泰山木の花

駅員3

泰山木の花とディオリッシモ

 健作は、埼玉の滑川町と熊谷市にまたがる森林公園の近くを、Jeepを駆って走っていた。フロントウィンドゥを倒した屋根もドアもないJeepは、自然と一体となって走る。周りの里山は緑青々と茂り、田植えの終わった田んぼは、緑の産毛が生えているように見える。頬を打つ風は心地よく、爽やかな緑の香りが漂う。

 幹線道路から外れて砂利道に乗り入れると、向かった先は母親が眠っている霊園だ。霊園に近づくと、だんだん懐かしい香りがしてきた。遠い昔の記憶をくすぐるような香りだ。緩やかなカーブを抜けると、突然目の前に、大きな白い花をつけた木が目に入ってきた。直径20cmはあろうかと思われる花が、大きな木にいくつも咲いている姿に、まるで自分が小人になったような感を抱かせる。何よりも、柑橘系のようなとても爽やかな香りが心を揺さぶる。

 健作は思わずJeepを路肩に停めて静かに目を閉じると、過去の記憶と、漂ってくる香りをオーバーラップさせていた。



 ジャワ島中部のジャングルでの野営生活を終えてジャカルタに戻ると、休む間もなく香港行きのキャセイパシフィックに飛び乗った。

 健作はシートに座って目を閉じたと思ったら、シートベルトの着用を促すアナウンスで目が覚めた。窓から下方を眺めると、海に浮かんだ箱庭のような街が手に取るように見えて、香港啓徳空港への着陸態勢に入っている。

 山間からビルを掠めるように着陸すると、慌ただしく荷物を受け取りバスで九龍へと向かった。

 宿はすぐに一泊70HK$のゲストハウスが見つかった。荷物を放り出してベッドに横になると、あっという間に深い眠り落ちていく。

 ベッドより一回り大きい空間しかない部屋には、窓も無ければ、バスルームも無い。しかし、安宿の硬いベッドも、ジャングルでの野営生活に比べたら天国だ。

 蒸し暑さに目が覚めると、朝になっていた。再び文明の世界に戻ってくると、無性に日本が恋しくなってきて、和食が食べたくなった。

 共同のシャワールームに入って蛇口を回すと水しか出てこなかったが、ほてった身体にはそれも心地よく、汗と垢を流して身支度を整えると、外に飛び出した。

 早朝なのに、もうぎらぎら照りつける太陽にムッとする空気がシャワーを浴びたばかりの身体にまとわりつく。朝の喧騒の中を2ブロック先にある日系のホテルへと向かった。

 ホテルのロビーに入ると、ひんやり空調の効いた空気が心地よく、汗がすーっと引いていく。日本円で500円を払ってレストランに入ると、和朝食のバイキングに飛びついた。

 塩鮭、納豆、ワカメと豆腐の味噌汁、そしてジャポニカ米のご飯。数ヶ月ぶりに食べる和食は、「日本人に生まれて、本当に良かった。」と思わせてくれるには十分なものだ。

 おなかが一杯になると、2階建ての路面電車とバスを乗り継いで香港中文大学へと向かった。


 郭教授の研究室の扉をノックして入ると、そこには教授とシンガポールからの留学生の陳淑雲がいた。陳は、モデルかと思わせるような美形の才女で、健作とは彼女が高校生のときからの知り合いだ。

 中部ジャワ島の熱帯雨林の様子を一通り教授に報告すると、もう夕方に近くになっていた。

「健作君、お疲れ様だったね。どうだい、久しぶりに旨いものでも食べに行こう。陳君も一緒にどうかね?」

「はい先生、ご一緒させていただきます。」

「それじゃあ決まりだ。健作君は、ジャングルの中での野営生活で苦労をかけたから、今日は海鮮にしよう。」

 大学の前でタクシーを拾うと、郭教授は「鯉魚門(レイユームン)」と告げた。薄暮の街を抜けて港に着くと、プンと潮の香がする。港に隣接する魚市場で、色々な魚介類を仕入れると、小さな路地へと入っていった。

 とある店の扉をくぐると、教授の行きつけの店なのだろうか、中から出てきた店のマスターに食材を渡して色々と指示をすると一番奥のテーブルについた。程なくして出てきた料理は、いずれもすばらしく、あっという間に片付いていく。

「健作君、君はこれからどうするんだね。」

「はい、明日いったん日本に戻りますが、すぐにワシントンに立ちます。色々迷ったのですが、制服を着ることにしました。」

「そうか、それもまた人生。頑張ってくれたまえ。」


 翌日空港に行ってカウンターに向かうと、なんと陳叔雲が見送りに来ていた。

「典子さんにお土産かったの!?」

「えっ、いや、買ってないよ。」

「ダメじゃない! こっちにいらっしゃい。」

陳淑雲は、健作の手を引っ張るとデューティーフリーショップへと向かった。

「そうねぇ、典子さんだったら、この爽やかな香りがぴったりかもしれないな。これにしなさい!」

 陳淑雲が選んだのは、クリスチャンディオールのディオリッシモだった。陳淑雲はテスト用の瓶を手に取って、健作の右手を引き寄せると、手の甲にシュッとひと吹きした。柑橘系のなんとも若々しく爽やかな香りが漂う。健作が迷っていると、陳淑雲はディオリッシモの箱を手に取って健作に差し出したが、健作は受け取ろうとしない。

「いいんだよ。もう・・・」

「ダメよほら、早くレジに行かないと飛行機に乗り遅れるわよ!」

健作は値段をみると、成田から自宅まで帰るくらいのお金は残りそうだ。陳淑雲に押し切られる格好で、レジに行って精算すると、陳淑雲は微笑んでいた。

「健作さん、自分に素直になるのよ。自分の気持ちを偽ったら、20年、30年経ってから必ず後悔するからね。」

「あ、ああ・・・わかった・・・」

「ほら、健作さん、元気だして! 健作さんらしくないわよ。」

健作がボーディングブリッジに消えていくのを見送っていた陳淑雲の目には、涙が光っていた。



「おにいさんどうしたの? この花良い香りでしょう。よかったらこの花、持ってくかい?」

声をかけてきたのは、霊園近くで農作業をしていた地元のおかあさんだった。

 持っていた鍬で枝を切り取ると、顔の大きさはあろうかと思われる大きな花を差し出した。

健作は花を受け取ると、そう、まさにこの泰山木の花の香りは、遠い記憶の中からよみがえってきたディオリッシモの香りだった。

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