涯に花満つ神霊術士-フォンテーヌ-
玖田蘭
プロローグ
天涯城――ストローゼ王国の中央に位置する白亜の城。その地下には、建国より続く祭儀を行うための場所が存在している。
「しかし、よろしいのですか、王太子殿下? フィオナ姫はまだ16歳。いささか、荷が重すぎるのでは」
「俺が代わってやれるのならばそれに越したことはない。だが、残念だが俺にそちらの才能はないようだ。彼女も覚悟はできているだろう」
濡れたような黒髪を縛りあげている青年は、そう言って自分の前方を歩く少女の姿をみつめていた。五つも年の離れた彼の妹は、これから王族としての祭儀を行わなければならない。
「フィオナ様、準備が整いました。こちらの杯をお持ちください」
「は、はい」
あどけなさが残る声で答えたのは、フィオナ・マリエット・ストローゼ。精霊の加護篤きストローゼ王国の、二番目の王女だった。
祭儀用の純白のドレスを着た彼女は、床に描かれた仰々しい魔法陣の真ん中に立っている。今からあの場所で、彼女は大きな儀式を行わなければならない。
「中には度数の強い酒が入っております。飲み込まぬよう、杯の縁に唇をつけるだけにとどめてください。あとは我ら術士にお任せを」
初老の
16歳の誕生日を迎えた王族は、国を守り続けてきた精霊と契約を結ばなければならない。
本来その契約を結ぶことができるのは限られた才能を持つ一部の人間だけだが、王族だけは一つの通過儀礼としてそれを行うことになっていた。
あくまで形式的。実際五つ上の兄は術士の適性はなく、王太子という立場もあって術士の職には就いていない。
「それでは姫、杯を」
金色のゴブレットに注がれた酒の中には、不安そうな自分の表情が写っている。
香りだけでもむせかえるような強い酒は、建国の主である精霊王、ハインリヒが酒に強かったという逸話から用意されたものだ。
数多の精霊や、その上位種である神霊を携えたとされる精霊王。死して今も王国を守り続け、それは子孫であるストローゼ王家の人間に強力な魔力をもたらすという。
幼い頃聞いたおとぎ話を思い出して、フィオナはそっと杯に口づけた。
「っ……!」
術士によって儀礼の言葉が続けられる中、思わずフィオナは杯から顔を背けた。
香りが強く、顔に近づけただけで目がくらんでしまう。
「姫様、視線を背けずに!」
「は、はい!」
すかさず叱責が飛んでくるが、フィオナはどうしても酒のにおいが好きになれそうもなかった。
震える手で杯を持ち、そっと縁に唇をつける――それだけの儀式が、とてつもない苦行のように思える。
「オ、オネスト兄様……」
「なにも飲めと言っているわけじゃない。飲むふりをしてすぐ侍従に渡せ」
少し離れた位置から彼女を見守っていた兄は、冷たくそう言い捨てただけだった。
しなければならないことだというのは分かっている。けれど未だ少女の域を出ないフィオナの体は、どうして酒精を忌避してしまう。
「さ、姫様。お早く」
傍らに控える侍従からそう急かされて、フィオナは仕方なしに腕を持ち上げる。
けれど、震えた腕で純金のゴブレットを捧げ持つのは少し難しい。そっと顔にそれを近づけたところで、なみなみ注がれた中身が少しこぼれてしまった。
「あ、ご、ごめんなさい!」
「姫様――お下がりくださいませ!」
「なに……きゃ、あァ――!?」
自分では、大層なことをしたなどとは思っていなかった。酒をドレスに引っかけてしまったので、侍従や先ほどの術士に怒られてしまうだろうか。反射的に謝ってしまった彼女の体は、いつの間にか魔法陣からはじき飛ばされていた。
「フィオナ!」
「なりません殿下、危険です!」
兄の声が、離れた位置で聞こえる。
石造りの薄暗い部屋の中は、まるで太陽が生まれ出でたかのようにまばゆい光で満たされている。なにが起こったのか分からないまま、フィオナは杯を胸に抱いて座り込んでいるしかできなかった。
「兄様、オネスト兄様……なに、なにがあって――エヴィ、シュトレン! 助けて、わ、私……!」
白く染まった視界の中で、フィオナは必死に兄や侍従たちの名前を呼び続けた。
だがそれに返事はなく、儀式を執り行っていた他の術士たちがどうなったのかも分からない。それに。酒がかかった胸元が先ほどからとても熱いのだ。
不安がどんどんふくれあがり、彼女は空色の瞳を濡らしてしゃくり上げ始めた。
もしかして、自分は死んでしまったのではないだろうか。あの光に包まれて、天上にある神の御許へと召し上げられたのか――けれど、自分はかつて大きな罪を犯してしまった。だとしたら連れて行かれるのは、百魔がはびこる常闇の国か。
肩をふるわせて恐怖に耐えている彼女の耳に、穏やかな声が飛び込んできたのはそのときだった。
「……泣かないで。少し驚いただけで、別に怒っているわけじゃないんだ。こんな風に声をかけられたのは、もうずいぶん久しぶりだったから」
凪いだ海のように優しい、男の声だった。
兄と同じくらいの年頃か、あるいはそれより少し上かも知れない。優しい声が自分にかけられているのだと知ったフィオナは、涙で濡れた視線を少し上に持ち上げた。
すると、それまでなにもなかった真白の空間の中に一人の青年が立っている。
彼は自分と同じ純白の服を着ていた。質素なそれは確かに祭儀に使うためのもので、女性もののドレスとは違いゆったりとしたローブになっている。
「あ、なたは……えぇと、ごめんなさい。術士の方? 腰が抜けて――悪いけれど、手を貸してもらっても?」
「手を貸すのはかまわないけど、俺は術士じゃないよ。というより、君が俺を喚んだんじゃないか」
藍色の髪と瞳。あまりクリストローズ王国では見かけない色だ。
白い服によく目立つ特徴を持った彼は、そっとフィオナの手を取って立ち上がらせてくれた。ぱっと見て長身だと思っていたが、実際隣に立ってみると頭一つ分ほど彼の方が背が高い。
「私があなたを呼んだ? 名前なんて知らないし……聞き間違いじゃない?」
「いいや、俺は確かに聞いたよ。君が俺を喚んでくれた声を。正式な手順を踏んで結ばれた契約じゃないけど、喚び出されてここまで心地いいって思ったのは久しぶりだ。その前は――どんなだったか、忘れちゃったけど」
ふわふわした藍色の髪の青年は、そういうと少し恥ずかしそうに笑った。一マイン絵画のようなそれはフィオナの胸を高鳴らせるには十分な威力を持っていたが、大きな問題はそこではない。
本当に、フィオナは彼の名前など呼んでいないのだ。
それに、喚び出されたという彼の言葉にも引っかかりが覚える。だって自分は、先ほどまで祭儀の真っ最中だったはずだ。そんな彼女に喚ばれたなどと、該当するのはたった一つの可能性しかない。
「精霊……あなた、私が喚び出した精霊なの? いえ、でも普通は動物の形をしてるって兄様や姉様が言ってたのに……」
「精霊? ああうん、そう呼ばれることもある。実際、君はそれくらいの力しか持ってないみたいだしね。神霊術士としての適性は皆無、精霊術士としても使い物になりそうもない」
「か、かいむ? 使い物にならない?」
穏やかな口ぶりで吐き出された言葉に、思わず絶句したのはフィオナの方だった。
神霊術士というのは、精霊術士よりもさらに上位の存在だ。多くは人間の形を模し、強大な力を持った精霊を使役できる人間のことを指している。
「そう。せっかく喚んでくれたのは嬉しいけど、もとの世界に戻ったら君の体は確実に破綻する。残念だけれど、契約は結ばない方がいい――精霊王ハインリヒの血を引くお姫様。君がわざわざ俺と契約を結ぶ利点はないと思うし」
繋いだ手が少し温かかったというのを知ったのは、手が離れたそのときだった。
術士としての才能というのは、生まれたときにある程度決められているものだ。
もちろん血のにじむような努力をして精霊や神霊と契約を交わすものはいるが、その多くは自らの寿命を対価として差し出す。ゆえに優秀な術士は他の人間よりも短命で、それも悲惨な死に方をすることが多かった。
それは、フィオナだって知っている。現にハインリヒ王は多くの神霊と契約を結び、国を建てた後若くしてこの世を去ってしまった。
「でも、私……兄様が術士になれないなら、私がなるしかないの」
「どうして? だって君はお姫様なんでしょう? 君の近くに居た人間がそう叫んでた。そんな高貴な立場の人間が、わざわざ自分の命を危険にさらす必要はないはずだ」
拒絶ではない。けれども諭すような声は、まるでぬるま湯のように自分の決意を溶かしていく。
「それとも、なにか大きな理由でもあるのかい? そう、たとえば……そうまでして俺に縋らなければならない願い事があるとか」
その言葉に、フィオナはきゅっと唇をかんだ。
願い事。そう言ってしまえば少し幼いような印象を受けるが、彼の力を借りたいと思う願いならば確かにある。
記憶の片隅にある柔らかい手を思い出して、フィオナは自分から青年の手を取った。
「そうよ。兄様がだめなら私がなるしかない。あなたの名前は知らないけれど、神霊クラスなら十分すぎるくらいだわ」
「……へぇ」
「私、まだ16になったばっかりなの。だから寿命はたくさん上げられると思うわ……足りないなら、なんでもあげる。い、痛いのは怖いけど、頭からかじられてもがまんするから。だから――お願い、私に力を貸して」
やや高い位置にある深い色の瞳を見上げて、フィオナは彼に懇願した。
相手は神霊というくらいだ。もしかして自分なんて一息に丸呑みされてしまうかもしれない。そう思うと膝ががくがくと震え出すが、それを必死にドレスで隠す。
穏やかな表情の青年は、必死に息を詰めるフィオナをみつめるとふっと息を吹き出した。
「かじったりなんかしないよ。それに、……君から寿命を奪うっていうのは、少し酷だな。まだ若いし、未来だってある。なぜだか、そうしちゃいけないよう気がするんだ」
繋いだ手に少しだけ力を込めて、青年はもう一度彼女の目を見つめた。太陽のような光がきらめく、空色の瞳。視線がかち合うと、彼は空いた左手の指先を彼女の鎖骨のあたりに添えた。
先ほど酒がかかった部分は少しだけひりひりしていたが、彼が触れることでそれが引いていくのが分かる。
「では、契約の鍵たる証をここに。寿命を奪わないとはいえ、君からは魔力の代わりの対価を頂かなくてはならない」
とくん、と、小さく胸が鳴った。
それまでうっすらと笑顔を浮かべていた青年が表情を消し、フィオナに押し当てられている指先へわずかに力がこもった。
「っ……」
「ごめんね。けれどこれがないと、君は戻ったとたん本当に死んでしまうから」
短く息を吐き出して、彼は謳う。
「我ながらなんと残酷なことだとは思う。けれど許して欲しい……君からは、恋心を貰おう。君のような年頃の少女には、最も鮮やかで最も美しい、宝物のような感情を」
痛みはまるでなかった。
代わりに、世界の痛苦全てを背負ったような彼の表情が目に入る。
そんな顔をしないで――そう言いたいのに、フィオナの唇はわずかに震えて息を吐き出しただけだった。声が出ない。叫びだしてしまわないよう、誰かに喉を押さえつけられているようだ。
「ここに百合の鍵をもって、イェルガー・ゼーベンハイトは君に神霊としての誓いを捧げよう。名前を教えてくれるかい、お姫様」
「……フィオナ。フィオナ・マリエット・ストローゼ」
「そう。フィオナ――いい名前だ」
まるで自分のものではないような声が漏れ出す。
二つの名前を聞いたとき、真っ白だったその空間は泡のようにはじけていった。
光がほどけていく不思議な感覚を覚えながらも、フィオナはもう一度彼の目を見た。
完成された芸術のように美しい表情。それが微笑むたびに少女らしく高鳴っていた胸が、今はなにも感じない。
それまでとなにも変わらないはずなのに、なにか大きなものが変わってしまったような、きわめて形容しがたい感情を覚えて、フィオナはゆるく頭を振った。
「フィオナ、フィオナ無事か、返事をしろ!」
「……兄様」
すぐ近くに兄の声が聞こえて、彼女はイェルガーの服を掴んだ。自分とおそろいの、祭儀用の白いローブ。
先ほど触れられた鎖骨のあたりにわずかな熱を感じて、彼女は兄の名を呼んだ。
「オネスト兄様!」
「フィオナ、無事か――って、誰だ貴様は!」
「ま、待って兄様、この人は……」
泣きそうな兄の顔なんて見たのは何年ぶりだろうか――今にもイェルガーに向かって抜刀しそうな兄をなだめるために、フィオナは薄い笑みを浮かべてそっと立ち上がった。
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