終章 Ⅲ


 ウェストミンスター寺院管区警察署のオフィスで己の席に座ったフローレンスが気難しい表情で目頭を揉んだ。すると、周囲の部下が即座に反応を示す。


「隊長、お疲れですか? 今、ハーブティーを淹れます!」


「書類整理なら、我々にお任せ下さい。さあさあ、隊長はゆっくり休憩でも!」


「アーモンドタフィなんてどうですか? 甘い物は疲労回復に重宝しまずぞ!」


 部下達のもてなしを無碍にはしないものの、困惑するフローレンス。彼女の眼が、ススーッと、その一点に注がれる。


「ところで、ジェイクはどうして床の雑巾がけをしているんだ? オフィスの掃除は週末に皆でする決まりだろう。今日は水曜日だぞ。そんなに目立つ汚れでも見付けたのか?」


 皆が机で資料整理するかパトロールをする中で、血の気が多いジェイクだけが蛙を生で飲み込んでしまったかのような暗い表情で雑巾がけをしていた。フローレンスは知らない。彼に雑巾がけを強制させたのは、ここにいる隊員ほぼ全員であることを。別に、今回の事件で功績を上げた新人を妬んでいるわけではない。市民からの情報で得た『えーっと、あの金髪でカッコ良い女刑事さんの腰を、男の刑事さんがぎゅっと掴んでいました。二人で馬に跨って、とっても仲が良さそうでした。……と、私は淡々と紛うことなき事実を説明します』が同僚達の中で憤怒、羨望、嫉妬、激怒の嵐を生み出したからだ。

 結果、ジェイクは今後一ヶ月、昼休みに必ず雑巾がけをする破目になった。彼自身、不可抗力とはいえ愛している女性の身体に密着してしまった負い目があるせいで、強く反発することが出来なかったのだ。

 そんなジェイクの苦労も露知らず、フローレンスは天井を眺めて深い嘆息を吐き出した。


(今回の一件、もしもバイオレット・ムーンが動いていなければヘレン嬢を助けられただろうか。私は、あの時、彼女達を逮捕することもできた。しかし、その選択肢が私に取れたか? 結局、ヤードの上層部も含め、私は煮え湯を飲まされた気分だよ)


 もっともっと、あの者達のことを知らなければいけない。一先ず、彼らが住む屋敷を知っているのはジェイクと自分だけの秘密にしておいた。悪戯に部下を動揺させてはいけないし、別の部署に勝手な行動を取られても困るからだ。ゆっくりと、時間をかけて、自分の目で確かめなければいけない。


(借りが出来てしまったな。……全く、アヒルの塩焼きを肴にして赤ワインでも一杯、飲みたい気分だな。そういえば、ジェイクにまだ、あの時の礼をしてなかったな。結局、彼の休日を返上して後処理も手伝わせてしまったし。ふむ。真摯な心がこもった礼か。そういえば、母は父に何か特別な礼をしていたと)


 前髪を弄びつつフローレンスはかつての光景を思い出し、水が溜まったバケツで雑巾を絞っていたジェイクに声をかける。


「ジェイクよ。君は、今日の夜は暇か?」


「え? あ、あの、暇、ですけど……何か? もしかして、残業ですか?」


 下っ端根性が染みつきつつあるジェイクへと、フローレンスはさらっと言う。


「今晩、私の家でディナーを一緒にどうかな?」


 それを聞いた全員が、ダイナマイトでも爆発したような絶叫を上げたのだ。


「「「「えええええええええええええええええええええええええええっ!?!?」」」」


「おいおい。そんなに驚くことでもないだろう。ジェイクには随分と助けられたからな、その礼だ」


 フローレンスの母曰く。男への謝礼は、手料理が最適らしい。もっとも、それは、男は男でも〝惚れた男〟という意味だったのだが。ジェイクが立ち上がり、顔を真っ赤に染めてしまう。まるで、茹で上がったロブスターのように。


「駄目、だろうか。さすがに、急だったかな?」


「い、いえ、とんでもありません、喜んで!!」


 ビシッと敬礼するジェイク。しかし、周囲の隊員達の顔には憤怒の形相が張り付いてしまうのだ。


「ジェイク貴様! そんな裏山けしからんこと許さんぞ! もしも行くと言うのなら、貴様を殺して私も死ぬ!」


「フローレンス隊長の手料理だと!? 絶対に、絶対に阻止してやる! まずは、この阿片入り紅茶を飲ませて」


「まあまあ。皆まずは落ちつけ。とりあえず、俺達全員でジェイクを監禁した後にゆっくり考えようじゃないか」


 そんな非難を全て受け止めきれる、ジェイクではない。元々、血の気が多い男はついに、

「ふざけんじゃねえぞ手前ら! 俺が誘われたんだ。邪魔するやつはぶっ殺す!!」


 皆が一触即発の空気になる中で、フローレンスは静かに紅茶を啜り、ほっと息を着いた。


「皆、仲が良いな。父も、男連中は喧嘩するほど仲が良いと言っていたぞ。……ところで、そもそもなんで喧嘩しているんだ?」


 呑気なフローレンスがようやく事態の異様さに気が付いて皆を止めるまで、あと十四秒。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る