第2話 勢多

 最初の宿である勢多の頓宮につく頃には、綾子はひどく疲れていた。まるで全力で泣きわめき、慟哭したあとのような虚脱感が全身を噛んでいる。

 「お母さま、お疲れではありませんの?」

 自分こそ慣れない輿に疲れたであろうに、娘の晶子は綾子の事ばかりを気遣う。

 晶子、という名は故東宮の選んだ名だ。

 清らかな水晶のように澄んだ名は、娘にふさわしいと綾子は思う。

 「大丈夫。大したことではありません。あなたこそお疲れでしょう。早く装束を解いて楽になさい。」

 太極殿での群行の儀からそのまま続けて葱華輦に乗り込んで出発した晶子は、途中二回の禊もあり、ずっと重い正装を着込んでいた。近江の国府の饗応はあるにせよ、晶子が正装をする必要はない。絢爛な正装は細い小柄な体にはいかにも重たげで、綾子としては一刻も早く脱がせてやりたかった。

 裳唐衣を外し絢爛な表着や重ねた打衣、袿を脱がせると、晶子の姿はいっそう小さく華奢に見える。

 自ら着替えの袿を肩にかけてやりながら、綾子は我が娘を抱きしめてやりたい衝動に駆られていた。

 斎宮に卜されてからの潔斎の日々、少女の身には辛い事も多かったであろうに、泣き言一つ言わずに禊に努めた。

 母として我が身を省みると自分の不甲斐なさに泣きたくなる。

 何度も何度も何度も

 未練に決意を揺らがされた。

 まだ年端のいかない娘を一人伊勢へと下向させる酷さを知りながら、それでもまだ後ろ髪を引かれる。

 あの日、野宮の荒木の宮に現れた光る君に、縋り付いてしまいたい気持ちを抑えて別れを告げたのも、ただ晶子のためというわけでもない。

 綾子はもう疲れ切っていた。

 文字通り魂の千切れるほどの執着は綾子を内側から焼き尽くした。

 そこから自由になりたかった。

 たとえそれが、耐え難い痛みを伴うのだとしても。

 泣きわめき、慟哭し、涙も枯れ果てたような虚脱感。

 少し、いやかなり違うけれど、こんな何一つ残っていないような空っぽの虚脱感には覚えがあった。


 東宮の亡骸を、綾子は静かに見つめていた。

 やがて東宮は起き上がり、綾子に柔らかく微笑んだ。静かな光の欠片となって、天へ、地へ還ってゆく。

 綾子の頬を一筋の涙が伝った。

 喪の儀式は忙しい。

 亡き人を悼む暇もなく、儀式は厳かに行われる。それはあたかも死を刻印し記録することによって、それが動かすことのできない事実であることを喧伝しているようでもある。

 綾子はその中に否応なく巻き込まれ、引き回され、放り出されて。

 六条の邸でふと我にかえった。

 東宮亡きあと、綾子は後宮に住み続ける訳にはいかない。綾子の父の邸であり、母や祖父と暮らした邸が六条にあり、そこで暮らすことになる。言ってみるなら綾子の母子のための隠居所だ。

 入内の後ろ盾となった右大臣が手厚く手入れをしてくれたので、六条の邸は派手ではなくとも綾子らしい、落ち着いた佇まいに仕上げられていた。

 その、六条の邸に下がって、やっと綾子は我に返ったのだ。そして、我に返った綾子は疲れ切って、虚脱して、空っぽだった。

 幸せだった東宮のもとでの暮らしは、いうなれば綱渡りをするような、危ういところをはらむもので、綾子はいつでも息を詰めるように東宮の健康に気を払い続けていた。

 消えそうに揺らぐ灯火を、消さないようにただただ見守るということは、存外心を削るものだ。まして、そうまで見守り続けた東宮を失って、綾子はすっかり虚脱していた。

 しかも疲れ切った綾子に更にのしかかった喪の仕事が、いっそう綾子を削った。

 東宮亡き後の手続きを淡々と進めてゆく綾子のことを、気丈とか、落ち着いているとか賞賛する者もいたが、なんのことはない。綾子はすでに虚脱していて、泣きわめく力も残っていなかったのだ。

 疲れ果てた綾子には、言われるままに淡々と手順をこなしてゆくことしか、できなかっただけだった。

 それでも虚脱した綾子の傍らに晶子が残った。

 晶子は丈夫な子供だった。

 見た目こそ小柄で華奢だが、蒲柳の質の亡き父と違い、滅多に風邪もひかない。

 六条邸での新しい生活は、平穏だった。

 単に平穏という意味では宮中以上だったろう。東宮の健康に気を配り一喜一憂するような波風が、起きようのない生活だった。


 綾子は晶子と饗応を受けたあと、早々と床に入った。几帳を隔てて晶子も横になる気配がする。

 「お母さま、まだ起きていらっしゃいますか。」

 しばらくすると身じろぎする気配がして、晶子が話しかけてきた。几帳越しにこちらを向いているのだと綾子にはわかった。

 「起きているわ。」

 綾子は姿勢を変えず、几帳に背を向けたまま答えた。

 ほんの少しためらう気配がして、また晶子が口を開く。

 「あの、良かったのですか?」

 何がとは聞き返さない。そんな事はわかりきっている。晶子はあの人を、光る君を、置いて伊勢へと下っていいのかと聞いているのだ。

 「…いいのよ。」

 嘘だ。

 綾子の半分は泣き叫んでいる。

 涙も枯れ果ててなお、あの人が欲しいと焦れている。

 そして

 疲れ果てた綾子の半分は、寧ろ逃げ出したがっているのだ。

 綾子は嘘をついている。

 そして晶子もそのことに気づいている。

 十三歳の、責任ある生活に踏み出そうとしている娘に、こんな気遣いをさせてしまう自分はなんと情けない人間なのだろう。

 「明日の為に、早く寝ましょう。」

 誤魔化すようにそう答えると再び身じろぎの気配がして、晶子も話すのをやめた。

 几帳を挟んで背中合わせに、母子はお互いの気配を聞いている。

 子を産み母となったからとて、人であることも女であることも、やめられるものではない。いっそ母という完璧な生き物になれるものならいいのにと綾子は思う。

 娘を傷つけたくない。

 娘に自分の無様な傷を晒したくはない。

 どんなにそう願っても、それでもどうしようもないこの自分というものを、どう扱えばいいのだろう。

 今この瞬間にさえも綾子の内には、泣き叫び光る君を求めるモノがあるのだ。

 いっそ、本当に魂が砕けてしまえばいいとさえ思う。砕けたなら、泣き叫ぶ半分を捨てて綾子は自由になれるだろうか。

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