第三章

 石造りの窓のない壁面に、いくつかの明かりが揺れている。明かりは少ないが、石壁が白っぽいため、狭い室内にかろうじて光が行き届いていた。その隅には椅子が二脚と、腰の高さほどの石台があり、石台の上には黒曜石で作られた鏡が立て掛けてある。よく磨かれた鏡面は、まわりの弱い明かりを不思議なほどクッキリと映し出していた。

 重量のある石の扉がズズッと地面を擦りながら、ゆっくりと部屋の内側にずれ始める。ようやく一人通れるくらいに開いて、その扉は動きを止めた。

 そこに、長い白髪と白いヒゲを蓄え、古びた長いローブ姿の老人が通された。マクレーン城を出発したフルフォードと入れ違いに、城にやってきた老人だ。その後から漆黒の髪に黒い神官服のマクヴァルが、続いて入ってくる。

「あまり居心地のいい場所ではないですが、こちらでしたら外に声が漏れることもありません」

 穏やかな笑みを浮かべてそう言うと、マクヴァルは左手のひらで石の扉に触れた。その重たげな扉は壁の空間を塞いでいき、もともと扉など無かったかのように石壁にピッタリと収まる。老人は一度だけ深くうなずいた。

「確かに、あなたはシェイド神の降臨を受けられている方のようだ」

「では、聞かせていただけますな?」

 マクヴァルは、鏡の置かれた台の前にある木で作られた椅子を勧め、向かい合わせに自分が座るための椅子を移動させた。老人は椅子に座り、マクヴァルの視線と差し向かう。

「何をお知りになりたいと?」

 老人のゆっくりとした口調に合わせるよう、マクヴァルは悠然と姿勢を正した。

「我がシェイド神の宗教は、暗唱のみにより伝えられております。守護者たる種族の事柄が、いつからか絶えてしまっておりますゆえ」

 マクヴァルの低い声が、ドアのない部屋で微かに反響する。老人は黒く見える瞳を閉じ、ゆっくりとその口を開いた。


  火に地の報謝落つ

  風に地の命届かず

  地の青き剣水に落つ

  水に火の粉飛び

  火に風の影落つ


 老人は暗唱した詩をたどるように、歌の一節を言葉にし、マクヴァルに視線を向ける。

「これのことですかな」

「ええ、まさにそれです。その先を……」

 マクヴァルの言葉を、老人は手のひらを向けて制すると、肩が上下するほどの大きな息をついた。

「守護者たる種族は、呼び名の通り、神々をお守りする立場にあります」

 老人が話し始めたその内容に、マクヴァルは一瞬眉を寄せた。繕った表情に老人が視線を合わせる。

「一口にお守りすると言っても、いろいろな状況があるわけですが。この歌は私の種族では手の出しようのない事態を表しているのです」

「ほう、手の出しようのない、ですか」

 驚いて見せたマクヴァルに、老人はうなずいた。

「守護者たる種族は、武器と呼ばれるモノを一切手にすることはありません。それはなぜだか、お分かりになりますか?」

 老人が口にした問いに、マクヴァルは疑惑を持って目を細めた。その目を、老人は険しい表情で見つめる。

「武器の代わりに神のお力を拝借するからです。その能力を私の種族は持っている。だが、そなたの中にいるシェイド神はお力を使えない状況にある。それは、あなたが影そのものだからだ。だからこそ、あなたにこの歌は伝わらなかった」

 老人の達観した表情と対照的に、マクヴァルに硬い冷ややかな笑みが浮かんだ。

「教えるつもりはないと?」

「この歌には確かに続きがある。しかし、影たるあなたにわざわざ神々が伝えるわけがないし、私が伝えることもできん」

 老人は、マクヴァルを見据えたままその場に立ち上がった。マクヴァルも、大きく息をついて立ち上がる。

「伝えられないとおっしゃるなら、それはそれで仕方がないことです」

 マクヴァルの手の中で、黒曜石でできた短剣が黒く鋭い光を発した。

 老人は短剣を目にしても、ただ黙然と立ちつくしていた。その胸元に切っ先が深く潜り込んでいく。

 いろいろな思いが老人の脳裏を駆け抜ける。まさか、長い年月歌われてきたあの歌が、自分の身に起こることだとは。ならば、種族の剣であるまだ見ぬ戦士も、この世界に存在しているのかもしれない。願わくば歌の通り、その意思でこの影を払拭してほしい。

「戦士よ……」

 瞳を閉じ、息のような微かな声の言葉を残して、老人の身体は崩れ落ちた。

 マクヴァルは、冷酷な表情で老人の亡骸を見下ろした。赤い血だまりが石の隙間に落ち込みながら、少しずつ床に広がっていく。マクヴァルは鏡を振り返った。手にした血で染まっている同じ黒曜石の短剣を、鏡の前に置く。

「戦士だと?」

 マクヴァルは短剣の血で、鏡面になにやら角張った文字を書き出した。鏡はその血を余すことなく吸い込むと、何事もなかったかのようにまた元のような輝きを取り戻す。マクヴァルは短剣を手にし、思い切り床に叩きつけた。短剣はビシッと音を立てて砕け散り、漆黒の光をまき散らす。マクヴァルは冷笑を浮かべると、鏡面をノックするようにコンコンと叩いた。

 老人は、その音で目を開けた、と、そう思った。だが、そこには自らの身体はなかった。自分という意識の前にはただ黒い鏡面があり、その向こうに床に這いつくばった自分の亡骸が見える。

「なにが戦士だ」

 冷ややかなマクヴァルの声が、鏡面の内側にも届いた。実際血はないのだが、血の気がひくような思いが老人の意識を貫く。

「いつか私がその戦士と会うことがあれば、あなたにもその鏡の中で会わせてさしあげましょう」

 マクヴァルはあざけるように笑いながら部屋を出ていった。その低い笑い声は、老人の意識に刻み込まれ、かせのようにズッシリと重たくのしかかった。


「ここまでどうして急かされたんだかな」

 フォルスは椅子の背にもたれかかり、天井に向かってため息をついた。リンデアは、ソファーで跳ねて遊んでいるティターナを気にしながら、そうよね、と小さく答える。

「ここって、シャイア様にとってそんなに大きな存在なのかしら」

 二人は食堂と応接室を兼ねた広い部屋、大きなテーブルの角をはさんで座っていた。階段から見下ろすと右奥になる場所だ。

「何かあるのかもな。ヴァレスに」

 フォルスは天井を見上げたままつぶやいた。リンデアは不安げに部屋を見回す。

「神殿、に?」

 え? と身体を起こし、フォルスも思わず部屋を見渡した。ティターナがソファーに横になって足をばたつかせているのが目に入ったが、何も変わったところはなく、照れたように笑う。

「いや、理由があるとしたら、それが一番自然なんだろうと思って。探検するような場所はないけど」

 フォルスの言葉に、リンデアはほんの少しの苦笑を浮かべる。

「国境を元に戻すまでって気合いを入れてたのに、こんなにすることがないんじゃ気が抜けちゃう」

 国境を元に戻すまで。フォルスは両腕をテーブルに乗せ、リンデアの言葉を頭の中で繰り返した。抱えていた思いが口をつく。

「国境を元に戻したら、リンデアはどうしたい?」

「どうって……」

 リンデアは、見つめていた濃紺の瞳から視線をそらす。

「今みたいに一緒に、できれば普通に暮らしたいけど、でも……。シャイア様がいるうちは、フォルスは前線で戦わなくてもすむのよね」

「え? あ……」

 いつの間にか参戦が普通になっていたことに、フォルスはショックを受けた。自分のことだけではない、女神が居る間は兵同士の接触すら、ほとんど起こらずにすむのだ。リンデアがこのまま降臨を受けているうちは、女神の力のおかげで、まるで戦をしていることが嘘のように平和な時が流れる。それは戦が終わったわけではなく、偽り、見せかけだけの幸せには違いないのだが。いくら見せかけだけだとしても、リンデアがそれを望まないはずはない。

「ゴメン、そうだよな」

 フォルスは視線を落とすと、小さくため息をついた。いっそのこと、リンデアを連れて逃げることができたらと思う。だが、どこに逃げても戦の影はついてくる。しかも、ドナの事件で毒を飲んで生き残った母と同じように、降臨を解くことで非難を浴びる対象にもなりかねないのだ。フォルスは、どうしてもそれだけは避けたいと思った。

 リンデアを女神から取り返すためには、戦自体を排除しなければならない。リンデアが降臨を受けている今だからこそ、できることはある。スフィリアが持ってきた話も、間違いなくその中の一つだ。それだけのことで、何をどこまでできるか分からないが、とにかく少しでも前進したいと思う。

 ティターナの寝息が聞こえてきた。リンデアはのぞき込んでティターナが眠っているのを確かめると、考え込んでしまったフォルスの腕に、そっと手を添えた。

「フォルス?」

 その声で視線を合わせたフォルスに、リンデアは一息ついてから話を切り出す。

「ソリスト、辞めようと思うの」

 驚いて目を丸くしたフォルスに苦笑を向けると、リンデアは気持ちを確かめるように胸を押さえた。

「もうシャイア様が一番だなんて、自分をごまかせなくて。それに……」

 リンデアは、見つめてくる目に耐えられなくなったように視線をそらす。

「いけないことだって、よく分かったから」

 リンデアはため息をついて肩を落とした。フォルスはうつむいてしまったリンデアの頬にそっと触れた。

「リンデアがソリストなのは、いけないことじゃないよ。リンデアが歌うことで心を癒された人がたくさんいるだろうし」

「ホントに? そう思ってくれるの?」

 顔を上げて見つめてくるリンデアに、フォルスは微笑んで見せた。

「でも、辞めるって言ってくれるのは、凄く嬉しい」

 その言葉で、リンデアの表情がパッと明るくなる。

「よかった。やっと気付いたのかとか、辞めなくていいとか言われちゃったらどうしようって不安だったの」

 フォルスはそれを聞いて、罰が悪そうに苦笑した。

「どっちかって言ったら、そんなことで不安がられる方が心外なんだけど」

 ハッとしたように口を押さえ、ごめんなさいと謝るリンデアを見て、フォルスは怒ってないよと喉の奥で笑った。

 廊下からのコンコンというノックの音に、フォルスとリンデアは目を向けた。グレイが立っているのを見て、フォルスは苦笑する。

「黙って入って来いよ。ドアもないのにノックなんて」

 フォルスに声をかけられ、グレイはアハハと声に出して笑った。

「いやぁ、気付かれないで別世界にいられちゃ困るし。それにそんな隅っこにいられたら、こっちは疎外されてるみたいで」

「ここなら、どこから人が入ってきても見えるんだ。用心するにこしたことないだろ」

 フォルスの言葉に、グレイは部屋を見回した。ティターナが眠っていることに気付き、グレイは声のトーンを落とす。

「そうか。キスでもしている最中に入ってこられたら困るもんな」

「そうじゃないけど。それもそうかも」

 表情を変えずに答えたフォルスと、上気した頬を両手で隠したリンデアを見て、グレイはもう一度朗笑した。

「で、なに? 用事?」

 フォルスは、笑っているグレイに真面目な顔を向ける。グレイはポンと手を叩いた。

「そうそう、サーディがもうすぐ来るって」

 グレイの言葉が終わるや否や、裏口の戸がコンコンとノックされ、サーディ様のお着きですとゼインの声がした。グレイはごまかし笑いをし、フォルスは笑いをこらえながら立ち上がって扉に向かった。

「今日一日警備を仰せつかっております」

 ゼインの声を聞いてフォルスは扉を開け、敬礼の体勢でいたゼインに返礼を向けた。フォルスはまず後ろにいたサーディとスフィリアを部屋に通し、ゼインも中に入れる。ゼインは扉の側で部屋の内側を向いて立った。

「フォルス、ちょっと」

 サーディはフォルスを引っ張って階段下まで連れて行き、フォルスの頭が階段の裏側にぶつかりそうなほど端に寄る。

「時間と場所、決めてきたよ。スフィリアには場所も時間も知らせていないんだ。スフィリアもそれでいいって言うから」

 サーディが小声で口にする言葉に、やはりスフィリアがいない方が話を進めやすいだろうと思い、フォルスはうなずいた。スフィリアはサッサとフォルスが座っていた椅子に座り、グレイも加えてリンデアと何事か話し込んでいる。サーディからメモを渡され、フォルスはそれに目を通し、時間と場所を確認した。サーディは小声での話を続ける。

「反戦の気持ちは持っている。地位も結構なモノで、お付きの人間はいるわ、こっちに亡命でもしたら戦が激化するかもしれない程らしいんだ。でも、ライザナルカンドは皇帝の力がものすごく強いから、彼だけではどうにもできないって」

「間違いなく反戦の意思はあるんだろうな」

「それは大丈夫だ。会ってみて驚いたよ。ホントにスフィリアと本気なんだから」

「驚く方向間違えてないか?」

 サーディは苦笑でフォルスに答え、すぐに口を開く。

「とにかく、反戦の意志を持つ騎士の名前を教えて欲しいらしい。で、できるなら行動に移」

「お茶をお持ちしました」

 ユリアの声のすぐあとに、ゴンッと音がした。声に驚いたサーディが思わず身を引き、それを避けようとしたフォルスが階段の裏側に頭をぶつけたのだ。

「ご、ごめん」

 サーディは、かがみ込んだフォルスに慌てて謝った。

「なんてことっ」

 お茶の乗ったトレイを持ったままうろたえているユリアにも、サーディはゴメンと謝っている。頭を抱えてジッとしたままのフォルスを、側まで来たリンデアが心配げにのぞき込んだ。

「大丈夫?」

「リンデア、あったよ、こんなところに」

 頭を抱えたまま笑い出したフォルスに、リンデアはなおさら不安げな顔をした。フォルスはそんなリンデアに苦笑を向け、左手で頭を押さえたまま右手で短剣を引き抜き、ドンと床に突き立てる。

「あ、こら、何すんだ!」

 駆け寄ったグレイの目の前で、フォルスは突き立った短剣の柄をガタガタと動かすと、その短剣を床の木片ごとまっすぐ引っ張り上げた。

「グレイ、この下に何があるか知ってるか?」

 訝しげなグレイに問いかけると、フォルスは床の穴に手をかける。

「何がって。何かあるのか?」

 グレイは、その穴をのぞき込もうとフォルスの向かい側まで行った。

「グレイ、そこにいちゃ開かないよ」

 グレイが三歩下がると、フォルスは穴のまわりをぐるっと指さした。

「ここだけ四角く一直線に切れ目があるだろ。手をかける場所だってあるんだから開くはず」

 フォルスは腕に力を込めたが、なかなか持ち上がってこない。一度力を抜くと、改めてもう一度引っ張った。いつの間に起きていたのか、ティターナがフォルスに走り寄る。

「開けるの?」

「ああ。できるか?」

「まかせて」

 ティターナはフォルスがどけた場所に座り込むと、子供の大きさから巨大な緑色の身体へと変化する。床に開いた穴に三本の指をかけて力を入れると、ガタッと音がして、床がずれた。

「な、なんで? こんな記録どこにも……」

 驚いたグレイに、フォルスは笑みを向けた。

「ただの床下だったら大笑いなんだけど。明かり持ってきてくれる?」

 声をかけられたユリアは、お茶を持ったまま廊下に姿を消した。フォルスはティターナの持ち上げた床板に手をかけ、ティターナと一緒に起こしにかかる。

「階段だ。結構深そう」

 横で見ていたサーディが、穴の奥をのぞき込む。フォルスとティターナは、その板を階段の裏側に立て掛けた。フォルスのありがとうという言葉に、ティターナは喜んで胸を張る。

「すげぇ、ただの床下じゃない。こりゃ何かあるぞ」

 グレイは楽しそうに言いながら、フォルスの袖を引っ張った。

「なぁなぁ、入らないの?」

「自分で入ろうとは思わないんだな」

 サーディが可笑しそうにケラケラと笑いだす。

 ――中へ――

 呆れ顔をしていたフォルスの表情が、頭に響く声で急に引き締まり、側にいたリンデアがフォルスの腕に寄り添うように触れた。ティターナがおびえたように子供の姿に変化する。

「これが理由か」

 そう言うとフォルスはリンデアと顔を合わせ、お互いうなずき合った。グレイが二人に訝しげな視線を向ける。

「女神の声が聞こえたのか?」

「ああ。中に何かあるのは確からしい」

 駆け寄ってきたユリアから、フォルスは明かりを受け取ると、リンデアに向き直った。

「大丈夫か?」

 リンデアは深呼吸をし、フォルスと目を合わせてうなずいた。フォルスはリンデアの身体に腕を回して支える。

「じゃ、行こう。足元、気を付けて」

 フォルスはリンデアを連れて、ゆっくりと階段を降りていく。

「付いてってもいいか?」

 グレイの声に、いいよとフォルスのくぐもった返事が聞こえ、グレイも階段を下り始めた。

 二階への階段と同じくらいの長さを下りきると、ドアのない小さな部屋に出た。部屋の真ん中に、机と椅子が一つずつ置いてある。フォルスが手にした明かりをかざすと、壁一面の本が目に入ってきた。

「書庫、か?」

 フォルスの声に、リンデアはただうなずいて、壁を上から下までながめている。

「うわっ、すげぇ! フォルス、お前大好きだぁ!」

 グレイは物凄い数の本を目にして驚喜し、後ろからフォルスに抱きついた。

「やめろって。頼むからそういうのは」

「感謝の気持ちくらい受け取れ」

 そんなモノいらないと文句を言うフォルスからサッサと離れると、本を見せてとグレイは明かりを受け取った。

 突然、フォルスの腕をリンデアがつかんだ。その途端、リンデアの身体から虹色の光があふれ出してくる。フォルスは思わずリンデアを引き留めるように抱きしめた。しかし全身が光に包まれていき、フォルスを見上げたその瞳は、緑色の輝きを放っていた。

「てめぇ……」

 フォルスが緩めた腕から抜け出し、女神は本の壁に近づいた。女神が手を高く伸ばすと、その先にある手の届いていない場所の本が一冊だけ棚から出てきて空に浮かび、ゆっくりと降りてくる。その本を手にして机の上に置くと、女神はフォルスと向き合った。ジッと見つめてくる緑色の輝きを、フォルスは険しい表情で見下ろす。

「俺はあんたからリンデアを取り返す。絶対にだ!」

 フォルスの言葉に、女神は妖艶な笑みを浮かべて首に手を回し、眉を寄せたフォルスに口づけた。フォルスが睨め付けている目に映る、微笑んだような瞳から緑の光が失われていくと共に、ゆっくりとまぶたが閉じられていく。フッと力の抜けたリンデアの身体を、フォルスは抱きしめて支えた。

「リンデア、おい、リンデア?」

 フゥッと吐き出す息の音が聞こえ、リンデアはうっすらと目を開いた。ハッとしたようにフォルスの両腕を支えにして立つ。

「フォルス? 今、急にシャイア様が……」

「そんなことより、大丈夫か?」

 心配そうにのぞき込んだフォルスに、リンデアは微苦笑した。

「平気、驚いただけ」

 フォルスは、明らかにダメージを受けているように見えるリンデアの髪を、ガラス細工を扱うようにそっとなでた。グレイは女神が机に置いた厚い本をめくり始める。しおりのようにはさまれた白い羽根ペンに気付き、小さな明かりを頼りにしてそのページに目を通し出した。

「おい、出てから読めよ」

 フォルスは不機嫌に言い放った。グレイは肩をすくめる。

「だってこんなにある本、全部持って行けないよ」

「いきなり全部読める訳じゃないだろ」

 フォルスに声だけ、そうだけど、と答えたが、グレイの視線は相変わらず本のページに向けられていた。ブツブツと詩を口にする。


  火に地の報謝落つ

  風に地の命届かず

  地の青き剣水に落つ

  水に火の粉飛び

  火に風の影落つ

  風の意志 剣形成し

  青き光放たん

  その意志を以て

  風の影裂かん


「なぁ、この詩なんだと思う?」

「知らねぇよ、そんなもの」

 女神に対して憤慨している投げやりなフォルスに、グレイはため息をついた。

「だけど、さっきの様子だと、女神はこれを見せたかったんだと思うけど」

「意味が分からなきゃ、どうしようもないだろ。話せるんなら口で言えってんだ。あの野郎、リンデアを好き勝手にしやがって」

 フォルスの言いように、リンデアが驚いて目を丸くする。

「あの野郎って、シャイア様に」

「けしかけられているみたいで嫌なんだ。あんな……」

 キスのことを口にできずに、フォルスは唇を噛んだ。グレイは苦笑する。

「降臨の時に無事だったこともあるし、フォルスにも何かあるのかもしれないな。あれは俺にはフォルスへの期待に見えたよ」

「期待? 冗談。宣戦布告でもされた気分だ」

「お前なぁ……。いや、腹が立つのも分からない訳じゃないけどさ」

 グレイの言葉に短く息を吐き出すと、フォルスは部屋を出ようと階段に足を向ける。

「もういい。ここを出よう」

「まぁ待て待て」

 グレイは、リンデアと階段に向かいかけたフォルスの鎧をつかみ、引き留めた。面倒そうに振り向いたフォルスに本を手渡し、その上にもどんどん積み上げる。本が顔の高さまでくるとフォルスはグレイに背を向け、リンデアを促して階段を上り初めた。

「あ、フォルス!」

「あとは自分で運べ」

 フォルスはすぐに見えなくなり、慌てたグレイは本を数冊だけ手にして後を追った。

 部屋では照れくさそうなサーディの苦笑が、フォルスとリンデアを出迎えた。全部聞こえていたことを知らないフォルスは、その苦笑をいぶかしく思いつつ、抱えてきた本を机の端に乗せる。あとから来たグレイが、その横に何冊かの本を置いたのを見て、フォルスはムッとした顔をグレイに向けた。

「それだけか? 本」

「だって、サッサと行っちゃうから」

 グレイは照れ隠しのように笑った。フォルスとリンデアの様子を見ていたティターナが駆け寄ってきて、リンデアと手をつなぐ。フォルスは、控えめに笑っているリンデアの顔色が悪いことに気付き、その顔をのぞき込んだ。

「少し休んだ方がよくないか?」

「でも……」

 リンデアはサーディとスフィリアに視線を走らせた。サーディは両手のひらをリンデアに向けて振る。

「あ、いいよ、いい。気にしないで休んで。フォルスに用事も済んでるし」

「じゃ、コトが済んだら連絡する」

 フォルスはサーディにそう言うと、リンデアの背に腕を回した。

「行こう」

「お茶をお持ちしました」

 改めてお茶を運んできたユリアが、階段へ向かう二人を見て目を伏せた。フォルスはそれに気付いたが、素知らぬふりで二階へと向かう。ティターナもその後をチョコチョコと付いていった。スフィリアはユリアにあからさまに嫌な顔を向けると、グレイを部屋の隅に引っ張っていき、話を始める。

 ユリアは食卓テーブルの隅に落ち着いたスフィリアとグレイの前にお茶を置き、離れて立っていたサーディの前にも置いた。

「ちょっと、いいかな」

 お辞儀をしたユリアを、サーディが引き留めた。ユリアは表情を硬くして息をのんだが、お茶が二つ残ったトレイをテーブルに置き、サーディがどうぞと言って引いた椅子に腰掛ける。

「もったいないから、君も飲んだら?」

 ユリアの隣に座ったサーディは、そのトレイからお茶を一つテーブルに移した。お茶が目の前に置かれてコトッという音を立て、ユリアはハッと我に返る。

「申し訳ありませんっ、サーディ様にこんな……」

 サーディはかまわないよと苦笑した。ユリアはサーディの笑みを見て、疑わしげに視線を合わせる。

「あの、私がフォルスさんに言ったこと……」

「あぁ、グレイからね。フォルスは昔からそういう話題を面倒がる奴だから」

 目を伏せたユリアを見て、サーディは小さくため息をついた。

「気持ちは分からない訳じゃないんだけど、あんな脅すような言い方はよくないよ。考えるどころか、逆に嫌がられてるって分かるだろう?」

 サーディの言葉を聞いているのか、ユリアはうつむいたまま口を閉ざしている。サーディは話すのを少し迷い、思い切るように言葉をつないだ。

「俺は当人じゃないから関係ないって思うだろうけど、なんか嫌なんだよね、君の、その困らせて喜んでるみたいな雰囲気がさ」

 顔を上げたユリアと視線が合い、サーディは口をつぐんだ。ユリアは悲しげに、それでもほんの少しだけ笑みを見せる。

「困っていますか? フォルスさん。ホントに?」

「いや、だから、それで喜ばれるのは……」

「ごめんなさい、でも、嬉しいです」

 ユリアは両手で顔を覆った。指の隙間から、チラッと涙が光って見える。その涙をぬぐってユリアは顔を上げた。

「覚えていてくれなかったのが悲しくて、巫女様にかないそうにないのも悲しくて。でも、どうせかなわないなら、せめて思い出してもらえるような存在になりたかったんです。あんな馬鹿もいたなって、それでもいいから……」

 泣くのをこらえているようなユリアの表情を、サーディは呆気にとられて見ていた。思いも寄らなかった考え方に、気持ちが引っ張られている。ユリアは小さく息をつくと、再び口を開いた。

「私、最初からシスターになるつもりでいました。でも、いけないことですよね。もし必要だと思われたなら、このことをフォルスさんに伝えてくださっても……。失礼します」

 ユリアは立ち上がり、飲まなかったお茶をトレイに乗せようと手を伸ばした。その腕をサーディがつかむ。

「ちょっと待って」

 ユリアのハッとした様子に、サーディはつかんだ手を慌てて引っ込めた。

「あ、ご、ゴメン」

「いえ……。まだ、何か」

「いや、もし君がフォルスに嫌な奴だって思い出されたら、痛くないか? 嬉しいんじゃなくて、痛いんじゃ……、え?」

 ユリアの瞳からボロボロと涙がこぼれてきて、サーディは言葉に詰まった。かける言葉を見つけられないうちに、ユリアは廊下に駆け込んでいき、サーディはユリアの後ろ姿を茫然と見送る。

「泣ぁかした」

 スフィリアがボソッとつぶやいた。

「泣ぁかした」

 スフィリアを振り返ったサーディに向かって、グレイはスフィリアの声色を真似て言い、苦笑して肩をすくめる。

「お前ら!」

 サーディをチラチラと見ながら、スフィリアとグレイは顔を見合わせ、声を殺して笑った。サーディがイライラをつのらせる。

「やかましいっ!」

 大声で怒鳴って、サーディは二階への階段に向かった。登り始めようとすると、グレイがオーイと声をかけて引き留める。

「伝えるのか?」

「そんなの……、わからねぇ!」

 ムッとした顔で言い返すと、サーディは二階へ向かった。

 二階へ上がり廊下を見ると、バックスとアリシアがリンデアの部屋の前で、心配げになにやら話をしていた。サーディに気付いたバックスが敬礼を向ける。

「サーディ様」

「え? サーディ様?」

 驚いたアリシアがサーディと向き合って深々と頭を下げた。バックスはアリシアだと紹介し、サーディは同じように頭を下げて挨拶を返す。

「始めまして。何度かフォルスに聞いたことがあります。四歳上の姉みたいな人だって」

「あ、そ、そうですか」

 アリシアは引きつったように笑うと、どうして歳まで言うかなとつぶやき、こぶしを握った。サーディは慌てて、そうは見えませんよと言葉を継ぎ足す。バックスは作り笑いを浮かべると、サーディをのぞき込んだ。

「フォルス、ですか?」

「そうだけど。どうかした?」

 不思議そうに見上げたサーディに、バックスは困惑した顔を向けた。

「いえ、ちょっとからかったら、リンデアちゃんの部屋に立てこもっちゃったんですよね。ティターナも一緒だから大丈夫だと思うのですが」

「からかった?」

 疑わしげなサーディに、アリシアはごまかすように笑う。

「ええ、ちょっとだけ」

「た、立てこもったって、一体……」

「リンデアちゃんと部屋に入って、カギをかけちゃったんです」

 アリシアは苦笑したが、心配なのだろう、目は笑っていない。どんなからかい方をしたんだろうと思いながら、サーディは肩をすくめた。

「護衛はフォルスが仕事でやっていることですから、心配しなくても大丈夫ですよ」

 そう言いながらサーディは、俺はあんたからリンデアを取り返す、という地下から聞こえてきたフォルスが女神に向けたのだろう言葉を思い出していた。どちらかと言えば、フォルスの行動よりも女神の降臨の方が、ずっと不徳に近いと思う。フォルスにせめて思い出してもらえるほどの小さな存在になることさえ、ユリアには遠く思えても仕方がないのかもしれない。可哀想だが、ユリアの気持ちを自分が口にすることは、やはり間違いなのだろう。ユリアの涙が脳裏をよぎり、サーディは大きくため息をついた。


 奪還したヴァレスの街北側に、防壁が壊れている場所がある。反戦の意思があるというライザナルカンドのお偉方が、フォルスと会うために指定してきたのはそこだった。労働者を雇い、主にゼインの隊の指示により修繕工事が進められている。

 夕暮れ前、日が傾きかけた中を、フォルスはその指定された場所へと向かっていた。ちょうど作業が終わる時間なので、たくさんの労働者とすれ違う。フォルスは目立たぬように軽い乗馬用の鎧を着け、人の流れに逆らわなければならないため、道の端をうつむき加減で歩いていた。

 サーディが反戦運動をするのはよくないとフォルスは思っていた。推進とまではいかないが、クエイドをはじめ、戦をやめるべきではないと主張する者も少なくない。皇太子であるサーディは、戦への思い一つで敵ができてしまう立場にいるのだ。しかし、コネはつかんだが実行を任されたことで、フォルスはいくらかだが安心することができた。

「待ってよ」

 不意に後ろからかけられた声に振り返ると、そこには子供の姿をしたティターナがいた。フォルスは思わず後ろに身体を向け、かがみ込んでティターナと向き合う。

「どうしたんだ?」

「リンデアが着いて行けって。何もしゃべらないで、話だけ聞いてろって」

 フォルスにはすぐに合点がいった。ティターナは人の心を覗くことができるのだ。これほど正確に嘘を見破ることができる者は、人間にはいない。

「リンデアを守るんじゃなかったのか?」

 ティターナはスプリガンという妖精で、リンデアにまとわりついているガーディアンだ。言われて素直に着いてくるのが妙に可笑しく思う。フォルスの苦笑を見て、ティターナはムッとした顔をした。

「仕方がないだろ。すごく心配しているんだから」

 むくれたティターナの頭をなでて、フォルスはありがとうと微笑んだ。どんなことになるか分からないから少し離れたところにいるようにと言いつけ、フォルスはまた約束の場所へと足を向ける。

 工事現場にはすでに労働者はおらず、崩れた防壁の前にゼインの隊の見張りが二人だけ残っているのが見えた。どちらもメディアナでは一般的な、茶色の髪と瞳をしている。しかし、そのどちらかが今回話をするライザナルカンドの人間なのだ。フォルスはまっすぐ見張りに向かって歩いた。もう少し暗くなってくると、フォルスの目はほとんど黒に見える。自分がフォルスだと見分けてもらうために、会う時間が日の沈む前でよかったと、フォルスは少し安堵した。

 左側にいた見張りの一人がフォルスに気付いたのか、もう一方の兵士に何事か話しかけ、フォルスの方へと駆け寄ってくる。側で見ると結構背が高い。フォルスはその笑顔に見覚えがあった。ヴァレスに入る時にフォルスが噂通りの人間だと言い、買い被りすぎだと否定しても笑顔を崩さずに見ていた兵士だ。

「あなたは。あなたが?」

 疑わしげに目を細めたフォルスに、兵士はヴァレスの門の前で見せた優しそうな笑顔を向けた。

「ご案内します。まだコトを大きくするわけにはいきませんでしょうから」

 コトが大きくなって困るのは、この兵士の方のはずだ。だが兵士の言った言葉は自分に向けられているように聞こえ、フォルスは顔をしかめた。振り返ると、もう一人の兵士はこちらを気にする様子もなく、見張りを続けている。

「気になりますか? 彼は私とは違って、最初からメディアナの兵士ですよ」

 変わらない笑顔で兵士が口にした言葉に、フォルスは疑問の目を向けた。兵士は軽くお辞儀をする。

「私はジェイストークと言います。ライザナルカンドの諜報部の者です」

 それだけ言うと、兵士は防壁の方へと進んでいく。フォルスはそれに従った。

 ライザナルカンドの諜報部と聞き、フォルスはうんざりした。実際どれだけの人間が入り込んでいるか聞いてみたくなる。だがそれは今回話し合うこととは違う。こちらからも余計なことを言う必要が起こらないよう、話は広げない方がいいと思った。

 小さめの家々と防壁にはさまれた細い道に出て、ジェイストークはチラッとフォルスをうかがい、そのまま壁に沿って歩き出す。

「あなたに会っていただきたいのは、ライザナルカンド皇帝フルフォード様の第二王子、レクタード様です」

 王子と聞いて、フォルスは当然のようにサーディを思い浮かべた。サーディの場合は、街に出ることすら制限され、ヴァレスに来たのさえ初めてだ。ましてや敵国までなど、微塵も考えられない。

「そんな立場で、よくメディアナまで」

 半ば呆れたようなフォルスの声に、前を行くジェイストークは、振り向かずに肩をすくめた。

「第一王子もメディアナに」

「来ているんですか?」

 思わず驚いて返したフォルスの言葉に、ジェイストークは苦笑を向ける。

「こちらは不可抗力なのですが」

 完璧な笑顔が崩れたその表情に、フォルスは顔をしかめた。

「というと、事故か何か?」

 眉を寄せたフォルスに、ジェイストークは歩みを止めて向き合う。

「あなたがライザナルカンド皇帝フルフォード様の第一王子、レイクス様であらせられます」

 聞き返そうと発したはずの言葉が、声にならなかった。言葉の意味が飲み込めずに、フォルスはジェイストークの顔を茫然と見つめる。

「あなたの歳を伝え聞き、調べさせていただきました。特異な紺色の瞳を持ち、歳まで合うなど、そうそうあることではないでしょうから」

「何を言っているんだ? 俺が、何だって?」

 ジェイストークの言葉がフォルスの思考を奪うように通り過ぎていき、何も考えられなくなる。耐えられずにフォルスは視線をそらした。ジェイストークは、そんなフォルスの態度に構わず、言葉をつなぐ。

「フルフォード様と、エレン様との間にお生まれになった、王位継承権一位のレイクス様でございます」

「フルフォード? 母との……?」

 フォルスは、ジェイストークがゆっくりと口にした名前を、ゆっくりと繰り返した。だがパニックを起こしているフォルスには、実感も違和感も、どちらも少しも湧いてこない。

「いきなりな話で申し訳ないのですが、事実なんです。これから会っていただくレクタード様は、レイクス様の弟君にあたられる方です」

「俺は今日、反戦運動の話を……」

 自分が極度の混乱状態にあることを、フォルスは自分の発した言葉で悟った。口をつぐんだフォルスに、すべてを理解しているような笑みを向け、ジェイストークはうなずく。

「ええ、レクタード様とは、ぜひその話をしていただきます。すぐ先ですので、こちらに」

 ジェイストークは軽くお辞儀をすると、またフォルスに背を向けて歩き出した。

 フォルスは前を行くジェイストークの背を見ながら足を進めた。話をするのは結構な地位の人間だと、サーディが言っていたのを思い出す。さっきの話が本当なら、自分も話し相手と同等の、いや、それ以上の地位なのだ。しかも、母のエレンもそれ相応の身分ということになる。母には何かにつけて強くなりなさいと言われ続けていた。それはまさかこの時のためか。それとも、もっとこの先に何か望んでいたのだろうか。

 道端の木に三頭の馬がつながれ、その向こうに見え隠れしていた人影が、こちらに気付いて向き直った。ジェイストークが軽くお辞儀をすると、その青年は軽く手を振って返してくる。彼がレクタードなのだろう。歳や背丈はほとんどフォルスと同じほどで、まるで自らが光を発しているかのような金髪が緩やかな風になびいている。近づくに連れて整った顔立ちや薄い水色の瞳がハッキリ見え、その呆れるほどの典雅な雰囲気にフォルスは思い切りため息をついた。

 側まで行き、ジェイストークは青年に頭を下げた。青年はジェイストークにありがとうと言葉をかけ、フォルスと向き直る。

「私はレクタード、あなたの弟です」

 フォルスは思わず片手で顔を覆った。信じろと言う方が間違いだと思う。認めているのかいないのか疑わしげな顔のフォルスに、レクタードはシルバーの宝飾品を差し出した。それは球形をしていて、五本の鎖で鎧に付ける金具とつながれ、落ち着いた光を反射している。見覚えのある形に、フォルスは眉を寄せた。

「これはサーペントエッグ、一般的にはエッグと呼んでいるモノです。材質は違うでしょうが、あなたも持っているはずです」

 レクタードは、球形の部分の細工に爪をかけ、エッグと呼んだそれを開く。ただの宝飾品と思っていたフォルスは、それが開くことに驚いて目を見張った。レクタードはエッグの内側を、フォルスに見やすいように差し出す。

「母は違いますが、これがあなたと私の父です。持ち主の両親が描かれているんですよ。こちら側の紋章は王家のものです」

 その球形の内側左には金で細工された紋章が浮き彫りになり、右には細密肖像画が描かれていた。確かにレクタードと同じ色の髪と瞳の女性が、豪華な礼装の男と一緒に描かれている。そしてその男、皇帝フルフォードだろう人物は、当然のようにフォルスと同じ髪の色をしていた。エッグの内側を見たことはなかったが、鎧に付ける金具がまったく同じ形であることを、フォルスはハッキリと覚えている。そしてそれはエレンが残したモノが確かにサーペントエッグというモノなのだと、フォルスに語りかけていた。

 黙り込んだままエッグを凝視しているフォルスに、レクタードは微かな笑みを浮かべる。

「あなたのエッグの精密肖像画も同じ画家が描いたそうです。見ていただければ分かります」

「ライザナルカンドでは身分証明を兼ねたお守りのようなモノなんですよ」

 ジェイストークが、レクタードの隣から付け加えた。メディアナでは星の形に削った青い石が、ペンタグラムというお守りとして普及している。その石をリンデアと交換していたフォルスは、お守りと言う言葉を聞いて思わず喉元にあるペンタグラムに手をやり、リンデアの名前を呪文のように想った。今までのパニックが嘘のように気持ちが落ち着いてくる。

「こんな昔のことを、どうやって調べたんだ?」

 フォルスが観念したように向けた疑問に、ジェイストークは軽く頭を下げた。

「レイクス様の過去をたどらせていただきました。簡単でしたよ。関わった方は誰もがレイクス様を覚えていましたし、エレン様の名前もすぐに出てきましたし、ドナでのことも」

 ジェイストークは、フォルスが視線をそらし、眉をひそめたのを見て口を閉ざした。フォルスは一呼吸置いてすぐにジェイストークと目を合わせる。

「で? いったい俺に何をしろと?」

「私たちと一緒にライザナルカンドへ戻ってください」

 真剣な顔のジェイストークに、フォルスは首を横に振って見せた。

「無茶なことを言っていると思わないか?」

 問いを向けられて、レクタードは控えめなため息をつく。

「無茶は承知の上でお願いしています。エレン様とあなたがさらわれてからずっと、未だに父はあなた方に固執しています。あなたが戻らない限り、父にとってメディアナは敵国でしかありません」

 レクタードの言葉を聞き、フォルスは忌々しげに歯噛みした。

「今さら戻れって? 固執するくらいなら、最初から調べるなり探すなり、できたはずだろう」

 今度はレクタードが不機嫌そうな顔になる。

「行動は起こしているんです。だが正式に送った使者は殺害され、あなた達が住んでいるだろうドナには毒まで」

「待てよ。メディアナにライザナルカンドの使者など来た記録はない。それにドナの事件で実行犯だとつかまったのはライザナルカンドの人間だ。それに母はライザナルカンドの兵に追われて逃げてきたところを父が救ったと聞いている」

 フォルスの反論を聞き、レクタードはため息をついた。

「ルーフィスって方は、今は首位の騎士なのでしょう? そんなモノをもみ消すことくらい、国なら簡単に」

「メディアナはそんな国じゃない」

 フォルスが言い捨てた言葉に、レクタードは苦笑する。

「じゃあ、どうしてエレン様は殺されたんです? ドナで生き残っていられたら困るからじゃないんですか?」

「だったら、俺が生き残っているのはどうしてだ? だいたい知られて困ることなら、死んだその場に墓なんて作ったりはしないだろう」

 苦々しげなフォルスに、レクタードは肩をすくめた。

「まいったな。本当にあなたは根っからメディアナの騎士なんですね。カケラも疑おうとしない。スフィリアが言っていたとおりだ」

 レクタードの顔に、穏やかな笑みが浮かぶ。フォルスはため息をついた。

「どうしてスフィリアと知り合ったんだ?」

「最初は王家を知るために、単に利用しようと思ったのですが。でも、惹かれてしまいました。彼女はおおらかで明るくて、とても強い女性ですね」

 レクタードが並べた言葉に一瞬面食らってから、フォルスはなんとかうなずいた。

「え? あ。そういう言い方をすれば、そうだな」

 そういう言い方って、と、ムッとした顔でつぶやいたレクタードに、フォルスは思わずゴメンと謝って口を押さえた。レクタードはため息をつくと、声を潜めて笑っているジェイストークを気にしながら、軽く咳払いをする。

「スフィリアには感謝してくださいね。彼女のことがなかったら、あなたを殺して帰る方が、私にはよっぽど建設的だったんですから」

 いくら言葉を繰り返されても、フォルスには取り繕っているようにしか聞こえない。フォルスはティターナを探そうとし、すぐ側の木につないである馬三頭のうちの一頭にまたがっているのを見つけて目を丸くした。ティターナはフォルスに向かって、嘘は言ってないよとケラケラ笑ってみせる。フォルスの不審な行動に、ジェイストークが馬を振り返った。

「どうかしましたか?」

「いや、なんでも」

 引きつった笑いを浮かべながら、フォルスはレクタードとジェイストークにはティターナが見えず、声も聞こえていないのだと悟った。

 フォルスの煮え切らない態度にイライラしたのか、レクタードはムッとしたようにフォルスと顔を突き合わせる。

「とにかく、あなたが戻らない限り戦が終わることはあり得ないんです。王位継承権一位なのだから、完全に警護も受けられます。危険はありません」

「帰れの一点張りだな」

「そうしてくれないと、私はスフィリアと会うことすらままならないんです」

 レクタードの真剣な表情に、フォルスは戦をやめさせてと言ったスフィリアの顔を思いだした。確かにリンデアを女神から取り返すためにも、戦は邪魔なのだ。だが、リンデアを取り返すからといってライザナルカンドに行かなければならないのでは、本末転倒な気もする。

「もしも、もしもだ。ライザナルカンドに行ったとして、戦をやめさせることは可能なのか?」

 フォルスの問いに、レクタードは微かに眉を寄せた。

「父のいきどおりは、何割かは解消されるでしょう。もともとシェイド神が起こした戦ですので、そのあたりをなんとかしないとなりませんが」

「なんとかって、神をか?」

 考えられない言葉に、思わず声を大きくしたフォルスに、レクタードは当然とばかりに薄い笑みを浮かべた。

「ええ。あなたに来て欲しいのは、それもあるんです。紺色の瞳を持つ者は、神と対話ができると言われていますので」

「対話だって?」

 シャイア神の意思が頭に響いてくる嫌な感覚を思い出して、フォルスは眉を寄せた。対話どころか一方的に意思を伝えてくるだけで、こちらの言葉を聞いているのか分からない。返ってきたのは、フォルスにとってはふざけているとしか思えないキスだけだ。これが対話だとは間違っても認められない。

「できないんですか?」

 レクタードが不安げにフォルスをうかがう。フォルスは疑わしげな顔でレクタードを見返した。

「いったいどこからそんな話がでてくるんだ?」

「どこって」

 説明しようとしたレクタードを、ジェイストークは肩を叩いて止めた。

「それは追々。レイクス様がライザナルカンドに戻られてからでも、ゆっくりお話ししますよ」

 ジェイストークは、フォルスが胡散臭げな顔をしたのを見て、邪気のない笑顔を向ける。

「そんなことより、反戦運動の話です。私たちは誰が反戦の気持ちを持っているかまったく知らないんです。なにせ、レイクス様にお会いしたのが最初の一歩なのですから」

「今ここで名前を言えと?」

 フォルスが向ける疑いの目に、ジェイストークは苦笑した。

「いいえ。こんな話の後ですし、信じていただけないのなら仕方がないと思っています。気が変わりましたら、タスリルという薬売りがヴァレスにいますので、そちらから連絡していただければありがたいのですが」

「そいつも諜報員なのか」

 フォルスは、またかとうんざりしてため息をついたが、ジェイストークは首を横に振る。

「いえ。今はメディアナの人間です。ですが、もともとはライザナルカンドに住んでいた人間ですから、話を通す方法がないわけではないと言っていました。レイクス様に来ていただけるのなら、タスリルを危険にさらして仲介に使う必要もないのですが」

「どうしても話をそっちに持っていきたいんだな」

「当然でしょう。反戦運動のことを差し引いても、レイクス様を連れて帰ることは大きな勲功になりますからね」

 笑顔のジェイストークに、そういうことかとフォルスは苦笑を返した。それが手柄だと聞いたことで、今までの話に信頼の度合いが増えるのを感じて、フォルスは妙に可笑しかった。

「悪いけど、今は黙ってライザナルカンドに帰って欲しい。冷静になって考えてみたいし、一度キチンと父から母の話を聞きたいんだ」

 力の抜けた苦笑を返したフォルスに、ジェイストークは丁寧にお辞儀をする。

「分かりました。ですが、父ではなくルーフィス殿と、ですね。レイクス様の父上はフルフォード様以外にはいらっしゃいません」

 ジェイストークの肩に手をかけ、レクタードは押しのけるように前に出た。

「あなたがここにいるのは、最初から間違いなんですよ。なのに」

「レクタード様」

 ジェイストークは、フォルスが息を飲んだのを見て、レクタードの言葉を遮った。不満げなレクタードを促し、ジェイストークは木につないであった馬の手綱を解いて、一緒に道まで馬を連れ出す。フォルスは平静を装って、ティターナが乗っている一頭だけ寂しげに残った馬の首をなでた。

「こいつは連れて行かないのか?」

「あなたに今、ドナの村まで連れてきていただけると嬉しいのですが」

 ジェイストークは、相変わらずの笑みを浮かべながら騎乗する。ドナは今、国境の向こう側、ライザナルカンドなのだ。笑えない内容の言葉に、フォルスは冷笑した。ジェイストークはレクタードが馬に乗るのを待って口を開く。

「では近いうちに交換条件をもって、正式にお願いに上がることにいたします。あなたが嫌だと言えないような条件を考えることにしましょう」

 ジェイストークの言葉に、フォルスは苦笑して背を向けた。きちんと南門から街を出るつもりなのだろう、馬が街の中心に向かって歩き出す足音が聞こえてくる。振り返ると家々の陰に入っていく馬が、チラッとだけ見えた。

「どうするの?」

 馬から下りたティターナが、二人を茫然と見送ったフォルスの顔をのぞき込む。

「どうするも何も、俺には全然信じられない」

「今の人たち、嘘は言ってないよ?」

 ティターナには何気ない一言が、フォルスにとてつもなく重くのしかかってくる。

「連れてこなければよかった」

 思わずそうつぶやいたフォルスに、ティターナはプッと頬をふくらませる。

「なんだよ。だってホントのことなんだから仕方がないだろ」

 ティターナの抗議に、フォルスはため息と同時に苦笑した。

「ゴメン。だけど、いきなり突きつけられた現実がこれじゃあな。実感も何もありゃしない」

「あ、そういえば一つだけ嘘もあったよ」

 真面目な顔のティターナに、フォルスは正面から向き合う。

「え? ホントか? 何だ?」

 フォルスは、それが何なのか期待してしまう自分が歯痒かった。ティターナはそんなフォルスの気持ちにはお構いなく、嬉しそうに微笑む。

「危険はありませんって言ってたけど、危険がないなんてことはないみたいだよ」

 一瞬呆気にとられ、フォルスは気の抜けたような笑い声を上げた。

「そりゃ、そうだろうなぁ。危険がなかったら警護なんて要らないわけだから」

 フォルスは、深いため息をついた。レクタードに見せられたサーペントエッグの材質違いのモノは、神殿においてきた鎧の内側に付けてある。メディアナの騎士が着ける正規の鎧に、ライザナルカンドのお守りが下がっているのだ。

 自分がライザナルカンドの皇太子なのだとしたら。本当にここにいることが最初から間違いだったなら。ここに存在している自分はいったい何なのか。二位の騎士? それのどこに価値があるのだろう。

「ねぇ、帰ろう? リンデアのとこに」

「ああ、そうだな」

 歩き出したティターナの後から踏み出した足元が、フォルスには真綿を踏んでいるように覚束なく感じた。


 ティターナをごまかしながら、フォルスはたっぷり時間をかけて神殿に戻った。本当に戦をやめさせることができるなら、ライザナルカンドに行くのは無駄にならないと思う。それは自分が皇帝を継げば、もっと現実味を増す。レクタードが反戦運動をしようとしていることも、心強い。

 レクタードが最後に言った、ここにいるのは間違いだという言葉を、フォルスは否定できずにいた。母と自分がメディアナに来たことで、フルフォードのメディアナに対する敵意が強まったのだとしたら。ライザナルカンドにいた方が両国共に憎悪の念をつのらせるようなことはなかったに違いない。むしろ自分のやっている反戦運動は、立場だけを考えてもフルフォードの持つ怒りと比べ形ばかりのモノに過ぎないだろう。しかもライザナルカンドにいたとしたら、ドナの毒殺事件も起きずに済んだかもしれない。母が斬られてしまうことも、なかったかもしれないのだ。でも、それでもここにいるのは間違いだとは認めたくなかった。認めてしまえばメディアナでのすべて、自分自身の存在さえも失ってしまう気がする。

 神殿に着いたフォルスは、夜の闇に高くそびえ立ち、月の青い明かりに浮かぶ鐘塔を見上げた。少し先を行くティターナがフォルスを振り返って待っている。

(自分の国に帰ったらどうだ? そこでなら神に忠誠を尽くす良い騎士になれるぞ)

 クエイドがイヤミで言った言葉も、情景ごと甦ってきた。それを振り払うかのように、フォルスは神殿正面の入り口へと足を向ける。ティターナはいつも出入りする応接室兼食堂への扉を少し気にしながらも、黙ってフォルスに続いた。

「遅いっ」

 神殿裏の見張りだと思っていた人影が、走り寄ってきた。バックスだ。

「心配してたんだぞ。何かあったのか?」

 のぞき込んでくるバックスに、フォルスはただ微苦笑を向けた。バックスは訝しげに神殿正面の入り口に目をやる。

「しかもフォルスが神殿に表から入ろうだなんて、珍しいもいいとこ……、あ、リンデアさんがいるの知ってるのか?」

 フォルスはリンデアの名前を聞いて息を飲んだ。その驚きようにバックスが疑問の目を向ける。

「どうしたんだ?」

「ゴメン」

 フォルスはそれだけ言うと、バックスに軽く手を挙げるだけの挨拶をして、神殿の正面入り口に急いだ。

 見張りの兵の敬礼に、返礼するのももどかしく、フォルスは神殿の大きな扉を開けた。祭壇の前にひざまずいて祈りを捧げている琥珀色の髪の後ろ姿が目に入ってくる。扉の音で身体をビクッと揺らすと、それからゆっくりフォルスの方を振り向き、驚いたように立ち上がった。リンデアだ。リンデアの瞳から涙がこぼれ落ちたのを見て、フォルスはリンデアに駆け寄り、その身体を抱きしめた。

「スフィリアが……」

「聞いたのか」

 腕の力を緩めたフォルスは、リンデアが力無くうなずくのを見た。

「もう帰ってこないかと思っ……」

 リンデアは声を詰まらせてうつむき、手で口を覆う。フォルスはその手をとってリンデアに口づけた。

 もしライザナルカンドに行くとしたら。サーディやグレイとなら、どんな立場だろうと、どんなに時が経っていようと、再会したら今と変わらず笑い合い、話をすることができると思う。でも、リンデアとは違う、そうはいかないだろう。だが、戻れるかも分からない自分を、ただ待っていろとは言えない。だからといって今まで敵だったその中に連れて行き、守り通せるとも思えない。しかも今のリンデアはシャイア神を有する巫女なのだ。メディアナにいてさえ危険な目に遭うのに、ライザナルカンドへ入って無事でいられるわけがない。

 逆にライザナルカンドに行かなかったとしたら。ただでさえ嫌とは言えない条件を持って正式な連絡を入れるとまで言っていたのだ、逃げれば間違いなく追われる身になる。そのせいで戦が激しくなったりしたら、メディアナの中にも敵ができてしまうだろう。もしレクタードが皇帝を継いだとしても、今度はレクタードに命を狙われることになる可能性もある。どちらにしても、一緒にいるだけでリンデアに被害が及ぶかもしれない。

 唇を離し、フォルスはもう一度ありったけの力を込めてリンデアを抱きしめた。

 ライザナルカンドへ行き、戦をやめさせることができたとしても、その時には帰る場所は無いかもしれない。帰りたい場所は国などではなく、リンデアそのもの、ここなのだ。それではライザナルカンドに行く意味がない。しかし、メディアナで逃げ回り、失うことにおびえて暮らしても、そこには安らげる幸せなどカケラもないだろう。リンデアを不幸にするだけだと思う。

 ただ一緒にいたい、それだけのことなのに、フォルスはその手段を見つけることができずにいた。

「サーディ様とスフィリアとルーフィス様が応接室にいるの。行かなきゃ」

 何も言えずにいるフォルスに、リンデアは腕の中からうつむいたままつぶやくように言う。フォルスはうなずくと、リンデアを促して後から続いた。何を考えていたのか、押し黙って椅子に座り、足をブラブラさせていたティターナが、リンデアを追い抜いて廊下に駆け込んでいく。

 思いを巡らせてみて、フォルスはハッキリと理解したことがあった。もしもそのままライザナルカンドにいて母が生きていられたとしたら、自分から剣を手にすることはなかっただろう。人の命や立場と、これほど接することはできなかっただろう。なにより、リンデアと会うことすら無かったのだ。いくら間違いと言われても、メディアナが今の自分を作り上げていることには違いない。そして、今のままの自分でいるためには、リンデアがどうしても必要なのだということも身にしみて感じる。

 たくさんの明かりが灯る応接室が、廊下から明るく見えてきた。そこにティターナが駆け込んでいく。

「フォルスは?」

 サーディの声が廊下にまで響いた。ティターナは返事をしたのかしなかったのか、いつものようにドサッとソファーに寝転がる音だけが聞こえてくる。

 フォルスがリンデアと部屋へ入ると、サーディ、スフィリア、グレイ、ルーフィスが一斉に視線を向けてきた。フォルスはその視線の中で、廊下脇にいた神殿周辺警備であるゼインの敬礼に返礼する。サーディがフォルスに駆け寄った。

「よかった、戻ってくれて。ついさっき、スフィリアに話を聞いたんだ。お前のことだから、戦をやめさせるとかってサッサと行っちまうんじゃないかって、……、あ」

 フォルスと目を合わせたまま、サーディは口をつぐんだ。フォルスが訝しげに眉を寄せると、サーディは目で笑わない苦笑をする。

「お前、じゃマズイか?」

 その言葉で、フォルスは身体の力がすべて抜けるようなため息をついた。サーディの後ろで、グレイが堪えきれずに笑い出す。

「じゃあ、なんて呼ぶんだよ」

「そりゃ、ええと、なんだ……、どうしよう」

 言いよどんでいるサーディに、フォルスは迷惑そうに首を振った。

「そのままでいいって。いきなり態度を変えられたら、免職でもされた気分になっちまう」

「クビにはしないけど。って、そういう問題じゃないだろうが。どうするつもりだ?」

 顔を突き合わせてくるサーディの胸を、フォルスは両手で押し返す。

「どうもこうも。少しは考える時間をくれよ」

 フォルスの返事に、お茶を手にし、食堂の椅子に座ったままのスフィリアが大きく息を吐き出した。

「考えるだなんて信じられない。次期皇帝だなんて滅多にない幸運でしょう? メディアナにいたって、クエイドみたいな人に捕虜にされかねないわよ」

 捕虜という言葉に、サーディは目を丸くして顔色を変える。

「スフィリアお前、何言ってんだ。メディアナにいる限り、フォルスは二位の騎士なんだぞ? まさか、ベラベラと話し歩いてるんじゃないだろうな」

「ひどいわ。さっきココで言ったのが初めて。私だってフォルスがそんなことになったら困るのよ」

 スフィリアは机のお茶に手を伸ばした。少しだけ口に含んだぬるくなったお茶を、こみ上げてくる焦りや悲しみといった感情と一緒に飲み込む。戦がなくならないと、恋人であるレクタードに会うことも叶わないのだ。スフィリアは、フォルスがまだココにいることさえ、辛く感じていた。

「捕虜か。クエイド殿なら、言いそうだよな」

 フォルスはため息のようにボソッとつぶやいた。

「そんなこと、させるかよ」

 サーディは吐き捨てるように言うと、フォルスと向き合う。

「逃げるなら今だぞ」

 サーディの言葉に、フォルスは眉を寄せて唇を噛んだ。サーディはフォルスの肩に手を乗せる。

「城都の城にかくまうこともできるし、南に逃げてしまえばもっと安全だ」

 そうサーディは言い切ったが、フォルスは首を横に振った。メディアナの中にも敵はできてしまうのだ。やはり、今自分にとって安全な場所など、どこにもないと思う。

「かくまうってのが、ライザナルカンドにとっては捕虜なんだ」

 フォルスはサーディの手をそっと払い、苦笑を向ける。

「それに、……、逃げるのは嫌だ」

 サーディは何も言えず、フォルスから顔を背けた。

「行ってくれるの?」

 スフィリアの声のトーンが幾分高くなり、その言葉を聞いたリンデアが視線を落とした。フォルスは、リンデアに伸ばしたい手を握りしめ、気持ちを抑える。

「近いうちに交換条件を提示してくる。話はそれからだ」

 スフィリアは、そう、とだけ答え、机のお茶に目をやった。両手で包んだカップの内側で、お茶が細かな波を立てている。スフィリアは、自分が持っている辛い気持ちと同じモノを、リンデアとフォルスに強いている自分が嫌だった。でも、最後に別れた時のレクタードの悲しげな笑顔が胸から離れないのだ。フォルスがライザナルカンドに行ってくれなければ話が進まないと思う気持ちが、どうしても先に立ってしまう。きっとリンデアにも嫌われるだろう、そう思うと、自分への嫌悪感がまたトゲになって突き出てくる。それでも、レクタードを知らなかった自分には、もう戻れそうにない。

 神殿裏の扉をノックする音が、重々しい沈黙を破った。

「バックスです」

 その声に、壁を背にして動かなかったルーフィスが扉を開けた。失礼しますと敬礼をして入ってきたバックスは、思わず部屋の沈んだ雰囲気を見回す。そのなかでフォルスとだけ目が合った。フォルスはバックスに苦笑を向ける。

「あぁ、そうか。もう遅いもんな」

 フォルスはひとりごとのように言うと、リンデアの背に手を当て、顔をのぞき込んだ。リンデアも何も言わずにうなずく。状況にうろたえながらも、バックスはルーフィスに敬礼を向けた。

「夜間の警備に入ります」

 ルーフィスの返礼を受け、バックスはフォルスを促した。フォルスはサーディとスフィリアに敬礼を向け、リンデアをエスコートして階段を二階へと向かう。階段下に目をやらずに二階の廊下に入ったフォルスを、バックスは後ろについて歩きながら、黙って見ていた。ドアを開け、フォルスは部屋の中を確認して戻ってくる。

「じゃあ、おやすみ」

 フォルスは、リンデアに普段とまったく同じに声をかけた。だが、いつもなら手を振ってドアを閉めるリンデアが、フォルスと向き合ったままその瞳を見つめ、何度か口を開きかけて何か言い淀む。

 邪魔にはなりたくない、そうリンデアは思っていた。できることなら、行かないでと泣いて、すがってしまいたいと思う。でもその都度、逃げるのは嫌だと言ったフォルスの言葉が頭をよぎった。

「リンデア?」

 フォルスは、悲しげにうつむいたリンデアの顔をのぞき込んだ。リンデアは、少し近づいたフォルスの唇にキスをする。

「おやすみなさい」

 震える声で言うと、リンデアは部屋へと入ってドアを閉めた。その行動で、フォルスはリンデアがどうしたいのか、その気持ちを少しも聞いていないことに気付いた。話を聞けるだけの余裕も持てない自分を苛立たしく思う。神殿に戻って最初に見た、祈りを捧げていた悲しげなリンデアの姿が目に浮かんできた。

 肩を落としてドアノブに移したフォルスの視線の中に、バックスの足元が見えてくる。ハッとして顔を見上げると、バックスが難しい顔でフォルスを見ていた。

「まさか、何もなかっただなんて言わないよな?」

 バックスはまっすぐフォルスを見据えている。フォルスは嘲笑を浮かべた。

「実の父親が分かったんだ」

「そうなのか?! そりゃ、良かっ……? 良かったんだと、思うぞ?」

 バックスの迷ったような言葉に、フォルスは苦笑した。

「それが、フルフォードなんだ」

「フルフォード? って、どこかで……、え? まさかライザナルカンドの皇帝?! い、いや、あの、ええっ?」

 パニックを起こしているバックスをおいて、フォルスは自分の部屋のドアを開け、止めようとしたバックスに手を振ってドアを閉めた。

 窓のない部屋に、小さな明かりが一つ灯されている。フォルスは着けていた軽い乗馬用の鎧を外し、大きくため息をついた。部屋の隅に置いてあった鎧が目に入ってくる。メディアナの正式な騎士が着ける鎧だ。いつもよりずっと重たく感じるそれを手にし、内側からサーペントエッグと呼ばれていたライザナルカンドのお守りを外す。

 明かりに近いベッドの隅に腰掛け、フォルスはエッグをじっくり眺めた。球形をした細工に目立たぬよう隠された蝶番を見つけ、反対側の細工に爪をかけて軽く力を入れる。パチっと音がして、エッグは簡単に開いた。その内側には、懐かしい母の顔が細密に描かれ、隣にはレクタードの持っていたエッグの肖像と服装が違うだけのフルフォードがいる。その左には、何度か見たことのあるライザナルカンド王家の紋章が、金の荘厳な光をまとって浮き彫りになっていた。

 ドアにノックの音がした。フォルスは慌ててエッグを閉じて立ち上がり、どうぞ、と声をかけた。ルーフィスが入ってくる。

「お二人にはお待ちいただいている」

 ルーフィスのまっすぐな視線に、フォルスは、そう、と息を吐き出した。フォルスがエッグをもう一度開けてルーフィスに差し出すと、ルーフィスは一瞬迷ったように手を止めてから受け取り、その小さな肖像画に見入った。

「間違いじゃないみたいなんだ」

 フォルスはベッドに座り直し、エッグを見つめたままのルーフィスを見上げた。ルーフィスは眉を寄せ、目を細める。

「会ってすぐに聞いていたら、対処も違っていただろうが……。過ぎたことだな」

 ルーフィスはエッグを閉じると、フォルスに手渡した。

「反目の岩は知っているか?」

 ルーフィスはフォルスに質問を投げながら隣に腰を下ろした。フォルスはすぐ側の顔を振り返る。

「本来の国境の真上にある、真っ二つに割れたデカい岩だろ? 対立の象徴とかって言われてる」

「そう、エレンとは、そこで会ったんだ」

 その言葉に、フォルスは思わずエッグを握り締め、そのこぶしを見つめた。ルーフィスは、フォルスの横顔を見ながら口を開く。

「ちょうどその岩の場所に通りかかった時、まだ小さなお前を抱いたエレンがそこにいた。ガタガタと震えていて、ココはどこかと聞かれたが、答える間もなくライザナルカンドの鎧をつけた兵が四人現れた。エレンを斬ろうとするそいつらから逃れ、ドナに連れ帰った」

「ライザナルカンドの鎧をつけた兵……?」

 フォルスはエッグを見つめたまま繰り返した。ルーフィスはうなずく。

「メディアナの顔見知りではなかった。だからといって、ハッキリとライザナルカンドの人間だとも言い切れんが。エレンも、自分から逃げてきたのか、誰かに逃がされたのか分からんが、アテはないがメディアナに住みたいのだと、何度も言っていた。見たことのない目の色だ、ライザナルカンドかシアネルかパドヴァルか、とにかくメディアナの人間ではないと思った」

 メディアナの人間ではない。ルーフィスもそう思っていたのかと思うと、フォルスは可笑しかった。生まれなど、どこだろうと変わりはないと思っていた。ライザナルカンドで産まれたのではないかと、何度も考えたことがある。それ自体は辛くもなんともなかったのだが。

「まさかここまで位の高い人間だったとは、思いもしなかった」

 ルーフィスの続けた言葉に、フォルスは苦笑を漏らした。

「誰だって、あんなところにそんな人がいるとは思わないよ」

「行ったことがあるのか?」

 聞き返されて、フォルスは慌てて口をつぐんだ。

「いつの話だ、まだそんな無茶を」

「随分前だよ、騎士に成り立ての頃だからまだ近かったし。今はもう、そんなことはしてないって」

「当たり前だ! まだそんなことの判断もつけられないようじゃ」

「だからもう昔の話だってば。ごめんって」

 まだ疑わしげなルーフィスに、フォルスは頭を下げた。

「まったくお前という奴は……」

 フォルスの耳に、ブツブツと文句を言う声が聞こえてくる。

「今回のこともそうだ。捕虜というと響きはよくないが、いくらでも取引はできる。もし自分が犠牲になりさえすればいいなどと思っているなら、ライザナルカンドになど行かせんぞ」

 犠牲と言われ、自分でそう思っているかもしれないとフォルスは気付いた。そして、行かせんという言葉にホッとする。だが、均衡を保っていくには、ひどく微妙な駆け引きを必要とするだろう。半端ではなく大変なことだと思う。

「それ、難しいだろ」

「お前は考えなくていい」

 そのルーフィスの言葉に、フォルスは吹き出した。

「なんだよそれ」

「今まで通りでいてかまわん」

 ルーフィスの真剣な目と向き合い、冗談で考えなくていいと言ったのではないのかと、フォルスはちょっとムッとした。今まで通り、何も変わらずにいられたらとは思う。だが、もしも自分が変わらずにいられたとしても、きっとまわりは違うだろう。ライザナルカンドの人間だと聞いただけで、自分さえ構えてしまうのだ。

「でも、今までと同じように過ごすなんてのは、きっともう夢でしかない……」

「いや、お前は今まで夢を見ていたわけじゃない。一つずつ積み重ねてここまで来たんだ。それは簡単に崩れるモノじゃない」

 ルーフィスの言葉に、フォルスは苦笑した。父がこんな気休めを言うのは、コレがそれほど大きな事態だからなのだろうと思う。

「そうだったらいい。だけど、土台が無くなってしまったみたいで、足元が覚束ないんだ。どうしていいか分からない」

 視線を落としたフォルスの頭に、ルーフィスはポンと手を乗せ立ち上がった。

「まあ、交換条件の提示とやらがあるまで、少し時間もあるだろう。ゆっくり考えてみるといい」

 うつむき加減のままうなずいたフォルスが気になり、ルーフィスはドアに向けかけた足を止めて振り返った。

「そういえば、エレンはお前が乳飲み子のうちから、お前は必ず剣を取るようになると言っていたな」

「必ず?」

 顔を上げて聞き返したフォルスに、ルーフィスがうなずく。

「そう、必ず、だ。何を根拠にそう言ったのかは分からんが、エレンがあんなことになって予言が当たった時には、まだ五歳だっただろう。やめさせるべきか否か随分迷ったものだ。今となっては、よかったのかもしれん」

 ルーフィスはフォルスに微笑を向けると、部屋を出て行った。

 フォルスは大きく息をついた。何か自分の気持ちにかかった靄が気になって仕方がない。フォルスは立ち上がると、エッグをベッドの上に放って部屋を出た。リンデアの部屋の前にいるバックスと目が合う。

「どうした?」

「いや、風に当たりたくて」

 そうすれば、いくらかでも気が晴れるだろうかとフォルスは思った。まだ自分を見ているバックスに手を振り、フォルスは左奥にあるドアを通って鐘塔の鐘へと続く石の階段を登り始めた。小さな明かり取りの隙間から、青い月の光が差し込んではいるが、ほとんど真っ暗だ。それでも何度も登って慣れている階段なので苦にはならない。

 母が何かにつけて強くなりなさいと言っていたのは、父に聞いた母の予言らしきモノと何か関係があるのだろうか。母は何を思い、何を考えていたのだろう。剣を取るようになると言っていたことと、強くなれと言われていたことは、やはりつながりがありそうな気がする。

 気になるのはレクタードが口にした、紺色の瞳を持つ者は神と対話ができると言われているという言葉だ。もっと詳しく聞きたかったのだが、ジェイストークに止められてしまった。母も紺色の目をしていた。というか、母が紺色だから自分も紺色なのだが。母がそうだったとしても、その能力は自分にも受け継がれているのか。神と対話をして、戦をやめさせるなんてことは、本当に可能なのだろうか。

 そして、自分の存在とは、いったい何なのか。

 石の階段を登り切ると、鐘が吊された四角い場所に出た。四方の石壁には、角柱をアーチで結んだ背の高い窓のような空間が並んでいる。その一つ一つの空間から等間隔に月明かりが差し込み、あたりを青く照らす。右側には触れるほど近く鐘があり、今はただ静かに金属の肌を、時折吹くひんやりとした夜風にさらしていた。

 フォルスは北側の壁に近づき、遠くの景色に目をやった。月明かりのせいでドナへの道が見える。レクタードとジェイストークは、もう既にドナに着いているだろう。母の墓のある村だ。

 知りたいことが山のようだ。その答えはライザナルカンドの中にある。父が言っていた取引で、その答えを得ることは難しい。すべてを知るため、戦を止めるためには、やはりライザナルカンドに行かなければならないと思う。だが、理屈では分かっていても、感情が言うことを聞こうとしなかった。

 自分に必要なのは考えることではなく、メディアナを、そしてリンデアを、あきらめるための時間なのだろうか。いや、いくら時間をかけても、あきらめるなんてできない。リンデアに悲しい思いはさせたくないし、自分にもリンデアは必要なのだ。だとしたら、全部を手に入れるためにはどうすればいいのか、それを考えるしかない。

 気持ちが空回りしている。このまま悩み続けても、打開策は見つからないだろう。交換条件の提示があれば、何か道が見つかるだろうか。せめてそれまでは今までと同じに過ごしていたい。

 フォルスは喉元のペンタグラムに触れた。リンデアを自分の手で幸せにするには、どうしたらいいのだろう。ライザナルカンドに行っても行かなくても、一緒にいるだけで被害が及ぶとしたら。ライザナルカンドへ行き、戦を止め、皇位を継がずにメディアナに戻るしか手はない。だが、固執していると言われる皇帝を相手に、どれだけの時間がかかることか。

「フォルス……?」

 背中からかけられたリンデアの声に息を飲み、フォルスは振り返った。ロウソクの小さな炎がリンデアを暖かな色に照らしている。フォルスの胸にリンデアへの想いが痛いほどわき上がってくる。

「どうしてここに」

「バックスさんが気になるから行けって。ここを教えてくれて」

 リンデアが階段への入り口から鐘の側にほんの少し足を踏み出した途端、少し強い風がリンデアの手から明かり取りの炎を奪っていった。足を止めてなびく髪を押さえ、風が通りすぎるのを待つ。フォルスはリンデアの側まで行くと、ロウソクを受け取って足下に置いた。

「ごめんなさい。邪魔になると思ったんだけど、でも……」

 その不安げな声に、フォルスは苦笑した。

「邪魔になんかならないよ。いつでも側にいて欲しいと思っているのに」

 フォルスはリンデアを胸に抱き寄せた。鎧を着けていない身体に、リンデアの柔らかな温もりが伝わってくる。どんなことがあっても、リンデアを失いたくない。でも、どうしたらそれが叶うのかが分からないままだ。いっそのこと、このまま石になれたらとも思う。でも、こんな不安な気持ちを抱いたままでは、やはり幸せとは言えないだろう。

 フォルスの顔をうかがおうと、リンデアはゆっくりと顔を上げた。リンデアに微笑みを残して、フォルスは北の景色に視線を移す。

「ここに来たことはある?」

 フォルスの問いに、リンデアは首を横に振った。フォルスはリンデアの背中を支え、一緒に北側の壁に戻る。

「綺麗……」

 リンデアは月明かりで照らされた青い風景を見つめた。ヴァレスの街が足元に広がり、その向こうにドナへの道が見える。そしてその向こうはライザナルカンドだ。ハッとして隣に立つフォルスを見上げると、その瞳はリンデアを映していた。フォルスは景色を見ているのだと思っていたリンデアは、驚きに目をそらしてうつむく。スフィリアと交わしていた会話が、イヤでもリンデアの脳裏に甦ってきた。

「行って、しまうの……?」

 消え入るような声がフォルスに届く。

「分からない。逃げたり、かくまってもらったりじゃ、死ぬまで状況が変わらないのは分かっているんだけど」

 うつむいたままリンデアは、そうね、とつぶやいた。フォルスは顔をしかめると、大きく上に向かって息を吐き出す。

「きっと、ラッキーなことなんだ、戦をやめさせる努力が直接できるだなんて。でもそれがリンデアと引き替えなら俺は……。一体なんのために行くのか……」

 眉を寄せて、フォルスはライザナルカンドのある北を睨みつけるように見た。リンデアはゆっくりと顔を上げ、険しい表情の横顔を見つめる。

「もし、もしも、行ってしまうことになったらその時は……」

「もしもって、他にも方法があるかもしれない。もっと、できる限りのことを考えて」

 フォルスの言葉を遮って、リンデアは首を横に振る。

「その時は、待たせて」

 その言葉に驚き、フォルスはリンデアと向き合った。

「待つって、だけど、それがいつまでか、戻れるかどうかすら分からないんだ。約束もできないのに」

「約束はいらない。無理だったら、その時は忘れてくれて構わないの。それなら邪魔にならないでいられるでしょう? だから」

 約束はいらない? 忘れて構わない? 邪魔にならない? 口にするのは辛かっただろう聞き返したい言葉を、フォルスは飲み込んだ。見つめ合うリンデアの瞳から、涙がこぼれ落ちる。

「お願い、待たせて」

 フォルスはリンデアを思い切り抱きすくめた。こんなふうに言ってくれる気持ちを思うと、ひどく胸が痛む。できることなら必ず戻ると言葉を返したい。だがこんな不確実なことはないのだ。約束をしてしまったら、帰ることができなかった時、なおさらリンデアを苦しめることになってしまう。でも、もしライザナルカンドに行くことになっても、この言葉がある限り、帰る努力を決して止めることはないだろう。

「待たせて」

 何度も繰り返されるその大切な言葉をすくい取るように、フォルスはリンデアに口づけた。

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