第5話 鈴鹿

 垂水の頓宮に京から乗ってきた車を置いて、難所の鈴鹿峠は綾子も輿に乗る。

 晶子はもちろん葱華輦で、ただし身に着けた衣装はできるだけ軽く。もちろん綾子もそれに倣う。

 他の車で従ってきた女たちも、それぞれに輿や徒歩で峠を越えるため、装束は軽くしてかつぎを被いだ。

 難所と聞いてはいたけれど、近江側からの登りは穏やかだった。車では無理ではあっても、そろそろと輿を運ぶのは難しくないようで、輿に慣れない綾子でもそれほど苦痛でなく道を進むことができた。

 大変だったのは小休止をとった後の下り、伊勢側の道だった。

 急な下り道では担ぎ手が努力しても、輿は斜めになり、揺さぶられる。

 右に傾ぎ。

 左に傾ぎ。

 前に傾ぎ。

 

 「やっちまえ。」

 わあわあと騒がしい下人共の声。その中にたしかにそんな言葉をも聞いたような気がする。揺さぶられ、振り回される車の中で、綾子は放り出されないように必死だった。

 目立たないようにわざとやつして整えた車だった。それでも見る人が見れば、とても心を尽くして整えられていることはわかったろう。

 新しくはないけれど、よく手入れされた網代車に、車から浮かない程度に使い古された、良く香の染みた下簾。その下から押し出される装束も、派手ではないが上質なものだ。

 綾子の車に同乗する女童ももう一台の網代車の女房も、紫の薄様で襲を揃えたので、2台の車が並んだ様子はそこだけ紫がちに見える。そこに綾子の香染めの単は、ちらりと覗いているだけでもきっと目に留まるだろう。

 香染めはもしかしたら光にとって、おぞましい夜の記憶になっているのかも知れないが、綾子は考えた末にその単を選んだ。それ以上に綾子の存在を光に知らせてくれる物はないのだと信じて。

 朝早くから車を仕立て、沿道の程よい場所を占めて葵祭の行列を今や遅しと待ち受けているその時に、騒ぎは起こった。

 人もなげな女車の一団が、辺りの車を追い払って場所を取る。赤い顔の下仕えの男達は既に酒が入っているようで、やることに容赦がない。なまじやつしていたために、綾子の車の長柄にも手をかけて追い払おうとした。

 「無礼者。」

 ぱあん、と大きな音がして、その手が払われ、綾子の下仕えで律儀者の老爺が、憤慨して相手に詰め寄る。

 「このお車はそなた等が手をかけて良いようなお車ではない。身の程をわきまえろ。」

 その老爺はもとは綾子の祖父に仕えていた者で、下仕えながら漢詩なぞ吟する名物のような老爺だった。

 一瞬鼻白んだ相手は、すぐに老爺が誰であるかに気づいたらしい。嫌な目つきで綾子の車を眺め、声を放った。

 「バカを言うな。そちらこそ通いどころの分際でわきまえろ。こちらなご正室のお車だぞ。」

 その言葉は何重にも綾子に刺さった。

 まず通いどころ、というあやふやな自分の立場を突きつけられたこと。

 こんな最悪の形で自分がこの場所にいることが、知れ渡ってしまったこと。

 そして何より、相手が光の正室であったということ。

 光の正室が身籠ったことは、京では隠れもない話だ。

 通いどころ、浮いた噂の多い割に、光は不思議に子宝に恵まれず、「御胤がないのではないか。」などというけしからぬ噂もあった中で、正室の懐妊はたちまちのうちに京に広まった。

 父院のお声がかりで配された左大臣家の姫君ながら、光との中は淡い様に思われていた正室だけにそれは快挙と受け止められた。

 御代みよ代わりの折も折、もしも生まれるのが姫君であれば、新東宮のまたとない后がねとなるだろう。

 正室の懐妊は、綾子を打ちのめした。

 綾子は子供を産んだことがある。つまり石女うまずめではないわけで、その自分があれほど激しい寵を受けても身籠らなかったのは、光に問題があるのではないかと密かに思っていたからだ。

 しかし、それは違った。

 自分と光の間には、子を授かるほどの縁がなかっただけだったのだ。

 綾子の背の君は故東宮だ。

 それはたぶん変わらない。

 光と関係を持とうと、光の子を産もうと、たとえ光の正室となることがあっても。 

 それを思えば光の子を授かる授からない程度の事で綾子が傷つくのも奇妙な話にも思えるが、それでも綾子は傷つかずにはいられなかった。

 放言した男に仲間が駆け寄り、綾子の車の長柄を掴んで列の後ろに押し込もうとする。綾子側の下仕えもそうはさせじと応戦し、激しい押し引きの間に綾子の車のしじの足が折れた。供の女房の車の榻もとび、どこへ行ったのかわからなくなってしまう。

 多勢に無勢はいかんともし難く、綾子たちの車は後ろに押しやられてしまった。長柄を置くべき榻もないので、周囲の車の好意に甘え、車を寄りかからせて貰ってなんとか安定を保った。

 車がそんな状態で、車中の綾子たちが無事であろう筈もない。

 美しく整えられていた出衣は乱れ、御簾も下簾も傾いで惨めな有様だ。

 口惜しさ、情けなさに唇を噛む綾子の目に、しずしずと運ばれる一両の車が入った。

 一目見てそれとわかる、左大臣が好んで使う桐の丸紋を胴に付け、清らかな御簾に新しい下簾。卯の花に重ねた衣に、赤い単が目に鮮やかだ。よく見れば居並ぶ左大臣家の車からこれみよがしに押し出された衣はみな青や萌黄で、卯の花に赤の単の衣装を纏ったのが光の正妻である人なのは間違いあるまい。

 静かに静かに車は運ばれ、居並ぶ車の中央に停められた。

 ずらりとならんだ青や萌黄の衣の中で、卯の花に赤の単はどれだけ鮮やかに瑞々しくうつるだろう。その後ろで自分が惨めな有様を晒すのはあまりにも耐え難い。消え入りたい、帰りたいと願っても、前には左大臣家の車が立ち並び、左右にも後にも車が隙間なくつめかけたこの場所から抜け出すことなど不可能だ。

 せめて傾いだ簾から派手にはみ出した、単の裾を引き込もうとしている時に、ざわめきが起こった。

 葵祭の行列が来たのだ。

 馬に乗り、冠に双葉葵を飾った公達たち。その中でもひときわ美しく目を引く男。

 光る君だ。

 光の視線が沿道をなめ、とまる。

 自分の惨めな姿を見つけられたかと、綾子の胸が轟く。

 けれど、違った。

 光の視線をとめたのは、左大臣家の車に乗る卯の花重ねの姫君だった。

 仄かに微笑み、妻に会釈を送る。

 光る君の微笑みに辺りの群衆がざわめく。

 光は破れ車から惨めにはみだした香染めの単には、気づいた様子もなく通り過ぎた。


 鈴鹿川につく頃には一行は疲れ果てていた。

 徒歩の女達は足をさすって座り込み、輿で運ばれた綾子も輿から降りたところから動けなくなった。

 必死に輿にしがみついていたせいか、身体のあちこちが痛い。まとめて袿の中に入れてあった髪も乱れて、所々が変なふうにふくれている。どうにかして身繕いしようと綾子はなんとか身体をのばした。

 鈴鹿川で晶子は禊を執り行う。

 装束を整えて淡々と次第をこなしてゆく様子は、すでに斎宮としての強い自覚を感じさせた。

 晶子の禊の終わる頃までには、綾子もなんとか身繕いを終え、他の女たちもなんとか形を調えて晶子を迎える。鈴鹿の頓宮は鈴鹿川を過ぎればすぐだ。

 黒木の鳥居が見えてくると、ほっと一同の気持ちが緩むのが感じられた。

 「ここはもう、伊勢なのですね。」

 寝殿に落ち着いて、装束も解いた晶子が呟く。鈴鹿峠を越えればそこは伊勢の国だ。晶子が仕えるべき神の宮の坐す土地である。

 「山を越えて、ついに世俗から離れたという気持ちなりました。山までは京から地続きという気持ちが消えなかったのですけど。」

 そのほっとしたような表情に、綾子は胸をつかれる。

 京には光が、綾子の尽せぬ未練がある。

 晶子が綾子に、良いのかときいたことがあったけれど、光の存在はおそらく不安の種なのだろう。

 晶子は少女らしい敏感さで綾子の気持ちの揺れを感じ取っている。そして少女らしい晶子の感性を、傷つけている自覚が綾子にはある。

 京から離れたという実感が晶子に安堵をもたらすのが、綾子のせいであるのは間違いない。

 光への消えない未練は確かにある。

 魂離れるほどの執着は、綾子の中に消えずにあって、今も光を求めて泣いている。

 けれどいたたまれず、京から逃げ出さずにはいられなかった事こそが、むしろ綾子の弱さだった。

 


 

 

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