消える僕、消えている魔女
栗戸詩紘
消える僕、消えている魔女
1
人生は『やり直し』がきかないと言うが、それ以上に『やり直し』してはいけないモノなのかも知れない。
平
抱影にはひとりの娘と、二十五で結婚した嫁がいる。広告代理店に務める彼の収入は、平均的な四十歳のそれと同じ程度だった。豊かなわけでも、貧しいわけでもなく、小さな幸せを抱えて行きている。抱影はそれに満足していた。
公園に寄っても、四十にもなると遊具で遊ぶ気にもなれず、ベンチに腰掛けることにした。既に、夕焼けチャイムが放送されていて、公園はほとんど無人だった。なんとなく雲を見つめながら、無意識にため息をついた。なんとなくそれが面白く感じられて、今度は「あぁ〜」と声に出しながらため息を吐いてみた。不思議と疲れが取れたような気がした。
目を覚まして、抱影が最初に認識したのは白髪の少女だった。辺りを見渡すと、既に暗くなっていて、蛍光灯が光源になっていた。抱影が目を覚ましたことに気づくと、少女は抱影から一歩距離を離した。
「よく寝ていたみたいね」少女が呆れたように言った。
あぁ、もうこんな時間になっていたのか、と腕時計を覗きながら抱影は思った。早く帰らないと、嫁が心配する。四十になって、お互い適度な距離を取るようになっても、帰りの遅い事を心配しないような間柄にはなっていない。スマートフォンを確認すると、やはり嫁から「仕事? 泊まっていくの?」とメッセージが届いている。
「あぁ、ほんとうによく寝てしまった。早く帰らないと」抱影は抱えていた鞄を持ち直し、ベンチから立ち上がった。
「家に帰る前に、一つ私の話を聞いてくれないかしら?」
抱影は、拒絶の意を伝えようとしたが、少女の目を見てそれを止めにした。一旦ポケットに仕舞ったスマートフォンを取り出し、嫁に「今、会社。これから帰る」とメッセージを送ってから、ベンチに座り直した。
「長話は無理だが、少しだけなら聞いてげよう」
ありがとう、と言って少女は話を始めた。
「私は魔女なの」
抱影は突然の告白に困惑するとともに、話を聞いてやるなんて言わなきゃ良かったなと後悔した。ただ、嫁には職場にいるとメッセージを送ってしまった。今から帰るのは流石に早過ぎるだろう。抱影が答えに困っていると、少女は話を続ける。
「そんな顔するのね。えぇ、別に悲しくはないの。私が魔女だって告白した時にみんなが訝しげな表情をするのは、四百年前から同じだからね。だから、君に力をあげようと思うの。え? 話が飛び過ぎだって? そんなことないわ。ちっとも話は飛んでないのよ。あなたのその訝しげな表情を解くために、あなたに魔女の力を見せてあげようと言うのよ」
少女はアリクイもびっくりの速さでまくし立てた。ちなみに抱影は、「話が飛び過ぎだ」という合いの手を打っていない。ただ、少女が語る様子をシラけた目で見ていただけだ。たが、少女が話を止めたという事は何らかの反応を期待してのことだろう。「なんで僕なんだ?」と言う質問と大袈裟なジェスチャーで、抱影はその期待に答えてあげた。
「君が選ばれた理由? 簡単よ。君が理想的だからよ」少女はそういうと、前髪を払った。そこで初めて、少女は白髪ではなく銀髪だということに気がついた。それを気にするほどに、抱影は少女の話に関心を払っていなかった。
ふーん、と抱影は気のない声を出した。
「で、魔女様がくれると言う力はどんなものなのかね?」
少女は我が意を得たりと言う風に胸を張った。全く持ってそんな事は無いのだが。
「君、後悔していることがるでしょう? 中学生時代の話。好きな子に告白されたのに、好きでもない恋人がいたせいでそれが実らなかった」
ここで初めて、抱影は少女の話を聞くきになった。確かに抱影にはそう言う事があったのだ。後悔しているかは分からなかったが、もしこの時付き合えていたらと結婚する前まではよく思っていた。ただ、後悔と言うほど大袈裟なものではない様に思う。
「まぁ、そんな事もあったね。でも、それを後悔というは僕は年を取り過ぎた。今になってみれば、いい思い出だよ」
でも、と少女は顔を抱影に近づけた。
「見てみたいとは思わない? もし、その時の恋が成就していたとして、君はどんな青春を送るのかって」
青春――。抱影はその言葉に実感を覚えることはなかった。恋愛に恵まれたのも、さっきの話と、今の嫁についてだけだった。もしも青春のノートがあるならば、きっとそれは真っ白なキャンパスの様だろう。考えてみると、青春と言うモノへの渇望が自分の中にあったのではないかと思う。自覚する機会や、それを満たすチャンスがなかっただけで。
「確かに……惹かれる話ではあるな。あぁ、確かに興味がある」
抱影の中で、少女にはそれが出来るとどこか確信めいたものが生まれていた。出来なくても損はしない。ならばいっそ信じてみようと思い始め、それが段々と確信めいたものへと変化していったのだ。なぜだろう、神様も仏様も信じてはいないのに。
そして、少女――いや、魔女は抱影の期待した通りの事を言ってくれた。
「私が君にあげる力は『やり直し』。君は中学時代のその一幕をやり直すことが出来る。ただし、一回だけ。慎重に最適解を選んでね。その一幕を終えれば、君はこの時間、この場所へと戻る」
「それじゃ、付き合えた後の展開がわからないじゃないか」
それでは、青春を取り戻すことは出来ない。意味が無いじゃないか。そう続けようとしたが、魔女がそれを遮った。
「大丈夫。ここに戻ってきた君は、付き合ったその後の展開も体験したことになっている。言うなれば、途中のフィルムを抜き去って今の時間とつなげるのよ。君だって、別に大学受験だったり、就職活動をやり直したいワケじゃないと思うのだけど?」
やり直せるなら、それもやり直したい。抱影はそう抗議しようと思ったが、確かに受験勉強をやり直す気にも、リクルートスーツで駆けまわる気にもなれなかった。
「分かった。それでお願いしよう」
抱影がそう言うと、少女は「よく決断してくれたわ」と言って抱影にデコピンをした。
2
聞いてるの? と言われて意識が戻った。目の前には中学の制服を着た少女が座っている。少女の顔をじっくりと観察して、それが当時の恋人だった事に気づいた。名前は高杉晶だ。
教室には、晶と抱影のほかに誰もいなかった。不思議に思って時計を見ると、その答えがあった。今は、十八時だった。
「ごめん、ちょっとボーッとしてた。で、なんだっけ?」
抱影がそう繕うと、晶はふくれっ面をした。
「この問題が分からないのよ」
晶は抱影の手元にある数学のテキストの右端をペン先で示した。円周角の定理から、角度を求めだす問題だ。
「あぁ、これは――」
抱影は晶に解き方を教えながら、少し驚いていた。円周角なんて、存在すら覚えていなかった。にも関わらず、解き方を解説出来る程に、それを使いこなせている。記憶を手繰ると、他にも忘れていたはずの記憶が思い出された。同時に、晶への感情も思い出された。四十歳の自分の記憶よりも、この頃の自分は晶に対して好意的な感情を持っていたようだった。
「あぁ、なるほど。分かったわ」
抱影が解説を進めていくと、晶は自分で解法に気づけたらしく、シャーペンをスラスラと滑らせる。そして、解を導き出すと「これで良い?」と聞きながら計算用紙を抱影の方に向ける。
「あぁ、正解だよ」抱影は時計を見た。「今日の所はこれで終わりにしないかな?」
うーん、と晶は考えこむ様な仕草をした。
「じゃあ、明日も教えてね。中間テストも近いんだし」晶は勉強道具をササッと片付け始めた。
あぁ、と抱影は返した。今日の日付は五月二十二日だということは、円周角の定理を思い出したのと同じように、把握していた。中間テストは、同月の二十九日だ。
お互いに勉強道具を片し終えると、並んで校舎を出た。しかし、そこからは方角が逆なので、別れて帰る事になった。抱影は晶を家まで送った事がなかった。
元々薄暗くなりつつ合ったが、家に着く頃には、すっかり辺りは暗くなっていた。抱影は玄関を開けると、ただいま、と言って自分の部屋にまっすぐ向かった。鞄を適当に投げると、ベッドに飛び込んだ。
「よりによって、この時期に帰ってくるとはな」抱影は布団の匂いを嗅ぎながら呟いた。
この時の抱影が思いを寄せていた上条梨絵から告白されるのは、確かこの時期だったはずだ。記憶が正しければ、中間テストよりも前だった。晶と別れるのを急がなきゃいけない。どうせ、ここで別れなくても夏休みには別れる未来なのだ。
そうと決まれば一刻も早く手を打たなきゃいけない。告白されるのは明日かもしれないのだ。抱影には二股を掛けるつもりは無い。それが出来るなら、そもそも『やり直し』ていない。
そういえば、と魔女はどうして抱影に『やり直し』を許したのだろう。魔女は「君が理想的だから」と言っていた。なぜ理想的なのか? 考えるのも怖くなって、考えるのを止めた。そして、再び、晶と梨絵について考えることにした。
すぐに佐竹晶と別れるべきだという事は、抱影も重々承知していた。問題はどのように別れるかということだった。抱影は、晶と付き合っている事を周囲には隠していた。だからこそ、梨絵は抱影に告白してくれたのだ。
抱影に振られて晶がショックを受けるかどうかは計り知れなかった。もし、ショックを受けたとして、それが抱影との破局にあると判明すれば、たちまち『やり直し』は水泡に帰すだろう。そうじゃない――。自分は晶と別れる事を躊躇っているのだ。元からあった感情が、別れを躊躇させるのだ。
夕飯が出来たと、母親の呼ぶ声がした。抱影が三十五の時、抱影の母は病気によって死んでいた。だからこそ、母の方へと急ぐわけには行かなかった。込上がってくるものがあった。感動、とは違う。嬉しさとも違った。抱影にはよく分からない感情だった。絶対に涙は見せまいと、頬をなぞる涙を拭ってからリビングへと向かった。
その日の夕食は鍋だった。麺が最初から入れられていて、鶏肉や白菜なども入っている。この季節に鍋ってどうなんだ、と思ったが久々の親子での食事だ。それすらも微笑ましく思えた。
食事中の話題は抱影の進路についてだった。どこどこ高校が良いらしいよ。もっと勉強しなさい。やれば出来るんだから――。
よく分からない感情が再び込み上がってきた。抱影は箸を置いて、食器を片して、まっすぐに自分の部屋に戻った。
もっと話しておくべきなのかも知れない。抱影は目を掻きながらそう思った。目を掻いた手の甲は、涙で濡れていた。これだけで、『やり直し』た意味があったなと思った。
なんとなく、力がみなぎってきた。くよくよと悩んでいる事が馬鹿馬鹿しいことに感じられて、結局、晶へ別れを告げる事を決意した。これで、失敗するならそれで良いのだ。もう、自分はここに帰ってきた意味を見つけた。それ以上を強欲に望む事はしない。
別れを告げるなら、そうするでどの様に告げるかを決めなくてはならなかった。手紙にするか、メールにするか、直接言うか。正直、どれでも良いと抱影は思った。
どれでも良い、と考え始めると抱影はどれと決める事が苦手だった。しばらく考えた結果、直接言うことにした。それが一番確実だと判断したのだ。伝えるのは、明日でいいだろう。ちょうど、勉強を教える約束をしていたのだから。だが、本当にそれで良いのか?
抱影は首を左右に振ると、リビングに戻った。母の顔を、声を少しでも感じていたかった。抱影に気づくと、母はドラマを見ながら「勉強しなさい」と言った。だから、抱影は勉強道具を持ってきて、さっきまで鍋を囲っていたテーブルの上に広げた。母はそれに気づくと、テレビの電源を切って、本を読み始めた。
やっぱり、『やり直し』て良かったな。抱影はそう思いながら、シャーペンを滑らせた。
翌日。懐かしい母の声に起こされて急ぎで通学の用意をした。そして、三キロメートルほどの通学路を完走してなんとか遅刻を免れた。中学時代の抱影は、部活動のおかげでそれなりに体力があった。
授業はほとんど耳に入ってこなかった。それは、一部のクラスメイトが大騒ぎするからかも知れなかった。あるいは、放課後の事を憂鬱に思って、窓の外を見ていたからかも知れなかった。
授業の内容は全く覚えられなかったが、青空を自由に飛ぶハトやカラスがなんとなく愛おしく思えた事は覚えている。これからの憂鬱さと、昨日の良くもわからぬ感情とがせめぎあっているのだろか。だから、憂鬱なのに愛おしさを感じ、幸せなはずなのに授業一つ聞くことが出来ないのか。
なんとなく過ごしていると、気がついたら帰りのホームルームが終わっていた。四十年以上も生きていたのに、たかが恋愛でここまで悩むのかと不甲斐ない気持ちになった。しかし、その恋愛に彩られる青春の為に自分が魔女の力を借りた事を思い出すと、今更かと開き直れた。
クラスメイト達が帰っていく中で、抱影と晶だけが教室に残った。晶は既に勉強道具を広げて自習を始めている。抱影は鞄から取り出した短編集を読んでいた。クラスメイト達が帰るまではそうしてカモフラージュしてきた。もう、カモフラージュする必要がないのだが、それでも抱影は短編集を読み続けていた。
ねぇ、と晶に言われて抱影は本から顔を上げた。少し怒ったような表情をしている。
「勉強教えてくれるって言ってたじゃない」
抱影は、仕方なく本を閉じて鞄の中にしまった。そして自分の席を立って、晶の前の席の椅子に反対向きに座って向かい合う。どうせ今日が最後だ。コレが終わってから別れ話を振れば良い。そう思った。
今日は社会科だった。社会科が一番の得意科目だった抱影は、晶の質問にスラスラと答えた。
気づくと、既に六時を回っていた。
「そろそろ、帰ろうか」抱影はそう提案した。別れ話を切り出すタイミングが掴めずにいる。
晶は抱影の提案に従って、教材を片付けた。抱影には自分の知識だけで教えていたので片付けるべきものがなかった。手持ち無沙汰になって、黒板を見つめていた。どこで切り出すべきか――。心のなかで聞いてみたが、黒板に変化はなかった。当たり前だ。黒板が答えを出すためには、チョークと書き手が必要なのだ。
くだらないことを考えていると、自分の悩みまでくだらなく感じられてきた。いつ言っても結果は変わらないじゃないか。別れるんだから。
「片付け終わったよ」
晶が抱影の肩を叩きながら、そう言った。
抱影は頷いた。晶の言葉にではなく、自分に。
「別れよう」
口に出してみると、それだけだった。
晶の表情が読めなかった。悲しんでいるわけでも、驚いているわけでも、怒っているわけでも、安心しているわけでも無さそうだった。
「そう、抱影がそう思うなら、仕方ないよね」
抱影の心の奥がピリッとした。未来を知っているからこそ、今別れると言う決断をした。だが、それは元々自分の中にあった感情を土足で踏みにじっている事なのかもしれない。
晶は教室から出ていき、抱影がひとり残された。これで良かったんだと肯定するのは、四十歳の自分だけだった。十五歳の僕はその肯定を詭弁だと罵っている。
抱影は二人分の感情に戸惑いながら、家路についた。曇り空には、月も浮かんでいなかった
ついに来たか、抱影の感想は自分でも予想外な程に淡白だった。
九条梨絵に「話がある」と言われたのはその日の朝だった。放課後、図書室で待ってるから、と言われた。
このために自分は『やり直し』に来たんだと思っても、どうしてもその気が起こらなかった。九条梨絵への好意が消えたわけではないが、なぜだろうか。
「私ね――平くんの事が好きなの」
待ちに待った告白を受けても、その気持は変わらなかった。だが、頷かないわけには行かない。抱影は二つ返事で告白を受け入れた。
3
「どうだった?」
目を覚ますと、銀髪の魔女が立っていた。場所は相変わらず公園だったが、まだ日は沈みきっていなかった。
「正直、気分が優れない」
抱影は自分の気持ちを魔女に聞かせてやろうと思った。気持ちが重くなりすぎて、誰かに言わないと潰れてしまう気がした。
「気持ちは時々でかわる。結果がでて、初めてそれが定着する。それが分かった時、なんて自分は愚かなんだろうと思ったよ。自分は確かに晶を好いていた。だけど、梨絵の告白を受け入れられなかった、その歳の夏休みに別れてしまったという結果から、その気持ちを無かった事にしたんだ。『たられば』で自分を慰めるために。『やり直し』するまでそれに気づくことも出来なかった」
魔女は「ふーん」と興味深そうな表情を作った。話を続けろと言う意味だろう。だが、抱影はこれ以上、何も言わなかった。言葉に出来ないのだ。抱影に話し続ける気がないと理解した魔女は、抱影に顔を近づけた。
「随分、悲しそうな表情をするんだねぇ。だけど、私はそんな事を教える為に君を『やり直し』させた訳じゃないんだ。これじゃあ、面白くない。本番はこれからだよ」
抱影には魔女が何を言ったのか分からなかった。面白くない? 本番? 馬鹿にしているのか。
「ほら、シワが寄ってるよ」魔女がニヤニヤと笑いながら言った。「早くお家帰りなよ。奥さんが待ってるんでしょ」
「言われなくとも、そうしてやるっ」
抱影は魔女の足元に唾を吐き捨てて、妻の待つ家に歩いた。
歩いている途中、様々な考えが抱影の脳をグルグルと回った。あの魔女は一体何なんだ、どうして晶と別れてしまったのか、どうしてどうしてどうして?
気づくと抱影は玄関前に立っていた。この話を妻に聞かせてやろうか。彼女はどんなふうに思うのか――妻?
抱影は自分の中に、もうひとりの自分を見た。『やり直し』している時と同じだった。自分のものだけど、自分のものでない記憶。自分が確かに、嫁と読んでいた相手をいつの間にか、妻と呼んでいる。この家は誰のだ? 自分のだ。だけど、自分の家じゃない。
まさか――!?
抱影はスーツのポケットから鍵を取り出すと、鍵穴に差し込んで、捻った。ガチャリという音が、何かの宣告のように聞こえた。
力任せに扉を開いて、リビングへと走った。そこでくつろいでいたのは、知らない女だった。いや、知っている。九条梨絵――違う、平梨絵だ。もう一人の自分の記憶がそう教えてくれる。
「どうしたの? そんなに血相変えて。怖いわよ」
梨絵が落ち着いた様子で言った言葉が、抱影を更に混乱させる。俺の嫁は梨絵じゃない。違う。俺の嫁は――誰だっけ?
もう一人の自分の記憶が濃くなる度に、元の自分の記憶が失われていく。夢の中での出来事を段々と忘れていってしまうように。
急がなくては!
抱影はすぐに引き返した。公園に急がなくては。記憶が完全に変わってしまう前に、まだ前の自分を覚えているうちに、魔女に言わなくては。戻してもらわなくては。彼女と積み上げてきた十七年間が無かったことになってしまう。娘の未来を語り合うこともできなくなってしまう。
「気分はどう?」
魔女はブランコを揺らしながら言った。
「気分なんてどうでもいい。僕が僕でなくなっていく。それが問題なんだ。どうして? どうして僕は嫁の顔を思い出すことが出来ない?」
「存在しない事を記憶しておくことなんて不可能なのよ」魔女は口角を上げた。「あなたが九条梨絵と付き合い始めた瞬間、運命が大きく変わった。『やり直し』する前の君の記憶は、存在しない未来になったんだ。存在しない事を記憶しておくことなんて不可能。直に、あるべき君に塗り替わる。それだけの事。君が九条の告白を受け入れた段階で『やり直し』が終了したのはそれが理由だ」
魔女はそう言うと、ブランコから飛び降りて抱影の前に立った。
「冗談じゃない。僕は僕だけだ。あるべき僕は、僕であるのは、僕は! 僕だけだ。ふざけるなよ。何が運命だ。早くやり直せよ。出来るんだろ? 戻してくれよ。なぁ?」抱影は地面に膝をついた。絶望だ。恐怖だ。自分が消えていく、内側から。それがどれだけ恐ろしいことか。
「……なぁ、出来るんだろ? 頼むよ」抱影はなんとか声を絞り出した。
魔女はしばらく何も言わなかった。膝を地面につけている抱影には、魔女の足までしか見えなかったが、その細い足はガタガタと震えている。抱影は不思議に思って、顔を上げた。魔女が抱影の顔を見下ろす。
「そうそうそうそう、その顔だよ。その絶望、恐怖、ささやかな幸せが塗り替えられる様子っ!」魔女はコレ以上愉快なものはないと言わんばかりに叫んだ。震えは、笑いを堪えていたからだったのだ。
ふざけるな、抱影は捻り出すように言った。既に、嫁の顔も思い出せなくなっている。
「君が選んだ過去だ、未来だ、今だ。何をそんなに嘆くことがある」魔女は相変わらず笑っている。励ますような言葉ではない。ざまぁ見ろ、と言外に言っているのだ。
抱影はもう、何を言えば良いのかわからなかった。話が通じていない。狂ってる。意味がわからない。記憶にあるのは、付かず離れずだった嫁への思いだけだ。
「なんで、なんでこんな事するんだ」
魔女は怒った。嘲笑は消えて、声は低くなった。
「私はもう、四百年も生きている。百年で愛が分からなくなった。二百年で幸せが分からなくなった。三百年で自分が分からなくなった。なのに矮小なお前らは、私の分からないモノを全て持っている。なぜ私だけがこんな拷問の様な生を送らねばならない。私はお前らに、私と同じだけの絶望を与える権利が、力が、知恵がある。どうせ、お前はこの絶望を忘れる。そして平梨絵と共に慎ましく生きる。だが、私の記憶には残り続ける。お前の怒りが、涙が。そう言った感情に包まれて私は私であり続けるのだ。私はこの所業を繰り返し続ける他にないのだ。君たちがパンを食べなくては生きていく事が出来ないように」
「そうかよ――」
魔女の狂気は嫉妬だったのだ。あるいは、羨望だったのだ。抱影はようやくするべき事を理解した。塗りつぶされていくばかりの感情だったが、最後に魔女への同情を生み出した。そして、消えていく自分への折り合いを、魔女への復讐と救済を決意した。
「お前、魔女なんだろ。ナイフの一本ぐらい、用意できるだろ?」
もはや『やり直し』する前の事は殆ど覚えていなかった。直に、この喪失感も忘れてしまうのだろう。それが恐怖だった。それが、抱影の原動力になった。
「死ぬつもり? どうせあと少しで完全に君は変化する。今までの彼等だってそうしている。変化を受け入れてきている」
魔女は抱影の死を望んでいないようだった。魔女も人間だったのだ。ただ、時間に歪められた、人間だったのだ。
だが、抱影には時間がなかった。魔女に鬼気迫る表情で再度迫った。それでも魔女は拒絶した。だが、再三迫るとさすがの魔女も抱影を気の毒に思ったのか、なぜなのか、ついに渋々とポケットから取り出したナイフを抱影に手渡した。明らかにポケットに入れられる物ではなかったが、抱影にとってそんな事はどうでも良かった。魔女の禁術か召喚術か何か、という考察は消えかけの抱影にとって意味を持たない。
「お前もお前で苦しんでいたんだろう」
抱影はそう言うと、魔女の胸にナイフを突き立てた。抱影の突き立てたナイフは肋骨を避けて、魔女の心臓を貫いた。あるいは、肋骨がナイフを避けたのかも知れない。魔女は驚いた様な、喜んだような表情をしている。
「だが、僕は絶対に同情はしない。これは消えていく僕の復讐だ」
抱影はナイフを抜き、魔女の体を押した。すると、魔女の体は驚くほど簡単に、そもそも起きていなかった様にペシャリと倒れた。
「自分を失うぐらいなら、死んでしまうほうが良い」
抱影は声に出して、確認した。そして、魔女にやったのと同じように、ナイフを自分の胸に突き刺した。そして後ろに大の字になって倒れた。力が抜けていく。
「やっぱり、君は理想的だ」
魔女のそんな声が聞こえた。ひょっとしたら、幻聴かもしれない。だが、抱影はその声に安堵した。
あぁ、真っ赤なうろこ雲は祝福ではなく、魔女の、消えていく抱影の心の涙なのだ。抱影は暗くなっていく視界の中で、そんな事を考えていた。
消える僕、消えている魔女 栗戸詩紘 @kuritoutahiro
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