幻のカフェ -古都奈良-

夏衣優綺

魅惑のメニュー

 あの味をもう一度食べたい……。

 それが叶わぬ願いなのだとしても、いまだ鮮明な店内の様子を脳裏に浮かべるだけで胸が切なくなる。

 大学時代に足繁く通ったカフェ。

 ――『ぶーらんべっくパート3』。

 奈良町にはここ数年でお洒落なカフェが増えたけれど、私の中では今でもあの店が一番だ。


 今日は彼氏のサトシと行基像前で待ち合わせていた。奈良市民なら誰だって知っている定番の待ち合わせ場所。近鉄奈良駅の東改札口を出て、階段を上るとその先に欠伸混じりのサトシの姿が見えた。

「お待たせ」

「おう、ヒトミ。おはよう」

「おはよ。朝から大きな欠伸しちゃって」

「仕事で疲れてんだよ」

「とか言って、どうせ夜更かしして映画でも観てたんでしょ? 気になるスパイものの映画があるって言ってたし」

 バレたかの顔でニヤリと笑ってみせ、

「さっ、行こっか」

 私の手を取って歩き出す。

 駅前の東向き商店街は、私が幼い頃からあり、有名な漬け物屋や老舗のレストランなどが華やかに軒を連ねる。

 思い出の詰まった商店街。『おしゃべりな亀』で何時間過ごしただろう。ベトナム料理の『コムゴン』は今もよく行く店の一つだし、お好み焼き屋『おかる』でコテを片手に喧嘩したのはいい思い出だ。

 突き当たりの三条通りは市内のメインストリートで、古都の街並みをお目当てに来訪した外国人の観光客も多い。

 三叉路を左に曲がり、奈良公園の方へ。

 高速餅つきで馴染みの『中谷堂』はいつもながらに盛況だった。ここのよもぎ餅は本当に美味しい。奈良に来たならぜひ食べるべきだ。つきたての柔らかすぎるお餅は、口の中にふうわりとした食感を残し、上品な粒あんの甘さと芳ばしいきな粉の香りは、和菓子の最高峰の一つと呼んでいいと思う。

 五重塔で並んで写真を撮った。観光客でもない私たちが五重塔をバックに記念撮影など、奈良県民にして何を今更と言われそうだが、今日は昔を懐かしむ日だった。

 奈良公園にも優しい記憶が染みついている。幻想的な燈花会はすっかり夏の風物詩として定着し、一月に行われる若草山の山焼きは寒さも忘れるほど舞い上がる火の粉に圧倒される。どちらも毎年必ず行くイベントだ。

「うまく撮れた?」

 私が訊くとサトシは小首を傾げて、

「うーん、もう一回かな」

「オッケー」

 帰ったらL版の写真用紙に印刷して、リビングに飾る予定だったから、何度でも撮り直すつもりの私は喜んで彼にしがみつく。

「うん、今度はばっちりだ」

 それから私たちは『やすらぎの道』を北上して二十分ほど歩いた。左手に見えてきた『ドリームランド』は2006年に閉園し、今では廃墟然とした景象が話題になっている。

 目的地に到着。ドリームランドと斜交いの位置にあるこぢんまりした店。

 ――幻のカフェ。

 今はもう存在しないその店を私とサトシはそう呼んでいる。

 高校時代から大好きなカフェだった。記念日には必ず予約を入れたし、何を食べても幸せな気持ちに心が満たされた。

 現在は全く別の店に取って代わっており、森の隠れ家をイメージした外観はすごくお洒落なのに、どうしても寂しさが募る。

 サトシの腕を取り、立ち竦んだまま二人で思い出に耽った。

 何よりお気に入りだったのは茄子のラザニア。ミートソースとチーズが織り成す複雑な風味と香気は、ラザニアの食感と相俟ってたまらなかった。カルボナーラはとろりとした卵クリームのソースが絶品だったし、ハンバーグが乗った一見なんでもなさそうなピラフは、家庭的な味なのに、それでいて今思えば絶対に余所では食べられないものだった。

 クリスマスの夜。お互いの誕生日。付き合って三年目の夕飯もここで食べた。

 もう一度食べたい……。

 あの味が懐かしくて堪らない。

 つい涙ぐむ私の肩を、彼がそっと抱いてくれた。彼も同じ気持ちなのだと伝わってくる。

 こうして眺めていると、あの店は実際に在ったのだろうかと軽い酩酊感に襲われた。何を食べても奇跡的に美味しい店など、確かに存在したのだろうか。もしかすると本当に幻のカフェなのではないかとさえ思うのだ。

 サトシが呟くように言った。

「入ってみるか?」

 瞬刻、迷ったものの私は微苦笑して、

「ううん、やめとく」

 思い出はそのままがいい――。

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幻のカフェ -古都奈良- 夏衣優綺 @natsuiyuuki

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