第二章

 ライザナルカンドの首都、マクレーンという都市中央に、巨大な城がある。街の建物から突き抜けて高い尖塔がいくつも建ち並び、面積も膨大だ。城壁に囲まれた前庭には、暖かな場所で咲いた花を運んできて植えたのだろう、決して自然には咲かない花々が咲き乱れている。その寒さに枯れてしまう運命の花々の中、前後を武装した兵士に囲まれて、豪華な馬車三台が城の大きな扉に横付けされた。

 ダークグレイの鎧に身を固めた黒髪の騎士が、一番前のひときわ豪華な馬車に沿って馬を止める。アルトスだ。馬を降りて兵に預け、馬車の扉の前に行くと、その黒い瞳を城に向けて姿勢を正した。

 時を経たずして、華やかで質のよい服装の人々が集まってきた。見送りのためだろう、城の出入り口から馬車までの道に沿って幾重にも並び、馬首の方向にも人の壁が作られていく。

 人の動きが落ち着くと、城の内部からやはりダークグレイの鎧に身を包んだ金髪の騎士が姿を現した。手を前に差し出すその合図で、城にいた兵が道にできた人壁を覆い、ガードに入る。体制が整ったところで、その騎士はひざまずいて最敬礼をした。

 城の中から、厚みのあるマントに身体を包んだライザナルカンド皇帝フルフォードが進み出た。二歩ほど下がったところを、后であるリオーネと、リオーネに手を引かれた八歳の王女ニーネナが、付き従うように歩を進める。リオーネはシルバーで毛足の長い毛皮をまとい、繊細で薄い生地の手袋を手にして、フルフォードの背中を見つめていた。ニーネナは華やかなピンクのマントを羽織り、その透き通った水色の瞳で、同じ色の瞳を持つ浮かない顔の母を、心配げに見上げている。

 二人の歩みの後、少し距離を置いて、道に並ぶ人々と同じに軽装のままのデューク、黒い神官服のマクヴァルが続いた。

 馬車より数歩手前、アルトスのすぐ前でフルフォードは後ろを振り返った。リオーネは風に揺れた金色の髪を手で押さえながらフルフォードの脇に立ち、デュークとマクヴァルはフルフォードと向き合う。

「では、後のことはそなた達に任せる」

 フルフォードの言葉に、デュークは最敬礼をし、マクヴァルは深いお辞儀を返した。

「まずはラジェスへ向かう。私は城に寄らずにラジェスを発つが」

 フルフォードはリオーネを振り返る。リオーネは街道から少し離れた崖の上にあるラジェス城を思い浮かべた。フルフォードが街道と城の往復さえ厭うことに眉を寄せ、リオーネはフルフォードを見返す。

「私はラジェス城に滞在します。そこから先には、私もニーネナも行きません」

 リオーネは王女の小さな手を両手で包み込み、きっぱりと言い切った。フルフォードは微かに眉を寄せる。

「一刻も早くレクタードに会いたいとは思わんか?」

 フルフォードは、問いただすようにたずねた。リオーネはますます表情をゆがめる。

「思わないわけはございません。私の息子ですのに。それよりも、いきなりニーネナをレイクス様に会わせることなどできません。許嫁とはいえ、時間の余裕は必要です」

 リオーネはニーネナの肩に手を乗せ、見上げてくるニーネナと視線を合わせ金茶の髪をそっと撫でた。フルフォードのそうかという返事にため息が混ざる。一瞬の後、フルフォードはまっすぐな視線をデュークに向けた。

「そういうことだ。やはり私は即日ルジェナへ発つ。何かあれば、知らせはまっすぐルジェナ城へ頼む」

「承知いたしました」

 デュークの返事を上の空で聞きながら、リオーネはニーネナと共に捨て置かれるような状況を呪った。フルフォードの心中、レイクスが占める割合の大きさを、ひどく不快に思う。しかも情報がリオーネを素通りすることに、なおのこと不安が膨らんだ。

 フルフォードが馬車を振り返ると、アルトスは馬車の扉をスッと開けた。中にこもっていた暖かな空気を突っ切るように、フルフォードは馬車に乗り込む。アルトスはニーネナの乗車に手を貸した。フルフォードはアルトスから受け取るようにニーネナを抱き上げ、自らの横に座らせる。リオーネは差し出されたアルトスの手を一瞬躊躇してから取り、切なげな視線を向けてから馬車に乗り込んだ。

 アルトスは中に最敬礼を向けて扉を閉めた。振り返ってデュークとマクヴァルにも敬礼を向ける。簡単な返礼を見てから、アルトスは無言のまま馬に戻った。

 デュークとマクヴァルが車上のフルフォードに向かい深々と頭を下げた。それを合図に馬車三台の行列がゆっくりと前進を始める。荷物を満載した後ろ二台と騎馬隊が通り過ぎ、列を正していた兵が馬車の後に続き移動していく。金髪の騎士も馬車を追うように城門まで歩を進めた。

 馬車が城壁の外に姿を消すと、見送りの人々はそれぞれ様々な方向に散っていく。それを見て、デュークはチラッと視線をマクヴァルに向けた。

「リオーネ様も大変でいらっしゃいますな。今さらレイクス殿が生きているなどと」

「シアネルの巫女の子ですな」

 マクヴァルは、フッと口の端で冷笑した。デュークは一瞬冷めた視線を向け、ごまかすように大きくうなずく。

「ほんの一週間、生まれが遅いだけで、王位継承権をレイクス殿に取られてしまうなど、レクタード殿の心中も穏やかではありますまい」

 デュークはククッとのどの奥で笑い声を立てた。マクヴァルは漆黒の瞳をデュークに向ける。

「だが、まだ生きていると分かっただけ。ライザナルカンドにお連れすることが、できますかどうか」

「しかし、前線側の城に行かれるのは時期尚早だとの説得にも、耳を貸さぬほどひどくご執着の様子、何を置いてもレイクス殿のことを優先されるでしょうな」

 デュークの言葉に、マクヴァルは微苦笑を浮かべた。

「デューク殿は、レイクス殿が見つかったことを、喜んでおいでなのですね」

「喜ぶ? そうかもしれませんな。事の顛末を楽しませていただこうと思っていますからな」

 破顔したデュークに、マクヴァルは控えめな笑顔で答えた。

 一人の兵士が、デュークに敬礼を向けた。その後ろを城門を閉めた金髪の騎士が、一人の老人と共に通り過ぎる。白く長い髪と髭だけがマクヴァルの目に映った。兵士に何事か耳打ちされたデュークが、ホウと兵士に満足げな顔を向けマクヴァルを振り返る。

「では、私はこれで。仕事ができましたゆえ」

 デュークは簡単にお辞儀をすると、その兵と一緒に騎士の後を追った。

「分かりやすい方だ」

 マクヴァルは、城に入っていくデュークを見送り、あざけるように目を細めた。


 草木が生い茂った中に、かろうじて細い坂道が残っている。木々の枝が覆うその坂を、フォルスはリンデアの手を取って登っていた。後ろから自分の隊の兵士が二人、なにやら話をしながら付いてくる。

 長身の方がブラッドだ。細めの印象があるが、腰に下げた剣は剣身の幅が広く、ある程度力がないと使いこなせそうにない。時々空を気にかけ、薄茶色の髪を揺らして木々の葉を透かすように目を配っている。

 その横に並ぶのは、中肉中背、大きな剣を背負ったアジルという兵だ。道に伸びた枝が、黒に近い濃茶の髪に当たるのを気にもとめず、キョロキョロとあたりに気を配りながら歩を進めている。

 とぎれとぎれに聞こえる兵士二人の会話に、たまにフォルスの悪口が混ざる。リンデアはフォルスが怒り出すのではないかと内心ドキドキしていたが、一向にその気配はない。リンデアが振り返って見ると、兵士はニヤニヤとこちらに手を振って見せた。気をとられてバランスを崩したリンデアを、フォルスは横からヒョイと支える。

「リンデア、ちゃんと足元を見ていないと危ないよ」

「ごめんなさい、だって……」

 リンデアがもう一度後ろを向くと、兵士は知らん振りで、お互いにそっぽを向いた。フォルスはつられるように兵士を振り返り、それからリンデアに微苦笑を向けた。

「ああ、いいんだ、あれで。うるさくしていた方が、凶暴な動物も警戒するから出てこないだろう?」

 フォルスの言葉に、リンデアは身体をすくめてフォルスの腕を取り、兵士二人はビクッとして辺りを見回した。リンデアを安心させるように、行こうと微笑んでから歩き出したフォルスの腕が震えているのに気付き、リンデアはフォルスを見上げた。笑いをこらえているフォルスの顔が目に入る。

「んもう! 嘘ついたのね?」

「嘘じゃないよ。この辺に凶暴なのはいないってだけで」

 リンデアは想わずフォルスの鎧を叩いたが、痛いのは当然リンデアの方で、フォルスは笑い声を立てた。

 ガンッと、いきなりフォルスに女神の意志が響いた。先を急がすその思念に、フォルスは顔を歪める。リンデアが心配げにフォルスを見上げた。

「行こう」

 低い声で言うと、フォルスはリンデアを抱えるように支えて、サッサと歩き出した。本来、巫女にしか聞こえないはずの女神の声が、フォルスにも届いているのだ。この声を聞くと降臨を思い出すのか、頭に衝撃があるからか、フォルスは少し不機嫌になった。だがその声に逆らってもリンデアが困るだけなのを分かっていて、直接返事をするわけでもなく従っている。

 女神の思念を理解できることは、フォルスには迷惑なだけかもしれないが、リンデアにとってはありがたかった。説明の必要がないので、細かい指示にわずらわされなくて済むからだ。女神が指示した場所には、フォルスが連れて行ってくれる。その場所で女神の言うとおりにだけしていればいい。リンデアはそう思っていた。

 前方の木漏れ日が増してくる。フォルスが最後の枝を手で払い、周りをうかがいながら一歩踏み出すと、そこには森の中では感じられなかった早朝の鋭い光が満ちていた。崖のへりまで木がなく、一見草原のような空間が広がっている。まるで手入れしたような短い草が生えそろっているが、よく見ると草は荒い砂の間に根付いていた。崖の方へ少し進むと、右手にヴァレスの街が一望できる。リンデアもその空間に足を踏み入れた。リンデアは景色に引き寄せられるように、二、三歩フォルスの前に出る。

「あれがヴァレスなのね」

 振り返って言ったリンデアに、フォルスはうなずいて見せ、崖の下前方に広がる防壁に囲まれた街に目をやった。ヴァレスでは、母を亡くしたすぐあと、五歳から八歳までの三年間を過ごしている。フォルスの胸に、郷愁が広がった。

 少し離れた木々の中から、木や葉の音を微塵もさせることなく、子供の姿のティターナが駆け出してきた。坂道から抜け出てきたブラッドの側へ行って一緒に空を見上げ、粒ほどの小さな鳥を指さす。

「あそこ! ファル! こっち!」

「でかい声だな」

 ブラッドがティターナを見下ろして呆れたように肩をすくめる。ティターナは口を尖らせた。

「だって、この近くには誰もいないよ。木がそう言ってる」

「木がねぇ」

 ブラッドが振り返ると、道にとどまっていたアジルが、ちょうど木々の間から出てきた。アジルはフォルスのすぐ横に立って、深呼吸のように大きく息をつく。

「ココがまだメディアナの土地でよかったですね。もし見つかっても、大勢で押し寄せられる場所じゃないですし」

 そうだなと返事をして街から目を離し、フォルスはリンデアに視線を向けた。リンデアは目を細めてヴァレスをジッと見ている。

 フォルスの前に、ファルと呼ばれたハヤブサが舞い降りてきた。ティターナがファルをのぞき込む。ただ見つめ合っているだけのようだが、ティターナの表情には感情の変化が見える。

「このあたりには誰もいないって。ほら、言っただろ?」

 ティターナは得意そうな顔をブラッドに向けた。

「言っただろ、なんて言われても、ファルの言葉も木の言葉も分からないよ」

 ブラッドの微苦笑に、ティターナは不機嫌に口を歪めた。

「不便だね」

 ティターナは残念そうに肩をすくめた。ブラッドは真顔でティターナと向き合う。

「でも、お互いが無関心でいられるから、なんにも気にしなくていいんだぞ?」

 ブラッドの言葉に、ティターナはケラケラと笑い出した。ブラッドが何が可笑しいのかとムッとした顔を向けると、ティターナはおどけた表情になる。

「そういう付き合いばっかりしているから、恋人ができないんだよ」

「そういうのには感心がないワケじゃないの!」

 ブラッドの反論に、今度はアジルが吹き出した。

 あ、とリンデアが小さく声を立てた。フォルスと視線を合わせ、胸に手を当てる。

「分かるわ。シャイア様が、ここに」

 リンデアの指の間から、少しずつ虹のような光が溢れてくる。

 フォルスと兵士二人は互いに顔を見合わせてうなずき合うと、警戒のためにそれぞれ間を開けた位置に立った。ティターナとファルが遠目に見守る中、リンデアは膝をつき、胸の前で祈るように手を組む。

 瞳を閉じたリンデアの身体から、一気に光があふれ出して広がっていく。辺り一帯を包み込むように大きく広がると、その光は細い筋となって空に突き上がった。同時にヴァレス上空に異変が表れ、雲が低い位置に生み出されていく。その下で雷光や風雨が乱舞を始めた。一瞬の間を空けて、雷鳴も聞こえてくる。

 少しずつだが、ライザナルカンドの兵士達が後退しているらしい。この場所からだと、雷の位置が少しずつズレていくのが見えた。

 実際それは、ヴァレスに巣くっていたライザナルカンドの兵士を、じわじわと追いやっていた。雷光がライザナルカンドの兵の足もとを叩き、風雨が後押しをする。土地を潤すその自然現象が、シャイア神の持つ最大の力なのだ。

 やがて、防壁の外に追い出されたライザナルカンドの兵だろう、大地に描かれた小さな模様が撤退を始めた。それまでの間、リンデアは微塵も動かずに、シャイア神に対する祈りの姿勢を続けていた。

 だんだんリンデアから溢れる光が落ち着き、低く垂れ込めていた雲が四方に散っていく。既に高くなった陽が、雨に濡れたヴァレスを照らした。屋根がキラキラと陽光に輝いている。

 リンデアが胸の前で合わせていた手を下ろし、その場にペタンと座り込んだ。フォルスはリンデアに駆け寄った。

「大丈夫か?」

 声をかけたフォルスに、リンデアはうつろな視線を向けた。その瞳が普段よりもずっと緑色がかって見え、フォルスはひざまずいてリンデアの瞳を確かめるようにのぞき込んだ。リンデアの手がフォルスの頬に伸びる。

 ――戦士よ――

 驚愕にフォルスは凍り付いた。声ではない、いつも感じる女神の思念だ。息を継ぐのも忘れて見入ったリンデアの瞳に、少しずつ見慣れた愛しい色が戻ってくる。フォルスの頬に触れていた手を、リンデアはハッとしたように引っ込めた。

「フォルス?」

 心配げなリンデアの声で、フォルスは我に返った。リンデアは頬に触れていた手を抱くように胸を押さえている。

「大丈夫か?」

 フォルスは、リンデアにかけたつもりだった言葉を、もう一度繰り返した。いくらか疲れてはいるようだが、リンデアはいつも通りの微笑みを浮かべてうなずく。フォルスはなんとか笑みを返し、立ち上がってリンデアの手を取りそっと引いた。リンデアは服の砂を払って、日差しを反射して輝きを放つヴァレスに視線を向ける。

「キレイ。雨が降ったのね」

 その言葉でフォルスは、雷鳴もリンデアには届いていなかったことを悟った。やはり、フォルスを戦士と呼び、手を伸ばして頬に触れたのは、間違いなくシャイア神だったのだ。

「どうしたの?」

 リンデアの心配げな顔がフォルスの視界に入ってくる。フォルスは思わず女神がそうしたようにリンデアの頬に触れた。リンデアの口元に、はにかんだ笑みが浮かぶ。今のリンデアに女神の影が見えないことに、フォルスは安堵した。

「無事で、よかった」

 フォルスが長く吐き出した息に、リンデアはくすぐったいような幸せを感じた。

「ヴァレスに行こう」

 フォルスのその声で、アジルとブラッドがフォルスに半端な敬礼を向けて元来た坂道へと足を踏み入れた。ファルが翼を広げて大空へと舞い上がっていく。歩き出したフォルスとリンデアに手を振って、ティターナが草木の茂った中に音を立てずに駆け込んでいった。

 フォルスは、坂道をリンデアと降りている間も、緑の瞳でフォルスを戦士と呼んだ女神に対する畏怖を、振り払うことができなかった。


 フォルス、リンデア、アジル、ブラッドの四人は、街道に出て隊と合流した。移動が楽なように馬の数を揃えていたので、隊の全員が騎乗する。フォルスはリンデアを後ろに乗せ、ヴァレスを目指した。

 ティターナは緑色の巨体の姿で、隊の後ろからついてきた。ずんぐりした体型の割りに長い腕を元気に振り、微塵も音を立てずに森の中を歩ける短い足が、わざとのようにズンズンと大きな足音を立てる。隊の後方についていたブラッドが馬の背を指さし、頼むから乗ってくれと懇願した。ティターナは分かったと言うが早いかドンッと地面を蹴って飛び跳ねる。大きいまま乗るつもりかとブラッドは青くなったが、背中に落ちてきた時には小さな子供の大きさになっている。ブラッドは安心してため息をついてから、ティターナの笑顔につられるように苦笑した。

 だんだんメディアナの兵が目につくようになってくる。自分の隊の兵士と道ばたの兵が笑顔で掛け合う言葉を聞きながら、フォルスは向けられる敬礼にその都度しっかり返礼した。リンデアも声をかけられるたび、小さく手を振り返す。

 ヴァレス近辺まで北上すると、右前方に神々が住むと言われるディーヴァの山々が見える。ストーングレイの山肌に、アイスグリーンの冠雪が映えて美しい。ヴァレスを見ると、教会の鐘塔が高く突き抜けて見えた。ヴァレスに近づいてくるにつれ、その鐘塔は高さのある防壁に下方から隠れていく。

 ヴァレスの門前には、数人の兵士とゼインが待っていた。ゼインは城都で神殿警備に就いていた騎士で、リンデアとも馴染みがある。ゼインが笑顔でよこした敬礼に、フォルスは訝しげに返礼した。

「なんでここに?」

「ヴァレスの神殿周辺警備の任を受けたんだ」

 嬉しそうなゼインの返事に、フォルスはフーンと答えながら苦笑した。そう言われてフォルスは、すれ違った兵士の中に、城都の神殿で見覚えのある兵が多かったことに気付く。城都の神殿警備室の前で偶然聞いた、ゼインとクエイドとの言い争いも、ついでのように脳裏に浮かんだ。つるんでいるのかいないのかは分からないが、フォルスにとってはどちらも苦手な部類の人間だ。できれば関わりたくないのだが、仕事なのでは仕方がない。

「そうそう、聞いたか? 今回の犠牲者はライザナルカンド側に二人だけだってさ」

 ゼインのいかにも嬉しそうな声に、フォルスは眉を寄せた。自分につかまっているリンデアの手に、力がこもった気がしたからだ。フォルスが振り返ると、リンデアは硬い微笑みだったが、いくらかの笑顔を返した。ゼインは不機嫌な顔をされるのは心外だといったふうに、ため息をつく。

「あとは神殿まで予定通りどうぞ」

 口をへの字にしたゼインの横で、見知らぬ兵士が笑みを漏らした。フォルスは胡散臭い思いで視線を向ける。

「君は」

「あ、失礼しました。噂通りの方だと思いましたら嬉しくて」

 二十代後半かと思われるその兵士は、フォルスにヒョコッと頭を下げる。

「人を斬らないってか? 買い被りすぎだ。騎士を逃がすまでに何人の兵を斬ってるか分からないってのに」

 吐き捨てるように言った言葉にも笑顔を崩さない兵士に、フォルスは顔をしかめた。

 ゼインとその兵士の敬礼に見送られて、防壁の内側へと馬を進めた。街は、フォルスが城都へ向かった時とほとんど変わりなく、石造りの家々が立ち並んでいる。途中、幾人かの知り合いとの挨拶に気が休まるのを感じながら、フォルスは神殿へ向かった。

 神殿の前に着き、フォルスが馬を下りたところで、裏手から手を振りながら大柄な騎士が姿を現した。城都で周辺警備をしていたはずのバックスだ。フォルスとは前線に出た時期が同じで、騎士になった時から付き合いが続いている。バックスも配置替えかと思いながらフォルスがリンデアを馬から降ろすと、バックスはちょうど側までやってきてリンデアと向き合った。

「リンデアさん、疲れてないかい?」

「平気です」

 リンデアはバックスに控えめな微笑みを向けた。照れたように頭を掻いたバックスの鎧を、フォルスはノックをするように叩く。

「まさか、バックスが警備補助?」

「当たり。まぁ、神殿の中にいる時は安心してくつろぎな。リンデアさん、よろしくね」

 バックスはリンデアに敬礼すると、満面の笑みを浮かべて見せた。よろしくねとキチッとした敬礼が妙にズレていて、リンデアは声を潜めて笑っている。フォルスは腕組みをして苦笑した。

「大丈夫かな」

「あぁ? なんだと? 大丈夫かだってぇ?」

 バックスが捕まえようとする手を、フォルスは一歩下がってギリギリで避ける。

「いや、グラントさんがだってば。ゼインはこっちの神殿周辺警備だって言うし、一人で城都全部ってことはないだろうけど」

「五人だよ」

 バックスが言った意外な人数を確かめるように、フォルスはバックスに視線を合わせた。バックスは柔らかい笑みをこぼす。

「イアン、ラルヴァスが神殿警備、ノルトナ、シェラトが周辺警備。復帰直後だからとりあえず二人ずつであたるってさ。ま、城都だし、ドリアードにちょっと歳くらわされたくらいだから、もう大丈夫だろうよ」

 名前が挙がった四人は、ドリアードによって妖精の世界に取り込まれ、現世に戻ってきた騎士達だ。その事件に関わったフォルスは、リンデアと笑みを交わし、よかったとホッと息を吐き出した。

「クエイド殿の騎士起用も、結構いいセンスしてるって思う時があるよ」

 そう言いながらバックスは、フォルスの隊が裏手にある小屋に馬を連れて行ったり、中と連絡を取ったりと、仕事を進めているのを横目で見ている。

「思う時が?」

 そう言葉を返して、フォルスは喉の奥でククッと笑った。ティターナが馬に乗ったまま、ブラッドについていくのが見える。

「そうそう、あん時の諜報員も連れてきたぞ。留置してあるから落ち着いたら頼むな」

 バックスが付け加えた言葉に、フォルスはにこやかにありがとうと返事をした。

 その諜報員はウィンというライザナルカンド人だ。女神が降臨したと思われる人物を葬れと命令され、ゼインの隊に潜り込んでいた。元々女神の降臨などなかったのだが、ウィンは降臨があったと勘違いをした。そしてドリアードが騎士を拘禁した事件に乗じて行動を起こし、失敗している。その時に諜報員だと見抜いたフォルスが、ウィンの処遇を決めることになっていた。フォルスはウィンをライザナルカンドに返すつもりで機会をうかがっていたのだ。

 バックスは、兵士達を親指でぐるっと指さす。

「それにしてもフォルスの隊、ちゃんと動くよな。隊長が遊んでるのに」

「何をするかくらいは、先に言ってある。ってか、俺、遊んでるのかよ」

 フォルスは、バックスが笑い出したのを見て苦笑した。リンデアはクスクスと笑いながら神殿に向き直って鐘塔を見上げる。鐘が日の光を反射して、キラキラと輝いて見えた。

「綺麗ね」

 リンデアはフォルスに微笑みかけ、それからもう一度鐘に目をやった。フォルスも鐘塔を仰ぎ見る。

 フォルスは昔からこの鐘の音が好きだった。フォルスがヴァレスに移り住んだのは、騎士になる決意をした五歳の時だ。鐘は一日三回、朝、昼、夜に鳴らされる。フォルスはその三回目の鐘を、家を抜け出す合図にしていた。兵士の宿舎や騎士の詰め所に行っては剣を習っていたのだ。習うと言っても小さな子供だったので、最初から相手にしてはもらえない。そこでフォルスは、根気よく通ったり、わざわざ街のいざこざを探して顔を突っ込んだりして、自分を覚えてもらう努力をした。元々濃紺の特異な瞳を持っていたせいもあり、すぐに面白がられたり、かまってもらえるようにはなったが、大の大人相手にケンカをするため、生傷は絶えなかった。

 義父であるルーフィスが三十四歳で首位の騎士に就いた時、皇帝ディエントが八歳で剣を扱うフォルスに目をつけた。それから騎士の知識をフォルスに身に付けさせようと、教育が始められることになる。通常の学校や騎士学校に通うためにフォルスが城都に移るまで、ヴァレスでの生活は三年間続いた。

「あ、そうだ、リンデアさんの部屋、あの角の窓のところだって」

 バックスは神殿の裏手になる二階角部屋の窓を指さした。フォルスは、その窓に目を向けて顔をしかめる。

「あれ何? すぐ側の角に、地面から伸びてるあの」

「雨樋か? 地面からじゃなくて屋根から伸びてるんだけど」

 ニヤッと笑ったバックスに、どっちでもいいと答えながら、フォルスはリンデアを促して雨樋のところまで行った。バックスも後からついてくる。フォルスは雨樋を掴んで引っ張ってみたが、結構ガッチリ取り付けられていて動かない。

「これ、登れるんじゃないか? 取っ払っちゃ駄目か?」

 フォルスは雨樋の横から裏側を見上げた。何カ所かにしっかりした金具が見える。

「よぉ!」

 後ろからの声に振り向くと、グレイが小さく手を振りながら立っていた。

「え? グレイも配置替えか?」

 驚くフォルスに、グレイは笑いながら肩をすくめる。

「フォルス、城都を出発するのが早いんだよ。配置が決まった時には、もう出た後だったし。フォルスが街道左の丘に登ってた時に、やっと追い越したんだ」

「早いったって、こっちも急かされてた身だからな」

 フォルスはあきらめ半分に首を横に振った。グレイは雨樋を下から上まで眺める。

「それはまぁいいけど。頼むから神殿壊すなよ。こんなところを登ろうなんて考えるのはフォルスくらいだって」

「え? 俺はドアから入るよ」

 フォルスの返事に、グレイはため息をついてフォルスと向き合い、肩に両手をポンとのせた。

「毎度おなじみ出張懺悔室です」

 グレイの言葉に、フォルスは呆れ顔になる。

「何が毎度だよ。まだなんにもしてねぇよ」

「まだ、ねぇ」

 グレイは含み笑いを始め、ブッとバックスが吹き出した。バックスは必死に押さえた苦笑をフォルスに向ける。

「護衛自ら巫女様に手を出したりしたら、投獄どころじゃ済まされないぞ?」

 フォルスはムッとした顔をバックスに突きつけた。

「そう思ったら、雨樋にも警備な」

 フォルスは嫌み半分でそう言うと、リンデアに向き直る。

「神殿に入ろう。安全なんだそうだから」

 裏玄関に向かおうとしたフォルスの腕を取り、リンデアはフォルスを引っ張って止めた。

「待って。祭壇が見たいの」

「んじゃ、こっちだ」

 フォルスはサッと方向転換をし、リンデアを連れて神殿正面に向かった。


 大きな扉を開けてフォルスとリンデアは神殿の中に入った。正面に見える祭壇は、フォルスの目に見慣れたモノと、いくらか違って見える。前の祭壇はライザナルカンドに占領されていた時に、破壊されてしまったに違いない。だが既に祭壇は、すっかり元のように整えられていた。

「外から見るより広く感じる」

 そう言うと、リンデアは祭壇の側まで足を運び、真ん中に置かれているシャイア神の像を見上げる。フォルスは一番前の椅子まで行って腰掛けた。リンデアは微笑みをチラッとフォルスに向けると、大きく息を吸い込み、歌にして吐き出す。リンデアの丸く響く歌声が、空間の隅々まで響き渡る。


  ディーヴァの山の青き輝きより

  降臨にてこの地に立つ

  その力 尽くることを知らず

  地の青き恵み

  海の青き潤い

  日の青き鼓動

  月の青き息

  メディアナの青き想い

  シャイア神が地 包み尊ぶ

  シャイア神が力

  メディアナの地 癒し育む


 聖歌の中でも、青の部分と呼ばれる箇所だ。フォルスの脳裏に、ヴァレスに入る前に見えていたディーヴァの山々が浮かぶ。降臨がない時は、シャイア神もその山に住み、空を操ってメディアナに豊作をもたらすとされている。 その力を目の当たりにして、フォルスは空恐ろしさを感じた。メディアナとライザナルカンドの間の国境は、降臨が解けていた間に攻め込まれた分、シャイア神がこともなげに元の位置まで押し戻す。この先も飽きることなく、何度も何度もだ。この戦はライザナルカンドを止めないと、メディアナの側からは、どうすることもできないのだ。

 フォルスの耳にシャイア神の言葉が甦ってくる。戦士よ。騎士だから? 護衛をしているからか? いや、違う。ハッキリ何かは分からないが、とにかく何かを求められている。フォルスは女神から受けた圧力のある言葉を振り払えずにいた。

「フォルス、君?」

 突然の呼びかけに、物思いにふけっていたフォルスはビクッとして振り返った。リンデアの歌も止まる。シスターの服を着た女性が一人、そこに立っていた。

「本当に騎士だったのね」

 側に来るシスターを、フォルスは立ち上がって迎えた。だが、その顔にはまったく覚えがない。フォルスは自分と同じくらいの歳だと思った。それならば、もしかしたら見習いなのかもしれない。そのシスターは、遠慮がちな笑顔を浮かべる。

「巫女様の護衛なんですね。私も女神付きを仰せつかったの。一緒にお仕事ができるなんて嬉しいわ」

「あ、あの」

 話しづらそうなフォルスを、そのシスターは不思議そうに見つめる。

「申し訳ないんですが、どなたなのか分からないんですが」

 フォルスの言葉に、シスターは目を見開いて口を両手で覆った。

「すみません、覚えていなくて」

 フォルスが頭を下げてもう一度視線を戻すと、そのシスターの瞳からボロッと涙がこぼれ落ちた。慌てたフォルスを残し、シスターはサッと身を翻して神殿奥へのドアへと駆け込んでいく。

「ホントに覚えていないの?」

 茫然と見送ったフォルスの後ろから、リンデアが声をかけた。

「全っ然……」

 フォルスはドアを見つめたままつぶやくように答える。

「ホントに? 兵士の顔は忘れないのに?」

 リンデアは疑わしげにフォルスを見上げた。振り返ってそれに気付いたフォルスは、まっすぐリンデアの視線を受け止める。

「顔とか名前とか、覚えるのは得意なはずなんだけど」

 困惑しきった顔で、フォルスはリンデアをジッと見つめた。

「どうしよう」

「……、知らないっ」

 リンデアは眉を寄せて顔を背けると、シスターが駆け込んだドアへと歩き出す。フォルスはその後を追いかけた。

「リンデア、待てよ、怒ったのか?」

「怒ってない」

 その言葉のわりに、声色が冷たい。フォルスは、やっとのことでリンデアの腕を捕まえ、正面から向き合った。リンデアは不機嫌そうに視線をそらし、フォルスの目を見ようとしない。

「怒ってるじゃないか」

「怒ってないわ」

「じゃあ、何? どうしてそんな」

「何でもないもん」

 リンデアは一瞬拗ねた顔をフォルスに向けると、またドアに向かって歩を進めた。リンデアは、フォルスがシスターを気にしているだけで妬いている自分がいとわしかったのだ。フォルスには訳が分からず、小さなため息をついてリンデアの後に続いた。リンデアはドアを開けようと手を伸ばす。

「フォルスっ!」

 いきなりそのドアが開き、向こう側から大きな声が響いた。リンデアは驚いて小さな悲鳴を上げ、フォルスに抱きつく。リンデアを抱き留めて、フォルスはその声の主に視線を向けた。声の主はフォルスの知った顔で、アリシアという女性だった。ブラウンの肩より少し長い髪を後ろに一つにまとめ、少し濃い茶色の目に角を立てている。フォルスは緊張を解くように大きく息を吐き出した。

「なんだ。どんな化け物が出たのかと思った」

「化け物って何よ! あ、巫女様? ごめんなさい、脅かしちゃったのね」

 リンデアの存在に気付いたアリシアの視線が、申し訳なさそうにリンデアに向く。リンデアはフォルスの腕の中でいいえと首を振り、不安そうにフォルスを見上げた。フォルスはリンデアに苦笑を返す。

「この人はアリシアってんだ。ヴァレスに住んでいた時に使用人をしてくれてたマルフィニアさんって人の娘だよ。俺の姉みたいな人で、俺より四つも上」

「ちょっとっ! 歳は余計よっ。アリシアです、よろしくね」

 アリシアの笑顔に、リンデアはヒョコッと頭を下げた。

「リンデアと言います」

「可愛い巫女様だわね。あんたが護衛だなんて危険だわ。なぁんにもできないの分かってる?」

 アリシアの向けた冷笑に、フォルスは薄笑いを返す。

「俺、信用されてるから」

「それって男としてどうなのよ」

 アリシアは、いかにも楽しそうにフォルスの顔をのぞき込んだ。フォルスは腹立たしそうにアリシアの瞳を横目でにらむ。

「てめぇ……」

「だいたい帰ってくるなり女の子泣かすってどういうことよ。あんたが帰ってくるの楽しみにしていたのよ、ユリアちゃん」

 アリシアの言葉に、リンデアが眉を寄せてフォルスを見上げた。フォルスは困惑してため息をつく。

「まいったな。名前にも覚えがない」

「何ですって? ユリアちゃんに覚えていないだなんて言ったの?」

 アリシアは呆気にとられたように言うと、フォルスをにらみつける。

「それは泣きもするわよ。三年前に襲われてたのを助けて貰ったって言ってたわよ? あんた、危ないところを徘徊するのが好きみたいだから、争いごとに出くわすのも多いだろうけど、助けた娘くらい覚えときなさいよねっ」

 アリシアはバカと一言付け足して、フォルスの胸プレートをゴンとこぶしで殴った。フォルスは憮然とした表情になる。

「別に好きで歩いてるわけじゃない。そういう時は努めて顔を見ないようにしてるんだ、覚えてるわけ無いだろ」

 フォルスの言葉に、アリシアは疑うような眼差しを返す。

「どうしてよ」

「俺が覚えていたら、そんなことがあったってことを忘れる時に邪魔だろ」

 フォルスはそう言いながら、そっぽを向いてしまったリンデアをチラチラと気にしている。アリシアは無理矢理フォルスと顔を突き合わせた。

「あのね、そんな簡単に忘れられるモノじゃないの。刺さったトゲは抜かなければ治らないのよ」

 フォルスは、顔をしかめてうつむいたリンデアを、心配げに見下ろした。アリシアはその様子を訝しげに見つめる。

「こんなところで何をしているの?」

 細い廊下の先から声がかかり、視線がそこに集まった。背の低いふくよかな体型の女性がそこにいる。

「リンデア、さっき言ったマルフィニアさん」

 フォルスは、リンデアにささやきかけた。

「お帰り、フォルス。そちらが巫女様ね」

 マルフィニアに微笑みを向けられて、リンデアはハイと返事をした。

「話し込んじゃって」

 アリシアは今までの表情が演技だったかのように、ニッコリ笑って肩をすくめる。マルフィニアは肩でため息をついた。

「ユリアさん、一人で巫女様の湯浴みの準備をしていたよ。仕事に行かないんなら手伝っておあげ」

「私、自分でします」

 リンデアの申し出に、アリシアが目を丸くした。マルフィニアは思い切り朗笑する。

「昔、ミレーヌさんもそう言ったよ。じゃあ、行くかい?」

「はい」

 リンデアはマルフィニアに微笑みを向けた。マルフィニアはリンデアの隣に立ち、何事か話しながら細い廊下を並んで神殿の奥へと歩き出す。フォルスとアリシアも後に続いた。

「ミレーヌさんって……?」

 アリシアは、記憶に引っかかった言葉を思い出せずに、小声をフォルスに向けた。フォルスも声を潜める。

「リンデアのお母さん」

「え? 母も娘も巫女? あれ? じゃリンデアちゃんってシェダイン様のお嬢様? ルーフィス様が言ってらしたあの? 襲われてたのを助けたってあの娘?」

 アリシアの質問が底をつくと、フォルスは面倒臭そうに一度だけ首を縦に振った。アリシアはいきなりフォルスの鎧のネックガードを引っ張り、耳に口を寄せる。

「どうしてリンデアちゃんは覚えてたのよ。ってか、なんで呼び捨て。え? あんたトゲ抜き?」

 その言いように、フォルスは横目でアリシアをにらみつけた。アリシアはゆっくりため息をつき、今度は思い切り息を吸い込む。

「なんで言わないのよっ!!」

 その大声に驚いて身を引いたフォルスは、狭い廊下の壁に背中と後頭部をぶつけた。前を行くリンデアとマルフィニアが、何事かと振り返る。

「てめぇ、耳元で……」

 フォルスは頭を抱えてつぶやくと、アリシアに胡散臭そうな視線を向けた。

「どう説明すれば納得するってんだよ」

「知ってるのと知らないのとじゃ全然違うでしょう?」

「話す余裕があったかよ。最初からブリブリ怒ってただろうが」

「あんたが化け物だなんて言うからでしょう? あんたいつも仕事仕事ってそればっかりだから、想像もできなかったのよっ」

 言葉の速度を上げたアリシアを見て、また始まったとばかりにフォルスはため息をついた。

「そんなのアリシアの方がずっと深刻だろ。うるさいこと言ってないでサッサと嫁に行けよ」

「私がいないと困るのよ。今仕事を辞めるわけにはいかないわ」

「仕事仕事って言ってるのはてめぇの方だろ」

 マルフィニアが手慣れた様子でヒョイと二人の間に入る。

「はいはい、おやめなさい。巫女様の前でみっともない」

 マルフィニアは、憮然としているフォルスとアリシアの顔を見比べた。

「もしかして、あんた達が結婚すれば丁度いいんじゃないの?」

『誰がこんな!』

 声が綺麗に重なり、フォルスとアリシアは顔を見合わせた。マルフィニアは朗らかに笑い出す。

「ほら、息もピッタリじゃない」

 アリシアは肩が落ちるほどのため息をついた。

「お母さん、冗談にもならないわよ」

「コロコロと一緒くたに育てておいて、そりゃないだろ」

 つぶやいたフォルスの言葉に、リンデアが肩をすくめてフフッと笑った。フォルスはリンデアの顔をのぞき込む。

「笑い事じゃないって」

「フォルス、アリシアさんのこと好きなのね」

 リンデアは真っ直ぐフォルスに笑顔を向けた。フォルスは、少し前まで機嫌が悪かったリンデアを、不安げに見つめる。

「どうしたの? 本物のお姉様みたいねって」

 フォルスは罰が悪そうに苦笑を返した。アリシアは両手を広げ、アーアと声に出してため息をつく。

「もう分かったわよ。気付かない私が悪うございましたっ。だけどあんたも難儀だわね。リンデアちゃんが湯浴みしてるのに背中向けて立ってなきゃならないなんて」

「なんだって?」

 面食らい、とまどっているフォルスに楽しそうに笑みを向け、アリシアはリンデアの肩を抱いて歩き出した。今度はフォルスとマルフィニアが後から続く。

「驚いてるってことは、城都からココまで一度も入れてもらえなかったの? 気が利かないわね」

 ねぇ、とアリシアはリンデアに同意を求める。リンデアは微苦笑した。

「でも、シャイア様に先を急ぐようにと急かされてましたから、時間が無かったんです」

「そうなの? こういう護衛があるから、妻帯者ってことになってたのよね。イヤじゃない?」

 アリシアの言葉に、リンデアは無言で頬を染めた。フォルスは嘲笑を浮かべる。

「そんなことで妻帯者なのか? 意味ないだろ」

「男にとってはそうかもしれないけど、女の側からはそうはならないのよ」

 分かってないわねとつぶやきながら、アリシアはリンデアをのぞき込んだ。

「リンデアちゃん、フォルスからは私が守ってあげるわね。振り返ったりしたら、頭から水かけてやるわ」

「それ俺、振り返った方がお得なんだけど」

 しれっと言ったフォルスの言葉に、マルフィニアがおかしそうに笑い出した。

「母さん、笑い事じゃないわよ」

「仕事ならちゃんとするでしょ、フォルスは。それに昔シェダイン様が最後の一線さえ越えなければ大丈夫だって言って」

「母さん!」

 振り返ったアリシアが慌てて止めた。マルフィニアはフォルスの顔色をうかがうように見上げ、フォルスはマルフィニアに苦笑を返す。

「そんな心配しなくても。それ、直接シェダイン様に聞いたし。面白がられているからな、俺」

「シェダイン様って、どういう人よ」

 呆れ返った顔をしてから、アリシアは腕の中からリンデアが見ていることに気付いた。

「あ、ゴメン。お父さんだっけ」

「はい、でも、そういう人なんです。フォルスには迷惑ばっかりかけて……」

 リンデアは眉を寄せて、視線を足元に落とす。

「でも、そういうことでシェダイン様が俺をからかったり茶化したりするのは、それだけ信用してくれているからだと思ってるよ」

 背中からのフォルスの言葉に、リンデアはハッとしたように目を見開いた。

「だから裏切れないんだ。絶対に」

 フォルスの自分自身に言い聞かせるように小声で付け足した言葉を聞いて、リンデアは嬉しそうに目を細める。アリシアは、リンデアの瞳にうっすらとたまった涙が輝くのを、やるせない気持ちで見ていた。


 大きく息を吐いて目を開けると、フォルスの視界に狭い部屋の四角い天井が目に入った。明かりを一つ灯しているだけの薄暗い部屋には、中央にベッドが一つと奥に本棚、その後ろには何が入っているか分からない箱がいくつかある。

 寝返りを打ち、ドアの方に身体を向けたとたん、後頭部に軽い痛みが走った。アリシアに水汲みで殴られたことを思い出し、あの野郎などと悪態をつく。湯浴みするリンデアの側にいて、綺麗な肌だの結構胸が大きいだのとアリシアがやかましいので、つい言われなくても知っていると言ってしまった自分も自分だとは思ったが。

 リンデアが女神に降臨されてから、二人のこれからのことについてなど、少しも話しをしていない。一緒にいても、フォルスはリンデアをエスコートしていただけだ。ヴァレスを奪還してからは、女神の声は聞こえていない。こういう合間に、少しでもリンデアと話しておきたいと、フォルスは思っていた。

 シェダインのことも、何を考えているのかをもっと理解する必要があるだろう。当然リンデアの幸せを一番に考えているのだろうが、はたしてそれがどこまで降臨を受けていることと関わっているのか。

「フォルス?」

 部屋の外からのグレイの声に、フォルスはベッドに肘を立て、少しだけ身体を起こした。

「どうぞ」

 ドアが薄く開いて、グレイが部屋をそっとのぞき込んだ。グレイの向こう側、廊下の向かい側にバックスと、その後ろにリンデアが休んでいる部屋のドアが見える。グレイは静かに部屋に入り、後ろ手にドアを閉めた。

「寝てた? ら、返事しないか」

「呼ばれて起きたとは思わないんだな?」

「愚問」

 グレイの朗笑に、フォルスは肩をすくめた。

「なにか話でも?」

「ん、落ち込んでもらおうと思ってさ」

 グレイの声は明るいままだが、表情が幾分硬くなっている。

「降臨のことか?」

 グレイをチラッとだけ見やり、フォルスはベッドの上にあぐらをかいて座った。グレイはため息をつく。

「想像、ついてるのか」

 グレイはフォルスが勧めたベッドの端に斜めに腰掛け、フォルスの方に身体を向けた。フォルスは視線を落としたまま、微苦笑を浮かべる。

「深く考えたくなくて、避けてたからな」

「だったら話しやすい」

 その言葉にフォルスは顔を上げ、グレイと視線を合わせた。

「……こともないか」

 構えていた気持ちをすかされて、フォルスは呆気にとられ、ムッとしたようにグレイと顔を突き合わせる。

「言えよ」

 グレイは乾いた笑いを浮かべると、ゆっくりと首を横に振った。

「降臨ってさ、巫女が亡くなるまで続いたことがあったんだよね。三十二年間も」

「三十二年間? へぇ」

 特に表情を変えないフォルスに、グレイは眉を寄せた。

「へぇ、って……」

「俺には一年も三十二年も変わらないよ」

「へ?」

「へじゃなくて。どうせ前例の話だろ」

 フォルスは、その言葉は聞き飽きたと苦笑する。グレイはフォルスを疑わしげにのぞき込んだ。

「問題発言。降臨解こうとしてないか?」

「最後の一線って奴か?」

 フォルスの言葉に、グレイはコクコクと何度もうなずいた。フォルスは喉の奥でククッと笑う。

「女神の意志が通じるんだから、こっちの意志も通じるかもしれないだろ。なんにしてもリンデアがどうしたいのか、一度キチンと話をしようと思って」

「リンデアがどうしたいかねぇ」

 グレイは難しい顔で腕組みをし、ウーンとうなり声を上げる。

「でも、承諾してたよな」

「何をだ?」

「いや、私も側にいたい。って」

 フォルスの脳裏に、降臨される直前のリンデアが甦ってきた。今さらだが、降臨さえなければ今頃は違う意味で一緒にいられたかもしれないと思う。フォルスは、グレイにそこまで見られていたことにまったく気付いていなかった自分に呆れた。

「グレイ、ホントに何から何まで全部……」

 つぶやくようにフォルスが口にした言葉に、グレイは人差し指を立てて、ニッコリと微笑む。

「第三者の証言は大切です」

「いらねぇよ!」

 フォルスはベッドに勢いよく寝転がった。グレイはフォルスに視線を投げる。

「それにしてもいいよなぁ。俺のシャイア様の意志が分かるなんて」

「俺のって」

「恋人だよ、恋人。なぁ、どんな感じ?」

 グレイの興味津々な声に、フォルスは苦笑しながら天井に向けて眉を寄せた。

「そうだな、最初は頭を殴られたような感じだった。衝撃が薄れると、言葉が残ってるっていうか」

「今は?」

「そのガンってくるのは、だいぶ薄れた。声はないんだけど、頭の中に聞こえる」

 フォルスの言葉に、グレイはフーンと返事をしながら口を尖らせる。

「羨ましいよ」

「意志が通じれば……。こっちから何も言えなければ意味がない。リンデアが伝えてくれれば、それで済むことだ」

 グレイはウーンとうなって腕を組んで頭を掻いた。フォルスはグレイに視線を向ける。

「なんだよ」

「いや、リンデアが伝えてもさ、それはリンデアの言葉だろ。直に聞けるってのは、やっぱり意味があるよ」

「……、そうかもな。でも、急かされるだけだったからな。意味なんて」

 そう言いながらフォルスは、女神から直接呼びかけられた戦士よ、という声を思い出していた。だがもし意味があるとしても、戦士という言葉だけではどうにも解釈ができない。フォルスは天井に向かって、深いため息をついた。そのため息が消えないうちに、ドアにノックの音が響く。

「サーディ様、スフィリア様がご到着なさいました」

 ドアの向こう側から、ユリアの声が聞こえた。フォルスとグレイは顔を見合わせる。

「サーディ?」

 言うなりグレイはベッドから立ち上がり、フォルスは上半身を起こす。

「スフィリアまで」

 フォルスはベッドから飛び降りると、グレイと慌てて部屋を出た。廊下でバックスとなにやら話をしていたユリアが向き直り、バックスに敬礼だけ向けて通り過ぎようとしたフォルスを引き留める。

「付き合ってください」

「どこにです? こんな時に」

 フォルスは面倒臭そうに顔だけユリアに向けた。

「お前……」

 側にいたバックスが、呆れ返ったようにため息をつき、フォルスは訝しげにバックスを見やった。ユリアは、フォルスの背中に向かって言葉を継ぎ足す。

「お付き合いしていただけないなら、私このままシスターになります」

「……、あ。ええっ?」

 フォルスは、何を言われたのか気付いてから改めて驚き、振り返ってユリアをまじまじと見た。頭の中をリンデアの存在がかすめてフォルスは視線をそらし、それからもう一度しっかりとユリアを見据える。

「でも、俺は」

「考えておいてください!」

 ユリアはフォルスの言葉を遮ってそれだけ言うと、サッと身を翻し、廊下突き当たりの階段を駆け下りていった。茫然と見送ったフォルスを見て、グレイは平たい笑い声を上げる。

「やるなぁ。返事を聞く前に逃げるなんて、なかなか」

「しかもココで声をかけたあとに、こんな話を持ち出すなんざ」

 バックスは小声で付け足すと、苦笑して後ろのドアを親指で示した。そのドアが薄く開き、コンとバックスの背中に当たる。

「あ、ごめんなさい」

 ドアの隙間から聞こえてくるリンデアの声に、バックスはこちらこそと答えながら振り返ってドアを開けた。心配げな視線が一斉にリンデアに向く。

「どうしたの?」

 リンデアは微苦笑して、三人を順番に見た。バックスがリンデアの肩に、ポンと手を乗せる。

「いや、なんでもないよ。それより迎えに出なきゃね」

 バックスはリンデアの肩に手をかけたまま歩き出した。つられて歩き出したリンデアは、二、三歩進んで、浮かぬ顔をしたフォルスを少しだけ振り返った。


 二階廊下のまっすぐ先は、オープンな階段の手すりが見える。その先の空間は、食堂と応接室を兼ねたような広い部屋だ。突き当たり、階段ホールから見下ろすと、正面の壁の中央にある出口の左側に、布張りのゆったりとした柔らかそうなソファーが向かい合わせに置かれているのが見える。階段を下りた部屋の右側は、二十人ほどが一度に食事をとれそうな大きさの木のテーブルと椅子が占領していた。階段を下りきると、階段上からは見えないその真下に飾り棚が置かれ、奥にある台所や風呂、その先は祭壇、神殿正面へと繋がる廊下が見える。

 その廊下から、部屋に数人の兵士がパラパラと入ってきた。あとからサーディとスフィリアも姿を見せる。階段を駆け下りてきたユリアがサーディとスフィリアに気付き、涙のこぼれた頬を隠して頭を下げ、すれ違うように廊下に消えていった。サーディとスフィリアは顔を見合わせる。

「泣いてた? どうしたんだろうな」

「上で何かあったのかしらね」

 スフィリアは、ユリアが駆け下りてきた階段を興味深そうに見上げた。そこにバックスに連れられたリンデアが見え、スフィリアは嬉しそうに手を振り呼びかける。

「リンデア!」

 リンデアはスフィリアに笑みを返すと、少しテンポを上げて階段を下りた。リンデアは階段下にいた兵士に、そのままの笑顔で軽く頭を下げ、その横を通ってスフィリアに駆け寄る。リンデアの後ろから降りてきたバックスが、その兵のにやけた顔に笑いをこらえながら、下がっていいよと指示を出した。兵士はハイッと勢いよく敬礼をして、他の兵たちと引き上げていく。スフィリアはリンデアのまわりをキョロキョロと見た。

「ティターナは?」

「部屋でいびきをかいて眠っているの。疲れたんでしょうね」

 微笑みを浮かべたリンデアに、たまにはいないのもいいモノねとスフィリアが笑う。バックスは、布張りのソファーにリンデアとスフィリアを導き、一歩下がった位置に立った。

「よぉ」

 サーディが、階段の途中にいるフォルスとグレイに手を挙げた。グレイはサーディに微笑んで見せる。

「どういう風の吹き回し? ヴァレスにまで出てくるなんて、よく許可がおりたね」

 グレイはそう言うと、サーディの側まで行って手を取り握手した。サーディは苦笑を返す。

「いや、シャイア神が降臨しているからだろう。そうでもないと、ここまでの許可はおりないよ」

 サーディはグレイの半歩後ろにいるフォルスに視線を向け、その不機嫌そうな顔に苦笑した。

「なにか言いたそうだな」

「いや、何しに来たのかと思って」

 その言葉に冷たいなぁとつぶやいたグレイを、フォルスは冷ややかな目で見た。サーディはおおらかに笑い声を上げる。

「言われそうだなと思ってたよ。どうしてもフォルスに会って欲しい人間が居てさ」

 サーディは、まだ喉の奥でクックと笑っている。フォルスはホッとしたように微苦笑を浮かべた。

「反戦運動で、なんて言い出すかと思って冷や汗が出たよ」

「ゴメン、それなんだ」

「なっ?」

 驚いて目を丸くしたフォルスに、サーディは肩をすくめた。笑いをこらえているグレイにフォルスは眉を寄せ、サーディに向き直る。

「会えって、誰と?」

「ライザナルカンドに戻る人。呼び戻されたらしいんだけど」

 その言葉に呆気にとられ、フォルスはサーディの顔に見入った。サーディは苦笑を浮かべる。

「彼は結構いい地位にいるらしいんだ。どうにかして連絡を取れるようにしておきたい。なんて思っても、その辺俺は何も理解できていないし、現実的に事を運べなくて」

「それで俺、か」

 フォルスは気持ちを落ち着けるように、深い息をついた。メディアナとライザナルカンドをつなぐ糸ができることは、フォルスにとっては願ってもないことだ。だが、前線で接点を作ろうと足掻いていた努力は何だったのかと思う。しかも呼び戻されたということは、その人間は今現在ライザナルカンドと連絡が取れる状況だということなのだ。

「だけど、一体どこからそんな付き合いが……」

 フォルスのため息混じりの声に、サーディは肩をすくめた。

「いや、スフィリアなんだ」

 肩越しに親指で後ろを指さし、サーディは苦笑する。フォルスとグレイは、思わずチラッとスフィリアを見て、お互い顔を見合わせた。

「誕生会の時に、お前が会わせろって言ったそいつだよ」

 サーディが向けてきた言葉に、フォルスはバルコニーでのスフィリアを思い浮かべた。会わせろと言ったその相手は、スフィリアの恋人だったはずだ。話づらそうに、それでも兵士の知り合いと説明された。

「そいつが、ライザナルカンドの?」

「フォルスに会いたいんですって」

 すぐ側からの声に振り向くと、わざわざリンデアの手を引いて連れてきたスフィリアが立っていた。真剣な眼差しをフォルスに向ける。

「会ってくれるわよね?」

 フォルスがしっかりうなずいて見せると、スフィリアはほんのわずかだけ頬に笑みを浮かべた。フォルスは誕生会での話を思い出し、疑問に眉を寄せる。

「まさか、そいつに付いて行こうだなんて」

「思ったわ。でも駄目だって言うの。一般人ならともかく、皇女じゃ危険すぎるって。戦がなくならない限り、これ以上一緒にいるのは無理だって」

 そう言いながらスフィリアは、リンデアの手を離して、逃げられないようフォルスの両腕をしっかりつかみ、その顔を見上げた。

「ねぇ、戦なんてやめさせて。戦がなくなれば、フォルスだってリンデアを女神から取り返せるでしょう? じゃなきゃ私、もう二度と彼に会うことすらできないかもしれない。そんなのイヤなの」

 フォルスが返事のしようもなく、何も言い返せずにいると、サーディは呆れた顔で横からスフィリアの腕を取った。

「お前ね、辛いのは分かるけど、問題すっ飛ばしてるだろ、それ」

「だって……」

 スフィリアは一度唇をキュッと結ぶと、リンデアに寂しげな微笑みを向けた。

「私もシスターになろうかしら」

「え? 駄目よ、駄目、そんなコトしちゃ駄目っ」

 リンデアはスフィリアを慌てて止めに入った。だが自分が言った言葉の意味にハッとして、不安げにフォルスを振り向いた。困惑した顔でため息をついたフォルスを、リンデアは側に立って見上げる。

「今のはスフィリアの話で、私もだけど、でも……」

 口ごもってしまったリンデアを、フォルスは苦笑して見下ろした。訝しげに視線を合わせたサーディとスフィリアを、グレイは招き寄せてヒソヒソと話を始める。リンデアは、フォルスから目をそらすようにうつむいた。

「……、でも、ユリアさんのも、間違ってるよね」

「やっぱり聞こえてたんだ」

 フォルスのため息混じりの言葉に、リンデアは不安げな瞳を上げる。

「どうするの?」

「どうって、キチンと断らなきゃな」

 あっけらかんと言ったフォルスに安心しながら、リンデアは胸騒ぎを押さえられなかった。

「でも、なにか言ってあげなくちゃ。そのままシスターになってしまったら……」

 その胸騒ぎの正体を悟り、リンデアは眉を寄せて口をつぐんだ。もしかしたらフォルスはその罪悪感を持ち続けて、ユリアを忘れられないかもしれない。ユリアはずっとフォルスを思い続けるのかもしれない。その思いは嫉妬に違いなかった。リンデアは、伝えられない胸の痛みを、ギュッと手で押さえつけた。フォルスは、黙り込んでしまったリンデアを心配げにのぞき込む。

「可哀想とかって思うのか?」

 フォルスと一瞬視線が合い、リンデアは嫉妬心を隠すため、眉を寄せてフォルスに背中を向けた。フォルスは、リンデアがユリアを可哀想だと思うのなら、なんとかしなければと考えを巡らせてみたが、自分にできそうなことは何も思いつきそうにない。グレイとなにやら話していたサーディが、フォルスに言葉を向けてくる。

「確かに、そのままじゃ可哀想だよな」

 サーディは、腕組みをして何度かうなずいた。

「いくらなんでもフォローくらいしてやらないと」

 そのサーディの言葉を聞いて、フォルスはしゃべったなとばかりにグレイをにらみつけた。グレイは肩をすくめてそっぽを向く。フォルスは真剣な眼差しのサーディと目を合わせた。

「フォローだなんて、どうやって」

「どうって、なにか言ってやるとか」

「だから何を言えって」

 フォルスにムッとした顔を向けられ、サーディは大げさにため息をつく。

「お前が考えろよ。彼女にとっては一番影響力があるんだし、お前のことなんだから」

「俺のことじゃないだろ、彼女自身の問題だ」

 フォルスは、なに言ってんだよ、などと毒づいている。グレイは含み笑いを漏らした。

「確かにね。フォルスのことじゃない。それに一番影響力があるのは、この中じゃサーディかもな」

「俺? な、なんで?」

「皇太子だから」

 グレイは、拍子抜けして頭を抱えたフォルスに笑みを向けてから、絶句しているサーディの肩をポンと叩く。

「フォルスが速攻で断ろうとしたのを、彼女は聞こうとしなかったんだ。フォルスになんて言われようと、できる限りの努力をしてみるってタイプだな。むしろ他人に言われた方が効き目がありそうだよ」

「それって、……すげぇ」

 サーディが感心しているのを見て、フォルスは首を横に振った。

「もういい。とにかく俺は断る。彼女の感覚も、そのサーディの感覚も、俺には理解できない」

 スフィリアがリンデアの肩を抱き、ムッとした顔でフォルスの前に立つ。

「白黒つけてやる必要なんてないわ。ほっとけばいいのよ、そんな女」

 オイオイと止めに入ったサーディを、ちょっと黙っててとにらみ返し、スフィリアはリンデアの背中をフォルスの方に押して寄せる。

「ずっと二人が一緒にいれば、いくらなんでも自分が論外だってことくらい、そのうち気付くわよ」

 サーディは、論外、と言葉を拾って繰り返し、大きなため息をついている。

「そのうち? って……」

 顔をしかめたフォルスに、スフィリアはそうよとうなずき、リンデアにねぇと同意を求めた。リンデアは眉を寄せ、何も言えずにフォルスを見上げる。フォルスは困惑した表情を少しだけ緩ませた。

「……、なんか俺、どうでもいい気がしてきた」

「お前、いきなりそんな無責任な……」

 サーディは、フォルスがリンデアの頬に触れたのを目にして照れながら、気が抜けたようにつぶやいた。

「失礼いたします」

 廊下入り口から、低い声が響く。それぞれが振り向いた視界の中に、首位騎士の印である紺色のマントが映る。フォルスの義理の父、ルーフィスだ。

「お迎えに上がりました」

 ひざまずいての言葉にサーディが手を挙げて挨拶すると、ルーフィスは長身の身体を直立させて敬礼の体勢を取った。フォルスより明るい茶色の髪が揺れる。フォルスとバックスは姿勢を正して返礼をした。サーディはルーフィスと向き合う。

「いきなりですみません」

「いえ、私の家でよろしければ、いつでもお役立てください」

 ルーフィスの言葉に、フォルスは不安げに顔をしかめた。それに気付いたルーフィスが、フォルスにブラウンの瞳を向ける。

「なんだ、どうせ帰ってこられないのだろう」

「でも、部屋が」

「ああ、汚いどころか荒らされていてな、まとめて捨てた。片付けるより楽だったぞ」

 表情を変えることなく言ったルーフィスに、フォルスは肩をすくめて、そうと一言だけ口にした。

「そ、それでいいんですか?」

 サーディは目を丸くしてルーフィスとフォルスを交互に見た。ルーフィスは軽く頭を下げる。

「大切なモノは全て城都にあります。ご心配なきよう」

 サーディはルーフィスに苦笑して見せた。

「いや、心配ってか、親子揃ってドライだなぁと。もしかして、ヴァレスに入ってから、まだ会ってもいなかったのでは?」

「お互い仕事がありますので」

 ルーフィスの言葉に、サーディは苦笑した。

「では、少しだけ時間をいただけませんか? グレイと話をしたいモノですから」

 サーディは気を遣ったのだろうとフォルスは思った。逆にサーディとグレイで何を話すのかが気になったが、ルーフィスはありがとうございますと頭を下げ、フォルスを連れて部屋の隅に並ぶ。

「開けたか?」

 表情を変えないルーフィスの言葉で、フォルスは城都にある家の引き出しを思い出してうなずいた。ルーフィスはフッと空気で笑う。

「壊したな」

 鍵穴が異物でふさがっていたことを、ルーフィスは知っていたらしい。フォルスは向けられた笑みがしゃくにさわり、ムッとしてルーフィスを冷視した。

「分かってたら鍵なんて渡すなよ。わずらわしい」

 フォルスは鎧の内側に着けていた金の宝飾品を取り出した。鎧に付ける金具と、石のはまった細工の美しい球体が、五本の鎖でつながっている。壊した引き出しから持ってきた、フォルスの母であるエレンが残した物だ。

「これなんだけど」

 フォルスがそれを差し出すと、ルーフィスはチラッとだけ見て視線を前に戻し、微かに眉を寄せた。

「なんだか分かる?」

「いや」

 想像していた返事が返ってきて、フォルスは肩をすくめ、その宝飾品を鎧の内側に付け直す。

「ほんっとに、母さんからなんにも聞かなかったんだな。疑問とか、少しも持たなかったわけ?」

 フォルスは、ルーフィスの横顔を見上げた。自分なら、何がなんでも問いただしたいだろうと思う。今までどこにいて、どんなことがあって、どうしてここにいるのかと。

「エレンが話したい時にと、そう思っていたからな」

 ルーフィスの言葉が、フォルスの耳に寂しげに届く。

 謎が謎のまま残ってしまったのは、ドナという村に住んでいた時、村の井戸に毒を入れられるという事件があったからだ。エレンもフォルスもその水を口にした。たくさんの人が死んでいく中で、特異な瞳を持つ血のせいか、毒が毒として作用しなかったため、エレンとフォルスは死に至らなかった。だが、逆にそのせいで村人に疑われ、エレンは斬られてしまったのだ。

 ルーフィスが、ふとフォルスに視線を向ける。

「ああ、一つ」

 思いついたようにルーフィスが発した言葉に、フォルスは父が母からなにか聞いていたのだろうかと、期待を持って視線を向けた。

「何?」

「引き出し、直しておけよ」

 ルーフィスに向けられた言葉に、フォルスはため息をつきながら片手で顔を覆った。

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