僕の嘘、彼女の本当

秋本カナタ

僕の嘘、彼女の本当

 桜は、今にも散ろうとしていた。


 それでもなお、桜の木はその美しさを損なうことはない。今も昔も、桜はその存在だけで人々を魅了してきた。


 むしろ、今正に散らんとする様が、却って満開よりも美しいとする人もいるだろう。


 何を美しく思うのか。どこに魅了されるのか。


 感性は人それぞれあれど、古今東西、それが普遍的な美の象徴であることに変わりはない。


「可愛いね、桜って」


 彼女はもうほとんど花のついてない枝に手を伸ばしながら、素直な感想を述べた。可愛いという表現は、彼女、引いては女性特有のものなのかもしれない。だが、その中にも『美』の概念が紛れていることは確かだろう。


 とんとんとん、と軽やかに、彼女は小道を進んで行く。その数歩後ろを、僕はゆっくりと付いて行く。さながら桜の妖精を追いかけている子供のようだ。その子供は僕なのか、それとも彼女なのかは分からない。


「ねえねえ、この桜は、なんでこんなに可愛いの?」


 彼女は純粋だ。その疑問は、彼女が心から不思議がっているからこそでたもの。そこにはあざとさなど微塵もない。


 ――桜はね、見るものによってその姿を変えるんだ。散り際なのにこんなに可愛いのは、それだけ君の心を反映しているんだよ。


 僕の言葉に、彼女はぱあっと顔を綻ばせて、大きく頷いてから桜を見上げた。その姿は、僕の心をざわつかせる。


「ねえ、また来年も、一緒に来ようね」


 もちろんだよ、と僕は頷く。彼女は笑って、いつまでも桜を見上げていた。


 彼女は純粋だ。


 僕は、嘘をついていた。




 あっという間に、夏は過ぎていった。


 長く続いた茹だるような暑さは終盤になってようやくその峠を越え、過ごしやすい気候へと変わりつつある。と言っても、まだまだ涼しさを追い求めたくなる衝動に終わりは来そうにない。


「うっへえ……今日も暑いなあ、もう!」


 頭の二倍はありそうな大きさの麦わら帽子を手で抑えながら、彼女は目を細めて項垂れる。おそらく、その文句はこの夏で数十回以上言っていると思う。それだけ、気持ちを素直に表に出す人だ。


 真上に浮かぶ太陽は、僕らを捉えて離さない。雲一つない青空。絶好の外出日和だというのに、この暑さではそうは簡単にいかない。水分補給を始めとして、事前の準備を怠ると、すぐに大変なことになってしまう。


「大丈夫、そんなすぐにはどうにかならないって。そんなこと言ってたら、どこにも行けなくなっちゃうよ?」


 僕の心配を余所に、彼女は明るくそう答えた。いつだって、彼女は楽天的だ。こんな暑さも、彼女にとっては楽しみのための一つのアクセントに過ぎないのだろう。


 夏を好きな人は多い。しかし、暑さを好む人はそうはいない。夏が好きだという人は、大抵はその中で起きるイベントや、その雰囲気が好きなのだ。そしてそれは、彼女も例外ではない。


「だって、夏って暑いけどその分ワクワクするじゃない。あなたも、夏は好きでしょ?」


 はしゃぐ彼女に、僕は笑って頷いた。


 夏は嫌いだった。彼女を、奪っていくような気がするから。


 僕はまた、嘘をついた。



 ※



「――もっても、あと半年だとおっしゃっていた」


 父は、感情をあまり表に出そうとしない。突きつけるようなその言葉も、実に淡々としていた。だが、その表情はひどく苦々しいものだった。


 母はその場で泣き崩れた。人目も憚らない、悲しみを爆発させる泣き方だった。母のこんな姿は、今まで一度も見たことがなかった。


 対照的な二人の姿を、僕はぼんやりと眺めていた。いつでも力強く自分を育ててくれた両親が、こんなにも動揺している姿に、現実感を感じなかったせいだろうか。あまりに、自分の経験とかけ離れている、非日常な現実。


 誰が悪いと言うわけではない。何が原因と言うわけでもない。運命とか、宿命とか、多くの人はそんな言葉でこれを片付けてしまうだろう。最初から、生まれる前から、これは決められていた定めだった。ただ、それだけのことだ。


「神様は、残酷ね……」


 母は、ぽつりと、そう洩らした。


 人は、何か良いことがあったら神様に感謝し、悪いことがあったら神様を恨む。時に神様に祈り、時に神様に責任を押し付ける。そうやって、精神の安定を保とうとする。


 目の前にある現実は、神様によって引き起こされたものだと認識し、抗えないものだと絶望する。そうやって諦める方が、下手に希望を持つよりも楽だから。全ては神様の手の中にある、そう信じる。


 叫びたくなる。


 そんなものは、そんな奴は、存在しないと。


 自らの胸で、受け止めろと。


 覚悟を決めろと。


「……これからも、あの子の側にいるの?」


 母の問いに、僕は頷いた。それは、僕の唯一の願いであり、唯一の希望。それ以外に望むことなど、僕には何もない。


 ――彼女がそれを許してくれるなら、僕はいつまでも彼女と一緒にいたい。


「そう。……なら、美咲ちゃんが望むようにすればいいと思うわ。きっと、それはお互いの願いのはずよ」


 父も、ゆっくりと小さく頷いた。


 僕には、彼女の側にいる資格があるのか、それは分からない。


 それを知るためにも、僕は側に居続けたい。


 最期の、その瞬間まで。



 ※



 秋は、僕の一番好きな季節だ。


 秋の匂いは、僕の気分を高揚させる。懐かしいような、寂しいような、切ないような……様々な感情を芽生えさせては、奪って行く。ワクワク感と同時に哀愁が漂う、そんな季節。


「やっと涼しくなってきたねー。うーん、過ごしやすい!」


 彼女はそう言いながら、大きく伸びをしてはにかむ。秋と言う季節を、彼女も嫌いではないらしい。少しだけ安心した。


 夏の暑さは当に過ぎ去り、今は涼しさを全身で感じられるくらいになっている。上着を一枚羽織れば丁度よい気温だ。彼女に倣い、僕も脱力するように伸びをしてみた。なるほど、確かにこうしたくなる気持ちも分かる。とても気持ちがいい。


 木々はすっかりその色を変え、朱と黄色のコントラストが山の斜面を覆う。銀杏や紅葉、キンモクセイといった植物たちは、この季節で特に脚光を浴び、人々の心を魅了して止まない。


「銀杏の匂いは苦手だけど、それもまた風情だよね。うーん、我慢我慢!」


 鼻を押さえる彼女の顔には、しかし未だ笑顔が浮かぶ。どうやら、本気でこの匂いを嫌っているというわけではないらしい。むしろ、この行為こそ秋を感じさせるものだと楽しんでさえいる。常に前向きな彼女らしい発想だ。


 僕はといえば、この匂いは好きとまではいかないが、苦手というわけでもない。幼いころから、祖父母の家で銀杏を拾っては炒って食べていたから、その影響だろう。種を取り出す工程を繰り返すうちに慣れてしまったようだ。


 そのことを彼女に話すと、なぜだか口をへの字にし、訝しげな顔で尋ねてきた。


「えー、銀杏って食べられるものなの? ……それって、美味しいの?」


 僕は頷く。回数は少ないが、まずいという感想を持った覚えはない。どちらかと言えば好きな方だ。


 何を思ったか、彼女は立ち止まり、落ちていた銀杏を一つ摘み上げた。徐にそれを鼻に近づけていく。慌てて僕が止めようとすると、いきなりそれをこちらに突き付けてきたので、僕は驚いて顔を退けた。


「あはは、引っかかったー! もう、もっと注意しないとだめだよお?」


 してやったりという顔で笑う彼女の姿に、僕も釣られて笑った。怒りの感情は少しも沸かない。ここで怒るなど、あまりにももったいないことだ。


 今は、この状況が、この彼女が、何よりも楽しい。


「ねえ、私も銀杏を食べてみたいな。今度、作ってみてくれない? もちろん、私も手伝うから!」


 うん、と僕は答えた。彼女は喜ぶ。それを嘘だと、知ってか知らずか。


 僕にはそんなものを作ることは出来ない。ましてや、彼女と一緒になど、あまりにも不可能だ。


 それでも僕は、嘘を君につく。


 そうしないと、君がどこかへ行ってしまう気がするから。


 嘘をつくことに、僕は永久に慣れることはない。




 冬は、終わりを感じさせる。


 一面に広がる銀世界は、どこまでも果てしない。見ているだけで吸い込まれてしまいそうだ。その感覚こそが、終わりを感じる要因なのかもしれない。


 終わりは始まりである、とある人は言う。だが、終わってしまえばそれまでなことも世の中には多々ある。始まりとは切り替えだ。終わりをいつまでも引きづることなく次に向かえと、そういう意味の言葉なのだろう。


 過去は忘れるほうがいい。


 取り戻すことの出来ないことならば、なおさらだ。


「はー、寒いねー。ここまで寒いとさ、なんだか逆に面白くなってくるよね」


 白い息を吐いては、無邪気に笑う彼女。まるで雪と共に空から舞って来たかのように、その心は真っ白で、透明だ。汚れなど一切見えない。


 僕は時々恐れてしまう。


 僕といることで、彼女を汚してしまうことを。


「見てみて! 歩く度に足跡が残っていくよ。おもしろーい!」


 ジャリジャリと音を立てて、彼女はゆっくりと一歩ずつ雪の上を歩いていく。転ばないようにね、と僕が注意すると、大丈夫だよと明るく返す。


 その背中を、僕はぼんやりと見つめていた。


 彼女は立ち止まらない。一歩ずつ、確実に、前へと進んでいく。


 その光景は、彼女が、雪の中へ吸い込まれていってしまうようで、


 僕は思わず、その手を取っていた。


「ちょ、ちょっとー、どうしたの? 大丈夫大丈夫、そんなに心配しなくても転ばないって」


 顔を赤らめて、照れ臭そうにそういう彼女に、僕は念のためだから、と答える。彼女は少しだけ頷いて、再びそのまま歩き始めた。


 雪の降る中、二人並んで、歩いていく。


 もし吸い込まれてしまっても、二人一緒なら怖くないかもしれない、と思った。


 それで、彼女と共に、これからもいることが出来るのなら、僕は――


「ねえ、一つだけ、聞いていい?」


 歩んできた足跡を見ながら、彼女は徐にそう尋ねた。僕が顔を向けても、彼女はこちらを向かない。その横顔は、強く、美しく、そして切ない。


「私……いつまで、生きられるのかな」


 ああ――遂に、来たか。


 僕が最も恐れ、遠ざけ、避けてきたその核心に、彼女は触れてきた。


 いずれそうなることは分かっていた。でも、僕はあえてそれを後回しにして来た。一体それは、誰のためだったのだろう。


 彼女のため?


 それとも――僕のため?


「私、死ぬのは怖くないよ。元から体が弱いのも分かってたし、永くはないってこともちゃんと分かってた。でもね、でも……私は、君と離れちゃうことが、何よりも怖いの」


 彼女は、僕の目を、捉えて離さなかった。その瞳は濡れている。その体は震えている。僕にとって、あまりにも愛しい女性が、悲痛な叫びを投げ掛けている。


 僕は、その肩を抱き締めた。そうすることしか思い付かなかった。それ以外に、彼女の心を、思いを、受け止める方法は見つからなかった。


「知ってるよ。君が、私のために、嘘をついてきてくれたこと。その度に、君が心を痛めていたこと。とっても、感謝してる。でも、もういいよ。私のために、君が傷付かなくても、いいんだよ」


 僕は、また嘘をつこうとしている。それが果たして、正しいことなのかも分からずに。これ以上嘘を重ねることは、彼女を傷付けることになってしまう。彼女は、僕の正直な答えを、待っている。


「最後に、聞かせてほしいな。君は私のこと……好き、かな?」


 それでも。


 それでも、僕は――嘘をつくことしか、出来ない。


 僕は卑怯だ。嘘をつくことで救われるのは、きっと僕の方だ。彼女は何も知らされず、運命に抗うことも出来ず、時の流れに身を任せて、最後には消えてしまう。そんな人生が幸せだと言えるのか。


 知らないほうがいいこともある。そんなの、嘘つきのための言い訳だ。知らなければ後悔もない。そんなの、嘘つきの勝手な言い分だ。嘘つきはいつだって、自分のことしか考えていない。傷つくことを恐れ、傷付けることを恐れてる。


 僕は、本当に。


 君を好きになっても、いいのだろうか。


「私は好きだよ。ずっとずっと、大好きだよ。私にとって、君はずっと――大切な友達だよ」


 ――ああ、そうだね。僕たちは、今までも、これからも、ずっと友達だ。


 そう。


 これが、あるべき姿。


 決して超えてはいけない、一定の境界。


 生まれた時から宿命付けられた、抗うことの出来ない運命。


 彼女はいつでも正しい。そんな真っすぐな正しさに、僕は昔から惹かれていたんだ。


 彼女は微笑む。僕も、釣られて微笑む。この時間、この空間、この瞬間を、僕は永遠に感じる。永遠を感じさせる彼女との時間を、僕らは幸福だと感じている。


 僕がこれからやるべきことは、決まっている。


 最後のその瞬間まで、彼女と共にいることだ。


 彼女の、大切な友達として。


 彼女は僕の手をぎゅっと握って、照れ臭そうに、真っ直ぐに、僕にその言葉を届けてくれた。


「ありがとう。大好きだよ――美咲ちゃん」




 親愛なる君へ。


 僕も大好きだよ。


 願わくば、来世でも君と、いられますように。


 その時はどうか、今と違う形で、君を愛せますように――

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