第38話「お絵描き」

 俺の息子は今年で五歳をむかえる。

 趣味はおえかきで、買ったばかりのクレパスをにぎり、

 持っている用紙いっぱいにさまざまな絵を描くのが

 大好きらしい。

 息子の描くのはさまざまなもので、

 車や人、ベランダにとまった鳥やテレビで見たのか、

 いつしか俺の前で上手に魚まで描いてみせることもあった。

 …だが、最近になって息子の絵に気になるものが描かれる

 ようになった。

 新しいマンションに引っ越したためだろうか。

 なんというか、部屋の中に妙なものを描くようになった。

 それはぱっと見、毛むくじゃらのごわごわとした生き物

 のように見えた。だが、その周囲には鳥の手足のような

 ものが生えており、描かれる回数が増えるごとにその

 大きさが日増しに大きくなっていく。

「…なあ、それなんだい?」

 俺が、おそるおそる聞くと、今にも部屋一杯に広がろう

 としているその生き物を描く息子は顔をあげ、

 黒いクレパスをにぎりながらこう言った。

「ぐりぐりさん。部屋の中にいて、部屋のものを指でぐり

 ぐりさわるの。なんでそうしたいか聞いたら、ぐりぐり

 さんは部屋のものを触るのが好きだから、だって。」

 それを聞きながら、俺はこの部屋の家具をみわたした。

 …いつからだろうか。

 この部屋の物が薄汚れるようになっていったのは。

 最初こそ、子供特有のいたずらだと思っていた。

 クレパスを握った手で、部屋をベタベタと触った跡。

 …だが、それは違うのかもしれない。

 俺は、箪笥や障子、机といったものを見て行く。

 そこにはいつしか黒い三角の形をした跡が付くように

 なっていた。腐ったようなぬめりを帯びた跡。

 3本の指を置いて閉じたような、そんな跡。

 …そうして、気がかりなことはもう一つあった。

 実は今、妻が入院している。

 彼女は部屋が勝手に汚れていくことを夜、俺が帰って

 くるたびにぐちぐちとこぼしていた。

 俺はそのたびに笑ってごまかし、妻の忠告をまるで

 聞いていなかった…だが、それがいけなかったのかもしれない。

 妻は一週間前に真夜中に肺炎を患い入院した。

 そして、救急隊員が妻を運ぶときに俺は見たのだ。

 妻の首すじにくっきりとついた三角形の跡を。

 食い込むように閉じられた、三角形の爪痕を。

 …正直、俺は恐ろしかった。

 この部屋には何がいるのか。

 そして、何をしているのか。

 そうして、俺は震える声で息子に言った。

「なあ、もう一枚、描いてくれないか?」

 息子はそれに従うように部屋を描いていく。

 クレパスをにぎりしめながらぐりぐりと何色もの

 色をつかいながら息子は描いていく。

 そして、見た。俺は見たのだ。

 息子が「ぐりぐりさん」と呼ぶそれを。

 今や部屋の中いっぱいに手足を伸ばし

 …こちらに気付いているのか、俺を見下ろす異形の物体を。

 俺は声をあげた、声にならない叫び声をあげた。

 そして、俺は気づいた。「ぐりぐりさん」の横、

 部屋のすみに漫画のようなタッチで人が描かれていることに。

 彼は拙い表情ながらも部屋の中の「ぐりぐりさん」を

 見て驚いているように見えた。

 そして、もっと驚くようなことが起きた。

 絵が、勝手に動き出したのだ。

 「ぐりぐりさん」を見て逃げようとする少年。

 そんな少年を「ぐりぐりさん」が捕まえる。

 逃げようともがく少年。

 なぜか喜々と窓の外へと少年を連れて行こうとする

 「ぐりぐりさん」…そして…。

 気がつくと、俺はただ部屋の描かれた絵を握りしめていた。

 絵の中には少年の影も、「ぐりぐりさん」の姿もない。

 気がつくと、息子が窓を見て手を振っていた。

 「バイバーイ、ぐりぐりさん。タケシのお兄さんも

  一緒に行くんだねー!バイバーイ!」

 俺は、それを見て、あっけにとられる。

 無論、窓の外には誰もいない。

 ただの部屋の絵と、手を振る息子。

 「ありがとう、タケシのお兄さん」と叫ぶ息子。

 …っていうか「タケシのお兄さん」って…誰?

 それに答えたのはその日の翌日に退院した妻だった。

 「タケシのお兄さん?知ってるわよ。お化けを

  どこかに連れてってくれるお兄さんでしょ?」

 妻はそういうと、汚れた壁を雑巾で綺麗にしつつ、

 眠った息子のクレパスを箱に戻す。

 「幼稚園で聞いたのよ。お化けの出るところに

  やってくるんだって。連れて行かれたお化けは

  二度と戻ってこないそうよ。」

 …いや、どちらかといえば連れて行かれたのは

 タケシのお兄さんの方だったけれど…。

 しかし、その現場を妻は見たわけじゃない。

 それに、あの化け物が帰ってこないのなら

 それに越したことはないのではないか?

 俺は、健やかに眠る息子の頭を撫で、顔を上げた。

 …なんだかよくわからないが、ありがとう、

 タケシのお兄さん。

 そうして俺は、もはや曇り一つないガラス窓から

 夜の空を見上げた…。

 

 

 

 

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タケシの兄 化野生姜 @kano-syouga

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