墓に咲く花

えくぼ

第1話

 お慕い申し上げる殿方がいました。

 綺麗な人でした。私が毎日家に通いつめ、愛を育み、ようやくというところで私は他の人に忠告を受けました。

 彼は私を騙し、喰らう悪鬼羅刹の類ではないか、と。

 憤慨した私が駆け込んだ時、彼は自らの骨を撫でながら言いました。

「その通りだ。私はもうこの世の者ではない。生き返るために、そなたを殺そうとした。それももう終わりだ」

 小さな小屋で、私は立ち尽くします。

 今まで彼に会えば弾んだ胸は今はただ、きゅうと締め付けられています。

「別れよう。お前は他の生きた男と幸せになれ」

 そう言って、私の頭を撫でたのです。



 ◇


 私が彼に出会ったのは墓場でした。

 月のない夜に、暗闇の中で彼がおりました。自殺をしようとしていた私はそれを見て戸惑ったものです。

 彼は見た目こそ若いのにその髪は老人のように白く、銀色に輝いていたのです。すらりとした鼻、穏やかで涼しげな目元に透き通るような肌。恐ろしいほどに整った、人間離れした姿。

 ――それがあまりに、あまりにも彼の姿は綺麗だったものだから。

 彼は私の自殺を止めました。止められて、救われてしまった時ほど苦しく切ないときはありませんでした。胸が痛いと泣く私の側に黙って座っておりました。

 私が泣き止み、そのまま立ち去ろうとした彼を引き止めたのは私でした。

「どうして、助けたのですか?」

「もったいない。そう思っただけだ」

 ぶっきらぼうな言葉とは裏腹に、そこには溢れんばかりの慈しみがありました。

 その日から、彼の元へと通いつめる日々が始まりました。


 私は生きる意味を失っていました。

 故に彼に生きる意味を求めてしまったのです。

 

 それでも私は幸せでした。

 親を失い、畑が荒らされ、途方にくれた私はあの時確かに死んだのです。

 叔母に助けを求め、なんとか立ち上がった時にはきっともう、貴方のことが頭から離れなくなっておりました。

 薄く微笑み、墓を掃除するだけの生活を送る貴方の家に通い、食事を作りました。その小さな口で少しずつ食べて、食べ終わると目を閉じて手を合わせて美味しかったと言われるだけで全てが報われていたのです。

 庭が殺風景だからと、花を育てていた時こう言ったのをよく覚えています。

「眠るなら、こんな風に花に囲まれる。お主の側で眠りにつきたいものだ」

 縁起でもない、と怒ったから覚えているだけなのですが。


 そんなあなたが今こうして私に正体を明かして突き放す理由がわかりません。

 だからどうか、一人で抱えこまないでください。思うことを、辛いことを打ち明けて欲しいのです。かつて私があなたに救われたように。



 ◇


 死にかけた時、声が聞こえた。

 それは私に問うたのだ。生きたいか? と。深く、水の底から聞こえるような声が頭の中へと響きわたる。男か女か判別もつかぬ。妖艶な女の声であれば、最後に男のサガが望んだ幻覚だと思ったかもしれぬ。だがそんなことはなく、どこかで人ならざるものだと気がついていた。だから、即答してしまった。

 ――生きたい。

 勿論、私はもう声は出なかった。喉は血が邪魔をしてうまくうごいてくれぬ。手は届かぬし、目も見えぬ。そのような中で、私の祈りは確かに届いた。

『そうか、生きたいか』

 面白がるかのように、こう続けた。

『何故だ?』

 何故生きたいのか。そんなもの、わかるはずがなかった。正解はない。だから正直にただ生きたいと願った。魂が肉から離れようとした。浮かぶ意識、それがぐいと掴まれた。

『良いだろう。そなたの魂を地に縛り、見えるようにしておく。代わりに、見つけるがいい。そなたを想い慕う、焦がれる花を。若く可憐な、花を手折り、そなたのものとしろ。そうすれば、そなたの骨に失われた肉をつけて、地に戻してやろう』

 仏か。もしもこれが御仏の仕業というならば、今一度機会を与えたことを感謝しよう。

 そして必ず、生き返ってみせよう。



 ◇


 そう、決意したはずだった。

 しかしいざ目の前にすると、胸の奥から湧き上がるのは罪悪感ばかりであった。理由もなく生きようとする私が、今を懸命に生きて未来を語る娘の命を奪っていいものか。そのようにしてまで生き返る価値が私にあるのか。

 死ぬ間際だったから、生きたいと願っただけだったのだ。死にたくはない。だが生きたいわけではなかったのだ。

 今も死にたくないという理由だけで惰性でしがみついている。みっともなく、魂だけのこの姿に。生者の髪は黒。死を象徴するかのようにこの髪の色は反転し、闇の中でさえ明るく見えた。歳をとらず、腹も減らぬ。人をやめたと主張する、みっともないこの異形の姿にさえ縋り付いた。

 それに気がついた時、私はその女に告げていた。

「私は死者だ」

 それだけで女は私に怯え、罵り、念仏まで唱えて逃げ去った。

 これで良かったのだ。


 そんなことを繰り返して年月が過ぎた。

 孤独に慣れて、だんだんと感覚が消えていくのがわかる。人を怯えさせぬよう里から離れた。見つかれば場所を移り、そうして過ごした年が両の指で数えられなくなった。

 最後の住処は墓場の近くだった。

 最近住職が死に、人のいなくなった墓場。その近くに小屋があった。背負った風呂敷を広げ、中の骨を置いて自らの住まいの証とした。


 昼間は陽の光に当たるのも、人に出会うのも嫌になり夜に出歩くようになった。

 そんなある日のことである。

「ようやく……」

 木に縄をかけて、思いつめた顔をした女がいた。

 首を吊る気だ。そう気がついた時、久しく忘れていた感情が胸の奥を這い上がってきた。あの日、どうにも捨てられずに今もしがみついて仕方がないこの命。私が渇望したそれを持っているのに、投げ出してしまうのか。よく見れば愛らしい見目をしている。そのような容姿であれば、想いを寄せる男の一人や二人いるかもしれぬというのに。

「もったいない」

 思わず死ぬのを止めて、ひとしきり最後まで見届けた頃には、女の顔に悲壮感はなかった。代わりに、仄暗い熱があった。


 女は奇妙なことに、私の元へと通うようになった。あれやこれやと世話を焼き、笑顔でこちらに話しかけてくる。邪険にする理由もなく、なんとなく相手をしていたら自分もまるで生きているかのような気分になった。


 そこでようやく、生きたいと思った。

 この笑顔を肉のある体で抱きしめてやりたい。手をつないでやれば、もっと笑うだろうか。それとも、恥じらい、頬を染めるだろうか。どちらでも良かった。異なる顔を見たくて、それが幸せの顔であってほしかった。


 だがしかし、なんと皮肉なことだろうか。私が生きるためには、女を殺さねばならぬ。それも若くて綺麗で、自分に想いを寄せる女だ。その条件に合うのは一人しかおらず、つまり共に生きようと思えば彼女を殺して自分が生き返るという本末転倒なことになる。

 それは、駄目だ。意味がない。

 一度浮かんだ考えというものはなかなかに忘れがたく、拭い去りがたい。

 それを耐えていたのに、たった二度で決壊させられた。

「貴方と共に歩みとう存じます」

 こわごわと、惚れた女に告げられれば断れるわけもなく。

「私の叔母が、貴方は悪鬼羅刹ではないかと言うのです。そんなことはないと、そのように言い返してしまいました」

 嘘など、つけるはずもなかった。


 結果として、突き放した。

 自分勝手に拒絶し、半分本当で半分嘘を言った。幸せになってほしい、死者の自分では無理だと思うのは本音。しかし他の男と幸せになれなどと、どの口が。

 今も、彼女を殺して共に死ぬことさえ考えているのに。


 しかし彼女は私に言う。自分を殺して生き返るように。そして我が身を犠牲に幸せになれ、とそのように。

 

 初めて女を殺そうとして、諦めて、打ち明けた時のことが思い出された。

 あれが普通だ。拒絶し、逃げるものだ。この状況で、自らが犠牲になる? 何をどうすればそんな風に身を投げ出せる。我が身が可愛くないのか。いや、あの日、死のうとした彼女はもういない。ならば。

「どうして……」

「あの日、私は死ぬはずでした。ならばこの命、愛おしい貴方のために使いたいのです」

 与えても与えても尽きることのない、私が感じていた以上の言葉に、呼吸が奪われた。湧き上がる衝動に身を任せて、そのまま抱きしめた。腕の中で身をゆだねられて、その温もりを感じる。自分がはるか昔に失った温かさを。

 今なら綺麗に死ねる。その確信があった。

 幸せの絶頂で、眠るように消えていけるような、そんな気がした。あの日、必死にしがみついた答えが見えたのだろう。誰にも愛されず、誰かを愛することもなくただ生にしがみついたその答えを。

 あの人ならざる何かは私に仮初めの生を与えて、私か迷い苦しむのを楽しんで見ているのであれば性格の悪いことだ。しかしそれでも感謝しかない。

 そう、覚悟が決まった時、自分の体が薄く光っていた。今まで、無味無臭の中で生きてきた私の体に細かな刺激が鮮やかに飛び込んできた。蘇った。

「なかったはずの肉体が……」

「ええ、貴方の心の臓が音を立てているのか聞こえます」

 改めて肉の体はなんとも重く、思うように動かない。やたらと胸が鼓動を打つし、あちらこちらが熱くてかなわぬ。

「どうしてだ」

 そう呟いた時、語りかける声があった。

『ようやく、見つけたのだな』

「なんのことだ」

『生きる理由のことだ。生きる理由は、同時に死ぬ理由たり得る。その女のために生きて死ねるなら、生き返る意味もあるだろう』

「私に女を殺せといったのは」

『殺したではないか。この女殺しよ』

 そういう意味か。手折るだとか、大事なものを奪えなどともってまわった言い回しは全て、ただ愛し愛され両思いであれと。共に生きて、共に死ぬ覚悟を持てとそれだけのことだったのだ。

「死ぬ理由は、なくなりましたか?」

「生きる理由は見つかった」

「私も、勿体無いと思います」

「私が言ったことだ」

「返しておきたかったのです」

「受け取ろう。そして、私と共に歩んでくれるか?」

「どこまでも」

 微笑むその手をとった。熱い雫が伝う。あまりに久しぶりのその感覚に、泣いていたのが自分であることすらも気がつかず。彼女は私の頬に伝うそれを拭い取り、その身をいっそう強くこちらに寄せた。私はただ、それが幸せなのだと噛み締めて泣きつづけ、彼女は黙って側にいてくれた。

 何度も、何度もここにいるのだと確かめた。

 私たちを縛る鎖はない。

 庭には一面に花が咲いていた。今はもう、眠ることは考えられなかった。


 


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