忍ぶ川にあやかりて

芳賀 概夢@コミカライズ連載中

「だけど、神谷バーってのはいまでもあるのかな」

「ええ、あると思いますわ。いつか栃木へ帰るとき、ちらっとみたような気がするんですの。映画見て、神谷バーへいって、あたしはブドー酒、あなたは電気ブランで、きょうのあたしの手柄のために乾杯して下さいな」

昭和三十五年芥川賞受賞作「忍ぶ川」(三浦 哲郎 著)より

 思ったより仕事が長引いてしまい、自宅に一度、帰ることもできなかった。

 少し息を切らせながら走り、浅草へ直接向かって着いたのは約束の一〇分前。

 銀座線を降りて、夕闇に包まれ始めた空に出会う。多くの車と人々が行き交う喧噪をかきわけ、早足で吾妻橋の交差点に向かってみる。

 松屋デパート、東京スカイツリー、金のうん……ではなく、アサヒビールのオブジェ。変わらない景色。だから、少しの期待が胸中に渦巻く。

 しかし、はたしてそこに彼女の姿はなかった。


「……あれ? 早かったね」


 瑛美のかるい声が聞こえたのは、僕が来てから五分以上経ってからのことだ。つきあって五年も経てば、楽しみにしすぎて三〇分以上前から待っているなどと言うことはしなくなるのだろうか。あるいは……。


「広田……なんでスーツなの?」


 子供の頃の「たーくん」という呼び方は、中学に入ったあたりで「広田」に変わった。そして高校に入る前に正式につきあい始めても、それは変わらなかった。自然、僕からの呼び方も「瑛美」から「新川」に変わっていた。


「ちょっと用事で……ね」


 そう言いながら、ネクタイを緩める。彼女の顔を見た途端、冷や汗と息苦しさを感じてしまうのは、その服装を見た所以か。

 浅草には似合わない、少し派手な黒いドレス。白のシルクっぽいレースのショール。そして高そうな白い革のバッグを手にしている。艶やかな黒髪は、高い位置でポニーテールにされていた。

 それは、僕が見たことがない髪型だ。そして、知らない服、知らない鞄、知らないフッションセンス。ああ。これはメッセージなのだろうか。


「そんな服、持っていたんだね」


「……ええ、まあ。それより、本当に行くの?」


 彼女の声色に不服が帯びている。

 声をかけた時から、彼女はあまり乗り気ではなかった。だから想定内と言えるが、少しもの悲しく思う。

 彼女の重苦しい視線は、右に佇む古い建物に向けている。

 そこは、これから行く店【神谷バー】。


「誕生日祝いは嬉しいけど、どうせならもっとオシャレなお店がよかった」


 僕はその昔、高校生という若さで精一杯肩肘を張り、彼女をオシャレなレストランに連れて行ったことがある。その時、「オシャレな店など肩が凝る」と言っていたのは誰だったのか。そして、そんな彼女の好みが変わったのは、誰の所為なのか。考えたくない疑問に胃が軋む。


「昔からの約束だっただろう? 頼むよ」


 変わっていく中にも変わらないものがある。そんなことを訴えたいのは、僕のただの感傷……そうだな、違いない。それはきっと情けない感傷だ。でも、今日だけでいいからすがらせて欲しい。


「……うん」


 不承不承を隠さずに、それでも彼女は僕についてくる。

 店に入ると、彼女は思わず小さい声で、「うわぁ」ともらした。

 明るい店内に並んでいるのは、何の飾り気もない木製の長テーブルと、木製の飾り気のない椅子。バーと言うより下町の食堂という感じである。

 そこに所狭しと座る人、人、人。多くはサラリーマン風だが、中には女性の姿も見える。雑多な空気感には、さすがの僕も圧倒される。

 注文は食券制。僕はあらかじめ決めておいたいくつかのつまみと、デンキブランを注文する。デンキブランは三〇度のブランデーベースのカクテルだ。もうひとつ、電気ブラン〈オールド〉というのがあり、こちらは四〇度とかなり強い。さすがに初めての酒でオールドは避けておいた。

 空いていたのは、ちょうど隅の席。端に彼女を座らせて僕は隣に座った。普通なら正面に座って会話を楽しむところだが、どうやらここは相席が当たり前らしい。正面には、すっかりできあがったサラリーマンが二人で呑んでいる。しかも、かなり賑やかだ。どちらにしても向かい合って座ってしまったら、普通の声じゃ会話できそうにない。


「なによ、これ……やだ、もう……」


 落ち着かない賑々しさで、すでに泣き言。きっと若い女性が来る場所ではないのだろう。

 それはわかっている。ここに来たのは、僕の我が儘。最後の賭け。

 しばらくすると背筋がピンッと伸びた初老のウェイターが、琥珀色のデンキブランとチェイサーたる水を運んでくる。ピタッと止まるように置かれるグラス。そのウェイターの貫禄と優雅さが伴う動きに、瑛美の泣き言さえも止まった。


「なんかカッコイイね」


 コソッと耳元で呟く彼女に、少し昔の香りを感じる。


「二〇才の誕生日、おめでとう」


「ありがとう」


 とりあえず、ラッパの先のような形の琥珀を揺らして乾杯。

 だが、これはなんと強いことか。初めてのアルコールでこの刺激。薬用酒のような癖のある香り、そしてカアーッと燃える咽喉と胃。うまいとかまずいとかよりも、最初の感想は驚きだった。

 それは彼女の方も同じようで……いや。些か刺激が強すぎたのか、彼女は咽せてしまう。あわててチェイサーの水を飲ますが、もうヤダと僕に残りを押しつけた。


「代わりに、ハチブドー酒でも呑むか? 凄く甘いワインらしいよ」


「……もういい」


 心で詫びる。二〇才の誕生日。もっと別の場所で祝うべきだったのかもしれない。

 だが、初めての酒をここで君と呑みたかった。ああ。でも、その想いを伝えるのは躊躇われる。僕の心に痼りがあるからだ。悪性腫瘍と言っていい。


「見合い相手とは……どうなの?」


 僕の曖昧な問いに、彼女が動揺と怪訝と少しの苛立ちを浮かべる。


「どうって……別になにも」


 彼女の濃い緋色の唇が歪む。僕はそれを見ながら、その口紅の色に戸惑っていた。それもからのプレゼントなのだろうか。


「その唇に触れるぐらいは、親しくなったの?」


 思わず漏れた悪性腫瘍に、彼女の柳眉がつりあがる。


「いやらしい言い方しないで! 一緒にいるって約束、破ったのはそっちのくせに!」


 周囲を気にしながらも荒げる声。それと共に、彼女も腫瘍を吐きだす。


「いきなり東大に行くとか言いだして、私放置で勉強し始めて。私が東大にいけない事ぐらいわかっていたよね? それでまんまと一発合格してキャンパスライフをひとりで楽しんでいるんでしょ? 私が一浪している間、あなたは遊びほうけて、かまいに来てもくれない……」


 少し揺れながらつりあがる双眸が、僕を突き刺してくる。

 それを僕は黙って受けとめる。

 彼女は、いくつもの事業に手をだしている名家の所謂、お嬢様。

 それに対して僕は平々凡々たるサラリーマンの家庭に生まれた至極一般人。そんな僕が彼女に釣り合うにはどうしたらいいだろう。そう考えた時に、できることは高学歴を得ることだけだった。なんともつまらないプライドに、僕は無理して全精力をつぎこんだのだ。

 彼女との大事な約束を反故にしてでも……だ。

 僕はそれを後悔すべきなのだろうか。


「だいたい広田はいつも――」


「おお! 喧嘩はよくないぞ~~~ぉ」


 声のトーンがあがったところに割りこんだのは、目の前にいたサラリーマン風の中年だった。五〇才後半ぐらいだろうか。シワシワになったシャツのボタンを襟元から2つほど外した前に、ビールのコップがこちらを指すように突きだされている。

 頬を真っ赤にしながら、薄くなった頭に照明を反射させていた。


「うんうん。いいかぁ~。酒に酔ってぇ、喧嘩とかよくない。よくないぞぉ~~……って、ぜんぜん呑んでねーんかい!」


 僕らの減ってないグラスを指してゲラゲラと笑いだす。

 おかげで瑛美の怒声は呑みこまれたが、その剣幕はいっそう激しくなっている。酔っ払いをひと睨みした後は、視線を横に向けてしまう。


「あ、あははは。……実は僕たち、初めて酒を呑むんです。彼女が誕生日で二十歳はたちになったばかりなんで」


 無視するのもなんなんで、愛想笑いしながらなるべく明るく対応。笑える気分ではないのだが、もう笑うしかないとも思えて意外に笑えた。


「おお! 初めての酒か! なら楽しく呑め!」


「あ、はい。でも、僕がむかし無理に約束をして、この店にしてしまったので。……やっぱり、デンキブランは初めてだと辛いですね」


「……な~に言ってんだ! いい選択だぞ、ボウズ!」


 まだ僕はボウズなのかとも思いながら、「そうですか」と愛想笑いした。そろそろ話を切りあげないと、瑛美が怒り狂って退席してしまいそうだ。

 だが、酔ったおじさんは止まらない。それどころか、急に真面目な顔して瑛美の方を見つめだした。


「おい、じょーちゃん! いい彼氏じゃねーかよ!」


「……どこがですか!」


 それは質問というより、怒声。

 思わず僕は身震いしてしまうが、おじさんにはのれんに腕押し、どこ吹く風だ。ニヤリと笑って言葉を続ける。


「この神谷バーはな、日本で一番・・最初にできたバーなんだぞ」


「は、はあ……。で、それがなにか?」


「じょーちゃんは、ここの住所しってるかぁ?」


「知りませんよ、そんなの」


「ここはなぁ~~。なんとぉ、浅草丁目番地だ。そして郵便番号の頭三桁も【111・・・】と一並び」


「はあ……」


「だからよ、ここへ一番・・最初につれてきて、一番・・最初に酒を一緒に呑むなら、自分にとって一番・・大事な奴がいい……と思わねーか?」


 そのおじさんの言葉に、しばらくの間を置いてから、瑛美の顔がこちらを向いた。

 と同時に、僕は顔を反対に背けた。

 なにこの酔っ払い、さくっとネタバレしてくれるんだ。

 「君を一番に想っている」……そんな小っ恥ずかしいことは、僕の中にしまっておけばよかったんだ。子供の頃、素直に言えた気持ちも、今では失ってしまっている。そんな僕にできるのは、彼女が自分で気がついてくれるのを待つことぐらいだったんだ。


「それによ、じょーちゃん。むかし、ここに来る約束をしてたんだってなぁ~? ここは明治一三年創業だ。一四〇年前から変わらずある。つ・ま・りだ! たとえ一〇〇年前に『ここで呑もう』と約束していても、生きてさえすりゃぁ、守る事ができる場所なんだぜ。そしてそれはきっと、これらかもかわんねーはずだぁ。すっんげーだろう? な? な?」


 笑い声が混ざった酔っ払いの饒舌に悪寒が走った。これ以上余計なことを言わないよう、僕は慌てて酔っ払いを睨みつける。

 が、瑛美の睨みに怯まなかった酔っ払いが、僕ごときで怯むわけもない。


「そう言えば、さっきチラッときこえたけどよぉ、ブドー酒をすすめられていたよなぁ~。じょーちゃんは、『忍ぶ川』って小説、知ってるか?」


「うわあああ! うわあああぁぁぁっ!!」


 僕は思わず立ちあがって声を張りあげる。

 さすがに注目の的。

 いきなりおさまる喧噪。

 酔っ払いのニヤニヤ顔がムカつくが、それ以上に周りの視線が痛い。

 僕はすいませんと頭を周りにさげながら、静かに腰をおろす。

 すると酔っ払いのおじさんは、まるでこっちにもう興味をなくしたように隣の人と談話し始めてしまう。

 何事もなかったように戻る喧噪。


「忍ぶ川?」


「気にするな!」


 僕がそっぽを向いていると、隣で何かごそごそとする気配。

 横目でちらっと見ると、彼女の手にはスマホが握られていた。

 そこにちょうど、つまみの料理が運ばれてくる。

 名物の煮込み、カニクリームコロッケ、ジャーマンポテト、海鮮サラダ。

 おかげで止めるタイミングを失ってしまう。

 ああ。完全にばれてしまった。それは、芥川賞を受賞したことがある小説で、苦労した男女二人が本当の意味で一つになる話。僕がやりたくて、されど成せない儀式がえがかれた話だ。

 頬がカッカとしはじめる。デンキブランを飲んだ時より熱が上がる。見も知らずの他人から、自分の本心をばらされる、この羞恥たるや筆舌に尽くしがたい。さらに言えば、僕は恐ろしくて、その儀式を心からは望んでいない。


「広田……」


 スマホから顔を上げた瑛美が、重々しい口調になる。


「私ね、正直……揺れたよ……」


 内心わかっていたけど、聞きたくなかった告白。

 胸が軋むように圧迫される。

 息が詰まる。

 喧噪が遠のく。

 声が一言も出ない。

 想像を絶する辛さだ。

 これだから、望んでいなかったというのに……。

 でも、彼女は泥沼を進むような重さで、言葉を紡ぎ続ける。


「だって……彼はやさしいし。ちゃんと話してくれるし。かまってくれるし。さびしかった私は……辛かった。……それに家にとってもありがたいし……ね」


 わかっている。向こうは資産家の御曹司で、瑛美の両親だって大賛成。むしろ、両親に推されての見合いだった。瑛美も最初は嫌々だったが、会ってみたらわりあいよい印象だったらしい。

 それでももちろん、僕とつきあっていた瑛美は断った。しかし、向こうがあきらめずにアタックを続けた結果、瑛美も心が動いたのだろう。すでにそのつきあいは、半年も続いているという。

 さりとて、そのことを知っていたとしても、まだ学生の僕に何ができるというのだ。悩んだ末にせいぜいできるのは、学内ベンチャー企業へのチャレンジぐらい。僕はそれを成功させるために、いろいろなことをさらに勉強して、いろいろな根回しを行ってきた。今日だって遊びほうける暇などなく、スーツを着て必死に動いていたのだ。

 受験に続けて彼女との大事な約束を反故にしてでも、早く認められる一人前になるために。


「それにさ、広田……たーくん、なにも話してくれないじゃない」


「……瑛美?」


 柔らかく、そしてもの悲しく響く、久々の呼び名。それを聞いた途端に、詰まっていた呼吸ができていた。


「たとえば……たーくん、なんでスーツなの? 就職活動には早いし、パーティぽいデザインでもないし」


「そ、それは……」


 ちっぽけなプライド、精一杯の虚栄心、みっともない嫉妬。もちろん、それだけでやってきたわけではない。だけど強い羞恥心が、僕に胸を張って言うことを許さない。形にもなっていないのに、「お前のために」など言えるものか。


「……うん、決めた! 私も正直な気持ちを今日は話す!」


 唐突に強く肯いたと思うと、僕に押しつけた自分のデンキブランを手に取った。


「瑛美? それ……」


「やっぱり呑む。でも、チェイサーが欲しいの」


「なら、水が……」


 僕の言葉に、緩やかに首を横にふる。


「チェイサーは、たーくんの言葉。一口呑むごとに、たーくんもちゃんと話して。説明して。気持ちを教えて。たとえ、お互いに傷ついたり、ダメになるとしても……私、それでどうするか決めたいの……将来のこと」


 瑛美は、そう言うとグラスを口に運んだ。

 途端、まるで電気が走ったように体を震わせた。


「ふぅ……。さあ、話して? そしたら次、たーくんのデンキブランのチェイサーとして、私が話すから!」


「……酔うぞ」


「……酔いましょうよ」


 僕は彼女の覚悟に降参するしかなかった。




 ――その夜。

 僕たちは、痺れた口ですべてを吐きだした。

 彼女はデンキブランを空けた後、どうしても呑みたいとハチブドー酒を追加した。






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※参考

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●神谷バー

http://www.kamiya-bar.com/


●忍ぶ川

https://goo.gl/ZtjwC9


●金色のうん……

https://goo.gl/sjoWcQ

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