TSUMUGI 〜紡ぎ〜

麓清

TSUMUGI 〜紡ぎ〜

 ガコ、ガコ、ガッタン。

 おさが糸をうつ重々しい音が聞こえる。かくれんぼができそうなほど巨大な機織り機に座る祖父の左右の手の間を糸を巻き付けたが滑っていく。

 リズミカルに動く足とそれに合わせて交互に上下する綜絖そうこうの単調な動き。祖父がよく見える籐の椅子の上が僕の特等席だった。

 まだ幼い僕は、祖父が何を織っているのかは知らなかった。けれど、祖父が機織りをする姿は大好きだった。モノづくりをする姿は子供心にも格好良くみえたものだ。

 あるとき僕は染色工場の片隅で大泣きしたっけ。

 じいちゃんの着物を破かないで、と染色工の職人さんに泣きついて困らせてしまったんだ。


 奄美大島が世界に誇る織物、大島紬おおしまつむぎ

 かすりと呼ばれる先染めの糸をつかって、柄を織っていく糸が織りなす芸術品だ。

 祖父が織っていたのは着物の生地ではなく、絣糸かすりいとだった。締めばたと呼ばれる大きな機織り機で、木綿の糸に絹糸を織り込んでいく事で、その後の染色工程で木綿糸が織り込まれた箇所は絹糸が染まらず地色のままになる。その生地は染色した後、木綿の糸だけを取り除きふたたび一本の糸にするのだが、幼かった僕はこの作業が祖父の織った着物が破かれていると勘違いをしていた。

 そんな僕に祖父はしわがれた優しい声で教えてくれた。こうして、設計図通りに先染めした糸を何百本何千本と作り、さらに緯糸よこいとにも絣糸を使って、たてよこの柄をぴったりと合わせて織り上げると、まるで魔法をかけたように美しい大島紬の反物ができるんだ、と。

 それは気の遠くなるような作業だ。そして、それこそが大島紬が世界三大織物の一つとして名を連ねる所以でもある。


 僕は高校を卒業して、東京の大学へと進学した。

 その頃には大島紬はすでに斜陽産業になりはて、島に多くいた職人もすっかり数が減っていた。当然だ。すでに日本では着物文化は絶滅しかけているのだ。加えて、海外産の安い量産品が出回るようになっているのだから、こんな手間がかかるモノに価値を見出すものは、ごく限られた一部の人間しかいない。

 祖父も父も反対はしなかった。お前がやりたいものを見つけて、一生懸命になれる事をやりなさい、とだけ言って僕を送り出してくれた。


 東京に無いものは何もなかった。強いて無いものを言うならば、あのどこまでも青い海と、空を覆いつくす無数の星。

 けれど東京の星は地上にあった。それもまた、島では見る事のない美しい景色だった。

 ある時、祖父が体調を崩したと母から連絡があった。深刻ではないが、たまには顔を見せなさいと言われて、僕は空返事をしただけだった。大学卒業後もまだ正社員の仕事に就けずにいた、その後ろめたさもあった。けれど、本音はもっと単純で、ただ、都会の生活に慣れてきて、何も今、島に帰る事もないだろう、という安易な考えだった。


 その考えが一変したのは、ある朝、受話器を通して聞いた母の涙声だった。

結介ゆうすけ、昨晩じいちゃんが亡くなった」

 スマホは僕の指を滑り落ちベッドの上でぼすんと鈍い音をあげた。


 翌日、久しぶりに戻った実家には、親族も近所の人も駆けつけていた。祖父は機織りのある隣の座敷で、真っ白な装束に身を包み、眠るように横たえられていた。今にも目を開けて「おかえり」と言いそうなくらいに穏やかな顔だった。けれど、鼻や耳の穴に詰められた小さな脱脂綿が祖父がもう生きてはいない事を物語っていた。


 出棺の時、妹のようにいつも一緒に遊んでいた幼馴染みのリコがシマ唄で祖父を送ってくれた。


大和やまと旅すぃりば つきでぃちゅり

 後生ぐしょが旅すぃりば でぃちゅり


 その唄にまるで空が涙したように、ざっと雨が落ちてくる。そして、すぐに嘘だったように雲の隙間から太陽がさした。

 遠く大和の地を旅をしても、月の満ち欠けを見て待つ事ができる。けれど、あの世へ旅をしてしまったら、何を見てあなたを待てばよいというのか。

 旅立った祖父は僕の帰りを待っていただろうか。リコの唄が呪文のように胸に響いて、祖父が亡くなったと知ってから初めて、僕は声をあげて泣いた。


 葬儀の翌日、母に、仕事があるからと、適当な嘘をついて帰ろうとすると、ちょっと待ってて、といって母は祖父の部屋の押し入れから小さな箱をもってきた。

 中にはまだ着物に仕立て上がっていない、大島紬の反物がおさめられていた。


「じいちゃん、本当は結介の成人式で渡そうと思ってたのに、渡せんかったち。形見になっちゃったけど、これ着物に仕立ててあげるから」


 数週間後、母から送られてきた着物に早速袖を通す。軽くてしなやかで、なにより祖父の温もりがあった。

 けれど、着物の手入れに自信がなかった僕にはそれを毎日着て歩く事はできなかった。いや、時々でさえ着る事はなく、結局きれいにたたんで押し入れの中に眠る事になった。


「俺、今度、結婚するんだ」


 ようやく就職した会社で同僚のサトルが嬉しそうに報告してきた。僕にも結婚式に出席してほしいといわれ、僕は二つ返事で彼を祝福した。


 サトルの結婚式に着ていくスーツを探すために押し入れを開けて、ふと祖父の着物がある事に気付いた。着物の知識はさしてなかったが見様見真似で、何とか着付けをして、僕は祖父の大島紬で結婚式に出席した。

 着物姿の僕にサトルも友人たちもみな驚き、喜んでくれた。僕も少し誇らしい気分になっていた。


 その日以来、僕は着物を愛用するようになった。リサイクルショップでは驚くほど安く大島紬が売られていた。あの膨大な手間が数千円で売られる事に、僕は少なからずショックを受けた。

 

 そして今、僕の目の前には優しく微笑む祖父の写真がある。

 僕は祖父の形見の大島紬を、そして、隣にいる女性は、祖父がいつか僕にお嫁さんができたら、と残してくれていた白泥染の大島紬を身にまとい、両親への感謝の手紙を朗読している。

 僕は彼女にそっと微笑む。彼女もまた僕を見て涙を浮かべて笑った。

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