第四章
レクタードは、馬の手綱を兵士に手渡した。敬礼を受け、簡単に返礼してジェイストークを見やる。ジェイストークは兵と何か笑いをかわしてから、レクタードの元へと戻ってきた。
「行きましょう」
青い月の光に照らされた大通りを指し示したジェイストークに、レクタードはうなずいた。ドナの村にはあまり大きな建物はないが、その中でも一番立派な屋敷を宿泊に当ててあるらしく、ジェイストークはその方向にむかっている。
「無理にでもフォルスを連れてきたかったな」
レクタードは浮かない表情でつぶやいた。ジェイストークは一歩待ってレクタードと肩を並べる。
「その呼び方は」
「あ、つい。スフィリアとはその名前で話していたからな」
そう言うと、レクタードは肩をすくめた。
「無理にでも連れてきたいというのは分からないではないですが。だいたいは予定通りですので、ご心配はいりませんよ」
ジェイストークの言葉に、レクタードは眉を寄せてため息をつく。
「そうなんだけど、気が急いてしょうがない。スフィリアのことも、早く父に伝えたくて」
「反対される覚悟が、できていらっしゃるんですね」
ジェイストークが笑顔で返した言葉に、レクタードは苦笑した。
「ヤなこと言うなぁ。反対されるのが分かっていても怖いよ。なにを言っても許してくれそうになくて。でも、黙っていては、なにも解決しない」
難しい顔でうつむいたレクタードを、ジェイストークは不謹慎だと思いながらも微笑ましく思っていた。レクタードは生まれてこのかた皇帝である父に不平不満を漏らさず生きてきた。それだけ皇帝を尊敬しているのか、自分を殺して生きてきたのかは分からない。どちらにしても、皇帝にとっての理想からはみ出すことは、レクタードを成長させるに違いないと思う。
「反戦の意志を持つ騎士の名前も聞けなかったから、単独で行動を起こさなきゃならないってのもキツイな。できるのは表明くらいだろ」
「なんでも最初はそんなモノですよ。でも、警備が整うまでは待ってくださいね」
ジェイストークの返事に、レクタードは再びため息をついた。ジェイストークはレクタードに笑みを向ける。
「まぁ、こちらが名前を聞けなかった分、レイクス様を引っ張ってきやすいですし。そんなに気落ちすることはありません。とりあえずタスリルには、接触があれば連絡をするように言ってあります。ウィンにも話を通しました」
「ウィン?」
レクタードが向けた水色の瞳に、ジェイストークはハイとうなずく。
「女神が降臨したと勘違いして聖歌ソリストを襲い、レイクス様につかまった諜報員です」
「使えるのか?」
「さぁ? どうでしょうね。もし何かあったら困ると思ってフォルスがレイクス様だと伝えただけです」
その返事に、レクタードは苦笑して肩をすくめた。
「ジェイもフォルスを気に入っているみたいだな」
「レイクス様、です」
はぐらかした返事のあと、向かっていた建物の扉が開き、中からアルトスが顔を見せた。ジェイストークは軽く手を挙げてアルトスに挨拶を送りながら、レクタードに言葉を向ける。
「ウィンも私と同じ隊に所属していたらしいですが、その隊のゼインという騎士は、レイクス様のことを色々と扱き下ろしていたみたいですよ」
「そりゃ、そういう奴もいるだろうさ。でもそれ、興味あるな」
アルトスとドアの向こう側にいる騎士三人は、ひざまずいて頭を下げている。レクタードは歩調を変えずにアルトスのところまで行った。
「戻ったよ。なんてコトより、重大な知らせがあるんだ。レイクス様が見つかった」
アルトスはハイとだけ答え、ただ頭を下げたままでいる。レクタードは、なぜアルトスが驚かないのだろうかと、訝しげにジェイストークの顔を見上げた。
「フォルスという騎士がレイクス様だろうことは、既に伝えてあります。が、もう一つ」
ジェイストークが向けた視線を受けて、レクタードはうなずいた。
「エレン様は、この村、ドナに葬られているようです」
「承知致しました。すぐに掛からせていただきます」
アルトスはレクタードの声に答えると、スッと立ち上がった。レクタードは驚いた顔をアルトスに向ける。
「すぐって、こんな夜に墓場で仕事?」
「今晩は充分に月明かりがあります。レクタード様はお休みになってください」
「明日になってから伝えた方がよかった?」
レクタードが向けた微笑みを、アルトスはいいえと否定し、屋敷の中を示してレクタードを通した。待っていた騎士の一人が、レクタードを案内していく。アルトスは、残った二人の騎士を呼び寄せた。
「陛下に使いを出せ。それと準備だ。私は先に行っている」
アルトスの命令に返礼して、一人の騎士は屋敷の中に姿を消し、もう一人は外に駆けだしていった。
その様子を見ていたジェイストークは、あきれたように苦笑した。月明かりなど無くても、アルトスならすぐに行動を起こすだろうと思う。
「どこにあるのか分かっているのか?」
「調査済みだ。墓地の北側の隅にある。掘り返してから違ったでは夢見が悪いからな。待っていた」
「用意のいいことで。付き合うよ」
ジェイストークは、声を潜めて笑いながら、墓地へと歩き出したアルトスに続いた。
「レイクス様に、お会いしてきたよ。エッグも持っていらっしゃるのだろう、レクタード様のエッグを見て動揺しておられた」
アルトスの脳裏に、できあがったばかりのサーペントエッグを手にし、苦渋に満ちた表情のエレンが浮かんだ。
(この子をお願いね)
騎士になるための教育の一環として、エレンに仕えていた時のことだ。エレンはアルトスに向かって何度もその言葉を口にした。王位継承権二位であるレクタードの母リオーネが悔しがるのなら分かるが、エレンが苦悩するのはどうしてなのか、まだ十歳だったアルトスには分からなかった。いや、実際なにが起こっていたのかを知った今でも、すべてを理解できていないのだとアルトスは思う。
「立派に成長されていた。メディアナでは二位の騎士で現在は女神の護衛に就いておられる。その点は育ての親であるルーフィス殿に感謝だな」
ジェイストークの感謝という言葉に、アルトスは不機嫌に目を細めた。剣の腕だけは自衛のために無いよりはマシというくらいで、メディアナで騎士だろうとライザナルカンドではなんの意味も持たないのだと思う。だがそのたびに、濃紺の色を持つ身命の騎士という名のカクテルが頭をかすめた。人を斬らない戦のやり方や、メディアナに迷い込んだ子供をルジェナに送り届けたりなどという行動をし、国ではなく人のために戦う騎士というイメージから、フォルスを指して作られたカクテルだと聞く。しかも、ライザナルカンドのルジェナ近辺が発祥で、庶民の間で密かに流行っているらしい。意味を持たないはずのライザナルカンドでさえ、フォルスは騎士として存在しているのだ。
ジェイストークは、冷めた目をしたアルトスをうかがいながら言葉をつなげる。
「陛下には、レイクス様が納得できるだけの交換条件を出していただこうと思っているんだ」
「交換条件? メディアナにそんなことをしても通じないだろう」
アルトスが向けてくる厳しい視線に、ジェイストークはやっと口を開いたかと笑顔を返した。
「メディアナにとは言ってない。レイクス様本人にだ。陛下の思いを、まっすぐ伝えることができるだろう? そういったモノを気安く断れる方ではないから、結局は一番手っ取り早い」
「だといいが。女神がいる間なら、一年停戦したところで結果に変わりはないだろうしな」
変わらないなら交換条件の意味がないと思いながら、ジェイストークは苦笑した。だが、皇帝の怒りさえも自分が原因の一端だと受け入れてしまうくらいだ、停戦なら充分に交換条件となるだろう。間違いなく衝突が無くなる期間ができることを、身命の騎士などと呼ばれる人間が望まないはずはない。弱みにつけ込むことになるのかもしれないが、それでも自らの意思でライザナルカンドへ来てもらえるなら、いいのだとも思う。
「歳、食ったかな」
そのつぶやきに、ジェイストークが持つフォルスへの執着を見た気がして、アルトスはただ微苦笑した。
家々の間隔が、少しずつ広くなってくる。そして、家が途切れたその向こうに墓地が広がった。小さな村のわりに多くの墓石があるこの場所が、昔ここであった悲しい出来事を暗示している。いくら月明かりがあっても、気持ちのいい所ではない。その中のいくらか蛇行して延びている道を、アルトスはためらうことなく奥へ進んだ。
やがて一番奥の低い木の側、他の墓石から少し離れたところに小さめの墓碑が見え、アルトスはその前まで行って足を止めた。青い月明かりが落とす影で、石に刻まれた名前がハッキリと見て取れる。
「アルトス? コレが……?」
「同じ名は他にない」
バタバタと足音が近づき、騎士一人と兵士が六人、土を掘る道具と人数分のランプを手に走り寄ってきた。幾分明るくなった中、それぞれアルトスに敬礼を向けると、サッサと土を掘り返しにかかる。
ジェイストークは、低い木の陰に倒れた墓石に眉を寄せた。ドナのことを聞き、一瞬眉をひそめたフォルスの顔が思い浮かんでくる。
ただでさえ母を亡くすことは辛く大きな出来事だ。しかも、目の前で斬り捨てられ、いかにもよそ者扱いされた場所に掘られた墓穴を見て、五歳だったフォルスはどう思っただろう。コレがフォルスの傷にならないわけはない。確かに、そのせいで剣を手にしたのかもしれない。しかし、それで身命の騎士などと呼ばれる人間に成長するのだ。自分ならその怒りから、まず復讐を考えるだろうと思う。前線の騎士や兵士に剣を習い、皇帝ディエントの目にとまり、城都に移って騎学に通い。そうした過程の中で何かがあったのか、それともドナの出来事でさえねじ曲げられなかったほど、最初から強くあったのか。フォルスが持ったのは、怒りよりも、それを越えた悲しみだったのかもしれない。もしかしたらそれが神の守護者と呼ばれる種族たる所以なのだろうか。
墓を掘っていた数人が、ぼそぼそと声を発した。
「どうした?」
アルトスが、ざわついた声に問いを向ける。一人の騎士が顔を上げた。
「出ました」
その声に二人が穴をのぞくと、土の間にいくらかの平らな面が見えた。
「傷を付けないよう、気を付けろ」
アルトスの命令に、おのおのが道具を穴の外に置き、手で土をどけていく。アルトスの細めた瞳に怒りが見え、ジェイストークはそれを見なかったかのように視線をそらし、アルトスの心情に思考を巡らせた。
エレンがレイクスと一緒にさらわれたのは、アルトスがエレンに仕えていた時のことだ。ジェイストークも既に城で暮らしていたので、その事件のことはよく覚えている。十歳になったばかりの子供だったアルトスが、大人数人の力に敵うわけがない。あっけなく殴り倒され、二人は連れ出されてしまった。騎士になったら守るのだと心に決めていた対象を、そして、まだ小さなアルトスに母のように接していた優しい人を奪われてしまったのだ。アルトスは、二人を奪った者達へ、そして自分への怒りでここまでなったのだと言っても間違いではないだろう。
悲しみをもって受容したフォルスと、怒りをもって抗拒したアルトス。対極の反応を見せた二人の騎士が起こす摩擦は、どこに影響を及ぼし、何を変えるだろう。同じエレンを奪われるという出来事が、フォルスとアルトスを育てたのだとしたら、互いに受け入れることも可能かもしれない。
ジェイストークは冷たい棺の木肌を見ながら、それがアルトスに言われる自分自身の甘さであって欲しくないと願っていた。
普段は食卓に使う大きな机に、何冊かの年代物の本を積み重ね、その横でグレイは厚い本を開いていた。同じ机の左斜め向かいで、リンデアはサーペントエッグを持った両手をテーブルに乗せ、うつむくようにその手を見ている。そのエッグを包んでいる白く細い指の間から入り込んだ光が、壁に跳ね返され揺れ動く。表面の細かい細工がよく磨かれているからだろう。
扉のところから、中位でヴァレス周辺警備の騎士が、難しげな顔をしてリンデアに三、四歩近寄った。ゼインだ。ゼインは城都で神殿警備に就いていたので、リンデアとはいくらか会話を交わした程度の馴染みがある。ゼインは、リンデアの手元をのぞき込んで笑顔を作った。
「それ、綺麗だね」
ゼインの声にリンデアはハッとしたように振り返り、ゼインの視線の先にあるエッグを手に包み込んで苦笑した。ソファーに寝ていたティターナが、起きあがってゼインの様子をうかがう。ゼインはそれを気にしながらも口を開いた。
「それって、何? 鎧に付ける金具がついているみたいだけど」
「え? ええ……」
リンデアはもう一度苦笑すると、机に身体を戻した。ゼインはリンデアの肩越しに、その手元を気にしている。
「なにかの宝飾品? いかにもフォルスが嫌いそうな代物だね」
ゼインの言葉に、リンデアは表情をこわばらせた。リンデアはエッグを見せて貰っただけのつもりでいたが、返そうとしてもフォルスが受け取ろうとしないのだ。ゼインはリンデアの横に回って、その浮かない顔をのぞき込む。
「あれ? もしかしてプレゼントしようとでも思ってた? リンデアさんからのプレゼントなら受け取るだろうけど、捨てられちまうかもしれないよ?」
「それは俺のだ」
その声にゼインが振り向いた。神殿へと続く廊下から、フォルスが部屋に入ってくる。フォルスの顔を見ると、ティターナはソファーにコロンと寝転がり、リンデアはホッとしたように小さなため息をついた。
「あ、早かったな。神殿の中にいる時は、ベッタリ一緒にいなくたっていいんだぞ?」
ゼインは張り付いたような笑顔で、後退るように扉へと戻っていく。チラッと視線を投げただけで、ほとんど無視して前を通ったフォルスに、ゼインは苦笑を向けた。
「ヤな顔だな。嫉妬か?」
「必要ないだろ」
フォルスは振り返り、うつうつとした声でゼインに文句を言った。ゼインはフォルスに苦笑を向けながら見張りの体制に戻り、明らかにリンデアを気にして口を開く。
「フォルスって普段はてんでガキだよな」
「ゼインも俺より四つも上だとは思えないよな」
フォルスは速攻で言い返すと、ムッとした顔のゼインにクルッと背を向け、リンデアの横に歩を進めた。不安げに見上げてくるリンデアと視線を合わせ、フォルスは照れたように苦笑する。その笑みを見て、リンデアはサーペントエッグをフォルスに差し出した。フォルスは、持っていて、と、リンデアの手を押し返す。何度か繰り返されたその行動に、リンデアは眉を寄せた。
「でも、もしも何かあった時、……、目印になるんでしょう?」
身分証明などと言ってしまったら、ゼインがどう思うか分からない。そう思ってリンデアは言葉を変えた。フォルスは、どうだろうと肩をすくめてみせる。
「そうかもしれないけど、結局半分は敵かもしれないんだし」
このエッグを持っていれば、フォルスが皇帝フルフォードの息子であるレイクスなのだと、ライザナルカンドの人間なら分かるのかもしれない。だが、その相手がレイクスにとっての敵か味方かまでは分からないのだ。どちらでも同じことなら、象徴でしかないモノを持っていたくはないとフォルスは思っていた。
食い入るように本を見ていたグレイが、フォルスに向かって手招きをする。
「ちょっと、こっち」
グレイは自分の右前の椅子を示し、読んでいた本を押しやった。フォルスは、リンデアとの話を中断し、その席、リンデアの左前まで行くと、椅子の後ろに立ったままでグレイが指し示した部分に目を落とす。そこには地下の書庫で見せられた詩の文字が並んでいた。
「これ、あの時の」
「調べてみようとは思っているけど、とりあえず覚えろ。わざわざシャイア様が出してきたんだ、やっぱり意味があるんだと思う」
グレイは、立ったまま眉を寄せて文面に目を落としているフォルスの顔を見上げた。
「面倒とか言うなよ。もし何かあったら、?」
グレイの真剣な瞳と視線を合わせ、フォルスは目の前の本をバタッと閉じた。
「お、おいっ、フォルス?!」
しおりとして本に挟んであった白い羽根ペンを手にし、グレイはあわてて元のページを探し始める。フォルスは心配げに見ていたリンデアに苦笑を向けて口を開いた。
「火に地の報謝落つ、風に地の命届かず、地の青き剣水に落つ、水に火の粉飛び、火に風の影落つ、風の意志剣形成し、青き光放たん、その意志を以て、風の影裂かん」
グレイは、ページをめくる手を止めて唖然としている。リンデアはそんなグレイを見てから、不思議そうにフォルスに視線を戻した。
「覚えてるの?」
肩をすくめてうなずいたフォルスに、グレイはホッとため息をついた。
「いつの間に」
「いつって、ずいぶん昔に聞いた気がするんだ」
フォルスの言葉に、グレイは難しい顔をして再びページをめくり始める。
「ずいぶん昔? エレンさんからか?」
「母はいたけど、母じゃないと思う。男の声だったような……。でも、変だよな」
考え込んでいるフォルスを見上げ、グレイは苦笑した。
「そりゃ変だよフォルス。こんな詩を知っている男がメディアナのどこにいたってんだ? しかも、5歳より前に聞いた詩を、きちんと覚えているなんて」
「でも、確かに聞いたから覚えて……。いや、それより、続きが気になって」
詩のページに行き当たったグレイは、しおりにしていた羽根ペンで、詩の後の文を追った。
「続きなんてこと、なにも書いてないけどなぁ。ほんとにあるのか? 何か古い本と混同してるとか」
「古い本なんて、……、創世の書くらいしか読んだ覚えがないんだけど」
フォルスの言葉に、グレイは苦笑を浮かべる。
「教義か。混同しようがないだろ」
「でも、何か引っかかるんだ」
フォルスにいいかと声をかけ、グレイは口を開いた。
「ディーヴァに大いなる神ありき。神、世を7つの分身に与えし。裾の大地、海洋を有命の地とし5人に与え、異空、落命の地を創世し2人に授けん。……って、出だしの部分とは限らないか。いくらなんでも、そのままじゃないだろうしな」
暗唱をやめて頭をかいたグレイの言葉に、フォルスは左手で口を覆って考え込む。
「けど、完璧に別物でもない気が……」
「なぁ、そんな小さな頃に覚えてしまうほど教え込まれたってことは、それだけ大事だと思ってた奴が、女神以外にも居たってことだろ?」
グレイは真剣な視線をフォルスに向けた。その視線を受け止めて、フォルスはますます眉を寄せ、頭を抱え込む。
「そうなのかもしれない。あれは、あの声……。いつだ? どこでだったろう?」
「ルーフィス様は? もしかしたら覚えていらっしゃらないかしら」
リンデアは、本の詩に目を落としたまま考え込んでしまったフォルスの腕にそっと手を添えた。
「お茶ですよー」
部屋に響く声に驚き、リンデアは手を引っ込めフォルスは顔を上げた。手ぶらのアリシアが、お茶を乗せたトレイを持ったユリアの前に立ち、神殿に続く廊下から入ってくる。
「先導しているだけで、でかい態度だな」
ため息をつくようにつぶやいたフォルスのところへ行き、アリシアは顔をつきあわせた。
「何ですって? 態度なら私よりあんたの方がでかいでしょ。そうよね? そこの騎士さんっ」
話を振られ、思わずハイと答えて口を押さえたゼインをチラッと見やり、フォルスはアリシアに視線を戻す。
「立場が違うだろうが。ゼインは一応直属の部下なんだから」
「だいたいその歳で二位だなんて生意気よ」
「そういう文句なら陛下に言えよ」
二人の言い合いを尻目に、ユリアはトレイをテーブルに置いてお茶を配り始め、リンデアはそれに手を貸した。
ノックの音が響き、ゼインがハイと返事をして扉を薄く開ける。それから改めて扉を大きく開き、敬礼をした。
「ルーフィス殿です」
その名前に、グレイ、リンデアも扉に目をやった。フォルスは扉まで行き敬礼で迎え入れる。ルーフィスは入室すると、簡単に返礼をしてフォルスと向き合った。
「ドナにライザナルカンドの軍が集結している」
「集結? ドナに?」
フォルスは状況を飲み込むために言葉を繰り返した。ルーフィスのフォルスを見る目が細く険しくなる。
「女神が降臨していることを知っていて、それでもなお、この行動だ。一時しのぎと分かっていてのことだろう。レクタードとジェイストークだったか? 彼らに何を言った?」
その言葉にハッとしてルーフィスから視線をそらし、フォルスは二人と交わした会話を振り返った。ドナについて話したことは限られている。ドナで起こった毒殺事件のこと、そして母の。思わず息をのみ、それからフォルスは口を開いた。
「母の墓が、あると……」
「それだな」
ルーフィスは軽くため息をつく。
「集結しているわりには士気が少しも感じられないとの報告もうなずける。フルフォードが来るのかもしれないな。埋葬のし直しと言ったところか」
フォルスは愕然としてルーフィスの目に釘付けになった。なにか言わなくてはと思うものの、思考が言葉にならない。ただ棺を埋めた時の光景が、脳裏に広がる。
「村の人間もいることだし、遅かれ早かれ知られることだ」
ルーフィスはつぶやくように言うと、フォルスの横を通ってリンデアの方に向かった。
「シャイア様はドナのことについて何かおっしゃっているかい?」
立ち上がって迎えたリンデアは、首を横に振る。
「いいえ、何も」
「それはよかった。こんな状況で攻防戦は避けたいからね」
ルーフィスはリンデアに微笑んで見せ、うつむいて渋面のフォルスに向き直った。フォルスは下に向けていた頭をさらに低くする。
「すみません」
「謝ることなど何もない。ライザナルカンド側もシャイア様が降臨されていることを知っているのだ。いくら兵を集めても攻めてきはしないだろう」
フォルスは顔を上げてルーフィスと視線を合わせた。
「それは、そう思います。でも、母の墓が……」
「墓、か」
ルーフィスもその風景を思い浮かべたのか、視線が一時空をさまよう。
「知られるより先にドナを取り返していれば無事だったかとも思うが、どちらにしても要求はされる。それだけの地位にいる人間だったのだから仕方がない」
それだけの地位、その一言が、フォルスの中にこだましていた。それは間違いなく自分の身にも言えることだ。ルーフィスは言葉を続ける。
「メディアナのやり方で埋葬されたままだと納得できないのだろうな。私たちがライザナルカンドのやり方を嫌うのと同じことだ。もしも掘り返されるとしたら不本意だが、それだけ丁重に埋葬するだろう。そう気にすることではない」
ルーフィスは、口をつぐんだフォルスの肩をポンポンと二度叩いた。ハイと答えながら、フォルスはルーフィスの言葉で受けたショックを隠そうと努めていた。
やり方を嫌うのは埋葬のことだけではない。わずかに伝わってくる軍や国家の体制など、何に対しても言えることで、フォルス自身もそうなのだ。このままライザナルカンドへ行ったとしても反発しか感じられない中で、いったい何ができるというのだろう。何から何まで反抗していては、ただのわがままにしかならない。これが杞憂であればなんの問題もないが、追従していけないことの方が多いだろうことは簡単に予測がつく。フォルスは、考えれば考えるだけ問題が増え、気持ちが沈む気がした。
「すみません、もういいですか?」
アリシアが、フォルスと話す時より一オクターブほど高い声で、ルーフィスに伺いを立てる。ルーフィスがうなずくが早いか、アリシアはフォルスの腕を取った。
「あ? え?」
「いいから来て。ちょっと話があるの。なかなか時間が合わないから」
アリシアは声をすっかり元のトーンに戻し、フォルスの腕を引いて神殿に続く廊下へと向かう。
「あ、おい、俺はまだグレイともリンデアとも話が半端なんだって」
「そうなの? その方が都合がいいわ」
「はぁ? なんでだよ」
アリシアは、フォルスの後ろに回り込む。
「だってあんた、一つのことしか考えられないでしょ」
アリシアは呆気にとられているフォルスの背中を押して廊下に押し込んだ。
「そんなにかからないから」
アリシアは部屋にそれだけの言葉を残すと、自分も廊下に入った。そこで不機嫌な顔のフォルスと鉢合わせになる。
「なんだよ。失礼な奴だな」
「お願いだから黙って一緒に神殿まで行って」
「お願い? 薄気味悪いな」
含み笑いをしたフォルスに、アリシアは真剣な瞳を向ける。
「お願い」
いつもとはまるで違うアリシアの態度に、フォルスはあっけにとられた。返す言葉をなくしてアリシアに背中を向け、神殿へと歩き出す。その後ろを、アリシアが何も言わずに付いてくるのを不気味に思いながらも、フォルスは神殿に出、祭壇の真ん前まで行った。そこでため息をついて振り返り、すぐ前にいるアリシアと向き合う。
「で? なんだよ」
アリシアはいくらかうつむき加減のまま大きめな呼吸を繰り返し、何度か目の息を吐き出した時、意を決したように顔を上げた。
「ごめんね」
わけが分からずフォルスが眉を寄せると、アリシアはまたうつむいてしまう。
「フォルスのドナやここでのこと、ジェイに話したのは私なの。ごめんなさい」
アリシアが下げた頭を見下ろし、フォルスは気が抜けたようにため息をついた。
「何かと思ったら。なんだ、そんなことか」
アリシアは頭を上げてフォルスと視線を合わせる。
「でも、私が言わなければ、」
「他の誰かに聞いただろ」
フォルスは割り込むように言葉をかぶせると、肩をすくめてアリシアに苦笑を向けた。
「実際、一人から聞き出したような口ぶりじゃなかったしな。それに俺だって母の墓のこと言っちまったんだ、もし責めたくったって責められねぇだろ」
アリシアは、それに気付いてアッと声に出し、慌てて口を押さえる。
「そんなことより、ジェイって、ジェイストークのことか?」
フォルスが口にした名前にビクッと肩を震わせて、アリシアは視線をそらした。フォルスは胸騒ぎをそのまま口にする。
「まさか、何かされたのか?」
「違、何もないわ、私が勝手に信じただけ、それだけだから」
目を合わせずに答えたアリシアを見て、フォルスは顔をゆがめる。
「ごめん」
「ちょっと、やだ、何言ってんのよ、ホントに何もなかったわよ。もし何かあったって、それこそフォルスのせいなんかじゃないわ、冗談はやめて」
食ってかかるアリシアの態度に、フォルスはやはり何かあったのだろうと思いつつ両手の平を向け、分かったと繰り返した。アリシアはフゥッと息をつくと、フォルスの目をしっかり見据える。
「行く、つもりなの?」
「ちょっと前まで迷っていたんだけど。今は行かなきゃならないと思ってる」
自分の気持ちを確かめたかのようなフォルスの言い様に、アリシアは視線を落とした。フォルスは側にあるシャイア神の像を見上げる。
「母の墓一つのことでドナに軍を集めてしまう人から逃げるなんて容易じゃないよな。メディアナにしても迷惑どころの話じゃない。フルフォードが来るかもしれないってことは、交換条件の提示も近いだろうし、今はそいつをサッサと聞きたいくらいだ」
「行かないで」
意外な反応に耳を疑いフォルスが目を向けると、アリシアは変わらずに、うつむいたままそこにいた。
「それが駄目なら、帰ってくるって約束して」
その言葉を聞き、フォルスはライザナルカンドに行こうという決心をアリシアに話してしまったことを後悔した。フォルス自身、母の墓の場所を明かしてしまった後悔を持つのと同じように、アリシアがジェイストークに話してしまったことへの罪悪感が抜けていないのだと思う。余分に辛い思いをさせてしまっているのだろうと眉を寄せたフォルスの両腕を、アリシアが掴んだ。
「お願い、約束すれば、あんたなら必ず」
ドンと神殿入り口の扉が鳴り、それから大きく開かれた。バックスだ。
「バックス、どうした?」
フォルスはキョトンとした顔でバックスにたずねる。
「いや、何かゴソゴソ聞こえるって言われてな」
「話をしてただけだよ」
フォルスはバックスに向けてそう言うと、アリシアと再び向き合う。
「だから、今回のことはアリシアのせいじゃないって言ってるだろ。そんなに罪悪感を持たれても困るんだ。気にするなよ」
そう言って苦笑したフォルスを、アリシアは何も言えず、ただ呆気にとられて見ていた。
「じゃあ俺、戻るから」
フォルスはアリシアとバックスに手を振って、元来た廊下へと入っていった。
フォルスの姿が見えなくなってから、バックスは神殿に入って扉を閉めた。アリシアは緊張が解けたようにため息をつく。
「聞いてたんでしょ。じゃなきゃ、音を立てた後に扉を開くなんてことしないわよね」
「ご明察。悪い、邪魔した」
言い捨てたようなぶっきらぼうな言葉に、アリシアは含み笑いをして首を横に振る。
「ありがとう、助かったわ」
「助かった?」
「ええ。きっともの凄い誤解してるでしょうね」
アリシアはバックスに苦笑を向けた。バックスは眉を寄せてその苦笑に視線を向ける。
「告白して逃げられたってのは誤解か? と言っても、フォルスは全然分かってないみたいだったが」
訝しげなバックスの顔を見て、アリシアは吹き出すように笑った。
「そう、それ。ムキになっちゃったわ。私が冷静でなくちゃ、あんなボケに微妙な話を理解させられるわけがないのに」
笑ってはいるが寂しげな瞳をしたアリシアを、バックスは横目で見ている。
「フォルスが騎士に成り立ての頃にね、私も職場で軽傷の騎士にからまれているのを助けられたことがあるのよ。お礼、身体で払おうと思って」
ブッとバックスは思い切り吹き出した。思わず目を丸くしてアリシアの顔をしみじみ見つめる。
「やぁね、したのはキスだけよ」
「それを先に言え……」
バックスは、言いよどんで片手で口を覆った。
「だから思ったって言ったでしょ。キスしたら物凄い驚かれちゃって。助けてくれたのは守ろうとかそんなんじゃなくて、単純に正義感だったんだって気付いたわ。でも、それ以来どんな兵士でもフォルスの姉だって言えば……」
アリシアは大きくため息をつく。
「私、ずっと甘えていたのよ。重荷だったと思うわ。謝りたくて」
バックスはホッとしたように肩を落とし、アリシアに微笑んだ。
「そんなこと気にする必要はないだろ。ルーフィス様もそうだが、フォルスの名前も半分呪文みたいなモノだ。彼らが笑っているうちは大丈夫だって軍でも言うからな。君一人くらいフォルスはへとも思ってないだろ」
言いながらバックスは吹き出しそうになるのを堪えている。それに気付いたアリシアは、眉を寄せて目を細めた。
「んもう、ちょっとっ。なによ」
「いや、そんなことよりキスの方がよっぽど」
含み笑いのバックスに、アリシアの声が大きくなる。
「笑わないでよ。その時は私だって一応真剣だったんだから」
「悪い、いや、フォルスが十四の時だろ? とある店に誘ったら、自分が脱ぐのは嫌だって断られたんだよね」
バックスの言葉に、アリシアは目を見開き、呆れたように両腕を広げる。
「なにそれ。てんで子供じゃない。って、それじゃ私、まるで襲ったみたいじゃない」
「真実の愛や安心感は恐怖のないところにあるって言うからな」
そう言うと、バックスは自分で三度うなずいた。
「ちょっとっ。私が恐怖だっていうの?」
食ってかかったアリシアに、バックスは思わず朗笑する。
「あはは、違うって。フォルスが騎士に成り立ての頃は、戦に出てるか、不信感満載の兵士たちの中にいたからな。恋愛感情を持つような余裕なんて無かっただろうよ」
アリシアは昔に思いを巡らせた。その言葉と、アリシアの中に浮かんだ当時の状況が結びつく。
「そうか。そうね」
「リンデアさんとのことも、出会ってから一体何年かけてるんだか」
そう、一番始めにリンデアの存在を聞いたのは、騎士になってすぐの頃だった。
「そうね」
「やっと少し余裕が出来てきたのかな、なんて思ってたらこれだ」
少しずつ笑うようになり、元のようにケンカもするようになり、ほんの数ヶ月前にはこれが本来の人格なんだろうと思うほど、フォルスは安定した生活をしていた。
「そうね」
それなのに。ヴァレスに戻ってすぐはまだよかった。出生のことが分かってからはその笑顔すら辛く見える。
「で、やっぱり好きだったんじゃないか」
バックスの言葉に生返事を繰り返していたアリシアは、虚をつかれてビクッと身体を震わせ苦笑した。
「そう、昔は、ね。今はちゃんと弟よ。でも、取られちゃったみたいで、なんだか寂しかった」
「分かるよ」
バックスの笑みを、アリシアは不安げに見上げる。
「でも、弟なのよ?」
「ああ、分かるよ」
うなずいて、なお変わらぬ笑みにホッとして、アリシアはため息をついた。
「これ以上、困らせちゃいけないわよね」
「あれでも分かってると思うぞ。少しくらいは」
バックスは自分の願望を察して、そう言ってくれたのかもしれないとアリシアは思った。でも、この人が心からフォルスの理解者であることには間違いない。少しくらいはという言葉に妙に現実感があって、欠片くらいは本当に分かってくれているかもしれないと思う。
「ありがと」
わだかまっていたアリシアの気持ちが、微笑みとともに、ゆっくりこぼれ落ちていった。
部屋に戻ったフォルスの目に、笑顔のリンデアと向かい合うナシュアの姿が入ってきた。城都で女神付きのシスターだった人だ。目が合い、フォルスは慌てて頭を下げる。ユリアは、微笑んだナシュアの視線をたどってフォルスが戻ったのを見つけると、その前に立った。
「私には任せられないってことですか?」
「任せ……、って何を?」
フォルスはわけが分からずユリアに疑問を返した。リンデアは手にしたサーペントエッグを胸に抱いてうつむく。
「リンデアさんですっ。わざわざ城都からナシュアさんを呼んだりして」
「え? 俺は何も」
ユリアの剣幕に、ナシュアが苦笑する。
「私はシェダイン様のお言い付けでヴァレスに配属になったのですよ?」
「本当ですか?」
ユリアは疑わしげにナシュアを見やった。ええ、とうなずくと、ナシュアはフォルスとユリアを交互に見て心配げに首をかしげる。
「それより、何かあったのですか?」
ユリアは驚いたように目を見開き、それから首を横に振った。
「な、なんでもありませんっ!」
ユリアは廊下に駆け込み、ナシュアとフォルスは茫然と見送る。部屋の隅にいたグレイが乾いた笑い声をたてた。
「そうは見えませんよねぇ」
「ええ。ご迷惑をおかけしているのなら、話して聞かせないといけませんね」
ナシュアはグレイに答えると、リンデアの背に手を回し、部屋の隅へと場所を移す。割って入るわけにもいかず、フォルスはグレイのところへ行った。開かれたままの本や何冊か重ねて伏せた本の手前に置いてある、女神の示した古い本が目に入ってくる。
「あ、そうか」
ボソッとつぶやいたフォルスに、グレイはパッと明るい顔をした。
「思い出したのか? 詩の続きか? それとも誰に聞いたかか?」
フォルスは、すまなそうにため息で笑い、本を指さす。
「いや、それの話しをしてたんだっけって」
「おいおい……」
グレイは両手で顔を覆い、大きなため息をついた。フォルスはテーブルの角を挟んだ椅子に腰掛ける。
「思い出す努力はするよ」
「ああ。俺はこの詩にどんな意味があるのか調べてみる」
グレイが親指を立てて言った言葉に、フォルスは微笑んだ。
「ありがとう。そういえば父さんは?」
「戻るって。あの詩のことを聞いてみたけど、知らないみたいだったよ。それと、ゼインはルーフィス殿に怒られて扉の外っ側」
グレイは、その情景を思い出したのか、ククッと笑い声を漏らした。
「ゼインが怒られたってことは、監督不行届きとかって後から俺も怒られるんだよな」
フォルスは力無く苦笑する。落ち込んで見えるその様子に、グレイはフォルスをのぞき込んだ。
「気が抜けてるなぁ。アリシアさんと、何か重大な話でもしてきたのか?」
「いや、全然。父さんが持ってきた話で、フルフォードがどれだけ力を持っているか誇示された気がして。気が重いだけ」
フォルスは笑みを浮かべようと努力はしたが、すぐにあきらめて言葉をつなぐ。
「まぁ、今は何を考えても意味が無いよな」
そう言うと、フォルスは様々な思いを振り払うかのように両腕を上げてノビをした。そして、いつの間にかすぐ後ろにいたリンデアに気付く。立ち上がろうとするフォルスの肩に、リンデアは両手を置いた。
「座ってて」
リンデアはフォルスの肩口から顔を出すと、サーペントエッグを持った手を鎧の内側に差し入れた。フォルスはその手を意識して身動きできなくなる。
「ちゃんと持っていて。フォルスのお母様のことでそれだけの兵を動かせる人だもの、半分が敵だなんてこと、きっとないわ」
柔らかな声がフォルスの頬や首を撫でていく。パチッと金具が掛かる音に心臓がはねた。リンデアは空になった手をもう一度肩に置くと、反応も返事もないフォルスの顔をのぞき込む。
「フォルス?」
「硬直してる? 息のしかた覚えてるか?」
グレイは笑いをこらえながら、フォルスの目の前で指をちらつかせ、リンデアに視線を向けた。
「ね? 言った通り文句なしに受け取っただろ? ちょっとエッチだけど」
フォルスはギョッとしたようにグレイに目をやり、リンデアは上気した頬そのままに、フォルスに頭を下げる。
「ご、ごめんなさいっ」
「い、いいんだ、いいんだけど、もう二度とこいつの言うことは、はなっから信じちゃ駄目っ」
フォルスに指を刺され、グレイは思い切り吹き出すと、腹を抱えて笑い出した。
「グレイ、てめぇ……」
フォルスはゆっくりとグレイを振り向いて睨みつける。
「だって持ってなきゃ駄目だろ、それ」
「そうじゃなくてっ」
食ってかかったフォルスに、グレイは必死に笑いをこらえて口を開く。
「始終一緒にいるのに慣れない奴だな。どうどう。仕事仕事」
本など読めそうにないほど大笑いしながらグレイは一冊の本を手に取った。フォルスはガタッと椅子から立ち上がり、開いてあった本を全部バタバタと閉じ始める。
「うわっ、なにすんだフォルス!」
全部の本を閉じてしまうと、フォルスは拳を机に押しつけた。
「ちっともスッキリしない」
顔をしかめたフォルスの言葉に、グレイは苦笑を向ける。
「欲求不満か? それとも、詩を調べてるっての分かってやってる?」
「分かってる。だけどその詩も女神のことも何もかも、全部意味がない気がして」
フォルスはさらに眉を寄せて唇をかんだ。グレイはフォルスから視線をそらし、顔をゆがめる。
「行くって決めたのか」
「ああ。決めた」
そう返事をして、フォルスは後ろでリンデアがうつむいたのを気配で悟った。
「なぁ、タスリルって名前の薬屋ってだけで、どんな人かも分からないんだぞ?」
不安げに眉を寄せて、フォルスは後ろからついてくるリンデアに声をかけた。リンデアはフォルスに笑顔を向けてから、並んで歩いている子供の姿のティターナと顔を見合わせる。
「大丈夫よね」
「そうさ、俺がついてんだ」
ティターナはリンデアの手を取ると、フォルスにベーッと舌を出した。フォルスは苦笑して前に視線を戻すと、ハァと大きなため息をつく。
フォルスはジェイストークに聞いた、タスリルという薬師の店を探していた。ライザナルカンドの様子を知っておくために、行く前にもう一度ジェイストークと会う機会を持ちたいと思ったのだ。できればついでにタスリルから、いくらかでもライザナルカンドの話が聞ければと思う。
薬屋はほとんどが術師街に居を構えている。フォルスは結構にぎやかな大通りから、その術師街と呼ばれる狭い路地に入った。街の中心に近いのだが、この路地はひどく狭い上に左右の建物の背が高く、日があまり届かないので薄暗い。それでも看板のある扉が並び、窓もあるのだが、ほとんどが閉ざされていた。たまに開いている扉を見つけても、風を通すためかドアストップをかけて薄く開けているだけで、とても商売をしようという雰囲気には見えない。
「ここはちっとも変わらないな」
わずかに開いた扉から漂ってくるツンとした臭いに顔をしかめながらフォルスはつぶやいた。その声を聞いたリンデアは、不安を感じたのか足を早めてフォルスと肩を並べる。リンデアが両手で鼻と口を隠しているその横を、ティターナが走り抜けて前に出た。
「ここって、城都の術師街みたいだわ」
「みたいって、術師街だよ。たいてい薬屋は術師街にあるんだ」
苦笑したフォルスを、リンデアは丸くした瞳で見上げた。薬屋が表通りにある城都が特殊なのだと驚き、リンデアはあらためて周りを見回した。城都の術師街なら、父であるシェダインに付いて行った記憶がある。そこと比べれば、まだヴァレスの術師街の方が明るいかもしれない。単に前を行くティターナが楽しげに歩いているからそう見えているのだろうか。リンデアは、自分の上にあると自覚できるほどに空気が重たい気がした。
「ファル!」
ティターナが石の壁に挟まれた青空を見上げて手を振った。するとそこに一羽の隼が舞い降りてきてティターナの頭にとまる。すぐ後ろ、フォルスの左に並んで歩いていたリンデアが、ファルとティターナを見下ろした。
「爪、痛くないの?」
「加減くらいは教えてあるよ」
そう答えながらティターナが振り返ったからだろう、ファルは少しだけ羽を広げてバランスを取った。
すぐ前の扉から、濃紺の長いローブを着た男がうつむき加減で出てきた。リンデアはすれ違うために、フォルスの腕を取って引く。それが目に入ったのか、その男は、巫女の服をまとったリンデアを珍しい物でも見るように上から下まで眺めた。ティターナが、通りに出たその男の横を通り過ぎてから、フォルスは軽いお辞儀を向ける。
「すみません、タスリルという薬師を知りませんか? このあたりだと聞いたのですが」
「左側。ここから五つ目の扉だ」
かすれた声で答えながら、フォルスの顔と身に着けている上位騎士の鎧を、興味深げに見比べている。
「ありがとうございます」
礼を言ったフォルスの陰に隠れがちに身体を引き、リンデアもフォルスに習ってていねいに頭を下げた。男は礼に対して一瞬だけ口の端に笑みを浮かべ、何事もなかったかのようにすれ違っていく。少しの間その後ろ姿を見送ってから、リンデアはフォルスの腕を掴んだまま周りの様子を眺めた。
「ここだ」
フォルスが足を止めた五つ目の扉の前には、わざわざ掘り下げた階段が付いていた。窓も固く閉じられ、他の店の構えよりも、さらに暗く見える。先の方へ行ってしまっていたティターナが、頭にファルを乗せたまま駆け戻ったのを確認し、フォルスはリンデアの前に立って階段を下りた。一呼吸置いて扉を押すと、内側に付いているのだろう鈴の音が、ガラガラと店に低く響く。暗い店内に踏み入ると、部屋の真ん中にある小さな黒山の側に、ロウソクの明かりが三つ見えた。
「すみませ……、ン?」
黒っぽい品物があふれかえる中、その黒山の高さが増し、明かりの反対側から生えた細い手がフードを押し上げ顔が現れた。まるで角の取れた立体パズルのパーツが組み合わさったような深いシワが歪み、かろうじて女性だと分かる笑みを形作る。
「おや、昼間からお客さんかと思ったら。お前さん、レイクスだね?」
思わずその顔に見入っていたフォルスは、慌ててハイとうなずいた。老人は黒く長いローブを揺らしながら絞り出すような笑い声を上げ、明かりを棚の上に置いてロウソクを一本付け足した。ほんの少し明るさが増し、部屋全体がかろうじて照らしだされる。
「じゃあそっちは巫女様かい。妖精の坊やに、ペットまで。にぎやかだねぇ」
老人はホッホッホとノドの奥から楽しげな笑い声を漏らした。
「私がタスリルだよ。ま、ちょっと待ちな。いい物を見せてあげる」
タスリルはフォルスにそう声をかけると、リンデアに手招きをした。
「ここにおいで。手で水をくむようにしてごらん」
リンデアは言われるままにタスリルの前、フォルスのすぐ横に立つ。リンデアよりも首一つ小さいタスリルは、リンデアが胸の前で組んだ手の上に、磨かれて透き通った大きな石を掲げた。すると、その石から白い輝きを持つ石が、いくつも生まれ落ちてくる。ティターナも楽しそうにのぞき込む。
「キレイ……」
リンデアの手にこぼれそうなほどの山ができると、タスリルは口の右端を引きつらせた微笑みをフォルスにも向けた。
「あの、これ」
リンデアは石の乗った手をどうしていいか分からず、タスリルにおずおずと差し出した。タスリルは訝しげに顔をしかめる。
「いらないのかい?」
「そんな。いただくわけには」
リンデアは周りを見回すと、その手の石を側にあった皿の上に移した。タスリルの目尻のシワが下がる。
「いい娘だね。じゃあ、これをあげるよ」
そう言うとタスリルは、散薬の包みをリンデアに差し出した。
「この薬はね、ワインにでも入れてレイクスに飲ませてやればいいよ。お嬢ちゃんを忘れられなくなるからね」
リンデアは思わずフォルスの顔を見上げ、苦笑した瞳と目が合い、頬を染めてイイエと首を振る。
「そうかい? じっくり焼いてたっぷり念を込めて作ったんだけどねぇ。いいハエを使ってるんだよ?」
ブッと吹き出して、フォルスは左手で頬を挟むように口を押さえた。リンデアは可笑しそうにクスッと笑うと、もう一度首を横に振る。
「いえ、いいんです」
リンデアの受け答えを見て残念そうに手にした薬をしまい込むついでに、タスリルは手のひらに隠れるほどの小さな瓶を掴み出してきた。
「じゃ、これはどうだい?」
タスリルは、口を押さえたままのフォルスと向き合い、その小瓶を差し出す。
「これを彼女に飲ませてごらん。錯乱して正体なくすから、好きにできるよ」
「そんなモノ買うのに一緒に来るかよ」
わざと目をそらして呆れたように言ったフォルスの声に、タスリルは朗笑した。笑いが収まってくると、タスリルはフォルスの肩口でリンデアに聞こえるようにささやく。
「じゃ、一人で買いにおいで」
楽しげに笑っているタスリルにハッとしたような顔を向け、フォルスはため息とともに左手で顔を覆った。
「違、そういう意味で言ったんじゃ……。あの、お願いが」
「分かってるさね。ライザナルカンドへ行くんだろ? ジェイから聞いてるよ。向こうのことを教えてやってくれってね」
フォルスは驚いてその言葉に視線を向けた。ジェイストークは反戦の精神を持っている騎士の名を伝えてくれと言い、そして、そのためにタスリルの名前を出したのだろうと思っていた。だがジェイストークの方は、タスリルにライザナルカンドの話を聞きに来ると伝えたという。どうもジェイストークには自分の持っている不安も何もかも見透かされていたらしい。
「だから、こういう薬も必要だと思ったんだけどねぇ」
ブツブツ言いながら、タスリルは手にしていた小瓶を元の場所に戻した。
「何が聞きたい? お前さんの立場かい?」
「それが分かれば一番なのですが。なんでも、どんなことでもいいんです。できる限りのことを知っておきたいと」
フォルスは真剣な瞳をタスリルに向けた。リンデアはその後ろで視線を落としてはいるが耳を傾けている。タスリルは、色々眺めてまわっているティターナにチラッと視線を走らせてから、フムとうなずいた。
「いいよ。知っていることは教えてあげよう。私はエレンが好きだったからね」
「母を? ご存じなんですか?」
タスリルは、そうだよ、と、微笑みを浮かべながら答える。
「エレンの側にいたんだ。当時、神の守護者と呼ばれる一族の薬を作れるのは、私だけだったしね」
「薬ですか?」
目を丸くしたフォルスに、タスリルは微笑を向けた。
「私が薬屋だってことくらいは、ジェイから聞いただろ? 一族の薬とお前さんのとは、また別なんだ。酒に酔うんだろう?」
タスリルの質問に、フォルスはハイとうなずく。
「彼らには酒は水でしかないんだ」
そうですか、と、フォルスはいかにも残念そうに苦笑した。だが、母と知り合いなら色々な話を聞けるだろうという期待が、胸にわいてくる。
「その神の守護者というのは、一体なんなんです?」
「詳しいことは知らないが、シアネル側ディーヴァの山間に暮らしているそうだよ。なんでも、文字通り神を護衛する役目を担っているらしいんだが。神と対話ができると言われているね」
フォルスには、護衛という言葉が妙に不自然に聞こえた。神を人間が一体何から護衛するというのだろうか。答えを得られないのがもどかしいと思う。
「母も神と話をしていたんですか?」
「それは知らないね。聞いたことがないよ。お前さんもできるんじゃないのかい?」
タスリルはフォルスを見上げながら問いを返した。
「伝えてくる言葉は分かるのですが、話が通じているのかは、さっぱり」
「それでいいんじゃないのかい? 相手は人ではなく神なんだからね」
そう言って笑うと、タスリルは微笑みを自分の回想に向ける。
「お前さん、小さな赤ん坊だったのにねぇ。エレンはよく、この子は私の力だって、フォルス、と呼びかけていたものさ」
「え……?」
フォルスは気の抜けた声を出すと、キョトンとしたリンデアと顔を見合わせた。
「ねぇ、もしかしたら、フォルスって名前……」
呆気にとられているフォルスとリンデアを見て、タスリルは朗笑する。
「ただのあだ名だよ。そういや、こっちではフォルスと呼ばれているそうだね。エレンが呼ぶのを聞いて、誰かが名前と勘違いしたんだろうね」
フォルスは誰かがと聞いて、真っ先にルーフィスを思い浮かべ、ため息をついた。他には誰も思いつかない。タスリルはノドの奥でまだ笑っている。
「いや、その方がエレンも喜ぶだろうさ。綺麗な声で何度も、フォルス、私の戦士、ってね。懐かしいよ」
戦士という言葉にハッとして、フォルスはタスリルに視線を戻した。タスリルは訝しげに首をかしげる。
「どうしたんだい?」
フォルスは、聞いていてください、と、タスリルに詩の言葉を向けた。
「火に地の報謝落つ、風に地の命届かず、地の青き剣水に落つ、水に火の粉飛び、火に風の影落つ、風の意志剣形成し、青き光放たん、その意志を以て、風の影裂かん。たぶん続きもあると思うのですが。なにか知りませんか?」
目を閉じて聞いていたタスリルは、首を横に振る。
「いや、一節も聞いたことがないよ」
そうですか、とフォルスはため息をついた。だが、女神が言った戦士という言葉と示した詩が、女神という鍵でつながっているのではなく、自分の中に一つの事柄として記憶されていることに気付く。
「何のことだか分からんが、ヒントは他にもあるかもしれないよ。まぁ聞きな」
タスリルは難しい顔をしたフォルスの腕をポンと叩き、言葉をつなぐ。
「レイクスという皇太子の存在は、国民もみんな知っている。特別な位置付けで生まれてきた子だからね」
「王位継承権のことですか?」
フォルスの問いに、タスリルは手と首を同時に横に振る。
「それもあるんだが。もう一つ、神の子、と呼ばれていたんだよ」
タスリルに指を指されて聞いた神の子という言葉に、フォルスは思わず眉を寄せた。
「神の子、ですか?」
「ライザナルカンドの男神シェイド、シアネルの女神アネシスの子だそうだよ。正確には降臨を受けている者同士の子、ということになる」
フォルスは顔をしかめたまま、人間同士じゃないかとつぶやき、首をかしげる。
「母はシアネルの巫女だったんですか? フルフォードも降臨を」
「エレンは巫女だったよ。だが皇帝は違う」
こともなげに言ったタスリルに、フォルスは思わずリンデアと顔を見合わせた。タスリルはフォルスとリンデアを交互に見ながら、言い含めるように言葉にする。
「神の子を宿して王家に嫁いだ巫女が産んだ、ってのがお前さんだよ」
リンデアは、表情を曇らせてうつむき、フォルスは呆れたように両手を広げる。
「それじゃあフルフォードの子ではないですよね? なぜ王位継承権があるんです?」
「神の子は王家の人間と婚姻関係を結ぶ決まりになっているんだ」
フォルスは、決まりという言葉を拾ってつぶやき、不機嫌に首を横に振った。タスリルはフォルスの顔をのぞき込む。
「それに、神の子を宿したと言っても、時を置かずに皇帝とも情交させられれば、どちらの子かなんて分かりゃしないだろ」
「な?!」
フォルスは言葉を失い、リンデアは両手で口を押さえた。タスリルはリンデアをうかがうように見る。
「この子の母親は、随分ひどい目に遭わされているんだよ。お嬢さんも降臨を受けているんだろう? ライザナルカンドに行ってはいけないよ。なにされるか分かったものじゃない。いいね?」
リンデアはタスリルと視線を合わせたが何も答えず、心配げにフォルスを見上げた。フォルスは震える口元を頬を挟むように左手で覆い、リンデアから視線をそらす。
どうして、何のために自分は存在しているのだろう。ライザナルカンドの神官や皇帝に、神の子と名付けた道具として利用されるためにか。国ぐるみで二人の男に辱められるなどということは、間違いなく母が望んだことではないだろう。運命にもてあそばれるような状況の中、母は一体どんな思いで自分を産み、育てたのか。自虐の思いが自分の居場所を食い尽くしていくのを耐えようと、フォルスは歯を食いしばった。
「フォルス……?」
リンデアがフォルスの腕を取り、そっと胸に抱いた。フォルスがその柔らかな感触に驚いて振り返ると、見上げてくるリンデアの心配げな顔が目に入ってくる。気遣ってくれているのだという安堵を感じ、同時に待たせてと言ったリンデアの言葉が脳裏に蘇ってきた。
そうだ。自分の居場所はいつも変わらずここにある。生まれがどうあれ、今の自分のすべてを認め、受け入れてくれる人だ。この場所は、リンデアだけは誰にも譲れない、何があっても守り続けたい、絶対に諦めたくない。
「ごめん、頭ン中が真っ白で、何も考えられなくなって……」
リンデアが首を横に振るその振動が腕から伝わってくる。その暖かさが、すべてを許してくれるように身体と気持ちを包み込み、満たしていく。フォルスは長いため息をつくように息を吐き出して、腕にからまるリンデアの手に自分の手を重ねた。そうすることで少しずつ気持ちが落ち着いていくのがハッキリと認識できる。
じっと二人の様子を見ていたタスリルは、厳しかったフォルスの表情が緩んでいくのを見て、わずかにうなずいた。
「まぁ、それが神の血を王家にというシェイド神の教えさ。本当に神の子なのかどうかは知らんが、お前さんは皇帝の息子だよ。髪の色も声も同じだ。そんなことは慰めにもならんかもしれないがね」
自分が誰の息子かなんてことは問題ではないと、フォルスは漠然と思った。どっちにしても、ルーフィス以外の人間を父とは思えないだろう。しかも、母の気持ちも何もかもを無視して自分を産ませた人間が父などと、なおさら認めたくはない。
「お前さんが生まれたいきさつは言うなと、ジェイには止められていたんだが。言っちゃ駄目だと言われると、言いたくなるもんさね。それでも、一人で聞くよりはいいだろう?」
「はい。ありがとうございます」
フォルスは触れていたリンデアの手を握りしめ、頭を下げた。リンデアが側にいてくれなければ、自分の存在価値を認めることなど少しもできなかったかもしれないと思う。タスリルはそれを目にしてうなずいた。
「お前さんが生きていると思っていた人は、そうそういないだろうね。だがレクタードの扱いはずっと王位継承権二位のままだ。お前さんが出て行ってどんな反応があるかは、すまないが、まるで予測がつかんよ」
「いえ、予測までは」
フォルスはもう一度ありがとうございますと口にして頭を下げた。タスリルはため息をつく。
「ライザナルカンドは、お前さんにとっては辛い場所かもしれないねぇ」
タスリルがつぶやくように言った言葉に、フォルスは何も返せなかった。母のことが頭から離れない。母が望んで産んだのではないだろう自分に向けた、どこか寂しげな笑顔の思い出が胸を締め付けている。
「エレンさんは、どうやってメディアナに移ったんですか?」
不意にリンデアが顔を上げた。タスリルはリンデアに陰うつな顔を見せる。
「連れ去られてしまったんだよ。ペンタグラムが一つ落ちていたんだそうだ」
「ペンタグラムが?」
驚きに眉を寄せたリンデアに、タスリルは苦笑した。
「メディアナのせいにするためには、いいアイテムだろ? 連れ去られたというのは事実だろうが、誰に、というのはまったく分からないんだよ」
タスリルの言葉に、リンデアはすがるような視線を向ける。
「でも、もしかしたら、そのままそこにいるより幸せだったかもしれませんよね」
「実際そうだったみたいだね。私がこっちに来た時は、もう亡くなった後だったが。でも紺色の瞳の騎士がいて、その名前がフォルスと聞いた時は可笑しかったよ」
タスリルは肩を揺らし、のどの奥から笑いを紡ぎ出す。リンデアは少しは安堵できたのか静かにホッと息を吐き出し、フォルスは可笑しいという言葉を否定できなくて、自分で微苦笑した。そんなことで付いた名前と知ってなんだか情けないとは思ったが、それが母の気持ちだと思うと、この名前の意味はとてつもなく重い気もする。ただ、今はリンデアのため、母のため、そして何より自分のためにも、強くありたいし、できる限りのことはしなくてはいけないと思う。
「ジェイストークと会って話ができるように連絡を取りたいのですが。もしそれが危険なら、他に手を考えます」
「心配いらない、大丈夫だよ。伝えておいてあげよう。そうそう、ルジェナには娘と孫がいてね。覚えているかい? お前さんが孫を送り届けてくれたんだよ」
フォルスは何の苦もなくその男の子に思い当たった。迷子だと思って保護してみると、男の子はライザナルカンドのルジェナというところに住んでいると言う。フォルスは迷うことなく騎士の鎧を外し、ルジェナへ送ってきたのだ。顔も知られていない、自分も子供に見られるような時期だからこそできたことだったのだが。フォルスは懐かしさと恥ずかしさで思わず苦笑した。
「それにしても、妖精の知り合いとは顔が広いね」
タスリルは、その視線をティターナに向けて言う。
「坊や、私は嘘を言ったかい?」
「いいや、言ってないよ。嘘だったら合図しろって言われてたけど、一個もなかったよ」
笑顔のティターナに、タスリルは朗笑した。いい子だと頭を撫でる。フォルスとリンデアはお互い目を合わせ、どちらからともなく頭を下げた。
「すみません」
「いや。坊やがいてくれてよかったよ。とても信じられることを言ったとは思えないからね」
フォルスはもう一度、タスリルに無言で頭を下げた。まさか初めて訪ねたこの人が、母をよく知っているとは思わなかった。しかもルジェナに送り届けた男の子の祖母で。これが巡り合わせなら、まったく運に見放されたわけでもないのだと思う。
「おばちゃん、これ何?」
ティターナが大きな釜の前に立ち、中をのぞき込む。タスリルはティターナに笑いかけた。
「それは妖精の大釜でね、妖精の国に置いておきさえすれば食べ物や酒が無限に出てくるんだよ」
「嘘だぁ。大釜はこんな形じゃないよ? これ、偽物だよ」
「おや、そうなのかい? 本物も存在するなんて初めて知ったよ」
そういいながら朗笑したタスリルに、フォルスとリンデアは思わず笑いを漏らした。タスリルは先ほどしまい込んだ薬の包みをもう一度引っ張り出す。
「ライザナルカンドに行くんなら、飲んでいかんか? 一人じゃないってのは、いいものだろう?」
リンデアがいるという事実だけで、精神的に安定し、ひどく取り乱さずにすむことは自分でもよく理解できる。フォルスにとっては本当に大切な支えなのだ。そしてそんな薬を飲まなくても、リンデアを忘れることなど無いだろうと思う。
「はい。でも、薬は必要ないんです」
「そうかい? 彼女に飲ませるって手もあるんだよ?」
そう言うとタスリルは、それも必要ないかね、と付け足して、ノドの奥で笑い声をたてた。
術師街の路地を出た表通りは、家路につく人が少しずつ増え始めていた。リンデアとティターナは、ファルを交えて何か話しては笑い声を立てている。いつもと変わらないその様子が、フォルスには救いだった。
ライザナルカンドでの立場が神の子という道具でしかないのなら、むしろ気が楽かもしれないとフォルスは思った。そんなモノをいくら蹴っても、罪悪感は起きない。血だの愛だの言われる方が、慣れがないだけ面倒だと思う。
それにしても、メディアナでは女神に反発を覚え、ライザナルカンドでは神に刃向かおうなんて、どこをとっても神の守護者などという言葉が当てはまりそうにない。半分が違う血だからかと思うと、やたらと気が重くなる。
だが、純粋な一族でない自分を、シャイア神だけではなく母までもが、戦士と呼んだのはどうしてなのだろう。それはそれでまた何か意味があるのか。前にあった時に言葉を濁したジェイストークは、それを知っているのだろうか。聞いたところで、答えがまっすぐ返ってくるかも分からないのだが。
ふとリンデアが立ち止まり、後ろを歩いていたフォルスと肩を並べた。もうすぐ神殿という場所だ。ティターナは変わらず前を歩いている。
「ゼインさん、いるのかしら。なんだか苦手なの」
そういうことかと、フォルスはリンデアに苦笑を向けた。
「正面か裏か、いない方から入ろう」
フォルスの言葉に、リンデアはホッとしたように微笑みを浮かべ、フォルスの腕を取った。
神殿が近づくにつれ、敷地への入り口が見えてくる。そこでゼインが鐘塔を見上げているのが目に入ってきた。フォルスとリンデアは顔を見合わせて苦笑を交わしたが、その場所は避けることができない。そのまま諦めて近づくと、ちょうど中からバックスがゼインに駆け寄ってきた。
「なにやってんだよ、こんなとこで」
「なにって、あ」
ゼインは、フォルスとリンデアを見つけると、フォルスに不機嫌な顔を向ける。
「巫女様なんだから、あんまり連れ歩いたりするなよ」
ゼインが向けたぶっきらぼうな言葉に、フォルスは反論しようとしたが、それより先にリンデアが口を開いた。
「ごめんなさい。私が無理を言って連れてってもらったんです」
顔をしかめたゼインの肩に、バックスが手を置く。
「あのな、フォルスはそのためにいるんだろうが。持ち場を離れてフォルスに迷惑をかけているのはゼインの方なんだぞ?」
ゼインはムッとした顔で敬礼のような半端な挨拶をすると、神殿正面へと歩いていく。その後ろ姿に、バックスは肩をすくめた。
「あいつ、なに考えてるんだか」
「ごめん、俺がなんとかしなきゃな。だけど、これだけあからさまに反発されると、なにを言っても効き目なさそうだ」
フォルスは思わず言葉尻にため息をつく。
「そりゃ、フォルスの方にいつもの元気がないからだろ」
バックスの心配げな顔に、フォルスは虚をつかれて視線を返し、それからそうだなとつぶやいた。自分のことに精一杯で、周りが見えていないかもしれないと思う。バックスは神殿の中に入れとフォルスの背中をバンと叩いた。
「ま、ゼインのところは育てなくても立派にやっていける兵士が揃っているからな。心配いらない」
慰めになるかならないか分からない言葉に苦笑を返し、フォルスはリンデアを促して裏へとまわった。ティターナが先に扉から駆け込んでいく。
中に入ると、お気に入りのソファーにバフッと寝転がったティターナが見えた。部屋の左、食堂のテーブルの角からグレイが手を振っている。横にいたユリアも顔を上げた。テーブルにはいつもの本の他に、シロップ漬けのチェリーが盛られた皿が置かれている。
「収穫はあったか?」
口をモゴモゴさせたグレイの問いに、フォルスは微苦笑した。
「思ったよりはね。口に入れたまましゃべるなよ」
違う違うと手を横に振るグレイの側まで行って、フォルスとリンデアは皿をのぞき込んだ。
「これ、マルフィニアさんが作ってたシロップ漬けだわ」
「なんだ、酒に漬けたんじゃなかったのか」
フォルスのいかにも残念そうな声に、リンデアはクスクスと笑い声を立てる。グレイが手のひらの上に口から何かをはき出し、フォルスは思わず一歩引いてからその手をのぞき込んだ。リンデアもフォルスの横から顔を出す。そこにはキレイに結ばれたチェリーの茎が一本あった。
「何かと思ったら、また小器用なことしやがって」
そう言ってため息をついたフォルスに笑みを向けてから、グレイはユリアに親指を立てて見せた。リンデアは不思議そうにグレイの手の上を見ている。
「これ? 口の中で舌を使って結ぶんだよ」
グレイはリンデアにそう言うと、手にした結んだ茎を種の入ったもう一つの皿に移し、実から茎をプツと取ってリンデアに差し出した。
「やってみる?」
「マズそうだ」
フォルスは顔をしかめながらその茎を見ている。
「食えとは言ってないだろ。けど、生々しいキスを想像しちまうからやめとくか」
グレイは、その茎を種の皿に入れ、ケラケラと笑った。少し反っくり返ったせいで、リンデアが眉を寄せているのに気付き、その顔を見上げる。
「どうしたの?」
「キスと舌が器用なことって、何か関係があるんですか?」
リンデアの言葉に、フォルスはブッと吹き出し、頬を挟むように口を押さえた。ユリアは呆れたようにため息をつき、グレイは笑いを堪えながらフォルスの顔をのぞき込む。
「フォルス? もしかして、まだ実践してなかったのか?」
口元を手で隠したまま目を合わせたフォルスに、グレイは冷笑を向けた。リンデアはその様子に、ただキョトンとしている。
「知りたいって。よかったな。教えてやれよ。それともホントに不器用だったりして」
クックと笑っているグレイに、フォルスは恨めしげに目を細めた。
「抑制できなくなったら責任取ってくれるのか?」
「いや、そんな趣味ないから邪魔するの怖いし」
しれっとしたグレイの顔を見ていて、ハタとその言葉の意味に思い当たり、フォルスは声を荒げた。
「てめっ! ふざけんな!!」
頭の上からの大声に、グレイはわざとらしく身を引く。
「ふざけてるのはフォルスだろ。俺が責任取ってもいいのかぁ?」
思い切り楽しそうなグレイと、フォルスは顔をつきあわせた。
「って、そういう意味でもなくてだな、女神が降臨を」
「そんなの嫌に決まってるだろうが。わざわざ聞いてどうするんだよ」
グレイは、フォルスの説明を遮って返事をしつつ、それでもまだ可笑しそうに笑っている。フォルスは開いた本のページがめくれそうなほど大きなため息をついた。
「フォルス、怒鳴り声出さないのっ。神殿まで聞こえるわよ」
神殿に続く廊下から、アリシアが入ってくる。フォルスはしまったとばかりに、もう一度口を隠してアリシアに背中を向けた。アリシアはその肩に手をかける。
「リンデアちゃん借りてくわよ」
その言葉に眉を寄せて振り返ったフォルスの顔を、アリシアはニヤニヤと眺める。
「なによ」
「い、いや……」
再び顔を背けたフォルスにフッと冷笑を向けてから、アリシアはリンデアに向き直った。
「食事を作るのを手伝ってもらいたいんですって」
嬉しそうにハイと答えたリンデアに微笑んで、アリシアはそのままの笑顔をユリアにも向ける。
「ユリアちゃんもね。お仕事」
アリシアの言葉にユリアはアッと口に手を当て、すぐに、と言いつつ廊下の奥に消えていった。アリシアはリンデアを促し、フォルスとグレイに手を振って部屋を出る。後ろからティターナもチョコチョコとついてきた。
「もしかして、お手伝いしたかった?」
アリシアの問いに、リンデアはうなずいた。
「はい。ナシュアさんがいらしてから、お手伝いもほとんど必要がなくなっちゃって」
「ごめんね」
アリシアはバツが悪そうに苦笑した。違うんですかと足を止めかかったリンデアの背に手を当て、厨房の前を通り過ぎる。漂ってくる香りに惹かれて厨房の前で立ち止まったティターナを置き去りにしたまま進み、神殿の少し手前、狭い廊下でアリシアは足を止めた。
「私、リンデアちゃんなら止めてくれると思っていたのよ。フォルスのこと」
アリシアはつぶやくように言ってから、リンデアと向き合った。リンデアは、ほんの少し高い位置にあるアリシアの瞳に視線を返す。
「一度聞いてみたいと思っていたの、リンデアちゃんがなにを考えているのか。あの子がライザナルカンドに行くだなんて言っているのは、まだリンデアちゃんが止めてくれていないからなんでしょう?」
リンデアは微苦笑してうつむいた。肩からサラサラと落ちる琥珀色の髪が、その寂しげな瞳を隠していく。
「私が止めたら、行かないって言ってくれるでしょうか」
予想もしていなかった答えが返ってきて、アリシアは眉を寄せた。
「フォルスなら言うわよ。ええ、きっと」
「もし、本当にそうだとしたら嬉しいです。でも……。私には止められません」
そう言うと、リンデアはゆっくり顔を上げる。アリシアはその答えに眉を寄せ、リンデアの顔をのぞき込んだ。
「どうしてそんな」
リンデアは気持ちを落ち着けるように、大きな息を一つついて口を開く。
「先に逃げたくないってフォルスが言ったのを聞いてしまって……。それが本心なら、邪魔をしたくないんです」
「向こうはどんなところかも、なにがあるかも分からないのよ? もしかしたら殺されてしまうかもしれない」
じれったさに、アリシアの声が大きくなる。リンデアはそんなアリシアと少しだけ視線を合わせ、悲しげに目を伏せた。
「それはメディアナも同じです。フォルスがライザナルカンドの皇太子だと知れたら、フォルスを利用しようとする人も出てきてしまう。もしかしたら、今まで普通にお付き合いしていた人だって……。それはフォルスにはとても辛いことだと思うんです」
静かにゆっくりと話す声に苛立ち、アリシアはリンデアの両腕を掴む。
「分かってる? もう二度と会えないかもしれないのよ? それでもいいって言うの?」
リンデアの脳裏に、神の子は王家の人間と婚姻関係を結ぶ決まりになっているというタスリルの言葉が蘇ってきた。フォルスがライザナルカンドで穏便に暮らそうと思えば、王家の誰かと結婚しなければならないのだ。リンデアは息苦しさを振り払おうと首を横に振り、どうしても残る胸の痛みに眉を寄せ、アリシアにすがるような視線を向ける。
「私だって、ずっと側にいたいって思ってます。だけど、ついていっても残ってもらっても、私はなに一つできないんです。それどころか、フォルスが身を守るのに邪魔になるだけ。私にできることは、このままシャイア様の力をお借りして、国境を本来の位置に、少しでもフォルスの近くに……」
リンデアの瞳に涙が浮かんだ。その涙をこぼさないように、リンデアは少しうつむいて、まばたきを繰り返す。
「そうすることで、ほんのちょっとの間だけでもフォルスの支えになれるなら、あとは要らなくなっても忘れられても構わない。だって、何度も守ってもらって、いつでも支えてくれていて、私がフォルスに返せるのは、もうこれくらいしか残ってない」
声が揺れ、プツッと床に涙のシミができた。リンデアは慌てて頬をぬぐったが、あふれ出る涙を止められずに両手で顔を隠す。
「ごめんなさい、泣くつもりなんてなかったのに、泣かないって決めてたのに……」
リンデアはそれ以上の言葉を口にできなかった。声が普通に出てこない。どうやっても泣きじゃくっている声に聞こえるのだ。リンデアは、うろたえるように何度も震える息を繰り返している。
「リンデアちゃん……」
アリシアはリンデアを抱きしめた。リンデアは驚いてその瞳を見開く。
「分かったわ、もうなにも言わなくていいから。ごめん、ごめんね」
アリシアはリンデアの背中をそっと撫で、ようやく一つの言葉を口にする。
「ありがとう」
リンデアは、アリシアの言葉と手の優しさに、安心して瞳を閉じた。まぶたに追い出されたまだ止まらない涙が、アリシアの肩口にこぼれ落ちていった。
レイチェル物語 瀬名むつみ @gudachan
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