終章 Ⅰ
「最近のロンドンを騒がせていたヘレン・ストーナー誘拐事件には怪盗バイオレット・ムーンだけではなく、義母シャルロット・ストーナーが企てた恐るべき計画が隠されていた。人身売買組織との繋がりが決定的な証拠を以って白日の元に晒され、シャルロット夫人はライアーク・ストーナーとの正式な離婚制約を交わした後に逮捕される。この事件に関し、スコットランド・ヤードが設立した
イーストエンドの比較的治安がマシな通りに建つ借家の一室で、ローラは椅子に座り、机の上に置かれているレミントン社のタイプライターと格闘していた。軽やかにタイプを押したかと思えば、すぐに止まり、今度は蝸牛の歩みのように緩慢な動作で文字を選ぶ。買ったばかりのタイプライターをまるで使いこなせていないのだ。もっとも、タイプライターそのものに触ったのが三日前となればいたしかたないのかもしれない。
事件解決の例だとローグに買って貰った最新式のタイプライターは、従来のモデルよりもコンパクトに仕上がり、デザインも一新されている。音を抑える機能も搭載されていて、夜中の執筆でも家族の睡眠を妨害しないのが利点らしい。
「けど、ちゃんと私の名前で載る記事の最初が〝これ〟になるとはね……。まあ、ゴシップは好きだけど、よくよく考えれば、読む側から書く側に回るとは、思ってもみなかったわ。よしよし。なお、空を飛ぶ人間を見たという市民の証言は、巷でロンドン七不思議と揶揄される、悪魔・蝙蝠女と同一人物である可能性が高い」
そこまでローラが打つと、玄関からノッカーが叩かれる音がした。少女は反射的に椅子から腰を浮かし、小さな悲鳴を上げて慌てて座り直す。朝から何時間ぶっ続けで執筆していただろうか。強張った筋肉が身体を支えるのを鈍痛と共に拒否したのだ。
「その乱暴な叩き方はアンネでしょ。ちょっと待ちなさい! 今、開けるから」
壁に上半身を預けながらヨロヨロと玄関に向かう。鍵を外し、ドアを開けると、案の定見知った顔がそこにあった。
「よお。なんだ、まだ着替えてなかったのかよ。そろそろ準備しないと、遅刻するぜ?」
おどけた調子で喋るアンネの姿は、いつもよりも、ちょっぴりお洒落だった。ローラは、首を傾げ『あっ!』と、たった今、ようやく思い出した。今日は〝パーティー〟に呼ばれていたのだ。それも、時刻は午後一時ちょうど。あと、どれだけ時間が残っている?
「やっば、すっかり忘れてた。原稿の締め切り明後日までだったから、今日で区切りつけるつもりで、まっず。急いで支度しないと。アンネ、ちょっと手伝って」
「へいへい。けど、そんな急がなくても私がちゃーんと送ってやるぜ。このチャリでな」
アンネが得意気に玄関前に停めていた自転車を親指で差す。ローラはジト目で口をへの字にする。
「あんたも相当な遠慮なしよね。いくらアリスに壊されたからって、完全オーダーメードの自転車を報酬として貰うなんてね。それも、また三輪車なの?」
「今度の相棒は安全な後方ブレーキシステムで、各部サスペンションの強化。ゴムタイヤも、摩耗性に優れた最新式を採用。全体のカラーは私が好きなオレンジで統一。さらに、サドルの後ろには相乗り用のスペースを準備。これで、次に似たような事件があれば後ろに誰かを乗せて運転できるぜ。……ま、あんな事件なんざ、二度と起きないことを願うけどよ」
微苦笑を浮かべるアンネに、ローラは『同感だわ』と呟く。そして、ふと別の疑問を思い出した。
「そういえば、アリスは報酬に何を貰ったのかしら?」
「ああ、そういえば聞いてなかったな。よし、今日のパーティーで早速聞いてみようぜ。アイツのことだし、換金が簡単な宝石とか銀製品とかって言ってそうだな」
「あら、分からないわよ。案外、お洒落なドレスを強請ったかもしれないわ」
ここにいない友の姿をアンネと想像し合い、ローラはついつい頬を緩めてしまうのだ。
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