琵琶湖トライアングル~天台修験三大聖地の謎~
安江俊明
琵琶湖トライアングル~天台修験三大聖地の謎
一九七三年に比叡山千日回峰行を開始し、七年間で千日間、山上山下七里半を回峰するという最も過酷な荒行を達成して一九八○年に満行を迎えた酒井雄哉(ゆうさい)師が満行の報告に京都御所に参内した時、お姿をお見かけしたことがある。酒井師は満行者のみ許可される土足で御所に参内し、加持祈祷を終えて出て来られた時に取材記者という立場でインタビューさせていただいた。
加持祈祷の後、すぐお近くで目の当たりにした酒井師のご尊顔は光沢のある赤みを帯び、そのお色は未だに強烈な印象をわが胸に残している。
千日回峰行で回峰行者は毎朝比叡山無動寺明王堂(▲)を出立する。蓮華の蕾をかたどった笠をかぶり、白装束で草履履きという姿でお堂、湧水、杉、石仏など約二百六十か所で祈りを捧げながら山道を歩き回る。これを五年間かけて満行すると、今度は無動寺明王堂で過酷極まる「堂入り」が待つ。足かけ九日間、睡眠・食事・水・横臥全てを断ち、真言を唱え続ける。それを満了すると、さらに二年間これまでより長い山上山下回峰の行が待つという気の遠くなるような内容である。途中で行を続けられなくなれば、あとは自害するしか道はない。そのため首をくくる「死出紐」と短刀、それに埋葬料十万円を常時携行する。
伊崎寺(▲)は比叡山延暦寺の支院で、毎年八月一日正午から行われる琵琶湖に突き出た長さ十三メートルの棹先から七メートル下の湖に飛び降りる「棹飛び」という行で知られる。千日回峰行と共に天台宗三大修験のひとつで、修行僧が琵琶湖に身を投じて大自然と一体になることや、飛び込んだ湖から再び陸に帰る。
棹先には手前七十センチのところに環状の吊り金具が下がっている。伊崎寺の本尊・不動明王が衆生救済のため左手に持っている羂索(けんさく)と伝えられている。
棹というのはいわば「人生」、行者は多くの願いを背負いながら棹の先端まで歩き、自分の身よりも人々の願いのためにわが身を捨てて湖に飛び込み、そしてまた陸に帰るという「再生」の意味合いがある。
同じような「再生」の考え方は比叡山の回峰行にもある。比叡山の東塔は『現在』、西塔は『過去』、横川中堂は『未来』そして滋賀県側にある坂本の日吉大社をお参りして、再び山へ戻り「再生」する。
琵琶湖に流入する安曇川の上流、大津市坊村にある葛川・明王院(かつらがわ・みょうおういん(▲)。本堂で毎年七月十八日に行われる「太鼓回し」は比叡山回峰行者の一行が夏安居(げあんご)と呼ばれる明王院参籠の八日目の夜行われ、村人と回峰行者が千年もの星霜を経て継承して来た珍行である。
葛川地区の氏神・地主神社の氏子らが各集落から大高張提灯を掲げて集まり、伊勢音頭を歌いながらゆっくりと参道を進み、本殿前に提灯を並べて献灯する。 その後行われる「太鼓回し」では回峰行者と葛川各集落の青年らが掛け声も勇ましく、石段を駆け上がり、本堂裏にある直径一・二メートルの大太鼓を転がしながら真っ暗闇の本堂外陣になだれ込む。青年らは竹のササラでザラザラと音を鳴らしながら暗闇の中の行者を導き、大太鼓を力一杯回し始める。大太鼓が静止すると、提灯を持った先導役が「大聖不動明王、これに乗って飛ばっしゃろう!」と行者に向かって大声で叫ぶと、行者は大太鼓の上に乗り、真言を唱え、合掌して向かい側に飛び降りる。この瞬間、びっしりと周りを囲む見物人らが一斉にカメラのフラシュをたき、大太鼓や行者の様子をやっと確認することが出来る。再び大太鼓が回されて、夏安居に参加した行者全てが大太鼓から飛び降りるまで繰り返される。
「太鼓回し」の所作は千日回峰行に代表される天台修験道の祖と言われる相応和尚(そうおうかしょう)が明王院の上流にある三の滝で修行中に不動明王を感得し、滝に身を投げたという伝説に由来する。ササラのザラザラという音は滝に流れ込む水音であり、「太鼓回し」のゴロゴロという重低音は滝壺に落ちて浮き沈みする流木の音である。相応和尚は不動明王を感得した際、歓喜して抱きついたところ、それは葛(かつら)の木であった。その木を自ら三つに切って不動明王を造像した。
本文の▲で示した三つの寺、すなわち千日回峰行者の出立する比叡山無動寺、比叡山延暦寺支院で近江八幡市にある伊崎寺、それに日本海側の小浜港に水揚げされる鯖を京の都に運んだ「鯖街道」沿いの葛川明王院は、天台修験の三大聖地と言われ、いずれの寺にも相応和尚自作の不動明王像が安置されている。
不動明王の魂が宿った葛の木の『葛』の字を持つ葛川明王院を扇の要に見立てて、琵琶湖を挟み三大聖地を地図上で結んでみると、不思議なことにきれいな三角形になる。この謎めいたトライアングルの形成は、偶然の産物なのか、あるいは意図された結果なのか、今のところ推測の域を出ない。
完
琵琶湖トライアングル~天台修験三大聖地の謎~ 安江俊明 @tyty
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