第4話 垂水
甲賀頓宮を発って垂水頓宮に着くと、旅の難所である鈴鹿峠にいよいよ近づく。
この日は禊をする川もなく、代わりというのでもないのだろうが、楽の催しがあった。
垂水は近江最後の頓宮で、この先鈴鹿峠の向こうはいよいよ伊勢の国となる。
この日、通り雨が降った。
長い時間ではなかったが思いのほか強い雨は、大きな雨音が車中の綾子を驚かすほどで、行列の人々に騒動を引き起こした。
雨をなんとか避けようとする者。
道具などをかばおうとする者
濡れた衣を取り替えようとする者。
行列はざわめき混乱して歩みを止め、しばらく動くことができなかった。
そのざわめきを車中で聞きながら、綾子はぼんやりとひとりの女を思い出した。
風のざわめきがひどく胸を轟かすような日だった。ヒュウという悲鳴のような音が時に走り抜け、御簾をばたつかせて人を驚かす。
御格子を下ろしてまわる騒ぎをよそごとに、綾子はぼんやりと脇息にもたれていた。
ここのところ
頭をもたせかけた袖から、丁字が香る。丁字で染めた薄茶の単は、光が特に好むものだった。
光は綾子の肌の香りが、仄かな丁字の香で引き立つのが好きだという。
そう言われれば光との夜を迎えるのに、香染めの単を何枚も用意するのも、女心というもので、最近では綾子の単は香染めが基本のようになりつつある。今日身にまとった単も、まだ香りの消えない新しいものだ。
せっかく心づくしの単を身に纏っても、それを喜んでくれる人が来ないのではかいもない。
心を占めるのはどうしても光のことで、ともすれば思いつめるように、来ない人を思っている。
会いたい 逢いたい あなたが欲しい。
ふ、と
まなかいに影がよぎった。
柔らかそうな少し色の薄い髪。全体にやわやわと白い儚げな姿。
顔ははっきりとはわからないけれど、なぜか仄かに泣き笑いの表情を浮かべているように思う。
その女は、光のそばにいた。
光の腕の中。同じ臥床の同じ袿の中に。
その女が感じているであろう重さも温みも匂いも、綾子にはまざまざと感じ取ることができる。それは綾子にとっても親しく、狂おしいほどに恋しい感触だった。
肌が触れ合う心地よい温み。
光の腕の、身体の重み
丁字の仄かな香りと交じる、光と自分の肌の匂い。
なぜ。
狂おしい怒りが、湧き上がる。
なぜそこに、光の腕の中にいるのが、私でなくお前なのか。
そこから女を引きずり出そうと手を伸ばして、焼くような痛みが綾子を襲った。
光だ。
光の力が綾子を焼いている。
その事実に綾子は自分が今、あやかしである事を自覚する。暗い、害を及ぼすあやかしは、光の側に近寄ることはできない。
光の輝かしさはあやかしを、精霊を、見鬼を惹きつけるけれど、同時に暗いモノを焼くのだから。
綾子は狂乱した。
あの女が光の腕の中にいるのに、自分はあやかしとして焼かれている。そんなことはありえない。
痛みが綾子を焼く。それでも綾子は手を伸ばし、手は女に届いた。
女の髪を掴む。女が小さく呻く。
光のまぶたが震える。
ー光に気づかれるー
咄嗟に女の口と鼻を強く押さえた。
強く、強く、強く。
女はすぐに動かなくなった。
頓宮での楽の催しは賑々しく行われた。
楽の音は高く低く響き、舞人の袖が翻る。
奏楽の好きな晶子は楽しそうだ。
綾子が和歌や漢詩のなどの文学を好むのに引き換え、晶子は奏楽や絵を好む。
幼い頃から絵巻を眺めて時間を過ごせる子供だった。
次々と楽は奏され、舞が舞われ、時に声を放って歌う者もいる。
雨で色を鮮やかにした庭の緑に楽人たちの衣装が映えた。
そういえば、いつだったか光る君も舞人をつとめて喝采を浴びた事があった。あれは確か時の院の五十の賀の折。光る君は帝にお褒めの言葉を頂き、相方をつとめた若公達共々
階位を引き上げられたのだった。
綾子も他所ながらその事を寿ぎ、光る君に紅葉を描いた扇を贈った。
そういえばあの扇を送ったあと、久々の訪れがあった。
あの女の夢を見た夜から、光は一層よそよ
そしくなった。
そう、あれはきっと夢だ。
忌々しくも禍々しい夢。
病を得たという噂に文で具合を尋ねてもなしの礫で、そのうち療養のために北山に移ったという噂が聞こえてきた。
あの夢は夢ではなかったのではないかと、疑いを持ったのはその頃だ。密かに調べさせると、光が通いつめていたという女が行方知れずになっていた。
住んでいる場所からみても下々の女だ。
光も物好きで通ったのであろうし、捨てるなり捨てられるなりして行方をくらましたところでなんの不思議もない。
でも。
綾子はあの夢を忘れられない。
あの夢の女は、動かなくなった。
扇の贈り物の返礼にか、久々に光が綾子を訪れたのは、そんな時だ。理由はともあれ久々の訪れに六条の邸は湧き立った。
光は大人になっていた。
若さゆえの軽々しさがすっかり消えたわけではなかったが、どこか抜かりのない疑い深さのようなものが加わっている。
いつものように床を共にした明け方、素肌に香染めの単を羽織っただけの綾子を抱きしめて、光が囁いた。
「やっぱり、あなたの香りだ。」
綾子の肌から熱が消えた。
光は何も言わずに、御簾を潜って出ていった。
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