かぐら子さんのカフェにはあやかししかやって来ない

カクレナ

海のカフェにはあやかししかやって来ない



                  §



あやかし


西国の海上に船のかゝり居る時、ながきもの船をこえて二三日もやまざる事あり。 油の出る事おびたヾし。船人力をきはめて此油をくみほせば害なし。しからざれば船沈む。是あやかしのつきたる也。


                   ――鳥山石燕『今昔百鬼拾遺 霧』より




                  §



 ある日の放課後のこと。

 僕はアルバイト先に向かうべく町の海岸沿いを歩いていた。

 何もない田舎町の、何もない海辺だ。

 辺鄙へんぴで殺風景。見渡せばのっぺりとした海が漫然と広がっている。

 初夏にもかかわらず空は曇っていて、それがますます僕の気分を滅入らせた。



                  §



 海は嫌いだ。

 正確に言えば、この町の海が嫌いだ。

 活気がなく鈍重。無味乾燥で灰色。それはただ茫洋ぼうようと僕の前に立ち塞がる。

 それでも僕が頻繁にこの海岸を訪れるのは、他に行く所がないからだ。


 田舎は娯楽に乏しい。


 同じ高校でも部活動に打ち込んでいる生徒や勉学に勤しんでいる生徒は少なからずいたし、むしろそれが大多数と言ってもよかった。彼らはこんな何もない田舎町にあっても毎日をそれなりに忙しそうに過ごしていたが、僕にはそういうふうに一生懸命になれるものがない。


 これといった目標も見当たらない宙ぶらりんな日々――。

 気がつけばいつも、嫌いなはずの海を眺めていた。



                  §



「……うおっとっと、あぶない」


 思わず砂浜に足を取られそうになる。

 砂浜と言ってもリゾート地のそれとは程遠い。

 部分部分が中途半端に草地に侵蝕され、不法投棄や漂着物が目につく。割れたガラス瓶がその身を砂に半分うずめて鈍く光っていた。


 どこまでも田舎臭い。


 そしてだらだらと続く田舎の浜のその果てに、僕のアルバイト先――かぐら子さんのカフェはあった。



                  §



 かぐら子さんのカフェは浜辺からせり出したウッドデッキの上に建っている。

 それはちょっと大きな波が来たら一瞬で飲み込まれてしまいそうな立地環境だったが、かぐら子さん曰く「これはこれで大丈夫」らしい(具体的に何がどう大丈夫なのかは不明だ)。


 店の造り自体も簡素で、カフェというよりは海の家に近い。小洒落たたたずまいはモルティブかタヒチにでもありそうな水上コテージを連想させるが、辛気しんき臭さ溢れる田舎の風景の中では場違いも甚だしかった。



                  §



 その日、カフェの入り口は開け放たれていた。


「こんにちはー。かぐら子さーん、いますかー?」


 僕は薄暗い店内に向かって呼びかける。

 すると少しの間を挟んで、店の奥の方から「はいほーいっ」となんとも気の抜けた応答があった。


「やあやあ、よく来たね」


 背の高い女性が僕を出迎えた。


 年齢は恐らく二十代半ばから後半くらい。黒く長い髪を一括りのお団子ヘアにしてまとめている。服装は白のカラーシャツに黒のパンツとソムリエエプロン。如何にもカフェの店員っぽい。カジュアルな装いがすらりとした長身によく似合っている。


 ここまで説明してしまえばあえて明言せずともお分かりかと思うが、やはり常套に則って紹介しよう。今、僕の目の前に立つ長身の女性。彼女こそがこの海のカフェのマスターにして現在の僕の雇用主――かぐら子さんだった。



                  §



「遅かったじゃないか。待ちくたびれたよん」


 かぐら子さんがやや舌足らずな口調で僕に言う。


「すみません、日直の仕事が長引いてしまって……。それとその、放課後に部活動の勧誘を受けていまして……」

「部活動……? 君がその手のものに誘われるなんてめずらしいじゃないか」


 微妙に失礼なことを言われている気がする。


「……はい。それがオカルト研究部だったんですけど――」

「ほう。ほうほう。それで?」


 かぐら子さんは何故だか興味津々な様子であった。

 ぱちくりとした大きな瞳を輝かせ、僕の次の言葉を待っている。


「え、それでって……」

「だから、入部するのかい。その……オカルト研究部?」

「い、いえ。バイトがあるので悪いけどって言って断ってきましたよ」

「おおっ、そうかいそうかい! ならいいんだ! あっはっはっはっ」


 何がおかしいのか、かぐら子さんは笑いながら僕の背中をばんばん叩いてくる。


「ちょ、ちょっと、痛いですって」

「あはははっ!!」


 かぐら子さんは僕の横で終始楽しそうだった。

 もはや最近の恒例となりつつあるやり取りに、僕は軽く溜め息を漏らした。




                  §



 ことの始まりは今年の四月、高校の新学期が始まってすぐの頃までにさかのぼる――。


 学年を上がったばかりの僕は不安な思いに駆られていた。

 何もやる気が起きず、いつものように町の海岸をぶらついていた。


 高校二年の春。それは中間的で空虚な期間だ。

 一年生のような新しい生活への期待があるわけでもなく、かと言って三年生のように受験勉強に追われているのでもない……。


 僕の不安感は実にもやもやとしたものだった。


 学校での人間関係に困っていたのか?

 違う。

 では、家庭に何か問題を抱えていたのか?

 それも違う。

 況していじめや恋愛の悩みでもない。


 ただ、毎日が何となく不安だったのだ。



                  §



 やがて歩くのにも飽きてしまい、埠頭ふとうの先に腰掛けて海を眺めた。

 コンクリートの岸壁から両足を放りだしてぼんやりしていると、水平線の彼方で景色が揺らめいているのが見えた。

 船らしき影がはるか遠くの水面の、それよりちょっと上に浮いている。


 蜃気楼しんきろうだ。


 それは春のこの時期にはしばしば起こる現象だった。

 なんでも水温と空気の温度差が関係しているらしいが……詳しくは知らない。

 僕は今年もそんな季節なのだなあと特に何の感慨も覚えずに潮風に吹かれていた。



                  §



 ――あれ?


 蜃気楼の揺らめきの中に、船のそれと重なってさらに大きな影が見えた。

 それは何かの建物――はっきりとは見えないが、城か館のようだった。

 洋風とも和風ともつかない、堅牢で豪奢な建築物。

 その大きな建物が海の向こうできらきらと輝いている。


 蜃気楼は光が屈折して遠くの風景が浮かんで見える現象のはずだ。

 しかしあの方向にあんなに立派な建物があっただろうか……?

 考えられるとすればずっと先にある離島の建物だが――どうにも違和感があった。



                  §



 その時だった。


「ハマグリが夢を見ているね」


 ふいに、背後から声があった。

 振り返って見れば僕のすぐ後ろに長身の人物が立っていた。

 Tシャツにジーンズのラフな格好をした女性だ。

 長い髪をなびかせ海の向こうを見つめている。


 そしてそれが、僕とかぐら子さんとのファーストコンタクトだった――。


「この季節の海はいいよね。穏やかで、眺めているだけで落ち着く」


 その女性――かぐら子さんは言った。

 少し鼻にかかったような声だった。


「な、なんですか?」

「蜃気楼は大気の温度差が大きい時に起こる光の屈折現象だとされているけど、昔は大きなハマグリが吐き出す気のようなものが海上に像を結んでいるのだと考えられていたのね。それが異国の情景を映し出す、と。他にも狐の仕業だとか、遠く蓬莱の島が見えているのだとかも言われたようだけれども――」

「は、はあ……」


 何だこの人は。

 見かけない顔だが観光客だろうか。

 そう思って見ると、服装や立ち振る舞いもどこか都会的に思えるような……。


「海の果ては理想郷に繋がっているとも言うしね。いわば蜃気楼は夢とうつつ、日常と非日常の境界とも言えるかもしれない……。この辺りは古くからの港町のようだし、蜃気楼についての何かローカルないわれや解釈がありそうだけど……君は何か知らないかな?」

「い、いえ。知りませんけど……」


 何だろう。

 よく分からないことをべらべらと。

 蘊蓄うんちくを語りたいだけならよそでやってくれ。


「そっか! まっ、それはそれとしてどうでもいいのだけれどっ」


 どうでもいいのかよ。

 小難しい話を並べるので、もしかしてその分野の学者か学生かとも思ったが、それも違うらしい。じゃあ、余計に何だという話だが……。



                  §



「ところで、君はどうしてこんなところでたそがれていたのかな、若人わこうどよ」


 若人と来たか。

 そう呼ばれるほどに彼女が歳を食っているようにも見えなかったが、彼女のふてぶてしく超然とした態度は実際の年齢を想像させるのを難しくもさせた。


「いいじゃないですか。僕がどこで何をしてようと」


 少なくとも、見知らぬ初対面の人間にとやかく言われる筋合いはないはずだった。


「そりゃそうだ。気を悪くしたなら謝るよ。けど……、私には君がひどく所在なさげというか、行き場を失っているように見えたもんでね、ついついねー」


 全く臆するふうもなく彼女は言う。

 どこまでもノリが軽く、ふわふわとした感じの人だ。


「かく言う私も以前にいた場所を半ば追われるように出奔しゅっぽんしてきたくちでね。戻ろうにも戻るホームがないの。この町に来たのも、放浪の末にようやくたどり着いたみたいな……?」


 ……それは軽いノリで言っていい話なのか?

 そして見ず知らずの高校生に聞かせていいことなのか?


「あ、でもこれ重い話ってのではないからね! むしろ生来の〝人生の逃走兵〟を自称する私としては? 自由と安住を希求してやまないわけで? 逆に私の行く先がベストプレイスになると言っても過言ではない的な……?」


 的な? とか問われても困る。

 というか、全体的に反応に困る。


「……だから勝手かもしれないけど、何となく分かる気がするのだね。同じように行き場を失っている人間ってやつが。長年の勘がささやくというか……。君もそうなんじゃないと思ったんだけど?」

「い、いえ。僕は、別に……」


 本当に何なんだこの人は。

 突然に説明臭い話を振ってきたかと思うと、他人の内情にずかずかと踏み込んでくる。安っぽいミステリーの探偵みたいな真似はやめてほしい。


「……そっかあ。私はてっきり――」

「とにかく……違いますから」



                  §



 実を言えば、その日の僕はただ漠とした不安に加えて、それとはまた別種の懸念を持っていた。……いや、全く別ということもないのだろう。


 僕は新学期になってから学校の中に居場所らしい居場所を作れずにいた。

 一年から二年へ学年が上がっただけだというのに、クラスが変わって何か全てに取り残されたような心境に陥っていた。


 それもそうなった結果自体には何か大きな理由もなく、ただ何となく周囲と自分の間に勝手に線を引いて――。それどころか、差し伸べられた手さえも自ら振りほどいてしまっていた。


 今朝だってそうだ。


 新しいクラスにいまひとつ馴染めずに机にせっていた僕に、酔狂にも接触してきた女子がいた。


 何といって話しかけられたのかはよく覚えていないが、ちょっと話をしない? とか何か取り留めのないことだったように思う。


 明るく話しかける彼女にまず覚えたのは鬱陶しさだった。

 正直、放っておいてほしかった。

 お節介もいいところだと思った。


 話しかけてきた彼女のことは何となく聞いた覚えがあった。


 確か、一年生の時に幽霊が見えるだとか自称して一部で有名になっていた生徒だった。いわゆる不思議ちゃんというやつだ。


 そんな来歴を知っていたからか、彼女の顔を見た時点で僕は何となく距離を感じた。それでもめげずに放課後もやってきた彼女に、結局僕はその誘いを振り切って逃げるように校舎を出てきてしまったのだった。彼女の陽気さに当てられまいと自分の心を守るかのように――。


 本当は、守るべき自己など何もないというのに。




                  §



「それじゃあ、君には見えていないのかな。絢爛豪華な、あの海上の楼閣が」


 かぐら子さんは再び海を見つめた。

 その視線の先の先にはまだ蜃気楼が揺らめいている。


「え? ああ、あれ何なんでしょうね。あんなに立派な建物、いつもなら見えないんですけど……。どこかの新築のビルかなんかが映ってるんですかね?」


 それを聞いたかぐら子さんは丸く大きな瞳をさらに丸く見開いて僕を見た。


「……ほう。君、やはり見込みがあるねえ」


 何か一人納得した様子でうなずく。

 見込み? 

 僕に? 

 いったいなんの話だろう??


「実はこの町で新しくお店を始めようと思っているのだけど、そのためのアルバイトを探していてね」

「アルバイト、ですか……?」

「そう、アルバイト」


 そこで彼女は自分を「かぐら子」と名乗り、ここから近い浜辺でカフェを開く旨を述べた。


「それで君、よかったら私の店で働かないかい?」


 それがおおよそ、ひと月前の出来事だ。



                  §



 いつも思うことだが、かぐら子さんのカフェは外観的には本当に簡素なものなのだ。それこそ掘っ立て小屋を多少仕立て直したようなレベルの代物だった。見た目はお洒落だったが、内装らしい内装もなく、店内もごく狭い。学校の教室の方がまだ広々としている。


 しかし僕が店の外から呼ぶ時は決まって、かぐら子さんはワンテンポ遅れて現れる。呼びかけてから登場までタイムラグがあるのだ。


 そう、まるで店内の暗がりに外観以上の奥行きがあるかのように――。


「――なんてな」


 僕がそう独りごちると、


「なんだいなんだい、意味深な台詞をこぼして。おセンチかい?」

「ちょ、そんなんじゃないです……!」


 と、すかさずかぐら子さんにおちょくられる。

 まったくこの人は……。


 かぐら子さんの茶目っ気に僕はどう返したものかと思ったが、彼女が「んっ」と僕の胸の前にデッキブラシを突き出してきたので、吐きかけた溜め息を飲み込んでしまった。


「ああ、今日は店の前の掃除からですか?」


 僕は突き出されたブラシを受け取る。


「うむ。今日もチャキチャキ頼むよ!」


 そうしてかぐら子さんはふししっと笑った。



                  §



 かぐら子さんは謎の多いひとだ。


 彼女の下でバイトを始めて約一か月になるが、その素性はようとして知れない。少なくともこの町の人間でないことは確かなのだが、ではここに来る以前は何をしていたのかとか、そもそもなんでこんな辺鄙な土地でカフェを開こうと思ったのかとか、謎な点を挙げれば切りがない。


 働いている僕が言うのもなんだが、だいたいこの店にまともに客が入っているのを見たことがない。経営的に成り立っているのかどうかも不明だ。それでもかぐら子さんはそれを少しも気にする様子はない。不明を通り越してもはや不審である。



                  §



 以前にいちど、僕のクラスメイトで例の霊視者を自称する女子が来店したことがあった。かぐら子さんは「へえ。あ、高校生なんだ。あ、クラスメイト。ふーん」という以上のリアクションを返さなかった。仮にも客に対して、うざいにもほどがあると思う。


 そんな店主の態度に女子の方は対抗心を覚えたようで、やたらとかぐら子さんと張り合う姿勢を見せていた。しかし彼女の猛攻に当のかぐら子さんはまともにやり合う気はないらしく、最後までのらりくらりとやり過ごしていた。


 もう、大物なのか天然キャラなのかすら分からない。


 まあ、そういうミステリアスなところが魅力的でもあるのだが……って、何を言っているんだ、僕は。



                  §



 僕は開店の準備を進める。店の表に折りたたみ式のテーブルと椅子を並べ、クロスを引き、メニュー表を置いていく。デッキと店内の掃除も一通り終え、あとは客の来店を待つばかりだ。


 すでに日は沈み、辺りは暗くなっている。


 比喩でなく本当に暗い。宅地からやや離れた場所にあるこの浜辺では、カフェのライト以外に光源となる灯かりはないのだ。


 夜の海を見ているとそのまま吸い込まれてしまいそうで、少し怖い。

 生活音もなく波の音だけが静かに聞こえてくる。


「かぐら子さん、準備、整いましたよ」

「うむっ! それじゃ、お客さんが来るまで待機してくれたまえっ! ほほほっ!」


 それは何キャラだ。

 いちいち反応に困るのは出会ったときから変わらない。

 僕は肩をすくめつつ、店の前に立って海を眺める。


 と言っても、昼間のように遠くは見えない。

 というか、近くの水面以外は何も見えない。


 仕方がないのでウッドデッキのすぐ下の波を見ている。

 そこに見えるのは単調な波が押して引いての繰り返し。じっと注視していて何か面白い変化があるわけではない――と、普通ならそうなのだが。



                  §



 待機すること約十分。

 見つめる水面がにわかにさざめき出した。

 それはどんどん度合いを増し、細かな波が一帯を覆っていく。

 カフェの周囲の海一面が、白く泡立って見えていた。


「――いらっしゃったようだね」


 刹那、かぐら子さんの表情が険しくなる。


 ぽっ、ぽっ、ぽっ……。

 暗闇に炎が灯る。

 火の玉だ。

 数え切れないほどの赤い火の玉が浮かび上がっていた。

 それら火の玉が群となってこちらに近づいてきている。


 それが合図だった。


 それまで静まり返っていた夜の海から高揚とした気配が立ち昇る。

 ざわざわと異様な雰囲気が迫っていることを肌が察知して寒気がした。



                  §



 どたん。


 足のすぐ下辺りで鈍い音がした。

 何か柔らかく重量のあるものが床に投げ出されたような音だ。


 どたっ。

 どたん。どたん。どたっ、どたん。


 見れば、太く大きな軟性の物体が海面からウッドデッキに上がっている。

 それは通常の何倍もあろうかというたこの足だった。吸盤を吸いつかせ、ずるずると陸地へ上がってこようとしている。


「うわっ」


 無意識にのけ反る。


 反動で視界を上に向けると、正面の少し先に黒々とした壁のような存在があることに気づく。やはり海中から突き上がったそれは、丸く巨大な坊主の頭だった。


 頭の真ん中あたりに目玉が二つがあって、闇の中でぎらぎら不気味に輝いている。その頭が少し動くのに合わせて息苦しいほどにむっとした風が吹き、生臭いかおりが鼻に充満する。


 しかしそれでショックを受けている暇はない。

 大蛸と坊主頭に続いて、もっと大きく怪物的なものが姿を現していた。


 鬼。

 大鬼と言って差し支えない。

 全体がごつごつとしたそれは鋭い角と牙を剝き出しにして、そのままざばざばこちらに突撃してくる。衝撃でデッキの一部が破壊されてしまうが、お構いなしだ。


 さらに鬼の後ろを追って下半身が蛇の女が這い上がって来る。見た目が半分人間なだけまだマシのように思えるかもしれないが、その表情は羅刹のごとき様相でうかうかしていると取って食われそうで恐ろしい。


 眩暈めまいを覚えそうになってふらつく僕の横に、かぐら子さんがすっと立った。


「さっ。それじゃ、今夜もお客様をお迎えするとしよう。接客、よろしく頼むよ」

「あ、はっ、はいぃ……」


 僕は弱々しく返答する。

 海のカフェの長い夜が始まる。



                  §


 

「ほらっ、次のお客様をお通しして!」

「は、はいっ」


 僕はかぐら子さんの指示に従ってつぎつぎ来る客をさばく。人間と異なって、形態や特性からしてバラバラの彼らの接客は日常的なコミュニケーションと別次元の対応が求められ、ひじょうに体力を使う。


 これが、夜中ずっと続くのだ。


 僕が人間大はある蟹の化け物にコーヒーを出しているあいだにも、無数の死霊が周りを飛び交って注文を催促する。


「は、はい! 少々お待ちくださいっ!」


 それでも死霊は比較的おとなしいので、まだやりやすい。

 無理矢理テーブルに着こうとする怪魚なんかは応対に困る客のひとり(?)だ。向こうも下手に意思疎通を図ろうとするあまり鋼鉄の魚体でデッキをのたうち回るし、そのたびに床や椅子がぎしぎし悲鳴を上げる。正直、勘弁してほしい。


 オーダーにかかる時間を頭の中で計算しつつ、僕は次の席に急ぐ。



                  §



 ――そこに、本日最後の客がやって来た。


 『じゃりっ』とも『ぞっ』ともつかない音を立ててデッキにせり上がってきたのは、一見すると蛇の胴体のような鱗の体。


 体表が自ら油を吐き出し、てらてらと光っている。それがずるずるのぼって来るのだが、いくら待てどもなかなか終わりが見えない。


 それもそのはず、この長く、長く、長い蛇体の上陸は、これから夜が明けるまで延々と続くのだ。その間、絶え間なく油を出し続けるのでデッキの上は油まみれになってしまう。



                  §



 あやかし――。


 昔からこの町の人は、海からやって来るさまざまな怪異や妖怪をひっくるめてそう呼ぶ。怪火、怪魚、化け貝、化け蟹、亡霊、船幽霊、牛鬼、磯女、海坊主……。

 兎角、海のあやかしには狂暴な奴らが多い。


 かぐら子さんが言うには、ここらは特殊な海流の吹き溜まりのような場所で、その関係で霊的な存在が集まりやすいのだという。その中でも特に〝あやかし〟と呼称されるものの筆頭とされているのが――この油の蛇体だ。


 連続した鱗の帯がずるっずるるっと、すごい勢いで板の上を駆けまわる。

 その動きとともに鱗から油がにじみ出て、みるみる僕の足元を侵食していく。

 みるみると言うか、ぬるぬるである。

 至極歩きづらい。

 それでなくとも暗くてよく見えないのだ。




                  §



 かぐら子さんは別に妖怪専門の呪術師でもなければ、現代に生きる陰陽師の末裔でもない。異界に通じるゲートの門番でもないし、飲むと失われた記憶を呼び起こすような不思議なコーヒーをれられるわけでもなんでもない。ただの海のカフェのマスターである。彼女はどんなに恐ろしい容貌の客にも黙々とコーヒーを淹れ続ける。


 それでもかぐら子さんが海から来る異形たちを客として受け入れ続けるのには何か理由があるに違いないのだが、その疑問はいつも彼女の飄々ひょうひょうとした態度の前で誤魔化されてしまうのだ。


 彼らの来店を受けるたびに疑念はいよいよ募った。しかし襲い来る〝お客様〟の相手をしているうちは、そんなことをじっくり考えている余裕はとてもじゃないが生まれてこなかった。



                  §



 夜明け。夜の訪れとともに来店したあやかしたちは、日が昇る頃になると波が引くように一斉に帰っていく。闇に生きる彼らは太陽の光を嫌うのだ。


「あ、ありがとうございましたーっ!」


 最終の客を見送って僕は頭を上げる。

 朝の海風が頬に冷たい。

 夜通し続いた緊張が解けて、ふっと気が楽になるのを感じる。


 対して店の状態はひどいものだった。デッキは半分近くがぐしゃぐしゃに壊れているし、テーブルや椅子はなぎ倒され、店本体も傾いている。


 このカフェで働くようになって一か月。僕はできれば人間のお客も相手にしてみたいと思っていたが、この惨状ではまたしばらくはそれも叶わないだろう。


 そしてあやかしの油ですべてがこれ以上なくぬめっていた。

 いわんや僕たち自身の体をや。

 

「うえぇ、ぬるぬる……」

「今回もご苦労だったね。ほんと、君がいてくれて助かるよん」


 かぐら子さんが僕に微笑みかける。

 ゆるっとした笑顔が朝日に照らされてまぶしかった。


「あの、かぐら子さん」

「ん、なにかなん?」

「毎度思うんですけど、これ、何か意味があるんですか?」

「うん? これ、とは?」


 かぐら子さんはまるで分からんといった表情で答える。

 あくまでとぼけるつもりらしい。

 しかし今回は僕も引かない。

 いつまでもはぐらかされ続けている僕ではない。


「この茶番ですよ! 妖怪相手のカフェって、彼らの大半はコーヒー一杯だってまともに飲めやしないじゃないですか! 死霊や火の玉がふよふよしてるのにどうやって接客しろと言うんです!? あのあやかしなんかいつもいつも店の中を素通りして行くだけですし! お店だってこんなに油まみれになって……!!」


 僕はたまらずにまくし立ててしまう。

 疲れで少し気が立っていたというもあったかもしれない。


「ああ、なんだ。君は今更そんなことを私に訊くのかい?」

「そ、それは今更かもですけど……。でも、せっかく素敵なカフェなのに……。またいちから磨き直さないといけないし、それに、臭いもひどいし……」

「ああ、今回は一段とひどかったねえ。こりゃあ、またしばらくは掃除と油抜きの日々だな。あはははっ!」


 そう言ってかぐら子さんは楽しそうに笑う。

 僕は全く楽しくなかった。



                  §



「まあ、あれだよ、あやかしだってオシャレなカフェくらい行ってみたいだろうさ」


 半壊したカフェを片付けている最中、かぐら子さんが唐突に言った。それは独り言のようなふっとしたつぶやきで、ともすると聞き逃してしまいそうだった。

 

「君が言うように、確かに彼らは人間の私たちからしてみると見た目も形も全然違うし、非合理で不可解な存在だ。その行動逐一に深い理解など及ぶべくもない」


 朝焼けのさわやかな空気の中、かぐら子さんは語る。

 海鳥の声がバックミュージックのようにきゅうきゅうと響いている。


「だけど、それらを全部〝この世のものでない〟と言って切り捨てるのは早計というものさ。まず〝この世のものでない〟なんて言い方からしておかしなものでね。彼らは確かにこの世界に存在している。確かにここにいるんだ。ただそれが、私たちと同じ有りようかどうかは分からないけれど――」


 その語り口は普段のかぐら子さんの蘊蓄話とは違っていた。

 何と言うか、ただの知識語りではなく、彼女自身のうちなる想いを聞かされている感じがあった。


「そんな彼らを受け入れる場所が少しでもあればいいと、私はそんなふうに思っている。そういうことを思ってこの店を構えている。……まあ、それも彼らにとっては余計で身勝手なことなのかもしれないが」

「それは……」


 僕が口ごもっていると、


「ふふっ。なあんてねっ、柄でもなくしゃべり過ぎたかな」


 かぐら子さんはいつものいたずらっぽい顔で笑った。

 しかしその視線は僕ではなく、その背後に向いていた。


「ほら、お迎えのようだよ」

「え?」


 浜辺のほうを振り返ると、早朝の砂浜に制服姿の女子がひとり立っていた。

 それは僕に何度も接触を試みてきていた、霊感少女だった。

 彼女はどうしてかひどく心配そうな、いまにも泣き出しそうな顔で僕を見ていた。


「ほら、いい加減行ってやりたまえ」

「は? え? ちょ、ちょっと意味がよく分から――」


 かぐら子さんがぐいぐい僕の背中を押してくる。

 一晩働き通しだったあとだってのに、ホントに元気だなこの人。


「いいからほらほら、君にはまだ君を受け入れてくれる場所があるってことさ」


 私と違ってね――。と、かぐら子さんは小さくそう言ったように聞こえたが、それもすぐ潮風にかき消されてしまった。


 僕が一歩踏み出すと、向こうの女子のほうもこちらに駆けて来るのが見える。


 彼女がここを訪れるのはこれで二度目になるだろうか。あやかし以外でこのカフェに来てくれるなんて、人間では彼女くらいのものだった。


 せっかく店まで来てもらって申し訳ないけれど、あいにく今日の営業は終了だ。

 もうコーヒーのひとつも出す気力も体力も、僕には残っていない。


 そう思ったら急に力が抜けてしまった。


 どうやら自分が思っている以上に体が限界を迎えていたらしい。

 足から崩れ落ちる僕を咄嗟とっさに受け止めてくれたのはお節介な彼女だった。


 彼女が僕の名を呼ぶ。

 後ろでかぐら子さんが「おやおや、ふふふっ」と茶化すのが聞こえた。


 薄ぼんやりとした意識の中で、ああ世界とかかわるのもそう悪いものでもないかもしれないなと、僕は何となくそう思った。


 今日もかぐら子さんのカフェにはあやかししかやって来ない。




                                  〈了〉



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