そして明日から、一

 仙台駅の駅ビルから出た途端、強い日差しが顔を付いた。東北だというのに、9月下旬の仙台はまだ暑いらしい。駅の周りには、この場所がこの県の中心であることが分かりすぎるくらいに大きなビルが立ち並んでいて、かつて警備員として訪れて知った仙台は、そのごくごく一部なのだということを思い知らされる。彼女の言ったとおり、駅の周りは大きな災害があったことなど嘘だったかのように賑やかだ。少なくとも駅構内で催されている「全国の珍味フェア」と銘打った出店の数々にはそんなものは感じられない。

――これから行くのか?

 早朝、出かけざまに親父に呼び止められた。大きめのリュックを背負っていたので、すぐにボランティアのために被災地に行くのが今日だということが分かったようだ。

「……ああ、行って来る。」

「……何しに行くんだ?」

「大丈夫かよ?朝飯何食ったか覚えてるか?」

「まだ食べてないだろ。」

「おいおいマジかよ……正解。」

 冗談を言いながら中腰で靴紐を結ぶのを一旦やめて親父を振り返った。俺を見ている親父の顔は、心配しているというよりも含蓄たっぷりの顔で逆に表情がなくなっているようだった。

「……たまにな、お前が帰って来てないんじゃないかって思うときがある。」

「帰ってきてはいるよ。ただ……。」俺はそういうとまた靴紐を結び始めた。「……ただ、忘れ物を取りに行くだけだ。」

 靴紐を簡単に脱げないように、キュッと音がするくらいに締め付けた。立ち上がった俺に親父が言う。

「忘れちゃいかんのか?そういう生き方もある。」

「親父、忘れ物を忘れたら、それはこの世に存在しないってことだ。忘れた程度で無くなるくらい些細でも、無くすわけにはいかないものがあるんじゃないかな。」

「そりゃあそうだが、忘れないのはお前である必要もないんじゃないか?」

「そうだよな、それは俺もそう思うんだ。でもなんだろうな、こう……袖触れ合うもとかじゃないけど、一度関わっちゃった人間の悲しいところなんじゃないかな。誰でもいいんだけど、なぜか俺だったみたいな。しょうがないさ、世の中往々にしてそういうもんだよ。……それにな、別にそんなかっこいいものでもないんだ、フラれた女に未練たらたらで追いかけるみたいな感じだったりするし。」

「まぁ、忘れ物は取りに返るべきか……。少なくとも帰っては来なさい。それこそ、ここに忘れ物をしたままで出て行くなんて事はないようにな。世の中往々にして、誰かの落し物を誰かが拾って、その時にまた何かを落としてしまうものだから。」

 俺は親父を見た。その表情が思いもしなかったものだったのだろう、親父は少し驚いたように「ん、どうした?」と言った。

「いや、そうだね。準備はしっかりしてるよ……うん。」

 そうか、彼女の落し物を俺は拾っているわけか……。やっぱり俺はストーカーだな。

 緩んだ口元を親父に悟られないよう背を向けてドアを開けた。外には秋口のまっさらな空、そして地震雲が仙台の方向に伸びていた。一見すると不吉だけれど、それはとても頼もしいまでに太く力強く、ここと被災地を結ぶ頑丈な綱のようだった。見ない人間がいるだけで、繋がっているのだ。これまでもこれからも。

「じゃあ、行って来る。」


 通りに出ると、右翼の街宣車輌が演説していた。車の上に乗っている若めのオッサンによれば、日本の昔から続く天皇制と日本人の精神が、震災に耐え抜いた力であるとのことだ。その通りのバスターミナルに停車している黄緑色のバスに向かい、中年の女性に用紙を見せバスに乗り込む。もう震災から二年以上経つというのに、ボランティアとして老若男女出身を問わず結構な数がすでに乗車していた。

「はじめまして。ボランティアは初めてですか?」と、隣の席の、三十代後半くらいの男が握手とともに話しかけてきた。彼は大学で数学の講師をやっているらしく、サラリーマンなどの会社人とは違った雰囲気が出ていた。どこか世間ずれしていて、でもどこか芯の座った佇まいをしている。

「ええ、まあ。」 

「僕は今回で三回目でさ、アドバイスできるほどじゃないけど分かんない事があったら聞いてよ。」

 どうりでこなれた服装をしているわけだ。汚れてもいいようなというより、すでに漂白剤を使っても落ちないくらいに深く汚れの染み込んだ赤と緑と黒のチェックのシャツは、数度の洗濯を通して擦り切れるどころかさらに丈夫になっているみたいだった。彼は千葉在住らしく、震災当時は住んでる街が埋立地だったので液状化を起こし、東北ほどではないけれど近所の被害がすごかったらしい。彼のように、バスに乗車しているのは数度のボランティアを経験している人間が結構いて、そういう人たちが初めて参加する人間に話しかけていた。その光景は警備の時のものとは全く違う。もちろん、自分の意志で被災地に向かうのと、何も分からずに飛ばされたのでは当たり前なのかもしれないが。

「ところで、君はどうしてボランティアに?」

「知人が……」

 その後の言葉が出なかった。モンタージュのように複数を合成した顔が頭に浮かんだ。けれど、彼は何か気まずいことを聞いてしまったと思ったようで「ああ、そうか……。」と、必要以上に重い雰囲気になってしまった。

 バスで2時間以上かけて着いたのは、仙台市の南三陸町というところで、震災当時は警備員のような民間人が入ることができなかった地域だ。建物が津波でなぎ倒されているせいで、空が随分と地面に近い。足元のコンクリートは剥がれ、建物の残骸は土砂降りの前の雲みたいに浮かない色だった。所々に生えている雑草が、ここが決して死の大地ではないということを教えてくれるのがせめてもの救いか。大地が死んでいないのに、人が生きていけないという道理はない。

 だだっ広い大地を風が走っていた。耳には風と風がぶつかる音がつんざいたけれど、目を閉じて耳を澄ますと、その甲高い音に混じってときおり彼女の声が聞こえるような気がした。

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昨日から今日まで、そして明日から 鳥海勇嗣 @dorachyan

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