第6話 壱志

 鈴鹿頓宮で目覚めた綾子は、体中が痛むのに気がついた。昨日、山を越えたところでも確かに身体は痛かったのだけど、今朝になると一層痛む。

 動くのに難儀していると、古参の女房がカラカラと笑った。

 「お方さまはまだよろしうございますよ。私ぐらいになりますと明日、明後日ぐらいになってからどかんと堪えるんでございますからね。ええ、こういう痛みは年のいくほどあとから出るものと決まっているんでございますよ。」

 綾子も翌日に堪える分、年を取ったということらしい。

 私は老いたかしら。

 綾子は考える。

 故東宮のお側に上がったときから考えれば確かに老いている。

 故東宮と死別した時からも、光を通わせた頃からも、綾子は老いているのだろう。

 けれど綾子の実感では、綾子が本当に老いたのは、つい一年ちょっと前の話なのだ。

 

 卯の花に重ねた赤い単。

 あの葵祭の日以来、その鮮やかな色が綾子の瞼から消えない。光は惨めにはみ出した香染めの単には、目をとめもしなかった。

 光の正室という姫君は一体どんな姫なのだろう。

 卯の花の似合う瑞々しい姫だろうか。

 赤い単の映える、透き通る肌を持っているのか。

 あまりにも思い詰めたせいか、綾子は奇妙な夢を見るようになった。

 綾子はいつも、身籠った女が伏しているのをそばで見ている。

 美しい女だ。

 白い透き通る肌をして、長い艷やかな黒髪を枕のむこうにながしている。くっきりとした黒目がちな目元に、苦しげに少し乾いた唇。

 この女には、卯の花重ねも赤い単も、よく似合うに違いない。

 綾子は女を憎いと思う。

 女が光の正室で、光の子を宿しているから。

 綾子には何もない。

 綾子はただの夜離れた通いどころで、光をつなぎとめるものを何一つ持たない。

 光との間にはかつて肌を重ねた記憶と、あのおぞましい夢の記憶があるだけだ。約束も、絆も、何一つない。

 院のお声がかりで光を正式に婿取り、光の子を産もうとしている女の事が、憎くない筈はなかった。

 ああ、あの夢と同じだ。

 横たわる女に手を伸ばして、綾子は思う。

 あの、おぞましい夢。

 動かなくなった女の夢。

 もしかしたらこの女も、動かなくなるのではないかしら。

 女の髪を掴み女と目があって、綾子は夢から覚めた。


 鈴鹿からは、用意されていた車に乗った。

 やはり輿に比べて車は楽だ。乗り慣れているということもあるし、広いのもいい。

 一人晶子だけが変わらず、京から同じ葱華輦で運ばれてゆく。

 伊勢に入ると少し行く手の空が広くなったようにも思う。伊勢は海に向かって開けた土地で、社も海から遠くない場所にある。そう思うと空が開けて見えるのも、もっともな話なのだった。

 行列は重々しく、そして賑々しく進む。

 慣れた車の振動は、綾子を物思いに誘った。


 幾度衣を替えても。

 どれだけ髪を洗っても。

 忌々しくも禍々しい匂いが、綾子に纏わりつく。

 これは芥子の匂い。

 僧都が調伏の護摩に焚く匂いだ。

 あの夢、女の夢。

 初めての夢の女はすぐに動かなくなったのに、今度の女はひどくしぶとい。なので綾子は何度も何度も同じ女の夢を見る。

 あの女が憎い。

 あの女が妬ましい。

 夢を繰り返すほどに女は手強く、手をかけづらくなる。

 むせ返る芥子の匂い。

 僧たちが女を守っているのだ。

 そして女を苦しめる綾子はいまや物の怪以外の何者でもない。

 それでも、幾度追い払われても。

 綾子の魂は身体を抜け出し、女を苛もうとする。

 髪を掴み、引きずり出し、膨れた腹を踏みつける。

 憎い、憎い、憎い。

 狂乱し、女を苛む綾子を、呆然と見つめる綾子がいる。

 なんて見苦しい姿だろう。

 なんて浅ましい姿だろう。

 なんて、哀しい姿だろう。

 人を恋うると言う事がこんなにも見苦しく、浅ましく、哀しいものだということを、綾子は知らなかった。

 憎しみ故に魂は肉体を離れ、浅ましさ故に魂さえも2つに分かれる。

 自分の中の何が本当なのか、綾子にはすでにわからない。

 ただ、匂いが

 芥子の匂いが

 目覚めても綾子に纏わりついて離れないのだ。

 髪に香を焚き染め、焦がれるほどに濃い香染めの衣を纏っても、ふとした瞬間に立ち上る芥子の匂い。

 もう二度とあんな夢は見るまい。

 芥子の煙など浴びるまい。

 どれだけ強く心に決めても、結局夢の中で綾子は女を苛んで狂乱し、その狂乱を呆然と見つめる。

 そんなことをどれだけ繰り返したかと思える頃に、変化が訪れた。


 車に乗っている分にはまだそれほどでもないが、車から降りて歩くと全身に突っ張ったような痛みがある。

 誰も事情は同じのようで、禊の為に止まった車列のあちこちから、低いうめきが聞こえてきた。

 徒歩で峠を越えた者でも、足だけでなく腰などさすっている者が珍しくない。旅の日程はあと二日だが、明日は斎宮に入るので儀式が続く。皆、覚悟はしていてもやはり楽な道行きではないのだった。

 その中で晶子は淡々と次第をこなしていく。

 疲れていないわけはないのに、むしろ気が張って誰より疲れているのだろうに、白い頬はいよいよ透き通り、御杖代としての自覚が滲んでくるようだ。

 秘儀を見ることはできなくとも、垣間見える佇まいに娘の成長を見るようで、綾子には頼もしくも思われた。

 そう、自分は確かに年をとっているのだ。

 幼かった娘がこうして斎宮としての責任を果たすまでに成長するほどの、時間が流れたのだから。

 思えば自分は物思いにとらわれて、長く時のたつのを自覚してこなかった。娘の成長を目の前に見ながら、その同じ時間が自分の上にも流れている事に気づかなかったとは、なんと迂闊だったのだろう。

 自分がいつの間にか年をとって、とても疲れていることに、綾子はあの時やっと気付いた。


 明るい

 そして熱い。

 清浄なひかりが綾子を焼く。

 熱い、熱い、熱い。

 その苦痛は凄まじいものだったが、綾子はそこに踏みとどまる。

 だって、これは光る君だ。

 綾子が執着する、こがれる男。

 ついにその人に会える歓喜に、綾子は他のすべてを忘れる。

 光の妻を苛んでいたことも、今の自分がおぞましい物の怪であることも。

 眩しい、あまりにも眩しくてあの人の顔もみえない。

 綾子は、光を見たいと念じ、どこかにはまり込んだ。焼かれる苦痛は変わらないながら、仄かに視界がひらける。

 「苦しいのですか。」

 甘い、柔らかい声。

 ずっと聞きたいと思い続けていた声。

 覗き込んでくる美しい顔。

 ああ

 光だ。

 やっと、

 涙がふと、頬を伝う。

 「うなされておいでのようでした。悪い夢でもご覧でしたか。」

 そうだ、恐ろしい夢を見ていた。

 妬み、嫉み、憎み

 光の妻を、苛む夢。

 どこかの女を縊る夢。

 ああ、でも光はここにいる。

 光がいるなら、なにもいらない。

 綾子は微笑んで光の頬に触れようとして気がついた。

 身体が動かない。

 光に触れたいのに、腕が上がらない。

 全身を焼く痛み。

 絡みつく芥子の匂い。

 少しだけ、ほんの少しだけ、この苦痛を緩めてほしい。光に触れることのできる分だけ。

 「少しだけご祈祷を緩めて下さい。苦しくて。」

 その一言を呟いて、綾子はすべてを思い出した。

 自分が物の怪であることも。

 光の妻を苛んでいたことも。

 綾子はいつの間にか光の妻の身体に入り込み、その目を通して光を見ていたのだった。

 光の表情も変わる。

 恐れ、驚愕する表情。

 知られてしまった。

 綾子の中から何かがため息のように抜け落ちた。

 それはたぶん、光との間に仄かにまだ残っていたもの。幽かな、情愛のような何か。

 「思いのあまり、身体を離れて彷徨い出ることがあるのを知りました。」

 いっそ、焼き尽くして欲しい。

 それで生命を失っても構わないから。

 この暗く、おぞましい妄念を、焼き尽くし浄化し尽くして欲しい。

 いっそこのまま

 消え入ってしまいたい。

 綾子は静かに意識を手放す。


 結局、あのあと光の妻は死んだのだ。

 綾子は消え入る事もなく、こうして伊勢への旅路を辿る。

 綾子はあのあと逃げ込むような気持ちで、晶子とともに野宮に入った。

 黒木の鳥居が自分の妄念を閉じ込めてくれることを期待して。清浄な宮がいっそ自分を焼き殺してくれないかと願いながら。 

 あの時、綾子は自分がもはや老いたことを知った。

 妄念は、綾子をあまり削り疲れさせた。

 故東宮のことを思う時、綾子は穏やかな気持ちになる。

 優しい、慕わしい、綾子の背の君。

 それはきっと、老婆が若い日を思うのに似た感情だ。

 綾子を温め包んでくれる、この上なく愛しいもの。

 光への妄念は綾子を疲弊させる。

 暗い炎で綾子を焼き、深い奈落へ落とし込む。

 あがいても、あがいても、あがいても。

 逃げる事も断ち切ることも出来ない、このおぞましい未練。

 身体をすてても光を欲する気持ち。

 いつから自分はこんなに醜いものに、成り果ててしまったのか。

 それは生者を羨む亡者に似て、どこまでも暗い。

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