鯨の目

 その感情に名前なんてなかった。外の空気は刺すように冷たく、まるで海のなかにいるようだった。製紙工場から出る煙を見て、きれいだなと思う。


「かなえちゃん、大きくなってぇ」


 叔母さんはそう言ってわたしの頭を二度、撫でた。もう中学生だっていうのに。線香の香り。


「おばあちゃん、死んじゃって寂しい?」


 叔母さんは悲しそうにまゆをひそめ言う。わたしはどういう顔をしていいかわからず、苦笑した。


 何も言わないわたしの態度から、何かを感じたのだろうか。また頭を撫でた。さっきより優しく。


少し、いつも優しかったおばあちゃんのことを思い出した。


「ほら、あっちでみんなご飯食べてるからいっておいで」


「はい」と言い、ゆっくりと歩いていく。


 叔母さんが指差した先の公民館から、笑い声が漏れていた。


「故 笹本和子 葬儀会場」とシンプルに書かれた看板が入り口に立てかけられている。


 まだ延々と読まれていたお経が頭を反響しているようで、思考がぼんやりとしていた。




「どこいっちゃったんだかなぁ、マルコ」


 近所に住む沼田さんが、酒に顔を赤らめながらそう言っていた。気の良さが顔ににじみ出ているおじさんだ。


「かなえちゃん、うちのマルコ、知らないかい? 仲良くしていただろう」


「知らないです」と言い、「見つかるといいですね」と添えたあと、母親の隣に座る。


 お母さんは喪服に身を包み、髪をうしろで縛っていた。


「しかし、大往生だったよな」


 むかいに座るお父さんはそう言うと、酒瓶からジョッキにビールを注いだ。とくとくとく。オレンジ色の液体に泡が立つ。何杯目なのだろうか。お酒のにおい。


「そうですねぇ、そろそろ天国にでも着いた頃合いじゃないですか」


 沼田さんがそう言うと、お酒を喉に流し込む。天国は何をしたら、あるいは何をしなければ、いけるのだろう。


「おばあさんにはいつもお世話になってたんですよ。おすそ分けで、イノシシの煮物くださったりして」


 お父さんは「なんのなんの」と言い、ガハハと笑う。持っているジョッキはすでに空になっていた。


「転んで頭を打って死んじまうなんて、あっけないなぁ」


 お父さんはそう言い、ホタテの寿司をぱくりと食べた。


「かなえ、疲れたでしょう。もう寝てしまいなさい」


 お母さんが言う。ふわりと香水の香り。


「うん」と言い、隣の部屋に行く。


 そこには先ほど、ふとん屋がワゴン車で運び込んだ貸しふとんが並べられていた。明日の朝、回収しに来るのだろう。


 手早く着替えると、ふとんに潜り込む。午前零時半、一日中張り詰めていた神経はすぐに覚醒を手放し、夜の闇に溶けた。






 --あの日から何度もこの夢を見ている。


 あの日も製紙工場の煙を見ていた。自宅の庭からでもそれはよく見える。ゆらゆらと天に昇っては消えた。群青色の空には、大きな鯨が一匹、優雅に泳いでいた。幻想と過去の記憶が混じる。何度も繰り返される夢だ。


 庭の奥から声が聞こえる。


「また、うちの花、食べおって」


 怒りが混じっている、しわがれたおばあちゃんの声が聞こえた。わたしが立っているところからは見えない。どん、と鈍い音が鳴った後、犬の鳴き声が聞こえる。短く、低く。


 それから沼田さんの愛犬、マルコはいなくなった。




 次の日も、製紙工場の煙を見ていた。空を泳ぐ鯨は、煙を鬱陶しげに避けながら、泳いでいる。水もないというのに。自分が海底にいるかのように錯覚する。あるいは本当にここは海底なのかもしれない。


 おばあちゃんは煮物を作っていた。台所には獣に似たにおいがしている。


「なんの煮物?」とは聞けなかった。きっとそれはとても恐ろしいことだから。おばあちゃんはそれを一度も味見しなかった。


 それから沼田さんはおばあちゃんにおすそ分けされた煮物を食べた。




 その次の日も、やっぱり製紙工場の煙を見ていた。鯨はわたしの近くまでゆっくりと泳いでくる。その大きさは死によく似ていて、動くことができない。大きな目でわたしを見る。マルコと同じ目で。映像が水中のように揺らぐ。


 心の中で何かが大きくなっていく。あせり、怒り、恐怖。名前という型をつけてしまえば、陳腐な感情になるかもしれないが、この感情に名前なんてない。息が苦しくなる。


 おばあちゃんはわたしに話しかけていた。


「元気がないねぇ、かなえちゃん」


 頭を撫でる。触れた手に、その笑顔に、感情は膨らむ。苦しいって。


「そんなことない」


「そうかい」と言うと、わたしの目を見つめる。


 もう、いつも優しかったおばあちゃんのことは思い出せない。溺れているようだ。


 鯨はわたしとおばあちゃんを囲うように旋回している。おばあちゃんの目。鯨の目。マルコの目。息が苦しい。


少しの暗転。


 気がつくと血のにおいがしていた。数秒かかって自分がおばあちゃんを押し倒したことに気がつく。頭に岩が当たり出血している。血が地面を濡らすのを見て、きれいだなと思う。息は苦しくない。


 もう鯨はいなかった。最初からいなかったのかもしれない。


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