第3話 甲賀

 斎宮の群行はあくまで重々しく進む。総勢で五百人にもなる行列である以上、素早く進むことなど不可能であるし、その必要もない。

 葱華輦は燦然ときらめき、居並ぶ人々は威儀を添え、女車から溢れる衣が華やぎを添える。

 それはまさに絢爛たる行列だった。

 今日の晶子は昨日ほどに大層な衣装を身に着けてはいない。裳唐衣は禊の折だけ身に着けることにして、重ねた袿の数も減らした楽な形だ。ただでさえ小柄な晶子が重い正装で、何日も輿に揺られるというのは無理がありすぎる。

 葱華輦のあとに続く女車の綾子は、裳だけを着けて形を整えているが、それ程大層な衣装は纏っていない。斎宮の母というものは表立った席に出ることはないからだ。

 形ばかり出衣をして、むしろあまり目立たないように気をつけていた。

 斎宮の郡行の経路はもちろん、道中宿泊する頓宮も事細かに決まっていて、まず一日目は近江国府に近い勢多頓宮。次に甲賀、垂水と続き鈴鹿峠を越えて伊勢に入ってからは、鈴鹿、壱志と続いて六日目に斎宮寮に入るのが決まりだった。

 宿泊地の頓宮はどれも野宮と同じように黒木で作られている。

 禊をする川は六つ。

 昨日済ませた山城と勢多川、甲賀川、鈴鹿川、下樋小川そして多気川。

 昨日は宮中に上る前にも禊を行っているので、禊だけでも三回行っている。

 一年をかけた野宮での潔斎に、道中幾度も繰り返される禊。

 そうやって穢を落とし、俗世と念入りに縁を絶って神の御杖代は完成されてゆくのだ。

 その禊そのものは秘事で、母である綾子にも詳しい次第はわからないけれど、綾子は綾子で自らの浅ましい妄念を絶とうという覚悟で赴いた旅だった。

 神に選ばれた娘の清らかさには到底及ぶべくもないにしても、この見苦しい未練を執着を、落としてしまえたらと思う。

 考えようによっては妄念に穢れ果てた綾子の産んだ、晶子が御杖代に選ばれたのも神の御心かとも思えるのだった。


 東宮との死別によって始まった穏やかな六条の邸の暮らしの中で、綾子はしばらくろくに触っていなかった和歌や漢詩の勉強を再開するようになった。

 晶子は健康で手もかからないし、その晶子にそろそろ教える都合からもおさらいをしておきたかったということもある。

 昔、祖父を介して交流のあった人々との交流が始まり、やがて六条の邸に集う人々が現れた。

 晶子が宮中にある内に祖父も母も既に亡かったが、祖父の知古であった人やその縁者たちが六条の邸にを訪れるようになったのだ。生前の祖父は世渡りは下手だったが、趣味の仲間を集まりなどはよく主催していた。

 晶子はもちろん御簾の内にいて、表に出ることはなかったけれど、懐かしさもあって集まりそのものは歓迎したので、いつしか六条の邸は文人好みの貴族の間で評判になっていた。

 初めて光る君を六条の邸に伴ったのが誰だったのかを、綾子は知らない。綾子が気づいた時には、当たり前のように集まりに混ざっていたのだ。

 光のことを綾子は覚えていたが、光のほうが綾子を覚えていたのには驚いた。会ったことがあるのは綾子が入内する直前の、ほんの僅かな間だったからだ。

 なまじ幼顔を知っている上に、まだまだあまりに若かった光る君は、綾子にとってそもそも異性という範疇に入っていなかった。

 それが、たぶん良くなかった。


 甲賀の頓宮に付く直前に、甲賀川がある。

 娘の禊を待つ間、綾子は自分の妄念が祓われることをひたすらに祈った。

 甲賀川から頓宮は近い。

 黒木の宮は皮を剥がない丸木を柱に建てられる仮宮だ。斎宮の群行のためだけに建てられて、役目が終われば取り壊される決まりだった。

 頓宮についた晶子は疲れているようだった。昨日のほうが装束も重々しく、忙しかったようなものだが、初日の興奮と緊張で感じていなかったのだろう。今日になってむしろ疲れが出てきたのかもしれない。

 饗応の用意を待つ間に、脇息に寄りかかったままうとうととし始めた晶子に、綾子はそっと袿をかけた。


 光る君が御簾の内に踏み込んできた日のことを、綾子ははっきりと覚えている。詩作の集まりの開かれていた日で、かげながら耳を傾けていたものの、疲れを覚えた綾子は少し離れたところでうとうとしていた。

 ふと気がつくと、自分一人だったはずの御簾の内に光がいた。

 これが、光でない他の男だったなら、綾子はすぐに大声をだし、逃げ出していたことだろう。光だったので、それが遅れた。遅れて、取り返しのつかないことになった。

 いや、違う。

 一度関係を持つ羽目になったとしても、そこで拒めば終わった話だ。取り返しのつかない場所へ落ち込んだのは、ひとえに綾子自身の問題だった。

 惹きつけられた。

 間近に接した光る君に、恐ろしいほどに惹かれた。

 綾子は見鬼だ。

 それなりに力の強い、精霊ぐらいなら日常的に接している、見鬼だ。

 見鬼は妖かしや精霊と同じく帝の血の力に惹かれるものだが、その恐ろしいほどの魅惑の力をまざまざと感じたのは、この時が初めてだった。

 肌を合わせていることで、魅惑の力は惑乱を誘い、綾子を惑わせる。混乱の中で綾子はもがき、拒もうとして、果たす事ができなかった。


 甲賀の饗応は国府の絡む昨日とは違い、比較的簡単なものだった。晶子は早々と床をとり、几帳の向こうで寝息をたてている。綾子は浅い眠りに落ちては目覚めることを繰り返していた。

 眠ると肌に触れ絡みつく感触が蘇る。

 綾子にも実はもうわからないのだ。

 綾子が光る君に惹かれているのは恋ゆえなのか、それとも見鬼としての本能ゆえなのか。

 わかっているのは、あの人が欲しいという狂おしい衝動だけ。

 もう何年もの間、毎夜綾子の眠りは浅い。


 深い、泥のような眠りから、綾子は無理やり意識を引き剥がした。

 既に東の空は明るくなり始めている。

 手早く単を身に着けて、乱れた髪を後ろにかきやる。

 「起きて。起きて下さい。」

 そっと揺り起こすと、光がうっすらと目をあけた。

 二人で被っていた袿の他は何も身に着けていない姿で、光がゆっくりと起き上がる。綾子はそっと単を光の肩にかけ、烏帽子を差し出した。

 「もう夜が明けます。」

 光は気だるげに烏帽子を受け取り、乱れた髷を押し込んで被った。

 単に腕を通し、脱いだままで丸まっていた指貫を身に着ける。綾子が狩衣を着せかけるといかにも朝帰りの公達らしい姿になった。落ちていた蝙蝠扇かわほりを差し出すと、懐に押し込む。

 光がふと、綾子の肩から単を払う。

 顕になった素肌に慌てる綾子を抱きしめると、首筋にくちづけた。

 「今宵、また。」

 それだけ言って、御簾を潜って出ていく。かき寄せた単を抱きしめて、綾子は光を呆然と見送った。

 光は綾子の背の君である故東宮と、あまりにも違いすぎる。

 東宮との夜はいたわられ、大切に扱われる体験だった。この上ない宝に触れるように、東宮はいつも優しく綾子に触れた。

 光は綾子に激情をぶつけ、綾子を奪い取ろうとする。綾子はいつも光に乱され狂わされる。

 できるだけ目立たぬようにと心を砕いても、光る君と綾子の仲は瞬く間に京中に知れ渡った。評判の美しく魅惑的な公達と、才色兼備で名を馳せた元東宮妃。

 それこそ物語にでもありそうな組み合わせが、人の口の端にのぼらない筈はない。

 あとから思えば、それはごく短い間の出来事だった。

 光る君は若かった。

 次々に新しい物事を知りたがる年頃だった。今思えば綾子との事も、そういうものの一つだったのだろう。

 残酷な好奇心で恋を始めてしまえるほどに、光る君は若かったのだった。

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