レイチェル物語

瀬名むつみ

第一章

  風に地の命 届かず

  地の青き剣 水に落つ

  水に火の粉 飛び

  火に風の影 落つ


 部屋の入り口近くに立つ、バリッドと呼ばれる吟遊詩人のつぶやくような歌声が、リュートの音に乗せて緩やかに流れている。

 ライザナルカンド皇帝陛下との謁見の間だけあって、ひたすら豪華な部屋だ。様々な絵が飾られた壁は、白地に金泊の浮き彫りで模様がつけられている。それは歪みの少ない硝子のはめ込まれた大きな窓からの夕日を反射し、まるで宝飾品のように見えた。部屋の奥に左右に分かれ、ひどく重たげなゴールドの鎧が二体、それぞれ槍と剣を掲げて立つ。その鎧に防護されるよう、中央一段高くなった上に、金色の彫刻で縁取られ、赤地に金箔の織り込まれた布を張った椅子が据えられている。

 そこにライザナルカンドの皇帝フルフォードが、濃紺のマントを羽織り、悠然と腰掛けていた。ダークブラウンのキッチリまとめた髪に一度手をやったきり、懐かしげに薄緑の眼を細めて聞き入っている。何度も繰り返し歌われるそのフレーズにも飽きる様子がない。その微笑みは五十二歳にもかかわらず、日頃難しく顔をしかめているせいもあり、まるで子供のように見えた。

 フルフォードの前、少し離れたところに小太りの男が一人ひざまずき、灰色の髪を短めに揃えた頭を下げている。だがその緑の瞳は、フルフォードの行動を一時も逃さぬよう、視線を据えていた。


  風に地の命 届かず

  地の青き剣 水に落つ

  水に火の粉 飛び

  火に風の影 落つ


 バリッドは同じ詩、同じフレーズを延々と繰り返している。ボサボサな茶色の髪に疲れたような水色の瞳、痩せた身体に服装も少し汚れていて、この部屋にはまったくそぐわない。かき鳴らされるリュートもバリッドと同じだけの旅をしてきたのであろう、手入れだけではどうにもならない傷や色あせた部分が目立っている。

 バリッドの後ろには、ダークグレイの鎧に身を包み、剣の柄に手を添える形で立つ騎士がいた。漆黒の瞳と肩までのまっすぐな黒髪を少しも揺らすことなく、バリッドの動きに気を配っている。その姿は、がっしりとして背が高く、飾りの鎧とはまた違った存在感がある。

 ふと、フルフォードが軽く手を挙げた。カチャッと鎧の男が立てた剣の音に、バリッドがビクッと身体を固くし、その声と音を押し込んだ。空気がピンと張りつめる。

 挙げた手を静かに置くと、フルフォードは肩が上下するほどの深い息で、場の静寂を破った。それからゆっくりと口を開く。

「この一節が、間違いなく神の守護者と呼ばれる一族の詩ならば」

 誰に聞かせるでもなく独り言のように言うと、フルフォードは前方でひざまずく男へと目を向けた。

「デューク、レイクスはメディアナにいるということだ。連れ戻せ」

「御意」

 緊張のあまりかすれた声を返し、デュークはグレーの頭をさらに下げる。それを目にすると、フルフォードは鎧の男に視線を移した。

「その一族を捜索するよう指示を出せ。アルトスは前線に戻り、レイクスを連れ戻した後、警護に入るがよい」

「御意」

 アルトスは低い声で答えると、最敬礼をした。フルフォードはうなずくと、今度は視線を左に向ける。

「ただ、気がかりがある。影とは、いったい何を指すのだろうな」

 皇帝の後方、逆光で陰になっていた窓の脇から、黒一色の神官服に身を包んだ男が進み出た。細身で着衣にとけ込むような黒髪に黒い瞳、皇帝フルフォードより少し年長のようだ。薄い唇にわずかな笑みをたたえ、うやうやしく、しかし頭を下げるだけの簡単な挨拶をする。

「所詮、影です。気にする必要はございますまい」

 頭を下げたままで表情の読みとれない神官マクヴァルの言葉に、フルフォードは疑心なくうなずいた。


 アルテーリア地方、メディアナとライザナルカンド、この両国の間に、百二十年もの長い歳月を費やしてきた戦がある。

 ライザナルカンドは太陽神シェイドの加護を受け、神々が住むと言われるディーヴァ山脈の西方、陸地の北方に位置する。その勢力はディーヴァの東に広がるシアネルにも多大な影響を及ぼす。

 一方のメディアナは、ライザナルカンドの南側に隣接し、月の女神であるシャイア神に保護されている。気候は穏やかで作物の収穫も多く、戦があるわりに国民は豊かな生活を送る。

 双方、神の降臨により、その言葉を聞き、力を持った。シェイドは男神であるため、一度降臨すると長い年月同じ身体にとどまった。それに対しシャイアは女神であり、神経質に降臨を繰り返す傾向があった。そして現在、メディアナは五年もの間、シャイア不在の困難な時を送っていた。



「くそっ」

 フォルスは二位の騎士の鎧にマントまでつけたまま、ドアを蹴り開けるようにして自宅の居間に入った。荷物で両手がふさがっていたのだが、手が空いていてもドアを蹴り飛ばしたに違いない。

 ヴァレスがライザナルカンドに落ちた。王女の誕生会のために城都に戻ったフォルスを追いかけてきた知らせは、大きな衝撃だった。ほんの五日前には、フォルス自身も国境の町ヴァレスを守っていたのだ。犠牲者の多さにも打ちのめされた。こればかりは、戦をしているからと割り切れるモノではない。十四で騎士になって四年、これほどの大きな負けは経験がなかった。

 フォルスは、片方の荷物をとなりの部屋に放り込んだ。転がって壁にぶつかったが、気にせずにドアを閉める。ダークブラウンの髪が濃紺の瞳の前で揺れた。

 メディアナよりもライザナルカンドの方が、文句なく国力が大きい。それでも今までは、シャイア神が降臨さえすれば、たいした衝突も無しに国境を元の位置に押し戻すことができていた。そのためシャイアの降臨を望む声が大きくなっているのも、フォルスには気にくわなかった。

 聖歌に青が歌われる部分がある。フォルスの瞳が他に見られない濃紺なので、女神の使者のように言われることがあるのだ。宝飾品で固められた鎧を着る羽目になったのも、その鎧に飾られたサファイアという大きな宝石が瞳の色と同じせいだ。母譲りの目を嫌ってはいなかったが、鬱陶しいのも確かだった。

 手元に残したカバンの口を開け、椅子の上にひっくり返す。そこに衣類やらなにやら出てきて小さな山ができた。一番底から小さな鍵が落ち、その山で跳ねる。空になったカバンを床に投げると、その鍵を掴んで奥の部屋へ向かった。

 鍵穴のある小型の引き出しに近づくと、鍵を差し込んだ。五歳の時に死んでしまった母エレンが、フォルスが大きくなったら渡すと義理の父であるルーフィスに言っていたモノが入っているはずだ。今回初めて鍵を渡され、引き出しを開ける許可をもらった。だが鍵はきちんと奥まで入らなかった。開けてはいけないと父に言われ続け、それでも開けてみたくて隠れてイタズラをした記憶が随分ある。母の形見なのだ、気にならない方がおかしいだろうと毒づく。かがんで鍵穴をのぞき込んでみると、何か奥の方に入り込んでしまっているように見えた。

 フォルスは大きくため息をつくと、鍵を後ろに放った。引き出しを乱暴に動かして、とめてある金具の位置を調べ、短剣を抜いて引き出しの隙間に差し込む。奥の金具に刃を向けると、そのまま押し込んだ。ガチッと剣先が金具に当たって止まる。フォルスは立ち上がると、その柄に蹴りを入れた。金具を止めたビスが一瞬の悲鳴を上げる。今度はかがみ込むと、短剣を鞘に戻し、取っ手を掴んで力任せに引っ張った。金具が内側に落ちる音と共に抵抗が無くなる。フォルスは今までのうっぷんを晴らしたかのように、フッと息で冷笑した。

 急いて壊してまで開けた割には、引き出しをゆっくりと引く。中には木製の箱が入っていた。手にすると、思ったよりもズッシリと重量がある。開けてみると、箱にそぐわないゴールドに反射する光が目に入ってきて、フォルスは顔をしかめた。お守りを鎧の内側につけるための金具に似た部分があり、指先でつまみ上げる。そこから五本の鎖が繋がっていて、鎖の反対側に付いているほんの少し縦長の球体が持ち上がった。その表面には繊細な細工が施され、紺色の石がいくつかはめ込まれている。薄い木材でできた箱に重みはあまり残っていない。ほとんどが手にした宝飾品らしきモノの重量だったようだ。

 期待していたのが、なんだかバカバカしくてため息が出た。これを渡してどうしたかったのだろう。宝飾の鎧に付けると合いそうだと思う。フォルスにはそれだけ意味のない物に見えた。

 元通り箱に入れて、引き出しにしまい込む。明日には王女スフィリアの誕生会がある。ヴァレスが落ちたこともあり、間違いなく規模は縮小されるだろうが、出なければならないことには変わりない。宝飾の鎧を付けてスフィリアのエスコートだ。こんなに面倒なことは他にない。

 フォルスは首にかけた鎖をたどり、星の形をした青い石に触れた。会いたい人は他にいる。この青い石、ペンタグラムと呼ばれるお守りを交換した人だ。その面倒な仕事を終えたら会いに行こうと、フォルスは心に決めていた。


 申し訳程度に縮小されはしたが、王女の誕生会は例年とほとんど変わりなく行われている。直前になって招待客を断る訳にはいかなかったこともある。だが表向きに変化がない方が、いくらかでも混乱を招かずに済むという思いが、メディアナの関係者にあったのは間違いない。

 日頃あまり飾り気のない城内だが、今日は華やかだ。随所に色とりどりの花が飾られ、いつもの宴よりも若い招待客が様々な色合いの礼服で、緩やかに流れる曲に合わせて踊っている。日が落ちると、いつもの倍に近いだけの明かりが灯された。

 フォルスはその中にいた。金地に宝石がいくつもはめ込まれている鎧を着けているのと、二位という騎士の位を示す赤いマントのせいで、ひどく目立つ。しかも宴の主役であるスフィリアの相手なのだ。

 フォルスと、スフィリアの兄である皇太子サーディとは、学友としての付き合いが長い。そのためスフィリアとも馴染みがあるので、その点での緊張はなかった。だが目立つ格好で宴の主役と踊るのは、必要以上に人の視線を浴びる。フォルスは、自身が王女スフィリアの装飾品なのだと、気持ちをはぐらかしていた。そうでも思っていないと、やっていられない。

 仏頂面に近いフォルスの表情と対照的に、スフィリアは楽しそうに笑みをたたえていた。会の主役らしく栗色の髪を綺麗にまとめて花飾りを付け、ふんわりと膨らませた白いオーガンジーのドレスを身に付けている。

「ホントに綺麗な紺色よね。鎧のサファイアと変わらないわ」

 スフィリアは、鎧の胸プレート中央に付いた宝石を指で突いた。大粒なだけに、深い紺色をしたサファイアがある。フォルスは思わずその石に目をやった。スフィリアは身体を寄せ、石を見下ろしているフォルスの目を、そのブラウンの瞳で見上げる。フォルスは口をつぐんだまま、迷惑そうに視線をそらした。

「話しかけるな。踏むぞ」

「私の相手をするのが面倒なんでしょ。顔にそう書いてある」

 スフィリアはツンと口を尖らせて見せた。

「リンデアはいいわよね。じっくりその目を見ていられるんだもの」

 ギョッとしたようにフォルスはスフィリアを見た。フォルスは今まで、リンデアと目の色の話をしたことがない。どう思われているのかと不安になる。フォルスの驚き様に、スフィリアは苦笑した。

「やだ、知らないと思ってた?」

 付き合いがあることは間違いなく知られていると思っていたが、フォルスは首を縦に振った。リンデアがこの目だけを見ているのではなどというバカげた懸念を、スフィリアに悟られたくなかったからだ。

「兄が羨ましがっていたのよ。その話を聞いたら私、リンデアとは友達だから、いろいろ問いつめてみたくなっちゃって」

 イタズラな笑顔を向けて、スフィリアはクスクスと喉の奥で笑い声を立てた。フォルスは何も言わずにため息を返す。

 実際、知られて困るようなことは何もなかった。リンデアとは、一ヶ月前の出陣の時に、想いを打ち明けあっただけだ。しかもリンデアはその時のまま、聖歌のソリストを続けている。立場的にはシスター見習いと同じなのだ。結婚は許されていない。何かあったら、それこそ問題になる。

「ねぇ、いつリンデアを連れて行くの?」

 スフィリアの問いに、まだそんな状況じゃないと思いつつ、フォルスはスフィリアを見下ろした。スフィリアは好奇心いっぱいの目でフォルスを見上げている。

「まだずっと先の話だ」

 フォルスはぶっきらぼうに言うと、自分まで問いつめるつもりだろうかと眉を寄せた。お構いなしにスフィリアは話し続ける。

「さらってっちゃえばいいのに。駆け落ちするとか」

 何を聞かれても冷静に威圧的に答えるつもりだったはずが、フォルスは思わず動揺した。喉に詰まった言葉を、やっとの思いで吐き出す。

「む、無理だ、そんなことできるかよ」

「なぁんだ、フォルスもそうなのね。つまんない」

 そう言うとスフィリアは肩をすくめた。実際、つまらないなどという問題ではない。お互いが想いを寄せていることは、双方の親にまですっかりバレている。しかも、フォルスの父ルーフィスは首位の騎士、つまりは騎士長であり、リンデアの父親シェダインは神官長なのだ。何か一つでも段取りを省略したら、もめ事が起こるどころの話しではない。

「たまには強く出ないと。女って優しいだけの人には飽きがくるモノよ」

「それ、駆け落ちしないことと何か関係あるのか?」

 サッサと返したフォルスの言葉に、スフィリアは首をひねって考え込んだ。

「関係ない、こともないと思うんだけど……」

 うつむいたスフィリアの表情は、フォルスにはまるきり見えない。このまま黙っていれば話しをしなくていいだろうという気安さはあった。だがスフィリアの言葉から、公にしたくない恋人を隠しているのだろうことは想像できる。

「へぇ、駆け落ちしたいんだ」

 フォルスがつぶやくように言うと、スフィリアはフォルスを見上げ、ケラケラと笑って見せた。

「なに面白いこと言ってるのよ。そんなこと、できる訳ないじゃない」

 スフィリアの言葉は、その存在を肯定しているように思え、フォルスは思わず苦笑を浮かべる。

「誰に強く出て欲しいんだ?」

 その言葉にスフィリアはハッとして目を丸くし、何か言いかけて唇をギュッと結んだ。フォルスは、なぜ隠さねばならないのかと不愉快に思い、眉を寄せたスフィリアをジッと見据える。

「言えないような人なのか? だったら陛下に進言した方がいいかもな」

 スフィリアは困惑した顔に、無理に笑みを浮かべた。

「フォルス、だったりして」

「ふざけるな」

 ぶっきらぼうに返したフォルスに、スフィリアは身体を寄せ、イタズラっぽい笑顔を浮かべて視線を向ける。

「あら、私、フォルスのこと好きよ?」

「へえ? じゃあ」

 フォルスは雑踏の外側へと、スフィリアの腕を取って引いた。スフィリアはその場に踏みとどまろうとしたが、力に負けて少しだけおぼつかない歩を進める。

「どこ行くのよ」

「人気のないとこ」

 表情の変わっていないフォルスに、スフィリアは慌てて手を振り払おうとした。

「ちょっとっ! リンデアに言いつけるわよ!」

「目的が違うって。どうして隠すのか訳を聞かせろ。それともここで話すか?」

 フォルスは足を止めて振り返った。スフィリアはまわりにサッと目をやると、うつむきかげんでジッと考え込む。そしてあきらめたように短いため息をつくと、フォルスと視線を合わせた。

「分かったわ。行きましょう」

 そういうとスフィリアは、フォルスの先に立ってバルコニーへと歩き出した。

 フォルスはバルコニーの両側に立つ兵士に客を入れるなと指示を出し、人混みから抜け出してスフィリアとバルコニーへ出た。心地よい柔らかな風が頬を撫でていく。たくさんの視線からの解放感に、フォルスは思わず深呼吸をした。ひんやりとした空気が、身体と気持ちを静めていく。

 フォルスの深呼吸で、逆にスフィリアは狼狽した様子を見せた。誰もいないことを確認するようにバルコニーを見渡してからフォルスに向き直り、怖々声をかける。

「怒ってる?」

「当たり前だ。今日だって、そいつにエスコートしてもらえばよかったじゃないか。そうできない理由をキチンと話せ」

 怒っている訳ではなかったが、そう言った方が話すだろうと思い、フォルスは幾分威圧的な言い方をした。スフィリアは目をそらすとボソッとつぶやく。

「んもう、リンデアと一緒にいられなかったからって」

「茶化すな」

 フォルスが変わらず真剣なのを見て、スフィリアはしかたなく話す決意を固めた。

「分かったわ。ちゃんと話す。……恋人がいるの。新人の兵士の知り合い」

 知り合いという言葉に、フォルスは苦笑した。これでは結局、恋人の存在しか話していない。

「また微妙な紹介だな。言えないような仕事なのか?」

「そうじゃないけど……」

 言いよどんでスフィリアはうつむいた。フォルスは話すつもりになっているスフィリアの機嫌を損ねないよう、言葉を和らげる。

「陛下は身分で人を判断するようなことはなさらないよ。仕事や地位なんかは気にしなくてもいいんじゃないのか?」

 スフィリアはフォルスと一瞬だけ視線を合わせると、手すりに身体を向け、日が落ちてほとんど何も見えない中庭に目を移した。

「分かってるわ。でも、彼が誰にも言うなって」

「言うな? それで誰にも言ってないのか?」

「リンデアには、彼の話しをしたの。エスコートもフォルスを貸してって頼んで……」

 スフィリアの声が、質問のたびに弱々しくなってくる。フォルスはスフィリアに並んで顔をのぞき込んだ。

「俺を身代わりに立てておいて、そいつは表に出ないつもりか。でも、スフィリアはそれじゃ嫌なんだろ?」

 スフィリアは言葉もなくうなずいた。フォルスと視線を合わせることもせず、うつむいたままだ。フォルスは皇帝に全幅の信頼を置いている。そのためかフォルスには、スフィリアの恋人は怖じ気づいているのではなく、何かよくない事情があるように思えてならなかった。

「なぁ、そいつと会わせてくれないか? その分じゃ他人の方がまだ紹介しやすいだろ」

 その言葉にビクッと肩を揺らすと、スフィリアは小さくため息をつく。

「……そうね。相談させて」

 背中に兵士のどうぞという声が聞こえ、フォルスとスフィリアはそちらに目をやった。皇太子サーディがバルコニーに出てくる。少し明かりの押さえられたバルコニーに出ると、サーディのブラウンの髪に濃さが増した。サーディはメディアナ人に最も多い茶色の髪と瞳をしている。兄妹だけに、スフィリアとまったく同じ色だ。

 サーディは手を挙げて簡単な挨拶をした。敬礼で返したフォルスに並ぶと、バルコニーの外側を指さす。

「木、無いからな」

「分かってるって」

 フォルスの即答を聞いてサーディは苦笑し、訝しげな顔をスフィリアに向ける。

「こんなとこで、何してたんだ?」

「な、何って、リンデアの取扱説明詳細とかいろいろと……」

 うろたえて言ったスフィリアの返答に、フォルスはブッと吹き出した。サーディはのどの奥で笑い声を立てる。

「嘘はいけないよ。お前、もしかしてフォルスを口説いてたんじゃ?」

「ちょっとっ! どうして私がそんなコトっ」

 スフィリアはサーディがさも心配そうに言った言葉に抗議するように、頬を膨らませて身体を寄せた。サーディはスフィリアの勢いに驚いて、待て待てと両手のひらを向ける。

「最近ため息が多いし、誰か好きな奴でもできたのかと思ってね」

 スフィリアは目を丸くしてサーディを見つめた。フォルスは苦笑しながらサーディの背をトンと叩く。

「口説かれたりしてないよ」

 フォルスは、振り返ったサーディに宴の会場を指さして見せた。

「あそこにいたら、視線が凄くて。ちょっと外の空気にあたりたくて、付き合ってもらったんだ」

「視線?」

 サーディはフォルスの格好を上から下まで見て、肩をすくめる。

「そうか。宝飾の鎧に二位のマントじゃ、なおさら目立つか」

「主役の相手だしね」

 フォルスの駄目押しの言葉に、サーディは納得してうなずいた。

「それにね」

 スフィリアがサーディに軽く肩をぶつける。

「リンデアが相手ならまわりが目に入らないのかもしれないけど、私が相手だとよそ見してるから余計に気になるみたい」

 そう言うと、スフィリアは薄笑いを浮かべた。サーディは、さも可笑しそうにアハハとおおらかに笑う。スフィリアが追求されないように話をそらした結果がこれだ。フォルスはため息をついて、左手で顔の半分を覆った。その顔をスフィリアがのぞき込む。

「神殿の中庭にね、リンデアがいるの」

 フォルスはその言葉に息をのんだ。

「え? いるって、どうして」

「途中で解放するって言ってあるの。今日はもう、お兄様といるからいいわ」

 そう言うと、スフィリアはにっこり笑ってサーディの腕を取る。サーディは肩が揺れるほどの苦笑をした。

「俺とか? 寂しい誕生日だな」

「人のこと言えないでしょ。いいわよね?」

「そりゃ、駄目だなんて言ったら、リンデアちゃんが可哀想だよ。へぇ、一応考えてるんだ」

 サーディの言葉に、スフィリアは大きなため息をついた。

「いくらなんでも、ただ借りてるのは心苦しいでしょ」

 得意げなスフィリアに、フォルスは眉を寄せる。

「もしかして、具体的な時間の指定無しにか?」

「してないわよ。だって、どうなるか分からないじゃない」

 スフィリアの言葉に、フォルスは呆気にとられ、サーディと顔を見合わせた。サーディがスフィリアの顔をのぞき込む。

「じゃ、待っているかどうか分からないじゃないか」

「待ってないわけ無いじゃない」

 スフィリアとサーディは、難しい顔で見つめ合っている。このまま二人の言い合いを聞いていても、気が滅入るだけだとフォルスは思った。

「とにかく行くよ。じゃ」

 フォルスは不安を押し殺すと、ろくに挨拶もせずにバルコニーを後にした。


 最近になって神殿中庭の入り口に、旧型の宝飾の鎧レプリカが置かれた。古典的な作りで、あまりにも重くて動きづらく、新たに作り替えられたため、その形を残す目的でわざわざ作成されたのだ。鎧に付いていた数々の宝石類や金は、現行の鎧に移し替えられてはいるが、真っ白で装飾の少ない神殿の壁に映え、充分過ぎるほど豪華に見える。

 中庭の入り口と向きあった階段の途中、出入り口左にあるその鎧は、自然とリンデアの視界に入ってきた。いつもとは違う様子に足が止まる。

 鎧にまとわりつくように、ピクシーと呼ばれる虫のような妖精が浮いていた。肩に乗り、鈴を転がしたような声で話しかけていたかと思うと、胸のプレートに寄り添ってキスをする。まるで鎧を口説いてでもいるような妖精の行動から、リンデアは少し緑を帯びた薄いブラウンの瞳をそらした。頬がほんのり赤らんでくる。

「あ、ティターナ」

 リンデアの横を、ティターナと呼ばれた五~六歳に見える男の子が、駆け抜けていった。その勢いで、リンデアの腰まである琥珀色の髪と、白く長い神官服がフワッとあおられて揺れる。ティターナを引き止めようとして差し出した色白の腕が、そこに残された。リンデアは小さくため息をついてから、ゆっくりと後を追う。

 ティターナは階段を下りる間にみるみる巨大化していき、中庭入り口に着いた時には、入り口がふさがってしまうほどの大きさになった。振り返ったその顔は既に人間のモノではない。目はギョロッと丸く、口が裂け、耳が尖っている。ティターナはスプリガンという種の妖精なのだ。短い足が緑のずんぐりした体を支え、異様に長い腕が通せんぼをするように左右の壁を押さえた。鎧に手がぶつかり、ガシャッと音を立てる。

 鎧にまとわりついているピクシーが、睨むように怪物のような妖精に視線を投げた。文句でも言っているのか、甲高い音が聞こえる。ティターナはそれを無視して、すぐ側まで来たリンデアに大きな目を向けた。

「どうして来ないかもしれないのに、待ってるなんて言うんだよ」

 図体に似合わない拗ねた声が廊下に響く。とてもリンデアを守ると言って側にいるガーディアンとは思えない。リンデアは微苦笑して、憮然とした緑色の顔を見上げた。

「だって来るかもしれないのよ? 中庭に出ましょう。ほら、邪魔みたいだし」

 リンデアの言葉に、ティターナがピクシーを見た。その鎧に抱きついたままの妖精が、そうよとばかりに顔をツンと背ける。それを見て、ティターナは頬を膨らませた。

「邪魔したっていいじゃないか。リンデア、この鎧がこんな奴に言い寄られるのは、嫌だって思ってるだろ。中身が入ってるわけじゃ無いのにさ」

「ティターナ!」

 リンデアはティターナの口を止めようと、眉を寄せる。

「そうやって心を覗いたことを口にしちゃ駄目っていつも」

 聞いているのかいないのか、ニッコリ笑っていたティターナが、不意にリンデアから目をそらした。城へと続く廊下の先を見ている。

「ちぇっ、中身だ」

 リンデアは訳が分からないまま、ティターナの視線を追って振り返った。そこにフォルスがいた。リンデアの表情がほころびていくのを見つめたまま、ティターナはもとの可愛らしい子供に変わっていく。まるで怪物の姿が嘘だったかのように人間らしく小さくなると、ティターナはリンデアの陰に隠れた。

 フォルスは、レプリカの鎧にからみついている妖精にチラッとだけ視線を向けたが、その妖精もティターナも目に入っていないかのように無視して、リンデアの前に立った。ずっと抱えていた愛しさが、フォルスの体中にわき上がってくる。リンデアの笑顔の瞳を、涙が覆っていく。

「無事で……」

 それだけ言うと、リンデアは涙を隠すようにうつむき、フォルスの鎧の胸プレートにコンと額を付けた。フォルスはリンデアの髪を撫で、そのままそっと背に腕を回す。フォルスにはリンデアの身体が、手に力を込めるのがためらわれるほど、柔らかでおぼつかなく感じた。

「待っていてくれると思ったら、一ヶ月がひどく長くて」

 フォルスはリンデアの頬を指でなぞるようにして上を向かせ、その潤んだ瞳を見つめた。

「会いたかった」

 視線を合わせたまま、フォルスとリンデアは、どちらからともなく唇を寄せる。

「ねぇ!」

 ティターナがいきなり大声を出した。その声に驚いて、二人は思わず視線を向けた。フォルスはリンデアを支えるように抱いたまま、ムッとしてティターナを見下ろす。

「てめぇ」

「俺とも会いたかった? 見えてるのに、無視はよくないよ」

 そう言うと、ティターナは何度もうなずいている。うんざりしたように、フォルスは鎧の端を掴んだままのティターナを見据えた。

「隠れたのはお前だろ。まったく、お前のこと気にしてたら、なんにもできやしない」

「何する気なんだよ」

 ティターナは、ふてくされた顔をフォルスに向ける。ウッと言葉に詰まってから、何か返事をしようとフォルスは口を開いた。

「え? あ、ええと……」

 言いよどんだフォルスと定まらない視線を交わし、リンデアは赤みが差した頬を両手で包み込んだ。ティターナは不機嫌そうな顔のまま、リンデアをじっと見つめる。

「どうして嫌じゃないんだよ」

 その言葉にキャアと短い悲鳴を上げ、リンデアは慌ててかがみ込んでティターナの口を押さえた。

「そんなこと言っちゃ嫌っ」

 呆気にとられて見ていたフォルスは、ティターナの言葉がリンデアの気持ちを指したモノだと気付いて苦笑した。人の気持ちが見えても口にしてはいけないと、ティターナに最初に教えたのはフォルスだ。だが、よくないことだと分かっていても、リンデアの気持ちを知ることは単純に嬉しかった。

 リンデアはティターナと向き合って、キチンとごめんなさいを言わせてから、後味が悪そうにフォルスを見上げた。

「呆れた?」

「どうして?」

 フォルスが返した問いにうろたえたように、リンデアは視線を外してうつむく。

「私、一応まだソリスト見習いだから……」

 ソリストはシスターと同じで結婚はできない。当然見習いでもそれは固く守られる。フォルスは寂しさを隠して分かったとうなずき、リンデアに手を差し出した。リンデアがその手を取ると、フォルスは仲間を助け起こす時のように力を込めて引き上げた。リンデアは思ったよりずっと軽く、余った力で身体を引き寄せる格好になる。フォルスはリンデアの身体を支えて、慌てて離れた。

「わざとじゃ、……ゴメン」

 ばつが悪そうに謝ったフォルスに、リンデアはほんの少しだけ苦笑して、うつむき加減な首を横に振った。

 バンと勢いよく神殿警備室のドアが開いた。中から、背が低めで恰幅のいい男が姿を現す。騎士の人事考課責任者であるクエイドだ。地位に差はないが、フォルスは条件反射のように敬礼を向けた。

「だけど、最初にそんな話は」

 部屋の中から、文句を言っているような声が聞こえ、クエイドは返礼しようとした手を止めて振り返る。

「黙れ!」

 クエイドは部屋の中に大声で叫ぶと、力を込めてドアを閉めた。中から聞こえたのは神殿警備についている、最近中位になったばかりの騎士、ゼインの声だ。ゼインに向けた不機嫌そうな茶色の瞳を、クエイドはそのままフォルスに投げた。

「スフィリア様のエスコートはどうした?」

「終了しました。今はサーディ様とご一緒であらせられます」

 フォルスの報告に、クエイドはフッと呆れたように眉を上げる。

「十六になっても、ワガママは直っていらっしゃらないようだな」

 今回のことは自分のせいだと思ったが、フォルスは言い返したい気持ちをグッと押さえた。何かにつけて意見が合わない相手なのだ。早くやり過ごすに越したことはないと思う。だがそんなフォルスの願いも虚しく、クエイドはリンデアに視線を向けた。

「ソリストのアテミア殿は、随分回復されたようだね」

 リンデアは口元にだけ微笑みを浮かべ、ハイと返事をした。

「今日は本職ソリストの歌を久しぶりに聴いたよ」

 そう言うとクエイドは、チラッとだけフォルスに視線を投げ、愛想笑いをしたリンデアの側に立つ。

「見習いでもソリストならば、この騎士がどれだけシャイア神のためにならない戦をしているか分かるだろう?」

 よりによってこの話かと、フォルスは眉を寄せた。クエイドはリンデアの肩に片手を乗せる。

「シャイア神にとって、相手の騎士を斬り捨てることがどれだけ大切か、教えてやってくれないかね」

 その言葉にリンデアは思い切り顔をしかめた。リンデアの横に立ち、クエイドは反対側の肩まで手を伸ばしてくる。それを避けるように、リンデアはクエイドに向き直った。

「シャイア様は、けして殺生を好まれるような女神ではありません」

 リンデアは言葉でもクエイドをきっぱり拒否した。クエイドは目をスッと細くする。

「見習いは見習いなりの解釈しかできないのだな。斬らねば戦力を削れないのだぞ? シャイア神の土地も取り戻せないのだ。優位に立っておいて生かして帰すなどもってのほかだ!」

 声を大きくするクエイドに、リンデアが幾分青ざめた。かばうようにフォルスはあいだに入る。

「リンデアと俺のやり方は関係ない」

「関係ないだと? 万が一ライザナルカンドで反戦運動が起きたとしても、それが一体なんの足しになる? お前のような騎士がいるからヴァレスが落ちるようなことになるのだ!」

 その言葉に、フォルスは耳を疑った。気持ちがひどく狼狽している。斬らないで帰せた騎士は数えるほどだ。それだけのせいでヴァレスが落ちたなどというのは、詭弁にしかならない。だがそれを口に出すことができず、フォルスは唇を噛んだ。クエイドはあざ笑うように頬をヒクッと動かし、フォルスと顔を突き合わせる。

「これで二位の騎士だとはな。自分の国に帰ったらどうだ? そこでなら神に忠誠を尽くす良い騎士になれるぞ」

 言葉を返さないフォルスを笑い飛ばし、クエイドは背を向けて去っていった。

 自分の国と言われても、フォルスに思い当たる国はメディアナ以外どこにもない。メディアナに濃紺の目を持つ人間は他にいないため、クエイドには他国の人間だと言われるのだ。実際はフォルスの母親が同じ瞳をしていた。だが、もともとメディアナにいたのか、どこかからメディアナに来たのか、ほとんど明かすことなく母は亡くなってしまった。父も知らないと言うのだから、フォルスにはもう確かめようもない。

 クエイドが完全に見えなくなってから、リンデアはフォルスの顔をのぞき込んだ。フォルスの表情は硬いままだったが、リンデアと視線があうと微かに作り笑いを浮かべた。

「ゴメン、こんな話」

 フォルスに首を横に振って見せ、リンデアは小さくため息をつく。

「クエイドさんは、目にする騎士みんなに斬れ斬れって言うのかしら。もしも、みんながうなずいてしまったら……」

 心配げなリンデアを見て、フォルスは仲間の騎士達の顔を思い浮かべた。

「いや、大丈夫。少なくとも俺のまわりにそんな騎士はいないよ。大丈夫」

 フォルスを見上げて聞いていたリンデアの表情が、フワッと微笑みに変わる。と同時に、フォルスは自分の気持ちの波が薙いでいくのを感じていた。リンデアの笑顔はいつも、フォルスのこごった気持ちを解かし、安らぎや安堵を与えてくれる。それはフォルスにとって唯一であり、かけがえのないものだ。

 急にティターナが中庭に走り出た。リンデアが呼び止めようとしたが、もう既に随分遠いところに背中が見える。

「どうしたのかしら。ずっと離れたことって無かったのに」

 リンデアは困惑した顔でフォルスを振り返った。ティターナはリンデアを守ると明言してから今まで、片時も側を離れずにいたのだ。リンデアが心配するのも理解できる。フォルスは中庭を親指で示した。

「行ってみようか?」

 うなずいてリンデアは歩き出した。フォルスが横に並ぶ。

 中庭といっても結構広い。いろいろな種類の木が植えられ、散策するためにつけられた道の両脇には花が咲いている。そこに踏み出して、フォルスは思わず足を止めた。五、六匹のピクシーが目に入ってきたのだ。手のひらくらいの大きさから、子供の大きさくらいまでいる。羽根も個性的で、蝶のようだったりカゲロウのようだったり、いろいろな形、さまざまな色の光を放っている。美しい光景だとは思う。だが、これまで数えるほどしか妖精を見たことが無いフォルスには、少し不気味に感じた。

「いつもと違って、にぎやかでしょう?」

 フォルスより二、三歩先に進んで振り返ったリンデアが、フォルスの思いを察したように言う。

「最近、とても多いのよ」

 リンデアは楽しげな微笑みを浮かべてまわりを見ている。妖精達が向けてくる珍しいモノを見るような視線がうるさくて、フォルスは苦笑でごまかした。この光景に慣れているのか、リンデアはさっさと中庭の奥へと歩を進めていく。フォルスは慌てて後を追い、リンデアと肩を並べた。

 横からのぞき込むように飛んでいるピクシーに、リンデアは手を差し出した。小さな妖精は何度かリンデアの手をかすめて行き来し、ほんの少しだけ指先に触れて逃げるように飛び去っていく。

「とても綺麗よね。見えるようになるのって嬉しいわ」

 それを見送って、リンデアはフォルスに笑顔を向けた。そのあいだをピクシーが横切り、フォルスは顔をしかめる。

「でも、ちょっと多すぎる」

 まわりを改めて見ると、たぶんピクシーだけではなく、まだまだ結構な数の妖精がいそうだった。葉の陰から光が見え隠れしているところが何カ所かある。

「ティターナったら、どうしたのかしらね」

 中庭の真ん中、女神像がある少し広くなった場所で、リンデアは中庭の奥をのぞき込むようにしてため息をついた。フォルスは心配げなリンデアに微笑して見せる。

「知り合いでも、いたのかもな」

 フォルスは、さらに奥に進もうと足を踏み出した。リンデアは腕をとってフォルスを止める。

「もしそうなら邪魔になるわ。待っていた方がいいんじゃない?」

「俺、ものすごく邪魔したい気分なんだけど」

 イタズラな笑みを浮かべて振り返ったフォルスに、リンデアは苦笑して眉を寄せた。

「駄目よ。相手が妖精なら驚いていなくなってしまうわ。可哀想」

 ムッとした顔をして、フォルスはリンデアの頬に触れる。

「お互い様だろ」

「え? あ」

 キスの邪魔をしたティターナを思い出し、リンデアは口を押さえた。その手をフォルスが掴む。

「行かないか? 一緒に」

 虚をつかれたように、リンデアはキョトンとした顔をフォルスに向けた。フォルスはリンデアをまっすぐ見つめる。

「明日の午後には、城都を発たなきゃならないんだ」

 フォルスが城都に滞在する時間はいつも短い。そして行き先は戦の中なのだ。実際の距離より精神的な距離が、さらに遠い。リンデアは寂しさと悲しさで顔をゆがめた。

「次に戻れるのは、二ヶ月以上あとになる。それもヴァレスがあんなことになったから、確実に戻れるのかも分からない」

「でも、アテミアさんが……」

 リンデアはそこまで言葉にしたが、あとは声にならなかった。本当は自分がどうしたいのか、もう自覚してしまっているのだ。フォルスは掴んでいた手を引いて、リンデアを抱きしめた。

「ただの一ヶ月があんなに長かったんだ。それ以上だなんて考えられない」

 見つめ合ったリンデアの瞳に涙が溢れてくる。フォルスはリンデアと唇を合わせた。リンデアのすべてを包み込むように、腕に力を込める。

「もう、離したくない」

 息がかかる距離のフォルスの言葉に、リンデアは身体を寄せた。

「私も、側にいたい」

 小さな声だったが、それはフォルスの耳にしっかりと届いた。

 大きな影が二人を覆った。フォルスが顔を上げると、そこには妖精の姿をしている大きなティターナがいた。またお前かと思いながらフォルスはティターナを見上げたが、すぐいつもと違う様子に気付いて眉を寄せた。ティターナはボゥッとまっすぐ前を見て、何も考えていない、ほうけたような顔をしている。リンデアもフォルスの視線を追ってティターナを見上げた。

「ティターナ? どうしたの?」

 リンデアの声が聞こえたのか聞こえていないのか、ティターナはゆっくりと視線を落とし、二人を見た。

「ティターナ?」

 リンデアはフォルスの腕から離れて、ティターナの方へと足を踏み出した。途端、ティターナの大きな手が、リンデアの身体を掴んだ。剣の柄に手をかけたフォルスを、もう片方の手で払い飛ばす。側にあった木の幹に、凄い勢いで背中をぶつけ、フォルスは地面に両手をついてうめき声を上げた。

「ティターナ! なんてことを! 放して!」

 そう叫んだリンデアを両手のひらに乗せ、ティターナは腕を高く突き上げた。

 空が急激に明るくなり、目を開けているのが辛いほどのまぶしい光の球が、まっすぐティターナの手のひらに落ちた。ドンという音がして、辺りが光に溢れ、何も見えなくなる。

 少しずつ光がおさまり、目が慣れるにしたがって、白い布切れがゆっくりと辺りに降ってくるのがフォルスの目に入った。

「リンデア?!」

 その布切れがリンデアの服だったことに気づき、フォルスは剣を抜いて少しずつ見えてきたティターナに駆け寄ろうとした。草が急激に伸びて足にからみついてくる。

「くそっ!」

 フォルスは剣を足元に向けた。草に刃を当てる直前、今度は剣を持った腕に後ろの木の枝が巻き付く。剣を引き留める枝に驚き、振り返ろうとしたその首にも枝が伸びてきた。苦しさに剣を取り落とし、首に絡んでくる枝に手をかける。だがそれは千切れるどころかドンドン成長して鎧の隙間から入り込み、身体まで締め付けて息をする自由までをも奪っていく。意識が遠のきかける中で、フォルスはただリンデアの身だけを案じた。

 ティターナの掲げた手のひらに吸い込まれるように、光がひいていく。と同時に、フォルスを拘束している枝の力も抜けていった。フォルスはそれを待っていたように、手の枝をほどき、首をつなぎ止めた枝を折る。

 ほとんど元通りに、夜の中庭の空気が戻ってきた。ティターナの腕がゆっくりと降ろされ、その手のひらに気を失ったリンデアが横たわっている。フォルスは剣を拾ってからみついている草を切り、ティターナの方へ駆けだした。

 ティターナは膝をズシッと地面につけ、膝の前にリンデアを乗せた手を置いた。焦点の合わない目を虚空に向けて、身体をユラユラと揺らしている。フォルスはリンデアの服がほとんど残っていないことに驚いたが、ティターナの身体が前に傾きつつあることに気付き、慌ててリンデアを抱いてティターナの陰から逃れた。ティターナはそのまま前に倒れ、ドドッと大きな音を立ててひっくり返る。フォルスはその重たそうな音で、下敷きになっていたらと思い、背中に冷たいものを感じた。

 フォルスはリンデアをいったん柔らかな草の上に寝かせた。マントを外して裸同然のリンデアをそっと包み込み、抱き上げる。何が起こったのか分からないが、とにかく手当が必要だと思った。

「フォルス!」

 中庭の入り口をくぐり、背中までまっすぐに伸びている銀の長髪をなびかせ、神官のグレイが走り寄ってくる。フォルスはリンデアを抱いたまま、グレイの方へと急いだ。

「大丈夫か?」

 グレイは真っ白な肌を少し上気させ、ほんの少し赤みがかったシルバーの瞳を一瞬だけフォルスに向けると、荒い息をしながら両手を膝に付いた。フォルスは眉を寄せて心配げにリンデアの顔をのぞき込む。

「分からない」

 グレイはフォルスよりほんの少し大きく細い身体を起こしながら、パタパタと右手を振る。

「違う、フォルス、お前の方」

 フォルスは訝しげにグレイを見た。グレイと正面から視線が合う。グレイが心配しているのはフォルスなのだ。フォルスは、この状況を見れば誰もがリンデアの方を心配すると思った。だが、グレイはなぜか違っている。

「俺か? 俺はこの通り……」

「降臨の光の中にいて、シャイア神が降りた巫女以外の人間が無事でいたなんて、前例にないんだ」

 フォルスは虚をつかれたように茫然とした。グレイはフォルスの首に残っている枝に、手を伸ばしかける。

「なんて言った?」

 グレイの行動を遮ったフォルスの真剣な様子に、グレイはフォルスと視線を合わせた。

「なんてって、前例にない?」

「いや、その前」

「ええと、降臨……、あ、そうか」

 グレイは忘れていたとばかりに、ポンと手を叩く。

「そう。これは降臨だよ。リンデアに女神が降りたんだ」

「降臨? ……あれが?」

 フォルスは、訳の分からない怒りを押し込むように口を閉ざし、リンデアを見下ろしたままその表情をこわばらせた。


「降臨が成されている間、基本的に巫女は女神の部屋に滞在し、女神は部屋から力を使われ、自然現象によって軍部の後押しをしてくださいます。ですから護衛はほとんどの場合神殿内で行われ、女神の性質上、妻帯者が就くのが良策とされてきました」

 茶色の髪と瞳を持った神官長シェダインの、幾分ゆっくりした話し声が城内の執務室に流れる。壁に貼られたアイボリーで木目調の布地と、マホガニー製で統一された家具が、部屋を落ち着いた雰囲気に見せている。シェダインの穏やかな表情とゆっくりとした動きが、その落ち着いた空気に輪をかけていた。

 シェダインが自分の左から、赤黒色の円形テーブルに着いている人たちを見回した。まだ四十四歳と若いが堂々と威厳を持った皇帝ディエント、降臨があったからだろう、妙に楽しげなクエイド、チラチラとフォルスを気にしているサーディ、そしてたえずうつむき加減で視線が合わないフォルスが、順にシェダインの目に映る。

「今回女神の護衛はフォルス君にお願いしたいのです」

 シェダインの言葉を聞き、フォルスはうつむいたまま息をのんだ。ディエントは濃茶の瞳をチラッとだけフォルスに向ける。フォルスの首には枝に絞められたアザがくっきりと付いたままだ。ディエントはゆっくりうなずくとシェダインに視線を戻した。

「フォルスは妻帯者では。ああ、降臨を受けたのは君のお嬢さんだったな」

 はい、と、シェダインは軽く頭を下げる。そのすぐれない顔色に、ディエントは眉を寄せた。

「まだ、眠っているままか?」

「ええ。早くて三、たいていの場合四日は」

 シェダインの返事が、そこでとぎれた。フォルスの頭の中を、目の前で起きた降臨がよぎっていく。その時何が起こっているのか分からなかったが、リンデアを守れなかったという事実が、フォルスの神経を責めつけていた。少しの沈黙のあと、クエイドはフッと頬を緩ませる。

「なんにしても、降臨があったというのは喜ばしいことです。これでシャイア様直々の力で、土地を取り戻してくださるでしょう」

 クエイドの朗々とした声が城の執務室に響く。あと数年で六十に届こうという年の割には艶があり、耳障りな声だとフォルスは思った。気付かれないようにテーブルに視線を落としたまま、フォルスはマホガニーの木目に向かって顔をしかめる。シェダインは小さく息を吐くと気を取り直すかのように背筋を伸ばした。

「降臨を受けると、やはり生活が変わってしまいますので、護衛もなるべく馴染みのある人間に就いてもらいたいのです」

 シェダインの真剣な眼差しに、ディエントは小さくうなずいた。だが、表情は変わらず険しいままだ。

「しかし、フォルスは二位だ。支障は出ないか?」

 ディエントの目がクエイドに向く。クエイドは軽く首を横に振った。

「いえ、いくらかの支障は出るでしょうが、普段の業務でしたら他の騎士に振り分けてもかまわないかと存じます」

 その発言の意外さに驚き、フォルスは思わず顔を上げてクエイドを見た。クエイドは笑ったのか顔をしかめたのか、フォルスと視線を合わせてわずかに目を細めると、再びディエントと向き合う。

「降臨の光の内側にいて命を落とさなかったのは、彼が初めてだそうじゃないですか。もしそれに意味があるならば、彼が必要だったから殺さなかったのではないかと」

 クエイドはディエントが微苦笑を浮かべたのを見て言葉を切った。そのままディエントが口を開くのを待つ。

「まあ、そう取れないこともないな。私としては、女神が降りたからこそ、前線に彼のような存在があった方がいいと思ったんだが」

「それは反戦運動を推進なさると、そういうことですか?」

 クエイドはグッと眉を寄せた。ムゥとうなり声をあげると、まっすぐディエントを見据える。

「陛下が直々に、そのようなことをおっしゃるなど。一部の民の意見を鵜呑みにされるようなことは」

「そうではない。私にはそのような行動はとれん。ただ、若い時にそう考える時期があるのは、私自身も否定はできんのだよ」

 ディエントの言葉を聞き、フォルスはサーディに視線を向けた。サーディはその視線を避けるように肩をすくめ、フォルスは表情を厳しくする。

「まさか……」

 フォルスの険しい視線を手のひらで遮るようにして、サーディは苦笑した。フォルスは思わずサーディに向き直る。

「良くない!」

「いけません!」

 かぶった声にギョッとして振り返ったフォルスに、耳を疑うかのようなクエイドの視線が合った。フォルスはクエイドから目をそらして口をつぐんだ。サーディは、クエイドが茫然とフォルスを見ているのを目にして、ため息のように苦笑した。

「こんなところで意見を合わせてくれなくても。今はこの話をしている時ではないし、あとから別々に聞くよ」

 クエイドは不満そうな顔をした。ディエントはそれを手で制し、あらためてサーディと向き合う。

「フォルスは女神の護衛に就いてもらおうと思うがそれで良いな?」

「はい。私もそれが最善だと思います」

 そのサーディの返事に満足そうにうなずき、ディエントはテーブルに着いた面々を見回した。

「では、女神の護衛は、フォルス、頼むぞ」

 フォルスは動揺をなんとか抑え込み、敬礼で答えた。ディエントは、シェダインが控えめに表情をほころばせたのを目の端で見て、クエイドに言葉を向ける。

「神殿警備はフォルスに兼任させるとして、影響してくる部分とサーディの護衛についての配置を熟慮してくれ」

 クエイドはディエントに深々と頭を下げた。

「他には?」

 ディエントの視線に、シェダインがハイと返事をする。

「リンデアは女神の部屋で生活し、フォルス君には前衛の部屋を使ってもらいます。それから神殿側では専属でシスターを二人付けます。あとの細かいことは神殿の方で説明しようと思いますが」

 ディエントがうなずいて向けた瞳に、フォルスは敬礼を繰り返した。

「承知いたしました」

「では、すぐにでも警備の体制を整えてくれ」

 ハイと返事をしたフォルスの肩を、シェダインがポンと叩く。

「頼むよ」

「はい。では私はこれで失礼いたします」

 フォルスは一度立ち上がり、その場で最敬礼をした。

「では、私めも」

 クエイドがかしこまったお辞儀をする。フォルスは先に立ってドアを開け、クエイドを通してから部屋を出た。ドアを閉めて振り返ると、留まったままのクエイドと目が合う。

「お前がサーディ様の反戦運動に反対するとはな」

 クエイドの冷笑に、フォルスは何も言わず口をつぐんだままでいた。

「お前が敵を斬らないなどと妙な真似をするものだから、サーディ様にも影響が出たのだろう。まぁ、相手の戦力を削ろうとしない騎士など、戦の中では意味がない。女神の護衛がお前には似合いだ」

 クエイドの喉から漏れる含み笑いに対し、フォルスは丁寧に頭を下げた。

「ありがとうございます」

 予想をしていなかっただろうフォルスの反応に、クエイドは苦々しげに顔をゆがめる。

「女神に降臨を解かれるようなことになれば、どうなるか分かっているだろうな」

 そう言い残すと、クエイドは廊下の奥へと去っていった。

 クエイドの姿が見えなくなって、フォルスは身体の力が全て抜けるほどの大きなため息をついた。これから女神の護衛に就かなければならない。リンデアをあんな目に遭わせた奴を守れというのだ。もしも女神だけ斬れるものなら、叩き斬ってしまいたいほどの衝動に駆られる。フォルスは苦渋に顔をしかめた。

 フォルスの背後、執務室のドアが開いた。慌てて振り返ると、シェダインが部屋から姿を見せる。

「どうなるか分かっているだろうな、で、固まっていたのかね?」

「あ、いえ、そんなわけでは。聞いていらしたのですか?」

 フォルスの力のない声に、シェダインは苦笑した。

「ドアの側にいたからね。聞かずとも聞こえるよ。まっすぐ部屋へ行くのかね?」

 フォルスはシェダインに向かい、ハイとだけ返事をした。シェダインは行こうと言うが早いか、先に立って歩き出す。フォルスは慌てて後に続いた。

「女神の護衛が似合いだというのは笑えるな。反対されなくて幸運だった」

 歩きながらシェダインは、喉の奥で笑い声を立てる。女神に対する自分の気持ちを追求されるのを避けるため、フォルスは軽くうなずいた。シェダインは相変わらず笑っている。

「ま、これで駆け落ちしなくてもよくなったって訳だ」

「は? 駆け落ち、ですか?」

 眉を寄せたフォルスを、シェダインは指さした。フォルスは思わずその指先を見つめる。

「って、わ、私ですか? どうしてそんな」

 フォルスは驚きに目を見張った。シェダインはフォルスの顔をチラッと見やる。

「中庭でのこと、グレイ君に聞いたよ。二階のバルコニーになっているところから見ていたんだそうだ。リンデアと駆け落ちの相談をしていたと言っていたぞ?」

「み、見てた、ですか? ……でも、駆け落ちの相談なんて、していませんが」

 フォルスは驚きを隠し、顔をしかめて考え込んだ。どうりでグレイが降臨のあと間を開けず、サッサと駆けつけてきたわけだと思う。フォルスが顔を上げると、幾分ムスッとしているシェダインと目があった。

「なんです?」

「見られて困るようなことをしていたのか?」

「してません」

 勢いで言い返したフォルスの顔を、シェダインがジーッとのぞき込む。キスをしていたことまで何もかも全部聞いたのだろうかと内心ビクビクしながら、フォルスはシェダインに胡散臭げな表情を向けた。

「してませんってば」

「そうかね? まぁ、それはそれでいいが。一緒に行こうと誘っていたのではなかったのかね?」

 疑わしげな顔のシェダインに、フォルスは苦笑した。そういうことなら確かに話した覚えがある。ごまかしが効くとも思えない。

「ええ、それは話しました。もしいい返事をいただいたら、とりあえずその足でうかがおうと思っていたのですが。目と鼻の先ですし」

 シェダインはブッと吹き出して豪快に笑い出した。フォルスは、シェダインが笑っているからといって、機嫌を損ねずにいられたかは分からなかったが、この話題からは離れられると思いホッとした。フォルスは隣で笑っているシェダインに気付かれないように、今日何度ついたか分からないため息を、緊張感と一緒に吐き出した。と同時に、息を潜めていた他の不安が、次々と胸にわき上がってくる。

 女神が降臨すると、なにがどんな風に変わるのだろうか。フォルスは、せめてリンデアがリンデアらしいままで、いてくれたらと思った。リンデアを守ることが女神の護衛にもなるのなら、女神への不信感も、どうにか自分の中だけに納めておけそうな気がするのだ。それにティターナだ。降臨があったあと、一度目を離してからどこにいるのかが、まったく分からない。見つけて話を聞きたいとは思うが、生きているかどうかすら確かめようがないのだ。心配だが、ただ出てくるのを待つ以外に方法はない。

 神殿に続く廊下を渡り、女神の部屋へと続く階段を上る。シェダインは、考え込んでうつむき加減なフォルスに目をやった。鎧のネックガードの陰に、枝に絞められた跡がチラチラと見える。

「怪我は大丈夫なのかね?」

 シェダインの問いに、フォルスは苦笑を浮かべた。

「怪我というほどのモノでは」

「だといいのだが。薬が普通に働いてくれない身体なのだから、なるべく気を付けてくれないと」

 はい、という、幾分上の空の返事を聞いて、シェダインはため息をついた。フォルスは紺色の瞳を持つ母親エレンの血を引くせいか、薬が薬の役割を持たない。ただの傷薬がとんでもない吐き気をもよおす作用を持っていたり、毒が水と同じだったりするのだ。エレン自身は薬を理解していたらしいが、ほとんどなにも伝えないうちに亡くなってしまっている。怪我をしたら強い酒で傷口を洗うくらいしか分からない。騎士に怪我はつきものだ。それでも騎士になったフォルスが、シェダインにはどうしても危なっかしく映った。

 女神の部屋の前には、現在の神殿警備責任者であるゼインと、他に兵士が一人立っていた。ゼインもその兵士も、メディアナでは一般的な茶色の髪と瞳をしている。フォルスは敬礼を向けてくる二人に返礼を返した。

「シェダイン様とフォルスさんです」

 兵士が部屋の中に声をかけ、ドアを開ける。見知らぬ兵士が迷いもなくフォルスの名を呼ぶのは、二位の印に付けている赤いマントと、やはり特異な濃紺の瞳のせいもあるのだろう。

 フォルスは兵士に自分の隊を集めてくれるよう言い渡し、シェダインと部屋に入った。そこは女神を守る騎士が寝泊まりをする部屋になっている。荷物を置くための簡単な棚と、ベッドが一台あるだけの殺風景な部屋だ。その奥、扉が付いていない女神の部屋から、グレイが姿を見せた。

「まだ眠っていらっしゃいます」

 グレイの報告に、シェダインは眉根を寄せてうなずいた。

「昨日の今日だ」

 難しそうな表情から出てきた言葉に、フォルスは城の執務室で聞いた三、四日と言う期間を思い出した。リンデアが眠りから覚めるのは早くても明後日以降ということになる。シェダインはリンデアを寝かせてある女神の部屋へと入っていった。グレイに手招きされて、フォルスも後を追う。

 部屋をのぞくと、シェダインに挨拶をしていたのだろう、ちょうど顔を上げたシスター服の女性と目が合った。二十代中頃だろうか、フォルスを見て頬を緩ませる。

「ナシュアといいます。女神付きを仰せつかりました。よろしくお願い致します」

 そう言うと、きれいにたたまれたシーツを持ったまま、深々と頭を下げる。

「フォルスです。こちらこそよろしくお願いします」

 フォルスはナシュアに敬礼を向けた。頭を上げたナシュアは、それを見てもう一度、軽く視線を外さない挨拶をする。

「あぁ、すまん。初めてだったね」

 シェダインはリンデアが眠っているベッドに腰掛けたまま、フォルスとナシュアに声をかけた。ナシュアはいいえと首を横に振る。

「陛下はシェダイン様のお願いを聞いてくださったんですね」

「承諾していただいたよ。本当によかった。リンデアには一番だ」

 シェダインの言葉に微笑みながら、ナシュアは手にしたシーツをベッドの向こう側の棚に片付けにかかった。

 フォルスは降臨が起きた時に思いを巡らせていた。あの時、どうにかしてリンデアを守ろうと、敵を斬ろうとしたのだ。その敵が女神だった事実は、フォルスに重くのしかかっていた。降臨だと知らなかったとはいえ、許されることではないと思う。それなのにフォルスは女神に殺されることなく、逆に生かされているのだ。フォルスには、なにがなんだか訳がわからず、そして、ただリンデアを守れなかった自分が、疎ましくてならなかった。

 静寂をシェダインのため息が破った。シェダインはリンデアのベッドから立ち上がる。

「私は執務室に戻る。後のことは頼むよ。細かいことはグレイ君、君がフォルス君に教えてやってくれ」

「はい」

 頭を下げたグレイに一言頼むぞと言い置き、フォルスの肩をポンと叩いて、シェダインは女神の部屋を出た。

 廊下へのドアが閉まる音がすると、グレイは声を殺して笑い出した。フォルスはそんなグレイに恨めしげな視線を向ける。

「グレイ、てめぇペラペラと……」

「悪かった。状況説明したら、見てたことまでバレちまってさ。ゴメンって」

 謝りながら、グレイはまだ笑っている。フォルスはグレイを無視してベッドに近づいた。恐る恐るリンデアの顔をのぞき込む。フォルスの目には、リンデアの寝顔が今にも泣き出しそうに見えた。

「大丈夫ですよ」

 ベッドを挟んで向こう側からナシュアが声をかけてくる。フォルスはそんなに心配そうに見えたのかと、何も言えずに苦笑だけ返し、視線をリンデアに戻した。手を伸ばし、そっと頬にかかった琥珀色の髪をはらう。眉が少し寄った気がして、フォルスはベッドのヘッドボードに手をつき、リンデアの表情をジッとうかがった。少しずつリンデアの瞳が開く。

「リンデア?」

「こら」

 グレイが後ろから鎧をつかみ、フォルスの上半身を引っ張り起こした。

「フォルス、無理に起こすなよ?」

「起きたから声をかけただけだって」

 フォルスのムッとした声に、グレイはリンデアに目をやって息をのんだ。

「一日で気付くなんて、前例に……」

「もういいよ、そんなこと」

 フォルスは吐き捨てるように言うと、リンデアに向き直った。

「大丈夫か?」

 コクンとうなずいて起きあがろうとするリンデアに、フォルスは手を貸した。リンデアはフォルスのすぐ前、ベッドの上に、ペタンと座り込んだ。グレイがフォルスの横から顔を出す。

「リンデア? 何があったか覚えてる?」

「降臨、ですね」

 リンデアはその言葉にしっかりと返事をした。グレイはリンデアにうなずいてみせる。

「身体の調子はどう?」

 二度目の問いに、リンデアはほんの少し身体を揺するように動かして確かめた。降臨の時に服がはじけ飛んだのを思い出したのか、胸に手を当てて頬を染める。

「変わりありません」

「そう? よかった」

 グレイの微笑みを見て、ナシュアが知らせてきますと部屋を出ていく。リンデアはベッドに座ったまま、心配げな目を向けているフォルスを見上げた。首に付いた、枝に絞められた跡を見て眉を寄せる。

「生きていてくれたのね」

 リンデアは涙をこらえた顔を隠すように、フォルスの鎧にコンと額を付けた。今までと変わらないリンデアだ。そう思うと、フォルスの身体から幾分緊張が解けた。フォルスはリンデアのつややかな髪を、そっと撫でる。

「ゴメン、守ってやれなくて……」

 リンデアは驚いたように顔を上げた。首を思い切り横に振る。

「だって、シャイア様なのよ?」

 その名を出しても、フォルスは後悔の表情を変えなかった。リンデアの瞳から涙が溢れてくる。その涙をぬぐいもせずに、リンデアはフォルスを抱きしめた。

「ありがとう」

 リンデアの言葉に、フォルスはいくらか安堵し、両腕でそっとリンデアを包み込んだ。グレイはアーアと声に出るほど大きくため息をつく。

「まったく……。間違っても他に人がいるところで、そんなこと言うなよ」

 グレイはフォルスに向かって苦笑してみせた。フォルスはリンデアを抱いたまま、グレイにもゴメンと繰り返す。

「ま、でもシェダイン様は、フォルスのそういう面も全部ひっくるめて、護衛に指名したんだろうけどな」

 何度かうなずきながら言ったグレイに、フォルスは訝しげな顔を向けた。グレイは肩をすくめて、騎士の部屋へと向かう。

「シェダイン様は、女神も大事だろうけど、リンデアも大事なんだろうからさ」

 フォルスは、その言葉を噛みしめるようにうなずいた。それを見て、グレイは微笑みを残し、となりの部屋へと移動していく。黙って聞いていたリンデアが、涙をぬぐってフォルスを見上げた。

「護衛、フォルスなの?」

「さっき、正式に受けてきたよ」

 フォルスはリンデアに笑顔で返した。リンデアは安心したようにホッと息をつき、それから思いついたように憂え顔になる。

「これから私、どうしたらいいのか。これじゃあいつもと変わりないわ」

 リンデアは困惑したようにため息をついた。フォルスが答えを返せないでいると、前衛の部屋のドアが開く音が聞こえてきた。たぶんシェダインが来たのだろうと思う。

 その時フォルスは、いきなり頭部に衝撃を感じた。その場で頭を抱えたフォルスを、リンデアは狼狽したようにのぞき込む。

「どうしたの?」

 フォルスは頭の痛みを振り払うかのように首を横に振った。だんだん痛みが引いていき、そこに残った意志がハッキリしてくる。

「前線、だって? 女神か?」

「フォルスにも聞こえたの? すぐに前線に立てって。シャイア様の声よ。大丈夫?」

 心配そうに見上げてくるリンデアに、フォルスはうなずいて見せた。

「ああ。でも、声っていうより、まるで頭を殴られたような」

「気が付いたんだね」

 振り向くと、ちょうどシェダインが部屋に入ってくるところだった。後ろからグレイも入室してくる。フォルスは二、三歩下がってシェダインを向かい入れた。シェダインはまっすぐリンデアの元へ行き、ギュッと抱きしめて背をポンポンと叩く。

「よかった」

「お父様、シャイア様がすぐに前線に立てと、そうおっしゃったの」

 リンデアは、シェダインの腕の中から話しかける。シェダインはリンデアと視線を合わせた。

「すぐにか?」

「はい」

「それはまたいきなりだね。前線に出たことがないわけではないが。では、神殿警備は、ん?」

 シェダインはフォルスに言葉を向けようとして、その顔色が優れないことに気付いた。

「どうしたんだね?」

「フォルスにも、声が聞こえたんです」

 そのリンデアの言葉に驚いたように、シェダインとグレイが顔を見合わせた。シェダインがフォルスに向き直る。

「本当かね?」

「ええ。声というより、思念というか、意志そのものでしたが」

 シェダインは真意を測るように、ジッとフォルスに見入った。フォルスはシェダインを訝しげに見返す。

「あの、なにか?」

 フォルスが理解していないことに焦れたように、グレイが肩をすくめる。

「フォルス、それも前例にないんだ」

「前例? また前例か?」

 グレイはフォルスのうんざりといった声にうなずいた。

「降臨の光の中にいて無事だった奴も、降臨されているわけでもないのに女神の声が聞こえた奴も、今まではいなかったんだ」

 グレイとシェダインに難しげな表情を向けられ、フォルスは顔をしかめた。

「嫌われてるのかな」

 フォルスのつぶやきに、シェダインがブッと吹き出した。グレイが人差し指を揺らして首を横に振る。

「あのな。普通逆だろ。嫌われてれば殺されてるし、わざわざ意志を伝えたりするようなことはしないって」

 グレイのあきれ顔に、フォルスは憂鬱そうな視線を返す。

「俺には嫌みにしか思えない」

 グレイはお手上げとばかりに両手を広げた。

「ボケ」

 ボソッと声が聞こえた。フォルスとリンデアは顔を見合わせる。

「ティターナ?」

 リンデアは周りを見回した。フォルスはベッドの足側から回り込む。反対側まで来た時、ヘッドボードの陰から子供の姿のティターナが飛び出した。フォルスが後を追うと、ティターナはベッドに飛び乗り、リンデアの陰に隠れる。リンデアはティターナを捕まえて、面と向き合った。フォルスが横から声をかける。

「てめぇ、なんで姿を隠したりしたんだ」

 ティターナはプクッと頬を膨らませた。

「だって怒ってるんだもん」

「てめぇは妖精なんだから、どうせ女神に逆らったりはできないんだろ? いなくなったりしたら心配するだろうが。ったく」

 フォルスのついたため息を、ティターナはキョトンとした顔で見つめている。

「怒ってるのは私よ」

 リンデアの声に、ティターナは驚いて振り向いた。

「どうしてフォルスを突き飛ばしたりしたの」

 リンデアの静かな口調に、ティターナはシュンとなる。

「だって、シャイア様の光の中にいたら死んじゃうだろ。でも、もっと遠くに飛ばさないと駄目だったみたいだけど」

 ティターナが口の中でモゾモゾと答えたのを聞いて、リンデアは思い切り顔をしかめた。

「そんなコトしたら死んじゃうでしょう」

「あ、そっか」

 ティターナは力無くアハハと笑い出す。フォルスは薄笑いを浮かべた。

「ボケ」

「お前が言うな」

「なんだってぇ?」

 フォルスがティターナを捕まえようとすると、ティターナはリンデアの陰に隠れた。ティターナは顔だけ出してフォルスをにらみつけ、グルグルとのどを鳴らしている。フォルスはティターナと顔を突き合わせた。

「またそうやって隠れる」

「羨ましいんだろ」

 ティターナの言葉に唖然としているフォルスの肩を、シェダインが含み笑いをしながらポンと叩く。

「とにかく、前線に向かってもらうよ。私は神殿警備の話を、クエイド殿に通してくる」

 フォルスはハイと返事をして、シェダインに敬礼を向けた。

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