一番福

石田空

一番福

「うう……寒い寒い」


 既に三が日はとっくの昔に終わっている。皆、あれだけ暴飲暴食を繰り返したのだから、もっと家に篭もってくれればいいのに、残念ながらここに集まっている人間はそれだけではないらしい。

 甘い発酵した米のにおいのする酒蔵通りを通り抜け、高速道路の下を抜けた場所に、それは存在する。

 普段は見慣れている門は、まだ日が昇っていない内に見ると妙に重く荘厳に見え、神社に植わっている木々が作り出す影も妙に濃く落ちて、それが凍てつく寒さも相まって、辺り一面に厳格な雰囲気を漂わせているようだった。

 それでも。

 思い出作りで参加している大学生グループや、カップルで参加している面々。その中に混じって、時折汗のにおいが強い面々と遭遇する。既にウォーミングアップを済ませているような、明らかに「獲りに来た」面々が、皆目が爛々としているように見えるのは、神社の用意した灯りが揺らめいているからだけではないだろう。

 西宮神社には、年に一度、早朝にレースが行われる。

 福男レースと呼ばれるそれは、元々は地元民しか知られていないようなイベントだったが、ネットが普及しては何かにつけて取り上げられるようになり、今では物見遊山で参加する面々から、本当に願いを叶えたい人間まで、様々な人間が参加する一大イベントにまでなっていた。

 福男レースで優勝すれば、一番福が得られると言う。その福は自分にではない、自分の周りの人に幸運を呼ぶものだと言う。


****


「馬鹿ねえ……何も参加しなくっても。神社に参拝に行けばいいでしょう?」


 かみさんはそう言いながら、その時はまだペタンとしたお腹に軽く手を触れながら笑う。かみさんの妊娠が判明し、生まれるのは一月の終わりだと分かった頃に、俺は「そうだ、福男になろう」と思い付いたのは。

 今までの一番福になった面々は素晴らしく、高校の陸上部だったり、大学のサッカー部だったりで、仕事の関係で体力には自信あっても運動自体はほとんどした事がない俺にはなかなか難しいものがあったが、それでも参加してみたいと思ったのだ。

 俺はかみさんに笑う。


「だってさ、その頃臨月のお前を神社に連れていけないだろう? 毎年神社の参拝客すごいのにさ」

「そんなの三が日と十日えびすの時だけでしょ。平日にお参りに行っても、ちゃんとご利益あるわよ」

「そうじゃなくってさあ……そうじゃなくってさ」

「もーう」


 かみさんはカラカラと笑う。


「父親になるからと言って、何か一番にならないと示しがつかないとか、そんなのある訳ないでしょ」

「そうかもなあ……でもさあ」

「何よ」


 かみさんに問われて、俺は頭をガリガリと掻いた。


「今の時代って生きにくいだろ? こう、いろいろ。だから、頑張れば何とかなるっていうのを、子供にも教えたいし、俺も信じたいんだよなあ……」


 子供が死んだ魚のような目をして、悟りきったような諦めきったような顔をされるのは、嫌だなあと漠然と思った。

 父親になるって聞かされて一番最初に思ったのは、それだった。だからこそ、俺も地元の祭りで一番を獲ってみようと考えたのだから。

 そんな願い、きっともっと若くて前向きな願いの前だったら踏みつぶされるかもしれないが、子供が大きくなったら「父さんこれに出たんだぞ」と話せるかもしれないじゃないか。

 そう、俺の曖昧な気持ちを胸の中でくゆらせていたら、かみさんはまたもカラカラと笑って、笑い皺を作った。


「まあ、頑張りなさいな。私もこの子がやってきたら「お父さんも馬鹿だったのよ」って言ってあげるから」

「こら、まだ恥かくって決まった訳じゃないだろう?」

「あらあ、私、馬鹿って褒め言葉のつもりで使ってるのよ?」


****


 係員による靴の検査の後に、門の前に並んでいる面々がくじを引きに行く。位置取りによっては一番福を獲れる確率はぐんと上がるが、そもそもくじでふるいにかけられて参加すらできない事だってある。

 俺は係員に差し出された箱に手を突っ込んで、勢いよく引き抜いた──。


「……よっし!」


 俺は自然と握り拳を空に掲げた。

 くじに寄る順番は……6番。数字が若ければ若いほど、門の真ん前からスタートできる……つまり、一番福に近付ける。

 係員や参加者の周りには、テレビ局や新聞記者がカメラを回しているのが見えるし、くじの当たり外れであちこちで歓声と悲鳴が飛び交っている。

 俺は一旦それらを全て無視して、ただ肺に冷たい冬の空気を一気に吸い込んだ。

 短距離の練習はしてきた。身体の負担にならない程度に、筋トレもしてきた。職場では流石に口にしなかったが、友人達には「頑張れよ」と言われてきた。

 その時。ふっと神聖なものが降ってきたような気がする。今日は十日えびすの真っ只中。えびすさんが見に来ていてもおかしくはないけれど。

 俺はふっと笑った。

 ……まさかな。そう思っている間に、開門準備が始まった。

 やれるだけの事はやった。後はただ、走るだけだ。

 門が開かれた。途端に宮司姿で門を抑えていた人々が散らばる。俺達は、脇目も振らずに、一気に本殿まで走り始めていた──。

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