第11話 青い鳥雪原にたつ


 獣の遠吠えも聞こえなくなり、いよいよ夜も更けてきた。暖炉の炎がちらちらと燃えている。僕ね、人族の絵を描いてるんです、と傍らの男が言う。何の変鉄もない村人の、何の変鉄もない日常風景を描いた絵だ。くべるための薪を片手の中で遊ばせながら、そう話す。売れるのだろうか。ムイが姿勢を変えると、古い木の椅子が嗄れた音を立てる。暖かい光が、褐色をした手の甲を優しく包んでいる。

『それがさっぱり。犬だの花だのを抱く垢抜けた貴族の娘とか、地上の広大な草原や湖なんかの風景画の方が、人気が高いし売れるんです。宗教画しか需要がなかった頃に比べれば、絵描き界隈も自由な時代になったんだと思いますけど』

 彼は力なく笑い、薪を炎の中へ放り込む。真冬の暗い夜半やる事と言えば、熱い茶を飲みながら暖炉を眺める位しかない。外の風が雪を纏ってより強力になってきた。木材で作られた家の壁は、風が当たると内側に振動が伝わり小刻みに震える。それに度々遮られながらも、男は話し続ける。村人達との出合い、遠巻きにされる期間、少しの光明、些細なきっかけでの亀裂。

『で、やっぱり村の人達と仲直りしようと思って、鹿を狩って持って行ったんですよ。でも僕、恥ずかしながら狩りが下手くそで。妹にも笑われるくらい……。鹿の状態とか反り血とかで、逆に怖がらせちゃったみたいで』


 絵描きの男は、ラシウと名乗った。痩せぎすで、血色が悪いせいか褐色の肌は暗く沈む。元は鮮やかだったであろう群青色の翼、僅かに青みがかった黒髪も、今や褪せて毛並みがぱさぱさだ。地上に降りる前、それは美しい男だったのだろう、とムイはなんとなく思った。遠い異国のしかも田舎で、食べ物を得る機会に恵まれないために、または慣れない土地での心労のために、次第に衰えて行ったのかもしれなかった。

それらの情報を得るため初めから物理的距離を詰め過ぎたらしく、玄関口でラシウは困ったように笑った。不躾な男だと思われるのには慣れているが、即座に扉を閉められなくてよかったと思う。それに居座ろうとするムイを追い出さず、こうして長々と話もしている。教国僧侶という立場が幸いしたし、実際方々で便利な肩書きだ。


 ともあれいつしか冬になり、厳しい寒さがラシウの体を更に苛んだ。ムイより遥かに年下だろうに、暗い雰囲気も相まってこれでは年寄りのようだ。何より彼は狩りが下手だと言う。その上死んだ鹿を引き摺って来た日には怖がる者もいるだろう、とムイは考えたが、相手が落ち込んでいる手前言わないでおく。

ラシウの足下の辺りを、濁った青い色がどんよりと滞留している。かなり参ってしまっているらしい。

絵を描く意欲が湧くどころでないのも頷ける。


 代わりに若い頃の狩りにおける失敗談を話すと、薄めについた頬肉の辺りが少しばかり柔らかく緩む。

とは言え、ムイは狩りが別段下手な訳ではなく、狩りに関する上から三番目辺りの恥ずかしかった失敗を話したに過ぎない。この方が警戒心を解けると思ったから、そうした。自分も下手だとか、気持ちは分かるだのの嘘は言っていない。完全な嘘は後々信頼を損なう要因になるし、無闇に同意を示すと逆効果になる可能性もある。関係あるかないかは分からないが、ラシウは話し続ける。彼の視線の先には、微かな音をたて続ける暖炉があった。

『おまけに王国語も、まだ全然分かんなくて。とりあえず行ってみようなんて、安直でしたよ。お世話になってた人から追い出されちゃったところで、どうしようかなと思ってたら、湖の方に、って言うかここなんですけど、誰も使ってなさそうなボロ小屋を見つけて。幸運だと思って、修理しながら使わせて貰ってるんです』


『村の人も、僕をこれ以上どうにかしようとしてる訳じゃないらしくて、僕が住んでてもずっと見てみぬふりで……まあ、関わりたくなかったんだと思いますけど。でもたまに、野菜や干肉を持って来てくれる人とか、修理道具貸してくれる人とか、二、三人くらいいて。それ以上はしたくても出来ないみたいな感じでした。多分、僕と関わっている事が、村長とかにバレるのが怖かったんだと思います』

『無理もないですよね。僕は突然やって来た余所者で、言葉もロクに通じないし、何もしてくれないのが普通なのに。ここまでしてもらって、僕はあの人達に、何もお返し出来なかったなあって』



 言いたい事を全て言ってしまうと、ラシウは黙り込む。今度はムイが口を開く番だった。

『残酷な事を言うようですが……、貴方は、冬になる前に一旦国へ帰るべきだったのでは?』

 教国の晶氣船は、冬場殆ど出ない。地上と教国の境周辺が荒れており、空全体も危険だからだ。それは王国との国交を持った今でも変わらない。冬の間教国では、生身で少し飛ぶ事すらも禁じられる。ムイが横顔を眺めていても、ラシウはこちらを向きもせず、返事もしなかった。相手の黒い瞳に暖炉の炎が映り込み、ちらちらと光っているのも、ムイにはぼやけてはっきりとは見えていない。彼はすこぶる目が悪いので、対象物が少し遠くなるとたちまち詳細が判別できなくなる。眼鏡を手に入れて大分マシにはなったが、それでも現在の教国の技術では完全に矯正できていなかった。しかし、言葉や色を見ていてひとつ察した事がある。彼はもう自分でも分かっているのかもしれない。

『そうだ。迷惑じゃなければ、私に絵を見せてくれませんか』

『僕の絵を……見たいと言ってくれる人がいるなんて。今、持ってきますね』

 ラシウがぱっと顔を上げる。澱んでいた青い色は、内側から軽やかに黄色に変わる。人間が喜んでいる時の色だ。絵描きの男は席を立つと、近くの棚から数本の巻物を取ってくる。彼自身の作品を暖炉前の床へと丁寧に並べて、上から順に照れ臭そうにしながら開いて行く。ムイは膝をつき、眼鏡を押さえながら見る事にする。教国の巻物の類は、紙蚕の繊維から作られる。色を置くのに適した、キメの細かい特殊な繊維だ。教国の島々では昔から、紙作りに適した植物があまり自生していない。似たような繊維で繭を作る蚕を育てた方が早いため、この方法が発達している。ムイがまだ若かった頃、己の師に教えられた事柄のひとつだ。ラシウの経済的な状況から察していたが、やはり巻物の質自体は上等なものではない。


 ラシウの絵は、絵描きとして特別上手い訳ではなかった。流行りの画風という訳でもなく、宗教画などの伝統によくある決まりを踏襲しているのでもない。しかし、不思議と惹かれるものがある。そこには自由があった。ただありのままの、素朴でかつ純粋な人族の暮らしが、数点の絵の中にあった。

『どうかな、故郷では、あんまり評判よくなかったんですけど』

『私は好きですよ、こういうの』

 ムイは素直な感想を伝える。ラシウも素直に、ありがとうございますと言った。


『教国では人族の事を、愚鈍な泥人形と呼ぶ人もいるじゃないですか。風の噂を聞いていて、本当はどんな感じなのかなあ、とよく思ってました。実際見たら人形なんかじゃなかったし、泥で出来てもなかったんです。だから、人族を描いてみたいなって』

 懐かしげに背中を丸め、ラシウはかつて描いた絵を眺める。上からの火に照らされて、線が微かに揺れた気がした。まるで今にも動き出しそうだ。

情熱の結晶を他人に見て貰った事で、彼は満足したようだ。絵をたたんだ後、ぽつりと呟く。



『そうか、僕は……死んだんですね』



『でもよかった。鬼になって村の人達を傷つける前に、貴方が来てくれて』

 ラシウは取り乱す事も、泣き出す事もなかった。ただ穏やかな目をして、少し寂しそうに微笑んだ。こういう色をされると、何ともやりきれない気分になる。ムイは相手を不安にさせないよう、穏やかな笑顔を作って返す。

 ムイの師曰く、神は常に人間の作った善悪を超越する領域で動くという。いかなる善人も死からは逃れられず、いかなる罪人も生から逃れられない。ムイにとって神とは、創造者であり、破壊者である。欲も欺瞞も悪意もない、誇りも希望も正義もない、淡々粛々と生と死を司り執行する者。それ故神は完璧で、それ故神は美しい。産まれて此の方一切神を信じなかった男は、まさしく神によって一瞬で変えられたのだ。

その日その時その瞬間、青空の中を雄々しく飛び往く、あの色を捉えた事によって。

 初めて会った存在だった。初めて見る色だった。嵐の中で天空神は、命の翼を広げていた。己の纏う全ての罪を、影なく照らす光だった。少なくともあの時、今際の際を彷徨っていたムイにはそう見えた。人族からすれば、何代も前に相当する頃の話だ。彼はまだ若く、そして深い傷を負っていた。世界の見え方は人それぞれだが、神を前にした時ですらムイの視界は多数から外れたものだった。しかし彼が、己の目を忌む日はもうない。


 神がこの不吉な目を必要とするならば、それは本望とも言うべきものだった。この穢れた体が神の腕となり動く事を赦されるならば、それは本懐と言うべきものだった。目の前の道がどんなものであろうと、彼には進まなければならない理由がある。例えば今、絵描きの男の魂を静めるためにここへ来た。

『悲しんでくれるんですか。僕らは今日、初めて会ったのに』

 ラシウは死んでいるのを自覚したせいか、相手の表情より氣の方がはっきり見えるようになったようだ。

返事の代わりに彼の手を取る。皮膚一枚隔てた内側で、赤黒い風が滞留しているのがムイの目に映った。もう時間がないらしい。行き場のない深い哀しみと、彼が気づかぬふりをしている村人達への憎しみが見える。早く、楽にしてやらなければならない。


 ムイはラシウの手を一度握って、離す。そして、椅子の側に置かれた鞄から、帳面と筆記具を取り出した。共に旅をしているので、そろそろ端々が痛んできている。小屋を尋ねた頃に鞄の表面は冷たく湿っていたものだが、いつの間にか乾いていた。帳面は、王国で買い足しながら使っているものだ。

右手に筆記具、左手に帳面を持ちながらも、眼鏡の位置を器用に整え顔を白紙に近づける。これがムイの、文字を書く時の癖だった。回収した翼晶の身元は、また別の組織で調べられる事であって、現場で動く僧侶の仕事ではない。しかし本人の人格が残っており、かつ意思の疎通が可能な状態ならば、なるべく直接聞きたいし尊重したい。

『さて、ラシウさん。貴方の右の翼晶は、然るべき寺院に責任を持って届けさせて貰います。左の翼晶は、どうしますか?』

『ミユーに……預かって貰いたいです』

『ミユーさん、と。家族の方ですか?』

『妹です。今も、僕の家で待ってると思います』

 ミユーという女性の住む島や詳しい住所、本人の特徴を随時聞き出し、書き留めて行く。二つある内片方の翼晶は寺に、もう片方の翼晶は家族や縁者が預かるものと昔から決まっている。片方しかなかった場合は寺が預かり、無縁仏である時は両方寺が預かる。

『絵は……』

『それも一緒に渡してください』

『分かりました』

 ムイは帳面をしまい、準備はいいかと問う。

『お願いします』

『大丈夫。怖い事、痛い事は何もありません。一旦、神の元に帰るだけです』



 ムイの膝の上には、淡い水色の翼晶がひとつ、横になっていた。ついさっきまで、若い男の姿をしていた亡骸だ。最近荒れがちな手を添える。

自分が死んだのに気づいていなかった場合、翼晶化した後も不安定な事がある。適した経文を頭の中から選び取り、静かな声でゆっくり口ずさむ。それを三回繰り返した。

 教国の島々は、雲の中へ入らない限り雨や雪は降らない。太陽の下、屋根や木々に積もっている光景は綺麗だ。しかし美しいのはその時だけだという事を、ムイはこの国へ来て知った。雪は全ての暖かいものを、隙あらば攫っていく。そういう時に、安全な屋内で暖炉の火を眺めていると、だんだんと気分が落ち着いてくる。その上、とても暖かい。王国人が火を神聖視する理由は、こういうところからも来ているのだろうか。

『あんたの希望は、俺が持って行くよ。だからもう、ゆっくり休め』

 返事はなく、氣の動きもない。どうやら完全に鎮まったらしい。朝になったら出て行こう。そんな事を考えながら、空いた利き手でまた薪をくべる。隣の椅子は空っぽだ。もうすっかり冷えて、空っぽだ。





 積もった雪の上を、特注の錫杖をつきつつ黙々と歩く。足を大きく動かさなければいけないので、夏場と違う意味で体力を消耗する。飛んだ方が楽だろうとは思うが、宗教上禁じられているので仕方ない。

冬着の裏にある毛皮や翼の内側が、自らの汗で湿って冷たくなってきた。晴れてはいるものの、一段と寒い朝だ。白い息を吐き立ち止まると、腰の辺りに吊るしておいた小瓶を取り出す。

中身は寒さを紛らわすための酒だ。王国の平民がよくやっている事を真似したのだが、これがなかなか暖まる。一口含むと、何だか苦味を多く感じた。それが終わると、錫杖を持ち直してまた歩き出す。あまり長くは休んでいられなかった。何しろ、ローザが待っている。万が一の時に村人達を守れるよう、彼女には残って貰ったのだ。



 朝早くだというのに、ローザが門の柱に背中を預けていた。ムイは軽く片手を上げ、いつものように笑顔を作る。彼女の近くまで来たところで、顔を見ながら爽やかを心がけつつ朝の挨拶をする。ローザの琥珀色をした瞳が、ほんの少し動く。いい一日は、いい挨拶から始まるものだ。彼女の表情は仏頂面から動かなかったが、別に不機嫌だからそういう顔をする訳でないのをムイは理解していた。彼女はいつも、誰にも、笑顔を見せる事がない。はっきりしたものなら尚更だった。人間大抵幼児の時に笑顔を覚えるものだが、何が彼女をそうさせてしまったのだろうか。


 ローザから朝の挨拶はなかった。代わりに同意の声のようなものが聞こえてきて、恐らくそれが返事だろうとムイは認識する。彼女はおもむろに、荷物の中に手を入れて何かを探し始めた。

若々しい、赤銅色の長い髪が揺れる。人族の中にはいい印象を持たない者もいるらしいが、ムイから見ればそうでもない。翼晶族の社会では、体毛の色合いが濃いとか、発色が鮮明であるほど美形とされる。彼女に翼があったなら、結構モテるのではないかと思う。

「まだ何も食べてないだろう、朝御飯を残しておいてやったぞ。サンドイッチだ。野菜だけのやつをな」

「ありがとうございます。これ食べたら行きましょう。ちょっと待ってくださいね」

「お前……疲れてないか?」

「うわっ、ローザさんが優しい! 珍しく、超優しい!」

 ムイが軽口を叩くなり、ローザは眉をひそめた。黄緑色。人間が機嫌を悪くした時の色ではないが、やはり彼女は笑わなかった。この色を引き出すまでにムイがどれだけの努力をしたか、彼女は知らないだろう。知らなくてもいいし、それと引き換えに何か特別な見返りが欲しい訳でもない。ただこういう時、少しは笑ってくれてもいいだろうとは考える。


 何故あの時彼女に声をかけたのか、ムイは今でも不思議に思う。

今までの経験上、いい意味でも悪い意味でも、妙な色を放つ者に関わるとろくな目に会わない。だから近づかないようにしているのに、ローザを見た瞬間勝手に手足が動いていた。

 ローザの色は、悪い意味で妙だった。天空神が空と大地の境を飛んだ日、地上に大きな傷痕を刻んだと聞く。天空神や翼晶族を憎む王国人がいても不思議ではないが、しかし彼女はそれだけでなく、何かが僅かに違っていた。その何かが分からないまま、難色を示す周囲を言いくるめてまで風晶騎士団に入り込んだ自分がいる。これでよかったのかどうかは、未だ判別がつかない。考えている内に、いつの間にか食べ終わってしまった。

「さて、と。もう行きましょうか。今この村には歓迎されていないようですし……特に私が。どう考えても私が。さあローザさん! 私が鳥の丸焼きにされる前に、さっさとずらかりましょう!」

「ニヤニヤしながら物騒な事を言うな」

「酷いなあ、ニヤニヤなんかしてないですよ。慈愛に満ちた微笑みと言ってください。聖職者ってのは、微笑んでいるのも仕事の内なんです」

「初めて聞いたな」

「貴女には初めて言いましたからね」

 ローザが荷物を持ち直すまで、しばし待つ。今のようなふとした時に、脈絡もなく現れる違和感の色。

来るべき時に、きっと神が教えてくれる事だ。

青空の下、雪の白が眩しい。この村にもいつか春が来て、暖かい風が吹くだろう。



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風斬 政木朝義 @masa-asa

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