理願(高麗人世界之旅1)

高麗楼*鶏林書笈

第1話

  たくづのの 新羅の国ゆ

  人言を 良しと聞かして

  問い放(さ)くる 親族兄弟(うからはらから)

  無き国に 渡り来まして

  大君の 敷きます国に

  うちひさす 都しみみに

  里家は さはにあれども

  いかさまに 思ひけめかも

  つれもなき 佐保の山辺に

  泣く子なす 慕ひ来まして

  しきたへの 家をも造り

  あらたまの 年の緒長く

  住まひつつ いまししものを

  生ける者 死ぬといふことに

  免れぬ ものにしあれば

  頼めりし 人のことごと

  草枕 旅なる間に

  佐保川を 朝川渡り

  春日野を そがひに見つつ

  あしひきの 山辺をさして

  夕闇と 隠りましぬれ

  言はむすべ せむすべ知らに

  たもとほり ただひとりして

  白たへの 衣手干さず

  嘆きつつ 我が泣く涙

  有間山 雲居たなびき 

  雨にふりきや

                  ― 万葉集・巻三


 船上に身を置いた彼女は、遠ざかる陸地を眺めながら低く呟きました。

「もう二度とこの地を踏むことは無いだろう。」

 三国に分かれていた朝鮮半島も七世紀後半になると新羅のもとに統一され、人々は平穏な日々がやってくることを期待しました。これは叶わぬことでした。今度は朝廷内で王族同士が激しく争い、政事など二の次となって国内は騒然としていました。こうしたなか、ある王族が反乱を企てたが失敗し、その余波が何と彼女の一家にまで及んできました。彼女の預かり知らないところで世の中は動いているようでした。彼女の一家も反乱に加担したとされて一家の成人男子たちは罪に問われ、そのため家族は散々になり、その生死すら分からない情況でした。こうして日本行きの船に乗れたのは、彼女一人だけのようでした。

 生命だけは取り留めたものの、家族も家も財産も生まれた地すら失ってしまった彼女には、生きて行く気力は残っていませんでした。船の片隅に座りずっと俯いていました。

「南無阿弥陀仏、観世音菩薩……。」

 正面より声がしたので顔を上げたところ、僧の姿がありました。端正な顔立ちをした僧は、微笑みを浮かべ、そのまま去って行きました。 

「南無阿弥陀仏、観世音菩薩……。」

 彼女は、僧が口にした名号を唱えました。何度か繰り返しているうちに不思議と心が落ち着いていくのを感じました。新羅の多くの人々と同じように彼女も仏さまを敬い、お寺参りもしました。しかし、特に心動かされるようなことはありませんでした。なのに今は、名号を唱えるだけで、こうして心が落ち着き、かつて耳にした講話が脳裏によみがえり、その一言一言が胸に染みいるのでした。

― これからは仏さまと共に生きていこう。

 こう心に決めた彼女は、あの端正な僧侶を探しました。出家の手助けをして貰おうと思ったためです。船内を隈無く探してみたものの僧は見つかりませんでした。それどころか、

「この船には坊さんは乗っていないよ。」

と言われてしまいました。

― あれは夢だったのだろうか……。

 彼女にとっては、もうどうでもいいことでした。外見はともかく、彼女の心は既に仏門にあるのですから。

 朝に夕に念仏を唱えているうちに、船は日本に着きました。この地に彼女の知り合いはいませんでたが、幸いにして新羅出身の僧が彼女の身柄を引き受けてくれました。これも仏縁と彼女は思いました。僧のもとに身を寄せた彼女は、そこで出家をし〝理願〟という法名が与えられました。こうして彼女は、名実共に御仏の弟子になったのでした。このことは、知る人もない異国での暮らしを安らかにしてくれました。

 さて、その頃、佐保の大伴大納言家では仏教に詳しい人を探していました。当時、朝廷では新しく伝来した仏教の普及に努めていました。有力者の家では、仏教に詳しい人を自宅に招き、その教えを学ぶことに力を注いでいました。

「佐保のお屋敷に行って見る気はありませんか?」

 僧の思いもよらない誘いを受けた理願は、ひどく驚きました。何と答えてよいか分からず黙っていると、僧は言葉を続けました。

「とても良いお話だと思いますよ。」

「……私のような者でよろしいのでしょうか?」

「大丈夫。あなたは既に十分に御仏の教えを理解し、また言葉の方も不自由はないでしょう。」

「……」

 尚もためらっている彼女に対し、僧は言いました。

「これも仏さまの御導きですよ。」

― そう、仏さまの御意志なのかも知れない。

 再び見知らぬ所へ行くことには不安がありましたが、御仏の御意志ならば従わなくてはならない、こう考えた理願は大伴家に行くことにしました。


「あれから、どれほどの歳月が経ったのだろう。」

 庭の梅の木を眺めながら、理願は感慨深げに呟きました。彼女は、この佐保の屋敷内に設えた庵で梅の花の咲くのを何度となく見てきました。いつしか生れ故郷で過ごした歳月よりも、この屋敷で過ごした日々の方が長くなっていました。

 ここでの生活は穏やかなものでした。教養があり、また人当たりの良い彼女を屋敷の人々は上下を問わず敬い慕ってくれました。

 久しぶりに床を離れた彼女の姿を見て、この屋敷の実質的な女主人である大伴坂上郎女が声を掛けてきました。この女主人も理願の〝教え子〟の一人でした。大伴家で彼女は、仏教の他に子供たちの学問の手ほどきもしていました。新羅の王族の一員として一通りの学問を修めていた彼女には容易いことでした。郎女は才色兼備の〝和歌の上手な女性〟として貴族社会で名が知られていました。このことは理願の密かな自慢でした。

 見舞いにきた郎女は、理願の体調の良いことを喜びました。しかし、これはこの世での最後の対面となってしまいました。

 その夜、床についた理願のもとに五色の紐が下りてきました。彼女がそれを掴むと宙に引き上げられ、何処か別の地に連れて行かれました。気が付くと目の前に、かつて船の中で会った僧がいました。

「南無阿弥陀仏、観世音菩薩。」

僧に従って彼女も念仏を唱えました。そして、二人は共に歩き始めました。

 どれくらい歩いた時でしょうか、前方から声がしました。それは、彼女の昔の名前でした。彼女は思わず走りだしました。すると人影が見えてきました。彼女の家族たちでした。二度と会えないと思っていた家族たちの顔を見たとたん、涙が止めどなく流れてくるのでした。彼女は家族のもとに身を寄せました。

― 仏門に帰依したというのに、俗縁は断てなかったのか……。

 家族との再会を喜びながらも、理願の心の中にはこうした懸念が浮かび上がり尼僧としての未熟さを恥じました。

「気にすることはありません。御仏は全てを御承知の上で受け入れたのですから。」

 理願の心中を察したかのように、背後で僧が優しく言いました。そして僧は、理願一家を先導して行くのでした。


「理願さん!」

 朝になって庵を訪ねて来た郎女は、床の中で身動き一つしない理願の身体にすがり付いて声を上げて泣きました。幼い頃からいつも側にいて暖かな笑みを浮かべていた理願は、彼女にとって身内も同然でした。郎女は涙を拭いながら、家を留守にしている母・石川内命婦に理願の訃報の手紙を書き送りました。

 手紙の内容は長歌に仕立てられ、後日「万葉集」に収録されました。「万葉集」の編者・大伴家持も郎女と同じく理願と親しい間柄でした。

 こうして生まれ故郷では忘れられた新羅女性の足跡は、異国の地で長く伝えられたのでした。







  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

理願(高麗人世界之旅1) 高麗楼*鶏林書笈 @keirin_syokyu

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ