世界各地の神話や伝承のなかには、驚くほどの相似を見せるものがある。
たとえば洪水伝説。
あるいは楽園放逐。
想像上の奇怪な生き物にも類似がある。
それはひとつの「初源の伝説」が世界に広がったと考えるか、自然現象などの似た経験に基づいて、同時多発的に生まれたものと考えるか、その捉え方はおおむねふたつに分かれるだろう。
本作は、前者の考え方をし、その思想の体系化に生涯を捧げた平田篤胤の物語。
現代の視線で観れば、よほど民族的に共通の先祖を持っていることが明らかである場合を除いて、後者の立場を取る学説が多いのではないかと思われる。
日本の神話や伝承を源に据え、世界を体系化しようとする平田篤胤の説は奇怪でときに醜悪でもある。
けれども、その説には人を引きつけて止まない魅力も持っている。そう、いまもなお……
本作は、彼の誠実な生涯と家族や隣人に愛された生涯を通して描いている。
牛鬼とミノタウロス、疫病と迷宮の怪しい夢幻を彷徨い、ひとつの「真理」に至る彼の思索は、稀代の怪人物に相応しい。
一筋縄ではいかない彼の足跡を、たった十万字強に納めた作者の力量は賞賛に値すると、私は思う。
江戸後期。学問を志す平田篤胤は、本居宣長の書と出会う。
それが、牛の姿を追い、人は死後どこへ行くのかを探る長い旅の始まりだった。
平田篤胤。日本史で習った名前しか知らない人物です。
新しい知識に接すると、子供のように目を輝かせ、寝食を忘れて研究に打ち込み。
生活力はないけれど、周囲の人々が手助けしたくなるような、魅力的な人物として描かれています。
献身的に支える妻・織瀬の存在も大きい。
本居宣長の書は、死後の世界に深く触れていない。それは不可知であるから。
しかし篤胤は、夢で見た牛の姿を追うように、幽冥の迷宮へと足を踏み入れていく。
それは理論とかではなく、個人の信仰みたいなものではないか、とも思いますが。
江戸後期は、想像以上に、海外の文物が国内に入ってきていて。
篤胤は国学者ですが、西洋の神話や伝説の知識を得ることにも熱心。
古代の日本が最上であることを、諸外国の神話などを調べて立証する。
という、バイアスのかかった研究目的ではありますが。
本居宣長の門人が、師の書には一点の誤りもない、と疑いもせず主張するのに対して。
篤胤は、誤りに気づけば師の説であっても正していかなければならない、と言います。
その姿勢は、間違いなく学問でしょう。
現在ほどに医療の発達していなかった時代です。
人々は病でおびただしく死に、病を鬼神の災厄として恐れる。
篤胤が失った愛しい者は、死後どこへ行くのか。
愛しい者には、死後も美しい場所にいてほしい。
迷宮を抜け出した彼の結論には、そんな願いが溢れています。
作者様の『幻想ニライカナイ―海上の道―』も他界を扱った作品でお薦めですので、ぜひ。