鳥羽に落ちる

梅花藻

狐憑き

記憶に残る生徒というのは案外、普段目立たない生徒である。衣川という女生徒もその類であった。


修学旅行を前にした十七歳に大人しく授業を受けろと言うのが無理な相談であって、俺が勤める高校では事前学習と銘打ち、二年生の十月、京都に関する授業を行う慣例があった。そして俺はあの年まで、毎年芥川の『袈裟と盛遠』を取り上げていた。


一体何が俺に働きかけたのかは分からない。大学生だった頃、初めてあれを読んだ俺は全身が粟立つような寒気に襲われ、呼吸を浅くしながらもしかし、本を閉じることが出来なかった。その穏やかならざる心中の作用を訝しみ、卒業研究の題材にまで取り上げた。それでも何が原因なのかは分からなかった。天魔波旬と云うべき何かが俺の意志を決定していた。


平安末期、北面武士であった盛遠は皇女に仕える容色類い稀なる女性、袈裟御前に恋心を抱く。だが願い虚しく袈裟は彼の同僚たる渡に嫁いでしまい、盛遠は横恋慕のまま煩悶の時を過ごす。三年後、偶然にも袈裟に近づく機会を得た盛遠は手練手管を弄してとうとう袈裟と関係する。しかしそこには最早愛ばかりがあるのではなかった。本当には夫を愛していないにも拘らず盛遠への反抗心から強情に振る舞う袈裟、容姿の衰えてきた彼女への愛は憎しみと渾然一体となり盛遠を狂わせる。そして盛遠は袈裟に精神的凌辱を加えるため、渡を殺そうと提案するが、一瞬のちに自分でも何故言い出したのか分からぬその誓言を取り消したいと思う。しかし二度と取り消すことは叶わない―。


授業で扱うにしては情感を煽り過ぎる物語であったが、生徒たちは熱心に聞いていた。俺の語り口もいつになく激しいものとなり、板書も乱れていく。


あの衣川が、普段外ばかりを眺める黒目勝な瞳で俺を真っ直ぐに見つめていたのがやけに印象に残っている。刺す様な視線だと思った。俺は急いで黒板に向き直った。打ち付けた白墨が音を立てて折れた。


盛遠と関係した袈裟は己の醜さ、浅ましさを知る。そしてその醜いものがずっと昔から棲み付いていたことを思い出す。袈裟は夫の殺害を持ちかけられたその時にはもう、死ぬ覚悟を決めていた。そして誓言が破られた場合には自分が盛遠を殺す覚悟も。不思議と生生した気持であった。決行の夜、袈裟は夫に向けられる筈の刃を自らの首に受けて死んだ。愛と憎しみの間に袈裟の首が落ちた。


内容を纏めた俺は、これは恐らく鳥羽の辺りで起こった話で、浄禅寺という寺には袈裟御前を顕彰する碑石が立っている。と言って授業を終えた。修学旅行の二日目には伏見稲荷大社を目指して鳥羽へ行く手筈となっていた。



伏見稲荷大社の境内で自由行動となった生徒たちは、落葉に依って紅く沈着した階段を蹴り次々と朱色の鳥居を潜っていく。延々と続く鳥居をこの数年で幾つ潜ったであろうか。俺は楼門を抜けてゆっくりと鳥居に迫った。


衣川は一人、千本鳥居の前に立っていた。立ち尽くしていた、と言うべきか。衣川自身がなぜそのようにしているのか分かっていないように見えた。瑞々しい瞳を鳥居の上に多からず繁る紅葉に向けていた。俺は衣川に向かって、皆もう行ったのか、というような声を掛けたはずである。


返事はなく、ただ鳥居に正対するだけである。俺は微かに苛立った。衣川は普段から人を食ったような態度を取る、教師からの評価がよくない生徒であった。言葉少なで本心は決して語らない。その癖、心の底で万人を眼下に睨め付けているような節が随所に見受けられた。しかし生意気盛りの高校生にはそう珍しいことでもない。


俺は衣川の横を通り、最初の鳥居を潜る。何度来ても慣れない。視界が朱に満ち満ちていき、空恐ろしいような心持がした。


その時、俺の背後で声が発せられた。普段の衣川からは想像の付かない明瞭で清澄な声であった。その声ははっきりと俺を呼びかけていて、聞き覚えがあるような気がした。彼女は俺が振り返らぬうちに、


やはりあなたは私を恐れていた。


と言った。俺の脚は凍りつき動けなくなった。


彼女は続けざまにあの忌むべき今様を歌う。


げに人間の心こそ、無明の闇も異らね、

ただ煩悩の火と燃えて、消ゆるばかりぞ命なる。


俺はこの今様を知っていた。盛遠が自らの心中を計りかね、自らを衝き動かすものの正体を暴こうとしていた時にふと耳にした歌である。俺はこれを幾度も幾度も繰り返し読んだが、聴くのは初めてであった。俺は縛られ、耳を塞ぐことも出来ない哀れなる彫像と化してそれを聴いた。


彼女の声が止んでも、俺は暫く間抜けな姿のまま鳥居の下に立ち竦むばかりであった。今様を吟じてから間もなく、後ろから落葉を踏みしめる音が聞こえた。今度は俺が殺される番なのだと思った。しかしどうしても足が動かない。別の意志が拒んでいるような気がした。とうとう背後に迫った足音の最後通牒に俺は息を止めて応じた。


刺し向けられたのは刃ではなく言葉であった。邪魔です先生、という衣川本人の、ぼそりとした声が耳に届いた途端俺は膝から崩れ落ちた。そんな俺を気味悪そうに横目で見遣り、衣川は朱色のトンネルを軽やかに登っていく。俺が漸く声を取り戻し、呼びかけたのは衣川が二十本以上の鳥居を潜った後だった。


体は正面に据えたまま、億劫がって首だけをこちらに振り向ける。その僅か一秒にも満たない刹那が俺の目によって何倍の長さにも引き伸ばされていく。俺は殆ど永遠に近い苦しみを味わったのである。


俺は直覚した。かつてあの美しい首を、一度愛したあの首を刎ねたことがあると。八百年前、この鳥羽と言う地であの女を殺したのは紛れもなく俺であった。


しかし今度は落ちることなく彼女の首は寸でのところで繋がった。そして呼びかけに応えることなく再び前を向いて鳥居を潜っていく。階段の端に掃き寄せられた紅葉に朱色の鳥居が影を落としている。踏みしめられたどす黒い赤に、見覚えがあるような気がした。

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