第25話番外編:この手に(エドワード視点)

「エドワァドゥ……さま」


 緊張からだろうか。女の子は僕の名前を呼ぶ時に、言葉がつっかえてしまい、舌足らずな言いかたになってしまった。

 恥ずかしさで顔を赤らめると、母親のスカートの後ろに隠れる。

 僕はそれを見て、思わず噴き出した。


「僕のことは、エドでいいよ」


 女の子はそっと顔を覗かせ、「いいの?」と問う。頷くと、母親を見上げた。どうしたらいいのか、自分では判断がつかないのだろう。母親が頷くのを見て、少しホッとしたようだった。


「いいんだって。良かったわね、ヴィー」

「ヴィー……。僕も、ヴィーって、呼んでいい?」


 すると、女の子は嬉しそうに笑った。


「いいよ! ねえ、一緒に遊びましょう!」

「え、でも……今日はダンスのレッスンが……」

「いいよ! ヴィー、ダンス大好き!」


 女の子は僕の手を握ると、くるくると回り出した。

 教わったことのない、デタラメなステップとその動きに、僕は翻弄された。

 でも、戸惑ったのは最初だけ。なんだかとても楽しくなって、結局一緒になってくるくると回ったのだった。

 僕は、物心がついてからはずっと感情を押し殺してきた。母を泣かせないように、祖父を困らせないように。自分がどうしたいかよりも、どうすべきなのかを感じ取るようになってしまっていた。

 でも、この日は違った。

 心から笑って、全身で感情を爆発させたのは、これが最初だった。

 その感情を、ヴィーが引き出してくれたんだ。



 * * *



 伯爵令嬢である母は、とても美しく優しい人だったそうだ。部屋に飾られている肖像画からも、それは感じ取れる。黒く波打つ艶やかな髪、宝石のような真っ青な瞳は美しく、ふっくらとしたピンク色の唇は微笑みを浮かべている。でも僕は、母の泣いている顔しか、記憶にない。

 母そっくりの癖のある黒髪と、真っ青な瞳を持つ僕を見ると、母はいつも泣いて詫びた。


「ごめんね、ごめんねエドワード。あなたがあのかたと同じ髪色なら、同じ目の色だったなら、こんな風に隠れることはなかったかもしれないのに」


 なんのことか、僕にはさっぱりわからなかった。

 僕は母の髪色も、目の色も好きだったから、自分も一緒であることが嬉しかったのだ。それを伝えると、母の青い瞳からは、更に大粒の涙が零れた。


「来なさい、エドワード。私が馬に乗せてあげよう」


 祖父の大きな手が、僕の手を包み込む。もう片方の手で、僕の青い目を隠すように覆うと、くるりと反転させて母の部屋から僕を連れ出した。

 母は、僕のことが嫌いなのだと、子供心に傷ついた。

 父親は、会ったことがない。肖像画も飾っていないし、どんな人かを聞いたこともない。でも、僕とは髪の色も目の色も違うのだということは、分かっていた。

 大きな屋敷だったが、祖父は使用人をあまり雇わず、僕はひとりで過ごすことが増えた。

 母が亡くなったのは、そんな頃だった。

 家族が祖父ただひとりになった僕のところに、ある日祖父はひとりの女性を連れて来た。


「今日から、お前の教育係兼お世話係として、わが家に来てくれることになった、アイリーン・アンブラー男爵夫人だ」


 屋敷にやって来たのは、母の古い友人だった。

 当主として忙しい毎日を送る祖父は、僕に構う時間がないのだ。簡単に紹介すると、祖父は足早に出て行く。それを僕は、ひどく冷めた目で見ていた。

 どんどん母に似ていく僕を、祖父はあまり見ようとはしなくなった。使用人を増やそうともしないところを見ると、僕を厄介者としか思っていないように感じられたのだ。


「貴族のご夫人なのに、こんなガキの教育係なんて、貴方も大変ですね」


 別に気を悪くして帰られても構わなかった。

 誰よりも、僕が僕自身を扱いかねていた。だが、目の前のご夫人はそれを笑い飛ばした。


「まあ! 面白いこと仰るのね。ええ、そうね。大変だわと思ってここにやって参りました。ですが、その不安はたった今、無くなりましたわ」


 思ってもみなかった反応に、眉を顰めたのは僕のほうだった。

 僕の言動は、正直気持ちのいいものではなかったと思う。それが、不安は無くなったというのは、どういうことだろう。

 どう反応したらいいか分からず、ただ彼女を見つめていると、彼女は躊躇した様子もなく、僕のそばにやってきた。急に距離が縮まり、僕はのけぞるように彼女を見上げる。

 すっかり形勢は逆転だ。

 僕は、折檻を受けるのだろうか?

 厳しい祖父は、時折僕の手を鞭で打つ。彼女はなにも手に持っていないから、もしかしたら平手打ちが飛んでくるかもしれない。僕は覚悟を決めてぎゅっと目を閉じた。

 すると、僕の身体はぎゅうっと強い力で抱きしめられたんだ。

 一瞬、なにが起こったのか分からなかった。こんな風に、全身を使って接してくる人なんて知らなかったから、僕はどうしたらいいか分からずに、ただ立っていた。ほんの少し、彼女の手の力が緩められた時はホッとした。だが、安心するのは早かったようだ。脇腹をくすぐられ、僕は飛び上がるように驚いた。――いや、実際、飛び上がったと思う。


「や、やめて……! アハハッ、ハ……!!」


 身をよじって、その手から逃れようとするのだけれど、相手は女性とはいえ大人だ。すぐに捕まって、またくすぐられる。結局、息も絶え絶えになるほど笑い、汗をかいた。

 ぐったりとカウチに寝そべる僕を見て、彼女は大層満足そうだった。


「も、もう……疲れた……。なんなの、あなたは……!」

「わたしはアイリーン・アンブラーです」


 そんなのは知っている。祖父がさっき言ってたじゃないか。なんなんだ、この人は。祖父は、一体この人からなにを教えてもらえと言うんだ。

 わけがわからず、つい頬を膨らませると、アイリーンは楽しそうに笑った。


「まぁ、そのようなお顔もできるではありませんか!」

「なにが!? なにがだよ! もう僕、意味がわからない!」

「あなたはまだ子供なのですから、子供っぽくすればいいのです」


 益々意味が分からなかった。

 大体、子供ってなんだ? 僕は、僕以外の子供を知らない。

 子供っぽくって、なんだ?


「あなたと話していると、僕はとても混乱する」

「それで良いのですよ。伯爵が困っていらしたから、どんな我儘小僧――失礼。我儘なお坊ちゃまかと思ったら、小さな貴族がいるのですもの。驚きましたわ」


 小さな貴族――それのどこが悪い? 僕は、いずれこのウィルバーン伯爵家を継ぐんだ。それには、祖父のように威厳ある立派な貴族にならなければいけない。僕が既に貴族らしいのならば、それはむしろ良いことじゃないか。

 でもアイリーンは、やれやれと言った風に、首を横に振った。


「いいえ。伯爵はそんなの、お望みではありません。そしてきっと、フローレンスもね」

「なんで、そんな……大体、子供らしいってなに? そんなのが必要だなんて思えない」

「必要なんです。今にきっと、わかります」


 意味ありげな微笑みで、アイリーンはそう言った。

 その次の日、僕の目の前に現れたのがヴィーだった。


 ヴィーはよく笑った。花を見ても、お菓子を食べても、走っても笑ったし、転んでも笑った。そしてよく泣いた。僕の母の話を聞いて泣いた。嫌いな野菜を無理やり口に入れては泣き、雨だから外に出れないと叱られ、泣いた。

 僕は、そんなヴィーから目が離せなくなっていた。

 そして僕は、徐々に感情を取り戻していったんだ。同時にそれは、失いたくない大切なものを見つけた時でもあった。



 * * *



「……ド、……エドワード様」


 呼びかけに、意識が浮上すると、懐かしい夢を見ていたことに気が付いた。

 目を開けると、レイモンドが顔を覗き込んでいた。

 どうやら資料を見ている途中で、うたた寝をしてしまったらしい。

 紙が散乱したテーブルから体を起こすと、不自然な恰好で寝ていたにもかからわず、やけに頭がスッキリしていた。


「“様”をつけるなと、あれほど言っただろう」


 レイモンドと俺は、互いの身分を入れ替えていた。普段の会話から意識しなければ、ふとした瞬間にボロが出てしまう。とはいえ、長く伯爵家の息子として育ってきたこともあり、自分が王子だという実感はない。レイモンドとは親友であり、戦友でもある間柄だ。それもあって、つい口調がくだけたものになってしまった。


「それなら、僕にも敬語を使ってくださいよ」

「――そうでしたね」


 してやられた、と思ったが遅かった。レイモンドはニヤリと笑うと、俺が下敷きにしていた紙をかき集めて整理した。


「いよいよですね。この計画が成功したら、僕たちは自由になれる」

「果たして、それが自由と言えるかどうかはわからないが……」


 資料には、母国の現状が綴られていた。

 王族を人質に取られ、外交に苦慮しているわが国は、難しい立場にあった。そんな空気が国内にも伝染したのか、反王太子派が勢力をつけつつあるのだという。

 王太子――俺の義兄にあたるその人は、大らかで懐の深い人だ。ほんの少ししか会ったことはないが、あの王妃の子供とは思えないくらい、人間のできた人だ。


「王妃が亡くなった反動もあるでしょうね」

「あの人は余程恨みを買っていたらしい」


 家系図では繋がっているはずのその人を、つい冷めた口調で切り捨てた。

 母を死に追いやり、伯爵家を没落に追い込んだ張本人だ。そうなるのは仕方ない。だが、そんな感情を抱いているのは、俺だけではないらしい。王妃は他の貴族に対しても同じようなことをしてきたようだ。その時苦しめられた一部の貴族が、王妃の実子である王太子を、次期国王にしたくないという思いから、反王太子派が結成された。彼らの最終目的は、なんとこの俺を国王に担ぎ上げることだった。

 それは勘弁して欲しい。そんなものは、欲しくない。俺が欲しいものは他にある。ずっと昔から欲していたものだ。国王になれば、父のように愛のない婚姻が待っている。そんなのは嫌だ。

 だが、この動きを利用しない手はない。国内で俺を推す声があるということは、この国から逃れられる好機でもあるのだ。最強と言われるこの国で戦争を起こすとなると、味方は多い方がいいに決まっている。国内の反乱分子は、戦争が終わったらなんとかすればいい。

 その計画も、実行の日が近づいてきていた。最近では、夜通し計画の確認をする日々だ。


 ふと、資料を整理するレイモンドの手が止まった。


「あれ? これは……」

「あ、それは違う。こっちへ寄越せ」


 奪い取るように受け取ると、丁寧に折りたたんで上着のポケットに仕舞い込んだ。レイモンドはそれをまた、例のニヤニヤ顔で見ている。


「それですか? 例の調査対象。未婚、恋人もなし。家計は火の車――なんとも寂しい調査結果ですね」


 ジロリと睨むと、レイモンドは肩を竦めて、その軽い口を閉じた。

 寂しい調査結果? 大いに結構だ。それでなくては困る。

 それにしても――。

 レイモンドに見られなかった資料には、アンブラー家の現状が書かれていた。


『アイリーンがウィルバーン伯爵家に出入りするようになってから、交流のあった他の貴族との関係が疎遠になった』


 これもまた、エドワードを守るためのことだったのだろう。

 彼らは、フローレンスが誰の子を産んだのか、知っていたのだ。知っていて、その子供を守るために、他との縁を切ってまで秘密を守った。勿論、伯爵家からの援助はあったようだ。だが、それも伯爵が亡くなるまで。それから長い間、彼らは“薄情な田舎者”のレッテルを貼られていた。


 あの、優しい人たちを助けたい。


 そして――


 ヴィーを迎えに行くんだ。


 知らず知らず、資料を持つ手に力が入る。

 それに気づいたのか、レイモンドの顔からからかいの色が消えた。


「絶対、帰りましょう」

「……ああ。絶対に」


 彼女を、この手に――。

 


 


 

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花嫁候補は婚活スパイ!? 雪夏 ミエル @Miel

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