴィクトリア ウナギのゼリー寄せ程度には薄暗く刺激的な世界で 砂夜 @asutota-sigure

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