第一章 王太子の命令-2

「フィオナ様、いらっしゃっていたのですか。いやはや、姫様にこれ以上の修練は必要ないでしょうに」


 現在、国内の部隊に神霊術士はフィオナを含めて2人しかいない。残りの6人は皆国外で、残ったもう1人も多くの職務に追われている。

 実質精霊術士たちを束ねているのは、屈強な肉体を誇るガレリア連隊長だった。


「お言葉ですが、連隊長。術士として経験が浅い私が、訓練を怠ることはできません。皆よりも才能がないならなおさらのこと」


 あごひげを撫でたガレリア連隊長は、鼻を鳴らして近くに居た若い術士たちを皆退けてしまった。術士隊の隊長というよりは熊に似た巨体を揺らして、広い訓練場の真ん中に経つ。


「姫様よぅ、俺が言うのもなんだが、アンタは無理しねぇ方がいいと思うぜ。殿下に雷落とされんの、俺様なんだからよぉ」


 わざとらしく関節を鳴らしたガレリアの周囲から人が居なくなると、彼は気安い口調で肩をすくめた。どちらかというと、これが本来の彼の語り口である。

 ややくたびれたように指を鳴らすと、ガレリアの影からは彼の使役する精霊――三つ目の鷹が飛び出してくる。


「さ、どっからでもかかってこいや、姫様。前みたいにそこの色男、壁から壁までぶん投げてやるぜ」

「……それは、俺が困るよ。だいたい、俺が人間に投げられるっていうのが問題なんだし」


 イェルガーがそう文句をたれる暇もなく、三つ目の鷹――アーデルはまっすぐ二人の元へと飛んできた。相手の目まで抉ってしまいそうなくちばしを開き、アーデルは甲高く威嚇の声を上げる。


「お、もい……ァ――フィオナ、危ない!」


 神霊と精霊。その違いは、単純な力量差のみである。


 人のように自由な意思を持ち、術士の力量次第では天変地異をも引き起こす。そんな神霊と比較して、精霊は自ら意思を表に出すことはほとんどない。命令に従い、まるで道具のようにそれを遂行する。

 その差というのは歴然かつ絶対であり、本来ならば精霊は神霊に牙を剥くことはできない。


「イェルガー、大丈夫!?」

「た、ぶん。多分大丈夫だけど……まずいな、このままじゃ――」


 だがアーデルは低く旋回しては何度もくちばしでイェルガーを切り裂こうと機を狙っている。攻撃がある度にイェルガーは目の前で空気の壁を作り上げるが、それもいつ破られるか分からない。


「自分から攻撃しないと本当に怪我しちゃうわよ!」

「わかってる! わかってる、けど……」


 神霊の攻撃というのは、それこそなんでもありの世界だ。空気でさえ武器になるし、自分の体から得物を生成する者もいるという。


「ほらほらほら、姫様よ、怪我する前にやめてくれや。そんなやわっちい神霊じゃ、アンタ一人守れやしねぇ」


 深いため息を吐いたガレリアは、遠巻きに戦いを見届けている若い術士たちの方を指さした。どちらがどちらを応援しているというわけでもない。彼らは、今日もフィオナが負けることを知っている。イェルガーの能力がどれだけ高くても、術士である彼女の能力が低いことには使役のしようがない。


「連隊長って、すごくお人好し、ですよね」

「そうでもねぇよ。オラ、気ィ抜くなよ!」


 もう一度、ガレリアの指が鳴り響く。

 するとアーデルの三つの目がそれぞれに貪婪な光を宿し、それまでとは段違いのスピードで――今度は、フィオナの方を狙ってきた。


「っや、……!」

「させない!」


 とっさに。

 本当に、そうとしか形容のしようがない。フィオナの前に飛び出したイェルガーは、自分の目の前の空間を指先でなぞった。横一文字――凪ぐようなその動作に、一瞬アーデルの動きが止まる。


「……ほう?」

「さすがに、それは危ない。俺はいくら傷ついたって平気だけど、フィオナが痛いのはダメだ」


 やや硬質な声でガレリアに言い放ったイェルガーは、身動きがとれないアーデルのアタマをそっと撫でてからその場にへたり込んだ。少し離れた位置では呆れたような表情のガレリアが頭を掻いている。


「イェルガー! 大丈夫? い、今のって」

「うーん、フィオナが危ないのはいけないと思ってね。俺もなんでこういうことができたのか、ちょっとわかんないや」


 神霊ならば自分の意思を持って思うように戦えるだろうに、彼はそれをしようとしない。だからイェルガーは防戦一方だし、派手な戦果を上げることもできない。

 おそらくガレリアが相手をしてくれたのは、そんな彼を徹底的に追い詰めることでなにか攻撃の手を引き出そうとしてくれたのだろう。


「ありがとうございます、ガレリア連隊長。お手を煩わせてしまって申し訳ない」

「あぁ? 他の奴らに面倒見させらんねぇから手伝ってやってんだよ。つーか、そんな隠し球持ってるならさっさと出しやがれってんだ」


 一応形式的に頭を下げてくれるあたり、ガレリアはおそらく悪い人物ではない。

 彼自身神霊が使えるほどの能力はないが、それでも熟達した精霊術士である。なにかとフィオナのことを気にかけてくれるのは、今の部隊では彼くらいのものだ。


「しかしまあ、アレじゃあどうにもなりませんぜ、姫様。術士っつっても俺たちは軍人だ。派手な見た目に派手な術、それがねぇこいつじゃ、若い奴らは見返せねぇぜ」

「そう、ですね。見返すつもりはあまりないけれど……イェルガーが悪く言われるのは嫌だわ」


 無力なフィオナに向けられるはずの言葉は、彼女の立場も相まって全てがイェルガーに向けられる。

 王国にも8柱しかいない神霊でありながら、彼はなにも言わずにそれを聞き流してくれているのだ。


「さ、もういいでしょう。訓練っつーなら、今のこいつの技を伸ばしてやったらいい」


 ガレリアとてそう暇でもない。他の若い精霊術士たちがおのおの訓練に戻っていくのを見て、さっさと下がれと目線で訴えてきた。


「――さっきの見たか? 姫様、まるで防戦一方だ」

「せっかく質のいい神霊使ってんのに、あれじゃあなぁ……腰が引けてたぜ」

「ろくに攻撃の指示も出せないんじゃしかたがねぇだろ。仮になにかあったとして、姫様はどうせ実戦に加わることなんてないんだから――」


 あちこちで囁きあう声は、最前線で戦う彼らの本音だ。

 最初こそ傷ついたし、泣いてしまった日もある。けれど軍人である彼らからすると、力のない人間が隊を引っかき回すというのは単なる足手まといではすまない話だ。


「……フィオナ、行こう。王太子様との約束の時間だ」


 それでも、全く平気かと言われればそうではない。

 自分も彼らと同じように術士としての道を究めたいと願っているのに、それを拒まれることは決していい気分ではなかった。


 ガレリアにしろ、フィオナを庇ってくれているのが分かる。

 それに甘えられないという焦りや気負いもあるのだろう。やや表情を陰らせたフィオナは、イェルガーとともにとぼとぼと訓練所を出た。


「ごめんね、嫌なこと聞かせちゃって」


 オネストの執務室までの道すがら、イェルガーはフィオナにそう謝ってきた。


「謝らないで。悪いのはあなたじゃないわ」


 彼が積極的に戦わない理由はなんとなく分かっている。

 彼は優しいのだ。術士としての素養がない自分に、これ以上の負担をかけたくないと思っている。


「対価って、なくなっちゃうの?」

「基本的にそういうことはないよ。君から貰った対価は大きなものだし、俺が使ってもまだ余裕はあると思う……けど、なんだろうね。そうしちゃいけない気がするんだ。もうずいぶん前に、誰かと約束した気がする。だから君を守るとき以外、俺は力を使わない」


 誰と約束したんだっけ。

 ぼんやりとした口調でそう自分に問うイェルガーだったが、相手がフィオナでないならばこっちも知りようがない。

 兄ではなさそうだとは思ったものの、普段からぼんやりしている彼がなにかを忘れるというのはよくあることだった。


「やっぱり、ずっと寝てたからかな。昔の記憶が曖昧なんだ」

「昔って、どれくらい? 神霊なんだし、ハインリヒ王と会ったこともあるの?」

「ない……ないと思う」


 フィオナと契約を結ぶまで長らく「鍵」たる契約者がいなかったという彼は、ところどころで記憶が曖昧だった。基本的な常識などは忘れていないようだが、なにか大切なことになるとだいたいが覚えていないと返される。


「でも、俺もそう思ってるからいいんだよ。強制されたものじゃなくて、俺が自分の意思でそう考えてるんだから」


 王太子オネストの執務室までやってくると、イェルガーはほころぶようにそう笑った。

 けれどもフィオナがその微笑みに心を動かされることはなくて、代わりに自分も「ありがとう」と笑みを返すだけにとどまった。


 彼を信頼している。守ると言ってくれた彼――自分を信じてくれているイェルガーを、フィオナは同じだけ信じたいと思っていた。


「……オネスト兄様。フィオナです」

「イェルガーです。王太子様」


 返事の代わりに、重い木製の扉がゆっくりと開けられる。

 陽光がよく差し込む執務室。その中央でペンを走らせている黒髪の青年は、二人の来訪にわずかに視線を上げた。


「遅い。なにをしていた、フィオナ」

「訓練所にいました。イェルガーがちょっぴり戦ってくれたんで」

「下らん。神霊術士などやめてしまえと言っているだろう。お前に素養はないのだから」


 眉間にしわを寄せた不機嫌そうな表情と、同じくらい重苦しい声。

 父王が臥せっている現在国政を動かしているのがこの男――フィオナの兄、オネスト王太子だった。

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