水面の月

真夜中 緒

水面の月

 「そなたはまるで水に映る月のようだ。」

 主上にそう言われる度に、珠子はほんのりと微笑んだ。

 もっとも珠子という娘は、いつでも微かに微笑んでいるかのような顔をしている。故安察使大納言を父に持ち、桐壺に局を賜る更衣は、どこかあどけない、いかにも可憐な娘に過ぎない。

 いや、過ぎないなどという言葉を彼女に当てはめるのは、やはりおかしいのだろう。清廉な美貌の更衣は今や後宮中の女たちの顔色を無からしめる、帝の一の寵姫なのだから。

 

 ざわめきにふと、珠子は顔を上げた。

 すぐに几帳の影から母が現れる。

 「姫や、むさいものをまかれたのですって? 恐ろしかったでしょうに。」

 せわしなく話しかけてくる母に、珠子はおっとりと答える。

 「桔梗が、裾を汚してしまって。」

 帝のお召があれば桐壺から清涼殿まで、延々と廊下を渡っていかなければならないが、その廊下に樋箱の中身が撒かれていたのだ。暗かったので先導の女房が気づかずに袴や裾を汚し、それ以上進むに進めなくなって、局に戻ってきたのだった。

 着物を汚した女房は、泣きながら着替えに行ったが、珠子はお召のための裳唐衣を身につけたままで、いつもの居間にちんまりと座っている。

 「なんとまあ腹立たしい。きっとまた弘徽殿のお方の差し金だよ。帝の寵愛が姫に傾いているものだから、嫌がらせばかりする。

 弘徽殿のお方というのは後宮で一番の威勢を誇る女御のことだ。先の太政大臣を祖父に、現右大臣を父に持ち、帝の第一皇子の母でもある。さらに言えば今上の御母皇太后は右大臣の姉で、つまり女御自身、今上の従姉でもあった。

 珠子の母はこの女御こそが後宮中を煽って珠子をいじめているのだと、確信を抱いていた。根拠あってのことではない。後宮に女御更衣の数は多かったから、帝の寵愛の秀でてあつい珠子に嫌がらせをしたいものは、それこそ無数にいるのに違いなかった。

 「みこさまに親王宣下の沙汰のないのもきっとあの方が裏で手を回しておられるのだよ。ご自分の皇子がこちらに見劣りするものだから。本当になんて腹が立つんだろう。本来ならこんな風に更衣などという軽い身分で扱われるはずじゃあないんだよ。姫はこの国と異国の2つの王家の血を引く娘なのだから。」

 母の話は結局いつも愚痴になってしまう。

 更衣は女御に比べて身分が軽い。

 それはつまり、珠子の後ろ盾が弱いのだ。

 珠子の産んだ、二歳になる第二皇子に親王宣下の沙汰がないのも、結局は後ろ盾の心細さゆえなのだが、珠子の母親にしてみれば、そんなことは決して認めたくないのだった。

 なんとなれば。

 「二つの王家の血を引く」のは、本来珠子の母のことなのだから。

 珠子の母の名前を宮子と言う。

 宮子の宮は宮様の宮。皇子、皇女を呼ぶ尊称の宮だ。宮子は帝の落とし胤だった。

 もちろん今の帝ではない。

 今の帝の祖父君が女房に産ませたのが宮子なのだ。

 宮子は内親王宣下どころか正式に皇女の数に入れられてすらいないが、宮子の母は日頃から宮子に、「あなたは二つの王家の血を引く皇女なのだから、誇り高くありなさい。」と教えて育てた。

 昔、滅んだ異国の王家が亡命してきたのが宮子の母方の先祖で、かつては国母を出したこともあったらしい。もっとも宮子が生まれる頃にはあらかた他の氏族に吸収されてしまっていたのだが。宮子の母も母方にその異国の王家の血を引いてはいるが、普通に宮仕えする女房に過ぎなかった。

 宮子は母に従って幼い頃から宮中で育ち、やがては正式に女房として出仕してから安察使の大納言に見初められたのだった。

 宮子よりもかなり年嵩の大納言は、残念ながら珠子が入内する以前に故人となってしまったが、大納言が生きていれば珠子にも更衣でなく女御として入内する道が、開けていたかもしれない。

 「本当にほんの少し巡りあわせが違えば、こんな目になど合わなかっただろうに。」

 宮子は始終愚痴ってばかりいる。

 その愚痴が、態度が微妙に人の気持ちを苛立たせ、珠子への後宮のあたりをいっそうきつくしてしまっているのにも、まるで気付こうとはしない。

 繰り返され、終わりの見えない母の愚痴を、珠子はやはり微笑んだような表情で、いつまでも聞いていた。


 ゆらりと陰が立ち、消える。

 珠子は一瞬顔を上げたが、そのまま手元に視線を戻した。

 再び陰が立ち、消える。

 珠子が見ているのは絵巻だ。異国の女人が美しい庭園をそぞろ歩いている様子が描かれている。

 また陰が立ち、消える。

 珠子は後涼殿に、新たに局を賜った。

 桐壺の局はそのままに、清涼殿の近くに足場となる局を与えられたのだ。宮子が帝に後宮の女人の仕打ちを訴えた結果だった。

 後涼殿は騒がしい。

 珠子はそう思う。

 桐壺は後宮の隅の方にあったので、人通りもさほどではないが。清涼殿のすぐそばにある後涼殿はどうしても人の出入りが多かった。

 更衣である珠子には、女御のように一つの殿舎をまるまる与えられるようなことはない。桐壺には他に幾人もの女官の局があったし、後涼殿に於いてもそれは変わらなかった。今上の後宮には女人が多く、後宮の殿舎は限られているのだから、身分の低いものほど雑居に近いことになる。

 更衣の局は流石にいくつかの部屋からなり、一応それぞれに独立した区画を持ってはいるが、それでもなんとなくお互いの気配を感じる距離に住まってはいた。

 けれど、珠子が感じている騒がしさは、そういう人や生活のもたらす騒がしさばかりではない。

 陰が立ち、消える。

揺らめく陰は微かに人の気配を宿し、時に恨みや妬みの表情を見せる。

 貴種の女性には珍しいことではないが、珠子は見鬼だった。

 あやかしが、物の怪が、凝った人の思いが見える。

 後涼殿に詰めることが増えてから、珠子の周囲にはほとんど常にあやしの気配が立つようになった。

 ゆらりと陰が立ち、消える。

 もっとも珠子はそれをたいして気にしているようには見えない。淡々と、どんなときも同じように振る舞う。

 常に微笑むような表情をしているのでそうは見えないが、珠子は感情の起伏の乏しい娘だった。

 自分から何かを働きかけるよりは、周りに合わせてしまうような、そしてそのことに特に不満も疑問も抱かないような人間だった。

 水に映る月。

 帝が珠子をそう例えたのは、あながち外れてはいないのだろう。

 美しいがどこかとらえどころのない、実態の分からない影。珠子はまさにそういう娘だったのだから。

 珠子が後涼殿に局を与えられるのに先立って、一人の更衣が後宮を辞した。

 青梅の更衣。第二皇女を産んだ、珠子の入内以前に帝の寵愛を受けていた女性だ。

 せっかく産んだ皇女も幼い内に亡くし、唯一の後ろ盾であった祖父も失って、ついに後宮を辞したのだが、その時に噂が立った。

 帝は水月の更衣ー珠子ーに局を賜るために青梅の更衣を下がらせたのだと。

 実際に珠子は青梅の更衣の使っていた後涼殿の局を賜ったのだし、青梅の更衣が後宮を辞したのでなければ後涼殿に空いた局などなかった。

 後宮に女官は数多く、殿舎の数は限られる。後涼殿のような良い場所にそうそう空きなどあるはずもないのだ。

 帝の寵愛を独占し、あまつさえ他の更衣を蹴落として良い局を賜った更衣。

 珠子の評判が、それで上がるはずもない。

 母親の宮子が、娘への帝の寵愛のあつさ故だと嬉しげに吹聴して回るのだから、後宮の珠子へのあたりはきつくなる一方だ。それにしたがって珠子の周りに揺らめく陰はどんどん増えていた。

 つまり、それは俗に言う生霊なのだ。

 見鬼でなくとも悪心故に魂の飛ぶことはあるが、やはり力のある者は強い生霊を飛ばすことが多い。後宮のような貴種の女性の集まる場所には、生霊を飛ばすものなどいくらでもいる。

 妬み、嫉み、苛立ち、悲しみ。

 思いは極まれば凝り、凝ればあやかしとなって揺らめき立つ。

 今や珠子は常にそのようなあやしの陰に取り巻かれているのだった。

 珠子は表情に乏しい。

 ゆらゆらと揺らめく陰に取り巻かれても、特に怯えるでもなく、ほんのりと微笑んだままちんまりと座っている。

 取り巻く気配の異様さにお付きの女房が怯える夜のお召も、ただしずしずと清涼殿に上ってゆく。見かねて帝が局に通ってきても、ほんのり笑っておっとりと迎える。

 それでも陰は確かに珠子を蝕んでいった。

 なんとなく疲れやすくなり、寝込みがちになり、いつの間にか枕の上がらないような有様になった。

 「みこさまもまだ幼く、親王宣下の沙汰もないのに。」

 枕辺で、宮子が例のごとく嘆き、愚痴る。

 退出を、との声は後宮のみならず朝廷からも上がっていた。汚れを避けるために病んだものは宮中を下がる。

 珠子がうかうかと病が重くなるまで後宮にあったのは、帝の思し召しもあるが、あまりにもゆるゆる病んで行ったために機会を失ってしまったせいだった。

 宮中に死の穢は許されない。

 珠子が宮中を下がるのがやっと決まった夜半、密かに帝の訪れがあった。

 「月の君。」

 帝の手に包まれた珠子の手は、青みを帯びて見えるほどに白かった。ほんのり浮かぶいつもの笑みも、幻めいて儚い。

 「必ず元気になって、戻ってきなさい。」

 震える語尾が、言葉とは裏腹の帝の心を映していた。それがどれほどに心からの願いでも、このすでに現身を失いかけているような姿を見れば、これがこの人の見納めであろうと悟らない訳にはいかない。あたりに詰める女房も皆下を向いて黙りこくっている。

 沈み込んだような場に、ふと明るいものが動いた。

 小さな手を差し伸べて帝の袖を引っ張る。

 「おお。」

 ため息のような声を漏らして、帝は幼児を抱き上げた。珠子所生の第二皇子だ。

 「必ず戻ってきなさい、皇子とともに。待っているぞ。」

 耐えかねたように女房たちから、すすり泣きの声が漏れる。

 車に乗せられ里邸に戻った明け方、朝日がさすかささないかの内に珠子は息を引き取った。

 水面の月影に似たとらえどころのない微笑みは、亡骸となった珠子からも、消えることはなかった。

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水面の月 真夜中 緒 @mayonaka-hajime

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