終章 Ⅱ


 噂はチェルシーまで飛んでいく。


「ぶえっくしょい!? うう、夏風邪かな。馬鹿は風邪ひかないってナイチンゲールも言ったはずなんだけどなー。私の夢の中で」


 石炭が投入された密閉式レンジの前で、アリスが大きな寸胴鍋と文字通り熱い死闘を繰り広げていた。今、彼女が作っているのは鶏ガラ、干しキノコ、干し魚、数種の野菜から取った出汁に水と千切ったパンを入れ、形を忘れるまで煮込み、さらにそれを何度もこしてやっと完成する〝重いスープ〟だった。

 簡単そうに見える調理だが、パンを丁寧に煮込まないと飲んだ時の喉を通る感触が滑らかにならない。基本的に古くなったパンを使うのだが、古いパンは乾燥しているから、最初にスープの味をある程度整えなければ見境なくパンがスープを吸うので味のバランスが崩れてしまう。アリスが作った鍋は、全体が透き通り、黄金色に輝くように見事な出来栄えだった。これをカップ一杯、ぐいっと飲めば、全身に滋養が行き渡るかのような充実感が得られるだろう。昔に〝母〟から教わった料理の一つで、彼女の得意料理でもあった。

 これにジャガイモと鶏肉、野菜を入れれば格別な御馳走間違いナシだ。


「うぁああああ! 美味しそうですね! アリス! 味見を、味見をしてもいいですか?」


 隣で別の作業をしていたセシルが目を輝かせる。出会って二週間以上も経てば慣れたもので、アリスは慈悲深き聖母の顔で同僚にスープをコップ一杯渡す。


「アリスさん。会場の飾りつけに使うリボンはどこにあるでしょうか? と私は問いかけます」


 ヒューロがキッチンへとひょっこり顔を出す。今日は、事件解決のお祝いとして、パーティーを開くこととなったのだ。ちなみに、ヘレンも参加する予定である。ローグ曰く、ライアークも誘ったらしいが、丁寧に断られてしまったらしい。


「あ、セシルさん。つまみ食いはほどほどにしてくださいと、私は文句を告げます。半年前、メインのローストビーフを一人で十人前平らげた事件を忘れたのですか? と私は忌まわしき事件を思い出します」


「あはははははは、平気ですよ、平気。そうだ、こっちの私が作った鰻料理、アリスさんが味見してくれませんか? ちょっとレモンが多くなったかもしれません」


「お、セシルさんもやっと料理らしい料理を覚えたのですか? と私は感心、し、て……」


 ヒューロがセシルの指差した作業台に乗っていた料理へ視線を移し、全身を硬直させる。まるで、蛇の魔女・メデューサに睨まれたように。アリスが横から覗いて、おおっと感嘆の声を上げる。


「わー。上手にできたじゃん、ウナギのゼリー寄せ。やっぱり、ウナギってブツ切りにすると血が残って色が良い感じの鼠色になるんだよねー。じゃあ、ちょっとエールを一杯注いでと、いただきまーす。……ぐち、ぐちゃぐちゃ、バキバキ、うんぐうんぐ」


 ブツ切りにされたウナギの出汁がたっぷりと染みたドロドロのゼリーを啜り、塩胡椒とチリビネガー(唐辛子風味の酢)のアクセントを楽しむ。本人が言った通り、セシルはレモン果汁を少々多めに加えているようだ。メインの具は骨入りなので、ガリガリと噛み砕きつつ嚥下する。口の中が生臭くなれば、今度はエールをグイッと一杯。胃の底へアルコールと炭酸が弾ける感覚がたまらない。気軽に一杯にやるには、良い組み合わせだ。

 アリスが『かはっ。コイツはたまんねえな!』と口元を腕で豪快に拭う姿を、ヒューロが黙って、じーっと、暗鬱と、絶望的に、信じられないと頬を強張らせて凝視していた。目は前髪に隠れているものの、その視線は少女の横顔にチクチクと突き刺さるのだ。


「……あ、あのー、ヒューロちゃん。どうしたの? 私、何か変なことしたかな?」


「……鰻を粗末に扱うのは万死に値すると、私は、その食し方に首を横に振ります」


「えええ。あ、もしかして、パイに入れて食べたかったとか。それとも、燻製にして?」


 燻製鰻のサンドウィッチは路上でよく売られている人気の品だ。しかし、ヒューロは吐き捨てるように『ド愚図共が』と、言ったのだ。いつもの物静かな少女とは信じられない変貌に、アリスは眉間に皺を寄せ、一歩距離を開ける。


「あ、私、そう言えばローグ様に用事があったんだった。ちょっと行ってきます!」


 口から出まかせを吐き、アリスは脱兎のごとくキッチンを後にする。ちなみに、この後、セシルはヒューロから鰻云々を小一時間も説教され、パーティー準備に大幅なタイムロスが発生したのだった。


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