第7話 斎宮

 壱志の頓宮を最後の宿泊地として、一行はついに斎宮に入る。

 晶子は野宮に始まる黒木の宮の仮住まいに別れを告げ、正式に神の御杖代としての生活を始めるのだ。

 斎宮に入る直前の禊を行うのは、この先も神事の潔斎を行うたびに、禊に通う川だった。名を多気川というが、禊川と呼ばれることも多い。

 この日壱志の頓宮を、晶子は念入りな身支度であとにした。

 幾重にも重ねた袿に二倍織物の表着に唐衣。金の摺り模様の入った薄絹の裳。

 髪には別小櫛わかれのおぐしを挿す。

 「京の方におもむき給うな。」とのお言葉とともに帝が手ずから挿される櫛だ。

 斎宮の交代は基本的には御代替わりの時。

 今上の御代、久しかれの気持ちが、そこには込められている。

 壱志頓宮の黒木の鳥居をあとにしながら、綾子はまた、光の事を考えていていた。

 光と最後に会ったのは、実はほんの少し前。伊勢に下行する直前の事だ。光は野宮の綾子のもとに忍んで来たのだった。


 「ここは忍ぶ恋の情趣に、相応しいところですね。」

 久方ぶりに見る光は一段と線が強くなり、少年めいた印象から脱しようとしていた。噂では光は新しく年若い妻を迎えたようで、そんなことも大人びた理由なのかも知れない。

 年上だったはずの正室とも死に別れ、光は自分より大人の女君に囲まれる時代を過ぎようとしているのだろう。そんな中、綾子との仲が終わるのは、水が低きに落ちるような、致し方ない自然の流れなのかも知れなかった。

 いいや、違う。

 もはや続く筈のない二人の仲だった。

 光の正室を手にかけたのが綾子で、それをまざまざと光も知っている状況で、どうしてそのままでいられよう。

 いっそ会わずに旅立ちたいと願い、文への返事もほとんど返さずに過ごしても、来ると言われれば拒む事はできなかった。

 それでも出来るだけ物越しの対面をと思っていたが、まさか庭に立たせてもおけず、簀子に上げれば当たり前のように御簾を捲って上半身を入れてしまう。

 その悪気のない傲慢さは綾子を手に入れた時から変わらない。近々と顔を見て、抱き寄せられれば、苦しいほどに心が揺れた。

 たとえ、訪れは遠くても、この人の側にいたい。せめて同じ京の空気を吸っていたい。

 そんな未練がましい気持ちが沸き起こってくる。

 それでもこの訪れは、恋の終わりを告げるためのものだった。

 新しい香染めの単は淡く香り、それは二人の体香と混ざってすぎた日々を思い出させる。幾夜この香りに包まれて眠ったろう。この御簾越しの抱擁が、この恋の終わりなのだと思えば、こらえきれない涙が溢れ、光の直衣を濡らした。

 「ああ、あなたの香りだ。」

 低い囁きが、綾子をくすぐる。

 そう、これは綾子の香り。綾子のこの恋の香り。

 思えば光に最後に会ったのは、あの芥子の匂いの中でだった。

 そう思えば今宵、この訪れがあって良かったとも思う。この恋をこの香りの中で終わらせる事ができて良かった。

 湧き上がる松虫の音が、この時が永遠ではない事を告げている。東の空は仄かに明るい。


 暁の別れはいつも露けきを

  こは世にしらぬ秋の空かな


 掠れた声を心に刻む。

 恋はついに終わろうとしている。


 おほかたの秋の別れも悲しきに

  鳴く音ねな添へそ野辺のべの松虫

 

 去り難そうに、けれど夜の明けないうちに、光は去る。

 綾子の恋は終わった。


 黒木の宮は仮の宮。

 野宮に始まり壱志までの頓宮も、全ては壊されてしまうのが習いだ。綾子が恋の終わりを迎えた野宮の北の対も、すぐに消えてしまうのだろう。

 それもいいと綾子は思う。

 今も戻りたいと、綾子の中に叫ぶものがある。諦めきれずに泣き叫び、未練がましく恋にすがりつこうとする。

 だからこそ、壊れてしまえと思うのだ。

 恋はもう消えたのだと、自分に言い聞かせるために。

 多気川での禊は今までにも増して入念なようで、長い時間がかかった。

 綾子は多気川の流れに、自分の妄念が浄められることを強く祈る。

 光と出会うことがなければ、綾子は人の心の暗い部分を、知ることなく終わったかもしれない。少なくとも、愛するという気持ちに潜む落とし穴に、落ちることはなかったろう。

 綾子の背の君は変わらない。

 それは今も故東宮で、その人を思うたび綾子の心は温められる。東宮がいてくだされば、あるいは光さえいなければ、綾子にとって恋は温かいものだったろう。

 それでも、光に出会ってしまったことを後悔しているかという問いに、答えられない自分がいる。

 あの人に会いたい、あの人が欲しいという狂おしい思い。

 それはあまりに甘い苦しみだ。

 人を恋うこと。

 愛すること。

 憎むこと。

 妬むこと。

 どれも分けることのできない一連なりの感情だ。それは綾子と、物の怪と化す綾子の妄念を分けることができないのと似ている。

 暗いおぞましいところへ堕ちてゆこうという自覚は、恋の陶酔と分けることができない。

 もしかしたら、そんなものに違いはなくて、ただ同じ一つの現象の違う部分を、別の名で呼んでいるだけなのかもしれない。

 そうなのだとしたら人間とは、よくよく業にまみれた存在なのだろう。

 人の心が何かを求めるとき、同時に奈落への口が開く。


 斎宮は黒木の宮ではない。

 それでも斎宮の交代に当たり、手を入れた場所も多いようで、爽やかな新しい木の香の香る建物だった。

 葱華輦は鳥居をくぐり、群行の列もあとに続く。

 綾子も車中で居ずまいを正し、振り返ることなく鳥居を潜った。 

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ながめせしまに 真夜中 緒 @mayonaka-hajime

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