あの世界のどこかで。

「ようこそ」と、可愛らしい女の子の顔をした人面犬が言った。十歳前半あたりの顔立ち。


 ようこそもなにも、ここがどこなのかすらわからない。薄暗い空間は先が見えず、彼女だけがライトアップされたように変に浮きでている。


「悪いけど、あんまり頭がはっきりしなくて。ここはどこだい、ええと、犬さん」


 ぼくは彼女をなんと呼んでいいかわからず、「犬さん」と、ともすれば失礼にもあたる呼び方をした。


「あら、いやですわ。犬さんだなんて他人行儀な。まなみとお呼びください」


 そう言うと人面犬ーーまなみは尻尾を振った。にこりとした笑顔は美しく、薄汚れた犬の身体とは不釣り合いだった。


「ここがどこであろうかも、いずれ分かるでしょう。さあさ、行きますよ」


 そう言うと、先に歩きだしてしまう。仕方なく着いていく。わずかに歩くと、目の前には海が広がっていた。潮の匂いは感じられなかった。静寂のなか、唐突にぽちゃんという音がする。まなみはその海に飛び込んだようだった。


「おい、どうしたっていうんだ。大丈夫かい」


 声をかけるが、返事がない。この薄暗い空間に一人で残される不安が膨れ上がり、自ら追って飛び込む決意をさせるのにそう時間はかからなかった。ぼちゃん。




 いままで闇と人面犬と海しか認識しなかった目が、水に呑まれ赤、青、黄色の明滅を感じる。驚きに声をあげようとするが、言葉は泡となって水面を揺らすだけ。息。苦しみに身悶えをするが、それが長く続くことはなかった。




「おつかれさま。さて、まずはこちらに来なさって」


 いつのまにか住宅街の一角に立っていた。目の前にはまなみがいて、また先導する。不思議と身体はぬれてはいなかった。


 住宅街は閑散としていて、人の姿は見えない。いたるところに看板があるが、そこに書いてある文字は見たことのないもので読むことすらできない。陳腐な言い方だと、パラレルワールドのようだ、と思う。


足元にはポインセチアとアサガオが咲いていたが、雪をかぶっている。家先には鯉のぼりが掲げられていた。


 まなみはぐんぐんと舗装された道を歩いていく。ふと、空を見上げると雲も太陽はなく、どこまでいってもろう色だった。

 

どこかの家庭の夕飯の匂いがする。だがどこからかは判然としない。


 しばらく歩いていると、小さな広場にでた。


 広場の中央にはパラソルがあり、その下のテーブルには小さな鬼が四匹、座って談笑していた。


「でさ、帰れって言ったらさ、あいつ帰ったんだよね」


 ひときわツノが大きく、顔が赤い子鬼はそう言った。このグループにおける大将のようなものだろうか。そうすると周りの子鬼は声を上げて笑う。


「本当にだらしがないやつ。そう思うだろ、な?」


 大将の問いに、他の小鬼は首を縦に振る。必要以上に。そしてまた顔を見合わせて笑う。


「なにがそんなに面白いのだい?」


 僕は堪らなくなって彼らに質問した。すると一番近くにいた小鬼が僕を見て言う。


「そりゃ、みんなが笑っているから」


 要領を得ない説明に苦笑する。その顔を指差し、また小鬼たちは笑う。耳をつんざく笑い声。


「こいつも面白いな、そう思う?」


 大将が立ち上がりそう言うと、小鬼たちは「そう思う」「うん」「いかにも」と口々に言った。


 僕が笑われていると、「行きましょう」とまなみは言い、歩きだした。小鬼たちに何か言ってやりたかったが、うまい言葉が思いつかないので、諦めて彼女を追いかける。まだ、小鬼たちのさもしい笑い声は聞こえていた。




「あの子たちも元は人間だったのです」


 歩きだしてからしばらくしてまなみは振り返り、そう言った。あの子たちが誰を指すのかがわからず、「え?」と聞き返す。


 彼女は前を向いて歩き「小鬼たち」と一言だけ言ったあと、またむっすりと黙ってしまった。まなみの綺麗な顔を眺めていたかったので少し残念に思う。犬の短い足で器用にテクテクと歩くものだ。


 住宅街はどこまで行っても住宅街で、終わりがないのでは、と思えるほどだった。ときに商店などもあるが、全てシャッターが閉じられている。


 一軒だけ店が開いているのを見つけた。いわゆるブティックという店である。普通の人間に会いたくて、入ろうとしたそのとき、何者かにぶつかってしまい、腰を地面につく。


「あらごめんなさい。急いでいて」


 顔をあげると、そこには二足歩行だが、豚の頭をした女がいた。真っ赤なドレスを着て、ネックレスは胸元で光り、いくつかの指輪が手を彩っている。豚は手を差し出すと、僕を引っ張り上げてくれた。


「あなた、21gしかないのね。羨ましいわ」


 そう言って笑う。わけがわからないことを言うなぁ。豚からは泥の匂いがした。どんなに着飾っても豚は豚だ。


 すると、住宅街の奥から、トカゲの頭をした男が酒瓶を片手に走り寄ってきた。


「おい、おまえ。俺の金でまた高いものを買ったのか」


 トカゲは豚に向かいそう言った。目がぎょろりと豚を見る。


「いいじゃない、あなたの酒代よりよっぽどマシでしょう」


「なにがマシだ、お前なんてくたばってしまえ」


 そう言うとトカゲは、目をぎょろりとさせ、持っていた酒瓶を豚の頭にしたたかに打ち付けた。豚はぎゃっと声を漏らしたのち、ばたりと倒れ、うんともすんとも言わなくなる。するとトカゲは熱が冷めたかのように、地面に突っ伏し、さめざめと泣いた。


「そんなつもりはなかったんだ、許してくれ」


 血の匂いがする。ふいにトカゲの目がまたぎょろりとして、僕を見た。


「なにみているんだ、キサマ」トカゲは瞬間、沸騰したように熱を高め、怒りに目を充血させて言う。


 なにもしていないと答えたいが、緊張で喉が開かない。なにも言えずにいると、彼との距離はじわじわと無くなっていった。


 彼は舌をちろりと見せた。赤い舌。


 ばこり。空気が破裂したような音がしたあと、遅れて自分が拳で殴られたことに気がつく。こめかみの部分を殴られ、変に痛む。


 まなみが、わんと吠える。彼女は犬みたいにも鳴けるんだと、どうでもいいことを考えてしまう。


 またトカゲは振りかぶり殴ろうとする。目の焦点が合わず、トカゲではなく、はるか向こうの看板にピントが合う。そこには唯一読める文字で、地獄と書いてあった。ああ、これが地獄なんだな、と妙に納得してしまう。


 すんでのところで突風のような暴力は止む。トカゲは電池が切れたかのようにばたりと倒れた。束の間の無音。僕の荒い息遣いだけが住宅街に響く。




「一体なんなんだ」


 わけのわからない事象、暴力に巻き込まれ、人面犬をきっと睨みつけ、怒りをぶつける。


「あなた、見たでしょう。ここは地獄なのよ、あなたの」


 そう言うと、彼女は華やかな笑顔をした。身体は犬だがその表情は異常なほど魅力的で怒りもきえてしまいそうだ。


「僕の地獄? だとすると、彼らは一体なんだ」


「あなたが一番知っているでしょう。あなたへの罰は、忘れることができないこと、なんですから」


 忘れることができない。今、自分が何者で、なぜここにいるかもわからない僕が? タチの悪い冗談だ。


「ほうら、もう直ぐパレードが来るわ。あなたはもう戻れないわ、あの世界には」


 遠くから妙などんちゃん騒ぎが聞こえる。それは少しずつ大きくなっていた。むやみやたらに叩かれる太鼓や、音の外れたラッパの音が不快で、焦燥感を駆る。


 僕の身体の何倍もする大きなネズミが、紐につながれたデコトラを引っ張っている。それは異様な光景だったが、もうすでにそんなことでは驚かない。


デコトラの上には先ほど出会った小鬼たちの楽隊。運転席にはさっき倒れていたはずのトカゲと豚。高笑いをしながら進行している。排ガスのような臭いが思考を鈍くする。


 パレードはまさしく、火のように熱く、近づくと溶けてしまいそうな危うさがあった。


「あなたは、トカゲと豚の間に生まれ、小鬼たちの中に紛れ育った」


 まなみはパレードを背にそう言った。パレードの光で顔に影が射していて表情が見えない。


 頭の中に記憶が灯る。人感センサーのついた照明のように、言葉に反応し、ぱちぱちと蘇る記憶。変温動物のように機嫌の変わる父。丸々と太り、着飾ることに執着した母。主体性のないクラスメイト。


「そして、私」まなみはそう言う。


 教室の隅に座る神秘的な君。僕の唯一の道しるべだった。結局君は、知らない男と寝て、生きていたんだ。美しくて醜い犬。


「さようなら。すべてを忘れようとして死んだあなたの罪は、忘れられないことよ」


 そう言い、まなみは最初からいなかったかのように消えた。残されたのは僕とパレード。また、僕を一人にするのか。


 小鬼たちは未だに太鼓を叩き、笑い合っている。


 トカゲと豚はまた口論になっていた。


 パレードは去っていく。そしてまた、来る。終わらないループ。小鬼たちの笑い声。トカゲの泣き声。豚の悲鳴。音は、声は鼓膜を離れてはくれない。


 あの世界のどこかで死んだ僕は、今も忘れられずに地獄にいる。













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あの世界のどこかで。 鮭崎 @ryo_10

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