第一章 王太子の命令-1

 フィオナの胸には、百合が咲いている。


 それは決して比喩ではなく、本当に彼女の右胸――鎖骨のすぐ下のあたりには、開いた百合の形をしたあざがあった。


これを隠すために肩の出たドレスを着ることはできないが、別にそれを悪く思ったことはない。

 百合型のあざは、術士の「鍵」と呼ばれている。形は人それぞれだが、精霊と人間との契約を表す大切なものだ。


 ドレスを脱ぐ度に見えるそのあざのことを、フィオナは誇りにすら思っている。


「姫様ももっとドレスを着てくださったらいいのに。このような格好では、飾りがいがありませんわ」

「そう言われても、普段の仕事で動きにくいものを着るわけにもいかないし。ワンピースだって、エヴィがかわいいものを選んでくれてるだけで十分だもの」

「また姫様はそういう……これがマニエラ姫だったらこうは――も、申し訳ございません、フィオナ様」


 フィオナ付きのメイドであるエヴィは、ある女性の名を口に出したとたんハッとして頭を下げた。

 マニエラというのは、フィオナよりも八つ上の姉の名前である。聡明な女性だったが、今はその名を呼ぶことすらこの国の禁忌となっていた。


「いいわ、エヴィ。聞かなかったことにするから。でもオネスト兄様の前で口を滑らせちゃだめよ」


 今にもひれ伏しそうなエヴィに笑みを向けて、フィオナは背中に流した髪を結ってもらうことにした。前は自分で適当に縛ったりもしていたが、十六の誕生日を迎えてからエヴィたちがそれを許してくれなくなった。

 一年前、祭儀の後は半月も部屋に閉じ込められて、徹底的に上流階級の礼儀や作法を仕込み直された。妹を神霊術士フォンテーヌにしたくなかった兄が、なんとしてでもその道を断念させようと躍起になっていたのだ。


「あの時の兄様、すっごい怖かったもの」

「婚約も結婚も延期なさったんですもの、王太子殿下が怒るのも無理はないと思いますわ。いくらイェルガー様が高位の神霊とはいえ、妹を取られたお気持ちだったのでしょう」

「……あの兄様に限って、それはないと思うけど」


 金髪を高い位置で結い上げ、さらにそれを編み込んでもらうと、フィオナは勢いよく立ち上がった。

 今日も神霊術士として、いくつかの仕事が待ち構えている。仕事という以上は気が向くことばかりでもなかったが、この1年でそれもかなり慣れてしまった。


「それじゃあ、ありがとうエヴィ。行ってくるわ」

「はい、お気をつけていってらっしゃいませ、姫様」


 深く腰を折ったエヴィに見送られて、フィオナは自室の外に出た。

 王女であるフィオナが暮らしているのは、ストローゼ王国の王城である。天涯城と呼ばれるそこは、開闢の祖である精霊王ハインリヒの時代から500年にわたって国を見守り続けている。


 回廊を抜け、城勤めの人々がせわしなく動く廊下を渡れば、人々はみなフィオナの方をちらりと横目に見る。

 だが、その中で彼女に挨拶を送ってくるのはその半分にも満たない。もう半分は興味と、ほんの少しの厭悪だ。


「フィオナ、おはよう」

「おはよう、イェルガー」


 自分の家である城の中で、誰にどんな視線を向けられようと知ったことではない。原因が分かっているのもあってか、フィオナはそれを全て見ないふりをした。

 代わりに広間からやってきた藍色の髪の青年に柔らかく微笑みかける。


 イェルガー――一年前に契約した、フィオナの神霊だ。胸元に咲く百合の花を媒介に、彼はどんなときでもフィオナに力を貸してくれる。


「先に訓練所に行きましょう。動きやすくなるように、今日は髪を結ってもらったの」

「あぁ、いつもとすこし違うのはそのせいか。どこか変わったんだろうけど、その変わったところがわかんなかったんだよね」


 ストローゼ王国にはたくさんの精霊術士が存在している。大陸自体に術士を畏怖し、尊敬する風潮があるとはいえ、軍の部隊丸ごと一つが術士だけで構成されているというのはこの国の大きな特徴でもあった。

 そんなストローゼであっても、神霊術士を名乗ることが許されているのはほんの一握りしか存在しない。フィオナを含め、現在国内でその称号を名乗っているのはたった8人だけだ。


「じゃあ、午前中は訓練所で過ごそうよ。それが終わったら、王太子様に呼ばれてるんだ。一緒に行こう」

「……兄様に? わ、私またなにかしたかしら。半月部屋に軟禁されたりしない?」

「うーん、オネスト様おっかないから、どうなるかわからないけど」


 オネストは無愛想かつ妹には非常に手厳しい兄だった。国政の舵切りをしている真面目な彼が、理由もなくフィオナを閉じ込めたりするはずもない。そう思うし、兄を信じたいのはフィオナの方も山々だったしこそあったけれども、残念なことに彼には前科がある。


 オネストは勝手に神霊と契約したあげく対価を差し出した妹に激怒し、結局彼女は半月ものあいだ外に出ることを許されなかったのだ。


「でも、今回は宰相様も慌ててなかったし。大丈夫だと思うよ」

「イェルガーの『大丈夫』って、あんまり信用できないかも」

「なんで!?」


 心外だと声を上げるイェルガーに笑いかけて、フィオナはふうと息をついた。


(やっぱり、きれいな顔よね)


 イェルガーは美しい。それは彼を使役する立場のフィオナであってもよく分かることだった。

 彼と一緒に町に出れば、王女よりも美貌の神霊に注目が向けられる。おかげで悪目立ちすることもあれば、逆にこちらが悟られず動くこともできた。彼が微笑むだけで少女たちが黄色い歓声を上げるのも知っている。


 ――最初に出会ったとき。イェルガーと初めての邂逅を果たしたときは、きっとフィオナもそうした胸の高鳴りを覚えていたはずだ。彫刻のように完成しきった美貌と、均整のとれた体幹や四肢。どれを見ても完璧なまでに美しいそれに、女性ならば誰もが心を動かされるだろう。


(でも、もうなんとも思わないし――ヴィゼル王子も、白騎士のマラフィム様も……特にどうにも思えない)


 王城という場所にいれば、見目麗しい男性はわりとお目にかかる機会がある。王女という立場上フィオナにも婚約者がいたが、神霊術士として活動したいという彼女の意思を尊重し、婚姻はもとより婚約そのものが延期になっていた。


「フィオナ? どうしたの。おなか減った?」

「な……減ってないわよ。さっき朝ご飯食べたもの……うん、減ってないわ」

「そう? それならいいんだ」


 一応自分の腹部に手を当ててみたが、腹の虫が鳴き出しそうな気配はない。

 首をかしげて自分の顔を覗きこんでくるイェルガーは人なつっこい笑顔を向けて、今日の訓練はなにをしようかと自分の希望を伝えてくる。


 精霊や神霊の訓練というのは、有事に備えて互いの能力をぶつけあうものが多い。本来イェルガーほどの神霊ならば、そんじょそこらの精霊たちが束になっても敵うものではない。


「今日も基礎訓練がいいなぁ。走ったりする方が、吹っ飛ばされたりするより全然マシだよ……この前は連隊長に壁から壁までぶん投げられるし。俺、本当に神霊なのかなってちょっと自信なくしたよ」

「ご、ごめんねイェルガー――私、本当に魔力の扱い下手で……まさか連隊長に投げ飛ばされるとは思ってなかったけど」


 そう、本来ならば。

 本来ならば。従来通りの力を出すことができれば。そういう仮定がつけば、イェルガーは誰にも負けない最強の神霊だった。たとえば彼の「鍵」をもつ人間が、建国の王や他の神霊術士であったならば。


「フィオナが謝ることじゃない。魔力的には、俺は君から十分すぎるくらいの対価を貰ってるんだ。……真面目な話、俺と契約を結ぶつもりだったら多分王国の術士総出で君の教育に当たってたと思うし。俺たちの契約って、本当に変則的だよねぇ」


 神霊との、変則的な契約。


 本来形だけで済ませるはずだった儀式が、なんの因果かとてつもない方向に動いてしまった。兄よりほんの少し素養があるだけだったフィオナは、精霊を操るための専門の教育を受けたわけではない。


 それどころか、持って生まれた魔力量が低く対価でそれを補っている状態だ。魔力の扱いが下手だというのも、精霊を扱うための準備が出来ていなかったのだから仕方がない。本来精霊術士や神霊術士は、幼い頃から修練を積むのが原則だ。


「俺はいいんだ。そこら辺の精霊たちに傷つけられることはないし、ぶん投げられても足引っかけられても、人間よりはよっぽど頑丈だからね」


 すれ違う人々の視線を押さえつけ、訓練所までやってきたイェルガーは重たい息を吐いた。フィオナも、訓練自体は嫌いではない。座学にしろ実技にしろ、新しい知識や体験ができるのは彼女にとっても大きな刺激になった。


「けれど俺は――君が傷つくのが、唯一耐えられない」


 白く塗りつぶされた扉を開けると、中にいた十数人の術士たちが一斉にフィオナたちへと視線を向けた。


 羨望、嘲笑、嫉妬、憐憫――ありありと伝わってくる負の感情は、あくまでもこの国の王女たるフィオナに向けられるべきものではない。相手もそうとは分かっているものの、おそらく同じ術士としての矜持が許さないのだろう。

 それに対して、彼女が不敬だ無礼だと感情を乱すことはなかった。


「大丈夫よ、イェルガー。あなたがいるもの」


 術士の階級は完全な実力主義である。ここに来れば身分など関係ない。フィオナも、神霊を従えているだけではただの少女と変わりなかった。王女というだけで、自分には本来なんの力もないということを思い知らされる。


 けれどそれが命をかけて国を守るということだというのを、彼女はよく理解していた。


 ただ、突き刺さる視線が少し寂しいだけ。思うことは、たったそれだけだった。

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