梅田ダンジョン

台上ありん

梅田ダンジョン

 僕は20代のころの一時期、大阪市淀川区に住んでいた。最寄りの駅は、「東三国ひがしみくに」というところだった。

 大阪のほぼ中央を縦に路線が通っている市営地下鉄御堂筋線は、人の流れの大動脈となっている。北は豊中市の江坂から南は堺市の中百舌鳥なかもずまで運行していて、その間には、新大阪、梅田、心斎橋、難波、天王寺と、繁華街やビジネス街の中心となっている駅がある。


 初めてこの地下鉄に乗ったことは今でもはっきりと覚えている。とりあえず、「梅田」というところが大阪の心臓部で、いろいろとお店もあるということなので、コンビニで買ったまっぷるの地図を片手に行ってみることにした。

 だが、いきなり奇妙な出来事に遭遇した。地下鉄のはずなのに、なぜか地下ではなくて高架の上を線路が通っている。東三国駅も、道路から見あげた頭上にある。つまり、地下鉄に乗るために、地上から歩道橋のような階段を上らなければならない。

 なぜこんな名は体を表さないことになっているのか理由はわからないが、ド田舎から大阪に転居したばかりの僕には、不思議を通り越して不気味だった。

 駅に入ると券売機で切符を買って、自動改札を通る。

「自動改札では、では切符を取り忘れるなよ」

 僕が転居するに当たって、長らく東大阪市在住の親戚のお兄さんはそう警告してくれていたので、僕はピンと飛び出し切符をちゃんと手に取った。

 駅のホームからは、「しんみ」と通称される高架の国道が線路の左右を走っている。ずいぶんと速度を出した車がバンバン通って行くので、僕はそれは高速道路だと勘違いした。

 ホームに車体の下部を赤く塗装した電車がやって来た。午後4時くらいの帰宅ラッシュ前だったため、意外と空いている。

 次の駅は新大阪、その次は西中島南方。そこから、電車は橋を通って淀川を超える。淀川の河川敷には、野球をやっている人たちが小さく見えた。そして次は中津という駅に至るのだが、その前に淀川を超えてすぐのところで、電車は速度を少し落としながらやや前のめりになって、暗くて小さなトンネルに潜り込んで地下に入った。

 それまで明るかった窓の外の景色が、一気に暗転した。ここからは正真正銘の地下鉄となる。

 中津駅の次が、目的地の梅田。電車のドアが開く。

 意外に早く到着した。時間にして10分もかかってないくらいだろうか。僕が手に握っていた切符はにわかにしなびていた。

 自動改札を通って、僕は駅から出た。とりあえず、本屋にでも行ってみようか。駅のすぐ近くに、大きな紀伊国屋書店があるらしい。

 そのためには、地上に出なければならないが、ほかの人に着いて行ってればそのうち地上に出るだろう。地上に出てから、あらためて地図で確認すればいい。そう思って僕は、駅から出た人の流れに流されて行った。

 しかし、一向に地上に出る気配がない。それまでひとつの流れだった人の群れは、いつのまにかいくつもに分枝していって、僕は一体誰の後を着いて行こうとしていたのか、すっかりわからなくなってしまった。

「ここは、どこだ……?」

 でもまあ、この世の果てまで地下が続いているわけでもなし、歩いていればそのうち地上に登る階段にぶち当たるだろう。地下街のいちばん端っこには、そういう階段があるに違いない。ひたすらひとつの方向に進んでさえいればいいのだ。

 そう思って歩き続けていたのだが、道は曲がりくねっていたり、三叉路になっていたりと、一方向に歩いていくということがそもそも不可能のようだった。そしていつのまにか、デパートの地下階みたいなところに迷い込んだ。

 本屋に行くどころの話じゃない。そもそも地上にすら出られていない。

 とにかく一度、引き返そう。駅の改札の前まで戻ろう。そう思って僕は180度転換して、それまで歩いて来た道を反対方向に歩くことにした。

 ……歩くこと10分あまり、まったく見たことのない風景が目の前に広がった。地下街の店舗が左右に並んでいるが、若者向けっぽいお店ばかりで、そんなものは見た記憶はない。

 完全に迷子になった。

 僕は藁にもすがる思いで携帯電話を取り出して、親戚のお兄さんに電話を掛けた。

「もしもし」

「おう。どうした。何か用か?」

「あの……、梅田というところで、迷子になってしまって」

「ふうん。で、今どこにおるの?」

「……梅田」と僕は言った。そうとしか言いようがない。

「いや、せやから、梅田のどこにおんねん」

 僕のすぐ正面には、洋服屋がある。そのとなりには洋服屋があって、その向かいには洋服屋があった。要するに、目印になりそうなものは何にもない。

 僕はもはや、半泣きを通り越して絶望に至り、笑いすら込み上げてきた。

「とにかく、どうしてもわからんかったら、タクシーに乗って帰れ。梅田からやったら2000円くらいやろ」というありがたい助言を頂いて、電話は切れた。

 それからどれくらい迷ったのかは記憶にないが、梅田の地下をはいずりまわってようやく「地下鉄御堂筋線」という四角い看板を見たとき、まるで難易度マックスのゲームを攻略したときのような喜びが僕の全身を貫いた。


 帰りに乗った電車が、中津駅を越えて地上に上がった。すっかり暗くなった窓の外には、淀川が変わらず流れていた。

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