第一章 王太子の命令-5
「護衛の騎士って誰がつくの? もしかして、第四騎士団のマラフィム卿?」
フィオナの部屋に戻ったふたりに、エヴィがお茶を淹れてくれた。
支度と言っても、フィオナが滞在するのは王家が所有する別宮であり、あらかじめ必要なものはそこにそろえられるはずだ。
旅というには少し大がかりすぎるが、今回のファリオス行きに関してはこれ以上彼女からなにか意見を出すことはできないだろう。
淹れてもらったばかりのお茶に口をつけて、フィオナはゆるゆると首を横に振った。
「マラフィム様は、基本的に王都からは動かないわ。それに……私、あの人苦手だもん」
「ものすごい勢いで君のこと口説いてくるもんね、マラフィム卿」
――花街に竜胆の花を持ち込むことなかれ。だれも彼もが芳香に酔いしれ、妓女たちは瞬く間に仕事の手を休めてしまうから。
そう、王都の花街で陽気に歌われている歌がある。その「竜胆」というのが、このマラフィム卿が所有している剣の紋章だ。
造形の美しさだけなら、マラフィム卿のそれはおそらくイェルガーに勝るとも劣らない。
だが唯一、そして最大の難点が彼には存在した。女癖の悪さである。
「あの人、よく刺されないよねぇ」
「女の人のことをすごく大事にするんだって。でも、……刺されても、おかしくないとは思うわ」
女とみれば花でもいけるだとか、王宮の女性の半数は彼のお手つきだとか、そんなとんでもない武勇伝ばかりが先立っているマラフィム卿ではあるが、本業は王都を守る第四騎士団の副団長である。
大勢の部下をその一言で動かすことができる人物を、おいそれと王都から動かすわけにはいかない。かり出されるとしても、おそらく彼の部下が適当だろう。
「……俺も、あんまりあの人のこと好きじゃないんだ。君の心のことを分かっていて、それでもしつこく話しかけてくるし」
心なしか頬を膨らませたイェルガーが、戯れにフィオナの髪をほどいてしまう。さらさらと流れる金髪に触れられても心が揺らぐことは一切なかった。
恋心という、とても漠然としたものをフィオナは彼に差し出した。
どれだけ彼に触れられようと、どんな人物から愛を囁かれようと、フィオナの心がさざめくことはない。
感情がなくなってしまったわけでも、心が死んでしまったわけでもない。けれど彼女から対価を受け取ったはずのイェルガーは、それをひどく悔やんでいるようだった。
「なんにせよ出立は近いわ。それに、風の都の守護神霊っていったら……」
髪をいじられながら、フィオナは言葉を濁した。
ファリオスの守護神霊は500年の守護を貫いてきた高位のものだ。国民ですらそんな彼に畏怖を抱き、ある二つ名を贈った。
「『灰燼の騎士』、レイヴン・スコットフィール。それがファリオスを守る神霊の名前よ。私も、その姿までは見たことがないけれど……」
「灰燼の騎士? ずいぶん物騒な二つ名だな」
確かに、街を守るために配置された神霊としてはあまりに攻撃的すぎる二つ名だ。
だがそれは、彼に凶暴性や狂気性があるといった意味でつけられた名前ではない。
「精霊王が街を平定する前、ファリオスは毎年のように砂嵐の被害に遭っていたの。当時砂嵐は、砂塵の中に潜む魔物のせいだと言われていたわ。精霊王はその魔物を倒し、街を平定するようにレイヴンにその地を守護させたのよ」
この国の子供たちならばだれもが知っている、そんなおとぎ話。
砂塵に潜む魔物を一匹残らず焼き尽くし、全てを灰にしたあげく街の周囲にまいたのだという。それが原因で砂嵐の被害は劇的に少なくなり、街には平穏が訪れた。
それが、彼の神霊が『灰燼の騎士』と呼ばれる理由だ。
「へぇ……灰をまいたくらいで砂嵐を止められるとは思えないけれど」
「実際には、ハインリヒ王が遺した強力な力とのせいだと言われているわ。あくまでおとぎ話だから――でも、おとぎ話の中のレイヴンはとても真面目で誠実なのよ。この国の騎士道は彼に由来するって言われているくらいだし」
精錬にして潔白。主君に剣を捧げ、どこまでも誠実にその命を遂行する。
レイヴンの姿はどの文献に書かれてもそのような評価だった。
外見は炎をまとっているだとか雷光の剣を持つだとか、多大な脚色がされているものの、性分に関しては揺らぎが少ない。
「ますますわからないな。そんな神霊がどうしてあんなことをするのか、なんのためにしたことなのか……神霊であるなら、その地に息吹く生き物の大切さはよく分かっているはずなのに」
そう言って首をかしげているイェルガーだったが、しばらくするとぽりぽりと自分の頭を掻いて立ち上がった。
「まあ、それを調べるのにファリオスに行くんだよね。どちらにせよ、俺は君が望むように事を運ぶようにするよ。あぁ、でも危険なのはだめだ。それは絶対にしないし、させない」
柔らかい口調ではあったが、彼の決意は固い。
白皙の美貌をゆっくりとフィオナに近づけたイェルガーは、その唇のすぐ近くで言葉を紡いだ。
「俺にとっていちばん大切なのは君だ、フィオナ。相手がそこまで有名な神霊で、なおかつ俺たちを攻撃する意図があるなら――」
少しでもお互いが動いてしまえば、その唇は簡単に重なってしまう。
けれど彼はそんなことはしないだろう。高鳴ることがない胸には、そんな確信めいた想いがあった。
「そんなことになったら、俺は君を抱えて王都まで逃げ帰ってくるからね。結界を何重にもかけて、もう外には出さないように王太子様に進言しにいく」
「……兄様と同じようなこと言わないでよ。話し合えば解決できるかもしれないじゃない」
そっとイェルガーの顔が離れていき、彼は観念したように肩をすくめた。甘く肌をくすぐるような吐息が遠ざかっていったことで、なぜか安堵感のような者を感じる。
(――なんで私、今ちょっとホッとしたのかしら)
うっすら疑問に思いながらも、フィオナは思考を切り替えはじめた。
まず、目下の目標はレイヴンのとの接触だ。街の守護精霊とあったことなどまずないし、どうすれば彼に会えるのかどうかも定かではない。
「服を持って行かなくちゃ」
「服? あぁ、確かにそうだね。馬車をもう一台用意させるとか、エヴィが張り切ってたけど……」
「それじゃないわ。動きやすい服装で、あぁ、眼鏡とかも必要かもしれないわ!」
その言葉に、いよいよイェルガーは首をかしげた。べつに、フィオナは眼鏡が必要なほど視力が悪いわけではない。どちらかと言えばいい方だ。
「フィオナ」
やや低い声でイェルガーが問えば、彼女はビクリと肩を震わせる。
今しがた彼に「危険なことはしないしさせない」と宣言させておきながら、フィオナはそれを全く聞いていなかったようにいたずらっぽく笑った。
「変装して街にくりだそうとか思ってない? 町娘その4くらいになろうとか、考えてない?」
「あ、あのねイェルガー。王女として、街の現状を知るのは大切だと思うの。そのためにはまず市井に紛れて、そこに住む人々の話をよく聞くことが――」
フィオナとしても、頑張って満面の笑顔を作ってみせたつもりだった。けれど悲しいかな、しゃべるごとに頬が引きつり、イェルガーから発せられる威圧感に冷や汗が流れていく。
こんなことで彼の神霊としての実力を知りたくなかった……ついに怒られるだろうと思い、ちらりと彼の方を見ると、彼はがっくりと肩を落として薄く笑っていた。
「わかった、わかったよ。君には負ける。フィオナ、俺は君が望むならその通りにするよ」
「イェルガー……! ありがとう。その、兄様には内緒にしてね? ファリオスに向かう前に、今度は本気の監禁されちゃうから」
「うん、言わないよ。王太子様、それ実際にやっちゃいそうだし」
へらりと笑ったイェルガーに笑い返しながら、フィオナは聞こえてくるエヴィの声に返事をした。
出立の予定が、明後日の朝に決まったのだという。
涯に花満つ神霊術士-フォンテーヌ- 玖田蘭 @kuda_lan
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